普通のことが普通ではない。

 此処は元居た世界とは違うのだ。


 広くて大きい。

 月が昇り、陽は沈む。

 船が浮かび、外の国へ…





「sea」


 地平線に落ちる陽が頭の天辺まで見えなくなった頃。

「随分と遅かったですね?」
「文句ならこの子に言って頂戴」
 僅かに残った夕焼けの光を背景に、ランプの点る室内でのんびりと緑茶を啜っていた楓が疲れ果てた二人を迎え入れる。
「ご飯、出来てますよ?」
 そう言って和やかに道を開ける彼に、涙目の郁が喚くように事の顛末を語った。

 彼女が言うには、ガラス工房を出たあとでその先にある集落に向かう途中。高台の麓にある短い森の中で、何故か悠治とはぐれたそうだ。
 呼べば返事が返ってくる程度の距離に居る筈なのに、一向に姿は見えず。あっと言う間に陽が落ちて、もう会えないかもしれないとなった時にやっと巡り会えたと言う。

「奇跡的な迷子だったわ。ついでに奇跡的な再会だったわ」
 そう締め括る郁の頭を、眉を下げた楓がやんわりと撫でた。
「それは大変でしたね」
「つり目?私の忠告、ちゃんと覚えたでしょうね?」
 さめざめうんざりと説明を続けていた郁が、鬼の形相に直って悠治を振り向くと、彼は何てことも無さそうにお茶を飲み。
「迷ったらその場を動かないこと」
 疲れた表情でそう回答した。
「そう。あなたみたいな方向音痴は、変に動かずにじいぃぃぃいっと迎えを待つの!いいわね?」
 どうやら延々と同じところをぐるぐる回ったり、指示と逆方向に進んだり、とんでもないすれ違いかたをしたりと散々だったらしい。幾ら森の中とは言え、余り広くないその場所で迷うなど、普通なら有り得ない…郁の真顔がそう語っていた。
 楓も楓で、その森の事は良く知っているのだろう。郁の怒りを宥めることもなく固まっている。
 悠治は郁の念押しに頷くと、空になったカップにお茶を注いだ。その瞳は真っ直ぐに食事を見下ろしている。
「兎に角…いただきましょうか」
「そうね…もうお腹ぺっこぺこ…」
「いただきます」
 楓が気付いて促すと、二人は揃って箸を取り、揃って肉じゃがに手を付けた。

 そうしてある程度お腹が落ち着いた辺りで、郁が思い出したように問い掛ける。
「そういえば、楓の方はどうだった?何か変わったこととか…」
「見回りをした限り…特には。でも…」
 二人が挨拶回りをする間、一人で畑仕事や家事、ついでに周辺の見回りまでを済ませたらしい楓は、特に疲れた様子もなく。しかし訝しげに眼鏡を持ち上げた。
「海の色が少し、おかしいように感じました」
「おかしい…?」
「何て言うか…言葉では上手く説明できないですけど…」
「それなら、明日朝一で見に行ってみましょう?」
「美味い…」
 二人の真面目な会話に割り込んだのは、間の抜けた感嘆だ。振り向けば、呟きの主である悠治が黙々と味噌汁を啜っている。
「聞いてるの?ツリ目。あなたも行くのよ?」
「郁が作ったのより美味い」
 ピシリ。色々なものに亀裂が走った。一つは会話の腰、もう一つは言わずもがな。
「…今日一日さんっざん迷惑かけといて…それ?ねえ…何なの?」
 こめかみに青筋を浮かべた郁が身を乗り出し、悠治の襟首を掴もうとするのを楓が必死で止めにかかる。
「まあまあ、郁…」
「海が青かった…とか?」
 そんな中、一人悠長に呟いた怒りの根源を前に呆れ返った郁は、ガス抜きでもするかのように長い溜め息を付いた。
「…あんたのその冗談は聞き飽きたわ。いいからもう黙って食べなさい」
 すとんと座って箸を持ち直す彼女の耳元、悠治の様子を窺いながら楓が訊ねる。
「冗談ですか?今の」
「知らないけど、この子の物知らずは何処かずれてるのよね」
 そう言って膨れがてら、郁は今日の出来事を話して聞かせた。
 数分後。説明の合間に彼女がどんなに皮肉を吐いても、文句の一つも飛んでこないことに違和感を覚えて振り向くと。
「…寝てるし…!」
 言葉通り、悠治は箸を持ったまま机に伏せて眠っていた。幸いにも頭や腕は僅かな隙間に収まっており、料理は全て無事である。
 横を向いた彼の安らかな顔を盗み見て、楓は思わず笑顔を溢した。
「よっぽど疲れてるんですね」
「ただの怠惰かもしれないわよ?歳上の男がたったのちょっと山を登っただけで疲れちゃうなんて…」
 信じらんない、と口の中で呟いた郁は、熟睡する悠治の頭をゆさゆさ揺らす。
「ほらツリ目!起きなさーい!寝るならせめて部屋で寝るのよ!」
 トドメの大声にもピクリともしなかった彼は、その後乱暴に引き摺られて自室の床に放置された。


