帰る

 還る

 変える

 換える

 孵る


 言語とは不思議なものだ。
 俺はどの「かえる」を経てこの場所に辿り着いたのだろう。

 真相を知る者に出会ったら、根掘り葉掘り聞いてやりたいものだ。





「grave」




「あなた、箸より重いものを持ったことが無いとでも言うつもりじゃないでしょうね…?」
 ヘロヘロヘナヘナと、妙な効果音が似合いそうな仕草で鍬を構える悠治に、頬を引き吊らせた郁が問い掛ける。
「フライパンなら持てはしたが…振り上げてはいないからな」
「そう言う話じゃないの!どんだけ貧弱なのよって話をしてるのー!」
 ふよんと鍬を振り下ろし、サクリと地面に突き立てた悠治のボケ発言に、朝一番の郁のツッコミが炸裂した。
 楓が朝食を制作する間を利用して、現在二人は家の裏手に新規の畑を耕している。と、言うのも悠治が耕具の扱い所か野菜の作り方すら知らなかったから。
 夜になっても数メートルすら耕せそうにない身のこなしに、すっかり意気消沈した郁は鍬を支えに顎を乗せた。
「農作業云々より、まずは体力を付けなきゃ駄目ね…私より貧弱でどうするのよ」
「そう言われても」
 溜め息に肩竦めで答えた悠治は、ふらふらと鍬を引き摺ってはなんとか持ち上げる。今にも刃先を足の上に落としそうな彼を制した郁は、流れてくる香りに顔を綻ばせた。
「今日はパンかぁ…」
「へえ。パンも作れるんだな」
「そうよ?あっちの集落で小麦を製作しててね…」
「コムギ?」
 ナニソレ、と言わんばかりの首の傾きを受けて、方向を示した郁の人差し指が固い握り拳に変わっていく。
「…あなたはパンを何だと思ってるの?」
「さあ…パンはパンだからな」
「あっきれた…」
 返答に脱力し、ついでに目眩まで覚えたような気がして、彼女はくるりと踵を返した。
「今日は作業は諦めて、体力作りも兼ねて挨拶回りの続き、終わらせるわよ」
 宣言に息を吐き、鍬を見下ろした悠治は、それを引き摺りながら郁の背中に続く。


 朝食を終え、挨拶回りを終わらせて、昼食のおにぎりを食べ終えた後も。


 悠治は黙って先を歩く郁の背中を追いかけていた。


 朝から随分歩かされたと言うのに、彼女は未だに帰る気配を見せない。それを証拠に現在二人は家から遠い森の中を散策中である。
 木漏れ日は明るけれど、周囲にあるのは樹木ばかりで迷路の中に居るようだ。
 だからこそ、見失ったら迷う…悠治はそんなことを念頭に彼女の後ろに付いて行く。
 行き先を聞くことも出来たが、それだけで体力が削られるような気になって控える事にした。聞いた所でそこまでの距離など分からないし、何より着けば分かるのだから。

 森は、手が加えられていないにも関わらず人にとって歩きやすい道を伸ばしている。まるで何処かに導くように続くその途中、やけに耳障りな音が鳴り響いた。
 悠治はその正体が理解出来ずに眉をしかめる。
「煩いな…」
「私達が来たからよ」
 少し前を歩く郁が、上方を見上げながら優しく呟いた。
「卵を取られるかもって、警戒してるの」
「タマゴ?」
 今朝がたのコムギと同じ展開に、郁は思わず足を止めて振り返る。そうして無愛想な彼に人差し指を突き付けた。
「あなた、この前目玉焼きを食べたじゃない。作ったじゃない!割ってフライパンでじゅーって、手際が悪くて焦がしかけたあの…!」
「ああ…あの白くて丸いの?」
「…ほんとに知らずに食べてたの?」
 熱弁の後、適当な納得を得て額を押さえる郁に、悠治は更なる追い討ちをかける。
「で、何の音なんだ?」
「まさか鳥も知らないとか言わないわよね…?」
 ひきつった笑顔が漏らした問い掛けに、音の出所である上空を見上げた悠治は当たり前のように答えた。
「知らん」
「信じらんない…」
 木の葉が邪魔して見えない姿を諦めて、顔を下ろした悠治は麦わら帽子ごと頭を抱え込む郁の姿と向かい合う。そして数秒後に顔を上げた彼女に不服そうな眼差しを向け説明を求めるが、付き合って居られないと無情にもスルーされたのだった。


