ぽつり。

 一滴。図ったように顔に落ちた冷たさが、痛烈に脳へと染み渡る。

 見上げれば、空の明るさが薄れるに連れて、雲が増え始めていた。


 雨。


 それは、空から無数に降りてくる水滴の総称。




「rain」



「いい?ツリ目!この家では私が一番偉いの!権力者なの!何故だか分かる?」
 外から戻るなり人差し指の先端を突き付けられ、そんな質問を投げ掛けられた悠治は、その指の先に向けて短く返す。
「さあ…」
「私が女だからよ!」
「へー…」
「…ちょっとは興味示しなさいよね!」
 回答を聞いて直ぐに踵を返す彼を、郁の苛立たしげな声が追いかけた。
 そんな事は気に留める様子も見せず、悠治がそそくさと席に付くと、郁はすたすたとキッチンに引っ込んでいく。代わって彼の前に座る楓の微笑が、ぼんやり眼を覗き込んだ。
「権力云々は置いといて、まずはこの家の基本的なルールを教えときますね」
「この国の説明も大事だけど、取り急ぎ必要なのは生活面だものね」
 ポットごと麦茶を持って戻った郁が直ぐ様相槌を打つ。悠治は黙って頷く事で先を促した。
 郁と楓はそれぞれのカップに麦茶を注ぎ入れ、悠治の分を彼の前へと滑らせながら話を切り出す。
「まずは…そうですね。部屋は昨日の通り、これからも左端を使ってください。ちゃんと掃除さえしてくれれば、好きにしてもらって大丈夫なので」
「掃除?」
「掃除道具はここね」
 悠治の疑問符に、郁は背後の戸棚を示して答えた。確かに彼女の後ろには大きな戸が付いているが、壁の厚さや構造からして奥行きは無さそうだ。
「自室は各自、リビングの掃除は当番制です」
「今までは二人で回してたんだけど、あんたが来たから童顔に組み直させといたわ」
 郁がえへんと胸を張るその横で、楓が紙を広げて表を提示する。
「三種類の仕事をローテーションでやるように組みましたが…最初の一ヶ月は僕か郁とペアで動いて、仕事を覚えて貰おうと思ってます」
「なにそれ!聞いてないわよ?」
「僕らに馴染んでもらう為にも、交代でペアを組みましょう?」
「…仕方がないわね…分かったわよ」
 このやり取りで二人の力関係を何となく理解した悠治は、麦茶を手に話の続きに耳を傾けた。
「外での仕事は明日詳しく説明するとして…取り合えずこれ、地図だけでも渡しておくから。暇なとき良く見ておきなさい?」
「地図…?」
 ごくりとお茶を飲み込んで、悠治は郁が取り出した机大の紙を覗き込む。
 ライトグリーンに塗り潰された陸地部分は複雑な輪郭を持っており、見た感じそこまで広大にも見えない土地の周囲には、どうやら海が広がっているらしい。
 郁は左右上下隈無く正方形に区切られたその地図上を、ここが西の森で、ここが川辺の集落で、ここが高台で…などと次次指で示していくが、悠治の頭はその全てを瞬時に記録する程には働いていなかった。
 とにかくこの家以外にも人が住んでいる場所がある、と言う事実だけを脳にインプットする悠治の視線の動きに気付いたのか、郁の人差し指が天井を向く。
「集落は基本的に年齢別で別れているの。もともと入国したての人にだけ当てられたルールだったんだけど、それが定着しちゃったのよ」
「へー…」
「特例もありますが、大体の人はそのまま居着く傾向にありますね」
 気の薄い相槌に楓が補足を加えると、郁は直ぐに話を元に戻した。
「で、この辺りは綿花の生産地、こっちが田んぼで、こっちがじゃがいも畑…それから」
「おい…」
「郁、そんなに一気に覚えられないですよ」
「そう?そんなに難しいこと無いと思うけど」
 悠治と楓がずんずん進む地図上案内を止めにかかると、郁はぷっと頬を膨らませる。
 そうして一息入れながら、広げたままの地図を見下ろす悠治がなんとなしに質問を投げた。
「この国にはどれくらいの人間が住んでいるんだ?」
「そうね…大体三百人前後…かしら?」
「そうですね。それくらいだと思います」
「対してあっちのメトロにはうん十億人?だったかしら?」
「実際の数までは分かりませんが、普通に考えればそれくらいになりそうですよね」
「つまり、それだけの人間がそっちの国を選んでる…ってことよね」
 麦茶と一緒に二人の会話を飲み込んで、適当な返事を返す悠治に楓が向き直る。
「そう言えば悠治くん」
 楓は、呼ばれて視線だけを振り向かせた彼に優しく問い掛ける。
「君はどうしてこちらを選んだんですか?」
 声を解析し、内容を認識し、天井を仰いだ悠治はぽつりと呟いた。
「どうしてだろう」
 ハッキリしない答えに正面の二人が瞬くと、同時に悠治の顔が降りてくる。
「ただ、風がある場所へ行きたいと強く願ったことは覚えている」
 言い切った悠治に向けられるのは、二人の変わらぬ瞬きだけ。不思議そうに顔を見合わせた彼等は、今一度悠治を振り向き首を傾げた。
「風がある…?」
「風なんて、何処にでもありそうなものじゃない?」
「何処にでも…?」
 反応に同じく首を倒した悠治は、不意に叩かれた窓を振り向き瞳を細める。

