流れていく。
 流れていく。
 流れていく。

 海に、山の向こうに、まだ見ぬ場所に。


 そして未来に。


 鳥は、その全てを渡れるのだろうか。
 翼さえあれば…全てを見渡す事が…




「bird」


 家の裏手にある畑。そこから少し行った場所には小川が流れている。
 本来川と言うのは海に近付くに連れて広くなるものらしいのだが、その川は不思議と幅が狭いまま海まで通じているのだ、と楓が教えてくれた。

それがつい数分前のこと。

 今日は郁のスパルタ散歩訓練から解放され、楓とのんびり食料調達をする手筈となっている。
 午前中に先日耳にした小麦畑に挨拶に行き、ついでに小麦粉を分けてもらった。代わりに楓が差し出したのは、今朝方収穫したトマトだ。
 昼食にピザを焼き、三人で平らげた後、郁が一人見回りへと出向く。今日はどうやら高台の方まで様子を聞きに行き、そこからは柏原と行動を共にするらしい。

 そんな彼女を見送った二人は、現在川辺に佇み水面を眺めている。
「さて、のんびり釣りましょうか」
 上に大きく伸びをしながら楓が言えば、悠治は川面に向かって首を傾げた。
「その釣りとは…どうやれば良いんだ?」
「やっぱり、知りませんでしたか」
 予測されていた事に眉をひそめて振り向いた彼に、楓は当然のように言い分ける。
「魚の形状を知らない君が、釣りを知ってるわけないですから」
「魚を釣る…つまり、捕らえるのか」
「そうです。この針にエサを付けて…」
 楓は傍らに置かれていた釣竿に仕掛けを終え、慣れた仕草でふわりと投げ入れる。ちゃぽん、と音を立てて沈んだ針を指差して、彼は短く説明した。
「あとはアレが沈むのを待つだけです」
「そんなんで本当に捕れるのか?」
「僕らはいつもこうしてますよ?」
「へえ…」
 そのまま座って浮きを眺め始める楓に倣って、悠治も隣に腰掛ける。

 餌であるミミズをふいふいと弄んだり、誤って指先に針を突き刺したり、糸を絡ませたりと、一通りのお約束を経て落ち着いた二人は時間差で息を吐いた。
 穏やかな川の流れに映し出される空の青。そこに浮かぶ雲の流れはさらにゆっくりで、心地好さと共に和やかな眠気を運んでくる。
 時折訪れる風が視界の端から端までを通り過ぎる間、草原に目を向けていた悠治は次に空に目を向けた。

 緑の上、空の下。

 いる場所自体はそう変わらないのに、こうしていると頭に言葉が溢れてくる。無駄に、無意味に、無意識に、流れ出す事は無くとも巡るそれを、抑えることは出来そうにない。

 歩いているときにはこんなこと無かったのに…どうしてだろうか。

 悠治がそんな風に考えていると、隣から視線が流れてくるのを感じた。
 振り向けば、眼鏡のレンズ越しに楓と目が合う。それを皮切りに、二人は静かな会話を始めた。
「大丈夫ですか?」
「何が?」
「記憶のこと」
「ああ」
「思い出せそうですか?」
「思い出せなきゃまずいのか?」
「まずくはないですが、困りませんか?」
「そうだろうか」
「…やっぱり、思い出したくはないですよね…」
「どうだろう」
 眉を下げて問う楓に対し、悠治は無表情を僅かにぼかす。そうして思ったままを口にした。
「どちらかと言えば、どうでも良いように思う」
 呟きに首を回した楓の目には、悠治の横顔が酷く穏やかに映る。彼は続けて微笑むように目を細め、独り言のように言った。
「此処に来てから、何だかとても…」
 途切れた言葉は数十秒後もそのままに。不思議に思った楓が今一度振り向くと、彼は口を開いたまま固まっていた。
「…悠治くん?」
「悪い。こういう時、どんな言葉を用いるべきかが思い出せない」
 振り向きもせずにそう言って、浮きを見下ろした悠治は珍しく苦笑を浮かべる。
「…いや、俺の場合…元から知らないのかもしれないな」
 楓はそんな彼からゆっくりと目を逸らし、視線だけを浮きに戻しながら問い掛けた。
「それは確信ですか?」
「さあ…どうだろう」
「そうなると、やっぱり困るじゃないですか」
「そうか…そうかもな」
 真意までは読み取れずとも、何となく納得した悠治はまた、空を仰いだ。