 そうこうしているうちに、二人は何とか森の端まで来たようだ。
 先日訪れた海岸の反対側、崖から臨む海は一味違った色を見せる。
 遥か下方に落ちる海を背景に、草の生い茂る崖上に置かれた複数の岩。郁はそのうちのひとつの前で立ち止まると、僅かに悠治を振り向いた。
「此処は?」
「お墓よ」
「墓?」
「それも知らないのね…」
 小さく漏れた溜め息に、悠治は横から問い掛ける。
「呆れたか?」
「もう慣れた」
 郁は短く答えると、膝下辺りの高さにある小さな岩の頭にそっと手を乗せた。
「死んだ人が眠る場所。それがお墓よ」
 丸みを帯びたそれは、艶こそ無いものの他の物より綺麗に見える。
 悠治は納得したのかしないのか、曖昧に頷くと彼女に倣って膝を折った。
「なら、郁もこうして眠ってることになるが…」
「そうよ。あっちでね。あなたもそうなんじゃないの?」
「さあ…見た訳でもないし」
「それもそうね。私も、その可能性が高いってくらいで確証まではないし…」
 子供の頭でも撫でるようにぽすぽすと、二人揃って乗せていた手を引っ込める。暫しの間を置いて、郁は墓石を見据えたまま静かに問い掛けた。
「あなた、自分が死んだことを嘆かないって事は…生きているのが嫌だったの?」
「さあ。どうだろう」
「それも忘れちゃってるんだ?」
「みたいだ」
 何処か能天気な肩竦めを受けて、複雑に表情を変えた郁は再び石に手を乗せる。
「ここはね、自分がこの場所に居ることが許せなかった人のお墓」
 この場所に。つまり、天国に…と言うことだろう。そう解釈して頷いた悠治を横目に、郁は苦笑で間を繋ぐ。
「もう一度死ねば、現世に戻れるかもしれないって言ってね…」
 そう言って立ち上がり、海を見渡す彼女は前触れも無く結論を呟いた。
「自殺しちゃったのよ」
 悠治は消えてしまいそうな声を聞き届けると、自ら語っておきながら苦しそうに微笑む郁の背中を不思議そうに見据える。そして感想を胸の中に納めたまま話の先を促した。
「こっちは?」
 隣の墓石を指差し問う彼に、郁はやはり躊躇いがちに口にする。
「…私と一緒に、暮らしていた人のお墓」
「…へー。どんな奴だったんだ?」
「明るくて良い人だったわよ?あなたと違って」
「ふーん」
「関心が無いなら聞かないでよ」
 郁の付いた盛大な溜め息が、僅かに場を和ませた。悠治はそんな空気の変化を無視して思ったままを声にする。
「どうして死んだんだ?」
 ピクリと、郁の身が揺れた。彼女は振り向かずにもう一つの墓石の前まで足を進め、固まる口から言葉を紡ぐ。
「…楓は、不慮の事故って言ったけど…」
 確かにそう聞いた、と。頷いた悠治に、振り向いた郁の瞳が告げた。
「あれは事故なんかじゃないわ」
 過去を思い出し、動揺する彼女を落ち着き払って見据える彼は、俯いてしまった彼女の話を聞くために、またその隣まで足を運んだ。
 郁は背の高い悠治から伸びる影に隠れながら、暗い顔を隠すように座り込む。そしてそれを追いかけてくる彼を待って、ポツリと吐き出した。
「引き止めようとしたのよね」
「何を?」
「メトロに逃亡しようとした人を」
 その声は、風に吹かれて海へ流れていく。僅かに瞳を揺らす彼女の横顔を、靡く茶の髪を、悠治は呆然と眺めていた。
「ここの生活はね、一見してのんびりそうに見えて凄く大変なの。必要なものはぜーんぶ自分達で作らなきゃならないし、自然を壊してもいけないし…兎に角ね、色々あるのよ」
「ああ」
「本当に分かってる…?」