 その翌日。

 目覚めれば視界一杯に郁の顔。
 色っぽい話などではなく、何てことはない、ただ叩き起こされただけの現状で起き上がると、背中どころか身体中が痛くてメシメシと嫌な音を立てる。
 しかしそんな悠治の事情などお構いなしに、三人は宣言通り朝一に行動を起こした。
 そこは彼等の家からはギリギリ見えないが、牧場からならば少しだけ臨むことができる。ガラス工房がある高台から見ればかなりの絶景なのだが、昨日の悠治は山や草原がある方角ばかりを眺めていたのだ。

 山間の林を抜けた先、広がるのは一面の海原。
 朝日を受けて輝く水平線を前に、呆然と立ち尽くすのは例に漏れず悠治である。
「うーみーはひろいーな、おーきーいーなー」
 砂浜の、波が来るギリギリの位置で立ち止まり、海に向かって呟くように奏でられるメロディーを聞き付けて郁が振り向けば、彼はゆっくりと続きを唄った。
「つーきーはのぼるーし、ひはしーずーむー」
 まだ続くだろうかと足を止めた郁と楓の予想に反して、暫く口を閉ざした悠治が発したのは余りにも不思議な質問だ。
「…これが海…?」
 その訝しげな表情は、聞き届けた郁と楓に伝染する。
「あんた、そんな唄歌っておきながら…何を言っているの?」
「何って…」
「もう、分かった、分かったわよ。あなたの冗談に付き合ってたら、いつまでたっても話が進みやしないわ」
 郁が悠治の言い訳を遮ると、それを助けるように波が悠治の足元に押し寄せた。逃げる間もなく足を掬われそうになる彼を、慌て楓が助けに向かう。
 その間にも海の様子を観察した郁が、腰に手を当て眉をひそめた。
「私の目には普段と変わらないように見えるけど…」
「そうですか…」
「でも、楓が言うんだから…やっぱり何かあるんじゃないかしら?」
 悩ましく頷く楓に郁が助言すると、濡れた靴を手に悠治が一言。
「楓には何か特別な力でもあるのか?」
 冗談でもなさそうな雰囲気に、それでも郁は頭を抱える。
「また何か言い出したわ…この子は…」
「この前も天気を言い当てた」
「それは単に雲の動きを良く見て、予測しただけ!」
「じゃあ海は?」
「雲の動きを良く見ることが出来るってことは、それだけ観察力に優れてるってことでしょう?」
「それだけで?」
 有り得ない、とでも言いたげな悠治の返しに、郁は爪先を立てて言い返した。
「…私はあなたより長い間楓と一緒にいるの。その私が、楓を信頼して言っているのよ。つべこべ言うんじゃない!」
 ついでに鼻先を摘ままれて、たじろいだ悠治は赤くなった鼻を押さえて言葉を漏らす。
「信頼…?」
 不可解な言葉でも聞いたかのようなその反応を無視して、郁は話をまとめにかかった。
「とにかく、他のことにも良く気を付けて見回りましょう?それで良いわね?」
 問われた楓が頷くと、郁も満足そうに頷き返す。そうして二人が悠治を振り向けば、彼はまた海を眺めていた。
 その口元が、思い出したように呟く。
「そういえば…この世界にはここだけしか大陸がないのか?」
 言い終えて悠治が首を回すと、楓の腕がスッと持ち上がった。
「見えますか?」
 言葉に、指先に、促されて視線を流せば、水平線の彼方が僅かに揺らいで見える。
「海の途中から透明なカーテンのようなものがかかっているでしょう?」
 言われてみれば、確かに。そんな風にも見えなくはない。
 目を凝らしてその存在を確かめようとする悠治の耳に、楓は更なる情報を注ぐ。
「随分昔に試したんですが、あれより先には行けないようになってるんですよ」
「行けない…?」
「言葉では表しにくいんですけど…そうですね、あの辺りに差し掛かると手前の海に戻されてしまうんです」
「そ。いつまで経ってもあそこまでいけないのよね」
 楓が示した正確な位置までは把握しきれなかったが、何とか納得した悠治は頷いてそれを示した。
 それでも海を見渡し続ける彼に、楓は持論を話して聞かせる。
「ここには日本人しかいないですし、あのカーテンの向こう側には他の国や大陸があるのかもしれないですが…今のところ確かめようがありません」
「へー…」
 悠治は気のない相槌を最後に、海の青から目を離した。

 何処か興味の薄そうな、知ったかぶったような、それでいてスッキリしない態度のまま。









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