透明な。
 濁りのない。
 硬質の。

 割れる。割れる。割れる。
 脆く、儚く、冷たい、凶器。

 艶やかなそれの向こう側にはあるのは本物か。

 それとも偽物か。




「window」



 会話も行動も、思考までもが噛み合わない二人が何とか辿り着いたその場所は、石を積み上げて造られた簡素な建物だ。彼らの住むログハウスよりも大きく見えるそれは、得も言われぬ熱気を放っていた。
「此処はね、この国でも特別な場所なの」
 郁がそう言って悠治を振り向くと、彼は看板を指さしてぽつりと溢す。
「…ガラス工房が?」
「どうしてあなたはそう、凄いことで驚けないの?なーんでもないことにはそれなりに反応するくせに」
 ぼんやりながらに訝しげな悠治の顔の前、ずいっと顔を突き出した郁は睨みを利かせて抗議した。身長差を埋めるため、わざわざ背伸びまでして。
 悠治がその気迫に押されて仰け反ると、郁は腰に当てていた手を腕の前で組んで息を吐く。
「全く…。この国ではね、彼がやって来るまでガラスを精製する技術に乏しかったのよ」
「彼?」
「そう。この工房の工房長。生前はガラス職人だったんですって。お陰でうちの窓にもガラスが付いたんですもの、感謝感激だわ」
 嬉しそうに、そして敬うように、工房の扉に手をかける彼女の背中に、悠治は問い掛けた。
「…それまでは?」
「え?」
「ガラスがはまるまでは、どうしてたんだ?」
「どうって…こう、木の板で…」
 郁が手のひらで戸板の構造を説明すると、悠治は感嘆の声を漏らす。
「へえ…」
「…本当に、変なことに感心する子ね…」
 その深さに呆れた郁は、抜けた気をそのままに工房の扉を開いた。
 外観に比べて中は広く、作業台や材料や釜などが良い具合に並べられている。床に埋め込まれた色とりどりの色ガラスは、天窓から注がれる日光を不規則に跳ね返していた。
「おや、いらっしゃい」
「こんにちは、柏原さん」
 作業台の後ろから顔を覗かせたのは、首と頭に白いタオルを巻き付けた中年の男性だ。郁に軽く挨拶を飛ばした彼の手は、その間も休みなく動いている。
「ちょっと待っていてくれ、すぐに終わるから」
 柏原はそう断って、作業に集中し始めた。二人はその様子を遠巻きに見守る。
 長い筒の先端に真っ赤になるまで熱したガラスの原料を付け、休みなく回しながら息を吹く。シャボン玉のように膨らんだそれは、型に詰められ形成された。
 そうして仕上げの冷却をする際、立ち込めるように昇った水蒸気を合図に柏原の顔も上がる。
「お待たせ。良く来たね」
「作業中にすみません」
「いや、構わないよ。挨拶回りかな?」
 柏原は歩み寄る途中、郁の隣にぼんやり佇む悠治を見て頭に巻いたタオルを取った。
「はい。新しく入った…」
 郁は頷いて肘を張り、悠治の脇腹を小突いて自己紹介を促す。悠治は若干左に傾きながら俄に頭を下げた。
「樫園悠治です」
「柏原蔵之助です。宜しく、樫園くん」
 そうして差し出された柏原の右手を、悠治はただただぼんやりと眺めるだけ。見兼ねた郁は慌て後ろに回り、悠治の左手を持ち上げる。
「すみません、無愛想な奴で」
 なんとか交わされた握手に安堵しながらも、納得していなさそうな悠治の横顔に気付いた郁は思わず眉を歪めた。柏原はそんな二人を見て笑い声を上げる。
「そんなことはないよ。来たばかりで緊張もしてるだろうし」
「それにしても酷すぎるって言うか…見てるこっちが胃を痛めそうです」
「あはは、それなら楠木くんには胃薬でも処方しようか?」
「本当に痛めたら是非…」
 げんなりと言い切った郁を一頻り笑い、悠治に向き直る柏原を誰かが隣室から呼んだ。
「おっといけない。あちらの約束を忘れていたよ」
「待たせて貰ってもいいですか?」
「勿論だ。すまないね」
 断って直ぐ様駆けていってしまう彼の後ろ姿が見えなくなるより早く、悠治が短く質問する。
「楠木って、郁のことか?」
「そうよ。楠木郁。あんたこそ樫園って言うのね」
「ああ」
「言われてみれば、ちゃんとした自己紹介はしてなかったわね。あんたのせいで」
 郁が振り向くと、悠治は既に彼女を見てはいなかった。上手いこと皮肉をかわされた郁は、その視線の先を追いかける。
「柏原さんはお医者さんも兼業してるのよ。凄いでしょ?」
 柏原の背中から工房へ、最後に天窓に向けられた悠治の顔は何時になくぼやけて見えた。郁が当然のように返って来ない相槌を諦めた時、彼は壁に据えられた丸窓に足を進める。
「…ちょっと、聞いてるの?」
 呆れ半分に問い掛けると、悠治は窓の前で立ち止まりそっとガラスに触れた。そして微かに透明に映る郁に向けてハッキリと呟く。
「やっと分かった」
「何が?」
「ここに来てから、ずっと変だと思っていたんだ」
 悠治はそう言って軽く窓を叩いた。郁はその行為に疑問を覚えながら彼の隣に並ぶ。相変わらず振り向かないその横顔は、やはり茫然と外の景色を眺めていた。
 郁が声をかける手前、小さく息を吐いた悠治は視線もそのままに話を繋ぐ。
「だけど上手く説明のしようがなくてな」
「うん」
「…こうして窓の外を見るのと、実際に外に出てみるのとでは随分違うだろう?」
「うん?」
「そういうことだろうと思う」
「だから、何がよ?」
「この感覚」
 最後に呟かれた答えに詳しい説明は無く。しかしながら悠治が言わんとしていることを何となく掴みかけた郁は、追求するでもなく問い掛けた。
「あなたの目には、この景色がどう見えているの?」
「どう?」
 悠治が振り向く。久方ぶりに合った目を、今度は郁が逸らした。
「綺麗だなー、とか?素敵だなー、とか」
「そうだな。だが」
 悠治は郁に同意すると、彼女と同じく再び景色に向き直る。そうして心の底から出たような言葉を声にした。
「それと同じくらい、不思議だ」
 言い終えて、彼は長い溜め息を付く。郁も時間差で短く息を付き、指先で窓を触った。僅かに冷たいと感じるくらいで、目立った感覚はない。それは勿論外に広がる景色にも。
「不思議…ね。私にはあなたのその感覚の方が不思議に思えるけど…」
「そう。俺も同じだ」
 悠治は呟いて、窓に触れる指先に力を込めた。まるで壊そうとでもするかのように。しかしガラスは滑らかさを保ったまま、悠治の言葉を受け入れる。
「これだけ違和感を覚えているのにな」
 受け入れて、開かれた窓から侵入したのは空気の流れ。髪を、頬を撫でて通り過ぎるそれを追いかけて振り向いた彼は、瞳を細めて囁いた。

「この風だけは…昔から知っていたような気がするんだ」









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