 自身の中に浮かぶ矛盾や疑問に似て、空に浮かぶ雲も掴み所がなく様々な形をしている。
 見上げれば見上げるほど、深く淡くなっていく青の中。不意に視界を横切る影を捉えた。

 悠治は首が痛くなりそうな姿勢でそれを追いかけながら、隣で川を見詰め続ける楓に問う。
「あれは何だ?」
 聞かれて見上げた楓は、直ぐ様答えを呟いた。
「雲雀ですよ」
「ヒバリ?」
「悠治くんは、鳥を知ってますか?」
「ああ…」
 質問を受けて回想し、先日の郁との話に行き当たった悠治は一人勝手に納得してしまう。
「あれがそうなのか…」
 小さな独り言に頷きを返し、笑みを溢した楓は遠く向こうに問い掛けた。
「君が生きた時代は、どんな風だったんですかね?」
 囁くようなそれに首を回し、俄に傾げた悠治はポツリと問い返す。
「時代…?」
「この国の人間は歳を取らない。つまり…色々な時代の人がいる、ということです」
 楓は顔を合わせて説明を終えると、沈んだ浮きに気付いて竿を持ち上げた。銀色に輝く魚が、艶のある体をしならせる。
「時代…か」
 楓が釣れた魚を手早くバケツに放す間にも、悠治はぼんやり呟いては川面を眺める作業に戻った。
 楓は再度釣り糸を川に垂らすと、その横顔に向けて首を傾ける。
「現世の歴史に関する記憶は?」
「曖昧だ。殆ど学んでいない、と言う記憶はあるように思う」
「…平成と言う年号に聞き覚えは?」
「いや、ないな。そもそも年号が何だったかも曖昧だ」
「そうですか。でも、少なくとも君が生きていた頃に魚や鳥を見たことがない可能性は高いですね」
「楓は生きているときにあれらを見たことがあるのか?」
「そうですね。雲雀は見たこと無かったですけど。鮭は良く食べましたよ?」
 言われてバケツの中身を覗き込んだ悠治は、狭い水溜まりの中に大人しく浮かぶその生物を、訝しげに観察した。
「思い出しませんか?何らかの事情で外出出来なかった…とか」
「外出…」
「誰と暮らして、どんな風に生活していたのか…とか」
「…分からない」
 淡々と続く質疑応答に、間を開けた悠治は空に向けて声を上げる。
「空っぽだな」
「不安ですか?」
「それが、そうでもない」
 大きく上を向いたまま、悠治は楓の質問にのんびりと答えた。
「このままで良いような気もする」
 何処か満足そうなその声に、楓はやんわりと首を振る。
「駄目ですよ」
 その声色はハッキリと、青空の向こうへ響いていった。
 強い否定に、悠治は思わず振り返る。楓の瞳は空の中に浮かぶ鳥を映し出していた。
「鳥が自由に空を飛べるのは、止まり木があるからだ…と、何かの本で読みました」
 語りの間に降りてきた眼差しは、何処と無く虚ろな色を持って草原に向けられる。
「ふわふわと自由に思考を遊ばせていれば楽ですが、いざ疲れてしまった時…何かが起きてしまった時に、地に足を付けられないと命取りになる。と、言うことです」
 吹き付ける風が、雲を拐う。同時に悠治の釣り針に仕掛けられた餌も拐われた。
「記憶や経験は君の地盤。無くしたままで良いわけは無いんですから」
 気付かぬ彼の釣竿を取り、代わりに餌を付け直す楓は、寂しげに微笑み悠治に向き直る。悠治は竿を受け取って、その瞳に断定した。
「だが、俺は鳥ではない」
「そうですね」
 楓は直ぐ様頷くと、また空を仰いで眩しそうに笑う。
「僕にも鳥のような、翼があれば…と、何度も思ったものですよ」
 それはなんだか矛盾している…いや、むしろ全く無関係な話なのではないか。悠治は思ったが、遠い眼差しを空に向ける楓の横顔に、その疑問をぶつけるのは憚れた。
 だから彼は黙って頷く。すると川面に鳥の姿が映し出された。
 遥かに高い場所を飛んでいるはずのそれは、不思議と鮮明に網膜に焼き付けられていく。


 羽ばたいて、滑るように。
 その身に当たる風を力に変えて。
 消えていくシルエットは、何処までも何処までも。
 見ることの叶わぬ彼方まで。









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