「少しは」
 一息に繰り出した説明に返ってくる微妙な相槌に口を尖らせつつ、郁は自身の腕に顎を埋める。
「だからね、自然に憧れてこっちを選んでも…この生活が嫌になってしまう人が、少なからずいるの」
 お互いに遠い水面を眺めながらその光の動きを追いかけて、耳だけは過去の話に傾ける。その不思議な感覚は、郁の言葉と共に溶けるようにして悠治の身体に染み渡って行った。
 悠治は視界の端で郁の手元が動くのを認めながら、言葉でも仕草でも沈黙を保つ。
 郁は強く吹き付けた風が通り過ぎるのを待って、話の続きを語った。
「あの人はそれを…メトロに逃亡しようとする人を止めようとした。国境を越えることを許されていない以上、何が起こるかわからないから」
「そのルールは誰が決めたんだ?」
「分からないわ。でも、あなたにもそれが危険そうだって事は何となく理解できるでしょう?」
「わざわざ、選ばせたくらいだから?」
「それもあるし、海を越えられない現象を考えれば…ね」
「だから止めた、と」
 ふむ、と一つ頷いて理解を示した悠治に向けて。郁は無表情に細い声を出す。
「だけど、止まらなかった」
 郁は、悠治は、そこで顔を見合わせた。
「その人はメトロに逃げていったわ。あの人を殺してまで」
 静かに、それでいて強くそう言った郁に、悠治はただ瞬きを返す。僅かに細くなったつり目を見届けて、郁は水平線に問い掛けた。
「そうまでして逃げ出したいなんて…それならどうしてこっちを選んだりしたのかしら?」
 独り言のようなそれは、彼女の中で渦巻く何かを沈めるように。瞳を閉じて、蠢く感情の色を落ち着かせ、郁は視線を悠治に流す。
 そうして、寂しげに投げ掛けた。
「あなたも逃げたい…?」
「いや」
「どんなことがあっても逃げないって、約束できる?」
「ああ」
 即答に、その真っ直ぐさに、郁は驚いたように硬直する。悠治が振り向くと、彼女は不思議そうな顔で彼を見据えていた。
 郁は、数秒の間を置いて真剣に訊ねる。
「…どうして?」
「何が?」
 傾いた悠治の頭を…自身の表情が映ったような顔付きを見て、郁はゆっくりと首を回した。
「…ううん、何でもない」
 言いながらに微笑みを海に向けた彼女から目を離し、立ち上がった悠治は空に向かって質問する。
「で?逃げてった奴はどうなったんだ?」
「分からないわ。確かめようがないもの」
「ふーん…」
 本当に聞いているのか怪しい返答をさらりと流し、郁は続けて忠告を口にした。
「それ以来、逃げていく人を追いかける事は、しないことにしてるの。だからあなたも…」
「他にも居たのか?」
「…そうよ」
 言葉を遮ってぶつけられた疑問に頷いて、郁もゆっくり腰を上げる。
「あの事件を境に、逃げる人が増えたの」
 そう言って、彼女は傍らに生えていた花を摘み、墓石の前に添えた。
 つづけて手を合わせ、目を閉じる。
 悠治はその仕草をなんとなしに眺めていた。
「みんな憧れていた自然を嫌って逃げていく…」
 不意に、郁が呟いて立ち上がる。その眼差しは海を捉えたままだ。
 斜め後ろからその眼光を認めた悠治は、滲み出る感情を無意識に吸収する。
「だけど…メトロから逃げてくるような人は、一人だっていないのよね…」
 寂しさか、怒りか、悲しみか…判別し難いその思いを海に放ち、郁はいつもの表情を取り戻した。









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