知っている。
 知らない。

 覚えている。
 覚えていない。


 あるのか、ないのか。

 それは不思議とハッキリしている。




「knowledge」



 靡く草の背は低く。
 胸の高さに据えられた木製の柵は、辺り一体をぐるりと囲っていた。その片隅に建てられた大きな建物は今にも崩れてしまいそうに見える。

 柵の外側からそんな光景を眺め、ぽかんと口を開けたまま固まってしまった悠治の背中に、郁の呆れ声が注がれた。
「あなた、ほんっっっっっとに何も知らないのね!」
 これは寸秒前に発せられた悠治の質問に対する罵声である。
「全く、どんな生活をしたら牛を避けて通れるの?」
 柵の内側で草を食む白と黒の独特な模様を持つ大型動物を指差して、あれは何だと問いかければそんな答えを返されて。お互いが顔を見合わせたまま不可解そうに首を傾けていると、また別の動物がやってきて郁の足にへばり付く。
「これは何だ…?」
「何って…あなたねぇ…」
「痛い」
「そりゃ引っ掛かれるわよ。急に手なんか出したら」
 言われて屈んだ悠治を見て、あちらも鼻を寄せてきた。続けて鳴いたその声に、悠治の首が更に傾く。
「にゃー?」
「何返事してるのよ…」
「君、名前は?」
 怪訝な郁のツッコミを無視して、悠治はもふもふと頭を撫でながら猫に問うた。すると当たり前の返答が返ってくる。
「にゃー?変わった名前だな」
 そんなやり取りに満足そうな悠治と、思わず頭を抱えそうになる郁と。二人は揃って牧場の片隅に屈み込みながら、噛み合わない会話を続けた。
「ねえ、ツリ目?死んだときに頭のネジ何本くらい落としてきたの?」
「さあ…覚えていない」
「まだ思い出さないの?」
「ああ」
「困った頭ね…ネジと記憶と一緒に一般的な知識も飛んじゃったのかしら?」
「…いや…」
「あ、すみません忙しい所…!新入りを連れてきたので、みなさんに紹介させてください」
 話の途中で目的の人物を発見し、すっ飛んで行ってしまう郁の背中を追いかけて。
「…そうじゃないと思うけど」
 猫を抱えた悠治は、ボソリと一人呟いた。


 牧場の主人やその他周辺住人に挨拶して、持参した野菜や漬物と牛乳などを交換し、適当な世間話を開始する複数人を見守り終えて、悠治は猫に別れを告げる。

 キジトラの模様を持つそいつはどうやら悠治を気に入ったようで、柵が途切れる手前まで見送りに来てくれた。
 聞いたところによると、彼は元からこの土地に居た猫の子孫らしく、名前はにゃーではなく「なっつ」と言うそうだ。
 つまり、この世界で子孫を残せないのは人間だけ。その他の生物は当たり前に生きていると言うこと。
「そうじゃなきゃ、私達は生きていく事ができないでしょう?勿論…これが当たり前だとは思いたく無いけど」
 郁はそう言うと、複雑な表情を俯かせた。悠治は彼女のその様子に目を瞬かせるだけで、同意も反論も吐き出しはしない。
「…あなた、食物連鎖って知ってる…?」
 余りの反応の無さに郁が問えば、彼は俄に首を傾けた。
「やっぱり色々落としてきたみたいね…大事なものまで全部…」
 そう言って一人納得する郁は、反論する隙も与えぬように腕を伸ばす。
「次はあそこよ」
 指の先が示すのは、遥か遠くに見える石造りの小屋だ。二人と小屋の間にあるのは、例によって見渡す限りの草原だけ。一つだけ違うのは、その小屋が大層高い位置にあると言うこと。
 悠治が手を翳し、眩しそうに目的地を確認する間にも、郁はどんどん歩いていってしまう。
 今しがた出てきた牧場を背に、右手に見える草原を幾ばくか進めば元居た家に辿り着く。しかし悠治は自分が今どの辺りに居るのか分からずに、手持ちの地図をぐるぐるまわしていた。
「何してるのー?早く来なさいよ!」
 顔を上げると、随分先で手を振る郁の姿が見える。悠治は不器用に地図をたたみながら足を動かし始めた。
 目的地は見えているのに、歩いても歩いてもなかなか近付いて来ない。そんな風に感じるのは、この広大な草原のせいだろうか?などと適当な事を考えながら、悠治は郁の背中を追いかける。

 背の低い彼女の歩幅より、背の高い彼の歩幅の方が広い筈なのに。何時までも差が狭まる気配がない。
 それもその筈。郁は今日中にできる限りの挨拶を済ませてしまおうと急いでいるのに対し、悠治は地図を覚えようと景色を見渡しながらゆっくり歩いているからだ。

 郁が悠治の遅れに気付き、岩に腰掛け待っていると、随分遅れて追い付いた彼は息も絶え絶えに問い掛ける。
「…これさ」
「何よ?」
 現在地は高台の中腹辺り。続く坂道はそれなりの角度こそあれ、そう険しくはない。それこそ荷物を抱えた郁がひょいひょい昇れてしまう程度だ。にも関わらず。
「いつまで登るんだ?」
 ぼんやりを更にぼんやりとさせて、うんざりと言った調子で宣う悠治の顔を、郁は屈んで下から覗き込んだ。
「…まさかとは思うけど…もう疲れた…とか、言わないわよね…?」
 にっこり笑顔の問い掛けに、悠治は直ぐ様頷いて応える。
 数秒の間。その間に郁の表情が苦笑いへと変化した。
「ばっかじゃないの?男なら気張りなさいよ!」
「いや、この道、なんかおかしいし」
「おかしくない。ほら早く!足を動かす」
「もう動かん」
「もー!どうするのよ!そんなんじゃ畑仕事もままならないんじゃない?」
「はたけ…?」
「畑。家の裏にあったでしょう?」
 座り込んだまま郁を見上げていた悠治は、ぼやける視界の奥に記憶を呼び起こし、なんとなくで納得する。
「ああ…」
「あれを耕すのよ。そうしないと毎日おいしいご飯が食べられないわよ?」
 そう言って脅してみるも、へたりこんだ悠治がそう簡単に立ち直ることはなく。
「…お腹すいた」
 ぽつりと呟かれた一言に、郁の絶叫が渇を入れた。
「どんだけ燃費悪いのよ!食べたきゃ働きなさいー!」
 遠くまで響く山彦を不思議そうに聞き届けた悠治は、それでもそこから動き出すのに数十分の時間を要したそうだ。










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