 窓に当たったのは大粒の雨。それは時間差で幾つも幾つも落ちてきて、その度に窓ガラスへとぶち当たった。軽くも重いその音が、次第に強く忙しなくなっていくのを感じながら、悠治は窓の外側に意識を向ける。
 煙に包まれたような草原は、先とはうってかわって酷くぼやけ。今にも消えてしまいそうな色を持って、際限なく降り注ぐ雨粒を受け入れていた。

 悠治はその景色を認識すると同時に、楓の言葉を思い出して密かに驚愕する。
 雨が降りそうだから。…そんなのただの冗談だと思っていたのに。

 そう思って楓を振り返った悠治に、横から郁が控え目な疑問を投げ掛けた。
「…あなた、此処に来る前はどうしてたの?」
「どうって…覚えてない」
 悠治が当たり前のように答えると、二人の目が見開かれる。
「覚えてない…つまり、生きていた時の記憶がない、と言う事ですか…?」
「…そう言った筈だけど」
「それは…単に死んだ時のことを忘れちゃってただけだと…」
 そう言って、二人はまた顔を見合わせた。先程とは違い、今度は本当に困惑しているようだ。
「良くある事なんじゃなかったのか?」
「確かに、死のショックで死亡時の記憶だけが飛んでしまう事例は多いんですが…」
「生前の記憶まで飛んじゃった人は初めてよ」
 そう言うことか、と落ち着き払って納得する悠治を他所に、楓は深刻そうな眼差しを横に流す。
「でも、不思議なこともあるものね」
 そんな中、郁が真面目な顔で腕を組んだ。彼女は集まった疑問の視線に肩を竦めて答える。
「だってこの子、自分の名前と歳は覚えていたじゃない」
「そう言われてみれば…」
 郁の答えに合わせて、視線は悠治に集中した。数秒経っても逸れないそれに、流石の悠治も瞳を泳がせる。
「…そうジロジロ見られても困るんだが」
 記憶喪失である本人がこの調子では、深刻な事態も深刻になりきれないわけで。なんとなく気抜けした郁が息を吐けば、楓も表情を緩ませた。
「全く…仕方のない子ね」
「何かの拍子に思い出すかもしれないですし、気長に様子を見ましょうか」
「別に俺は…」
「とにかく、何か思い出したらちゃんと言うのよ?」
 勢い良く遮られた事で、言いかけた続きを飲み込んだ悠治は小さくため息を付く。そうしてまた、後ろを向いた。

 音に合わせて弾ける雨のその色は、彼の記憶の中にはない。透明に輝く無数の水が世界を満たしていく。
 それが酷く、不思議だった。

「さ、雨も降り始めたことですし。お昼の準備しちゃいましょう」
 悠治の世界に入り込んだ郁の声。無理矢理振り向かされた悠治は、迷惑そうな声を出す。
「もう?」
「早めにしないと、準備がすむ前にお腹が空いちゃうじゃないの」
「そんなに時間がかかるのか?」
「…あなた、料理は…?」
「料理…?」
「したことないのね」
 疑問符付きの返答に口元を歪ませて、悠治を一時解放した郁は彼にエプロンを押し付けた。
「あなたの当番が来るごとに不味いもの食べさせられたらたまらないもの。この際みっちり仕込んであげるから!覚悟しなさいっ」
 続けてぐいっと寄せられた鼻先に、言い返す隙など微塵もなく。

 楓にフォローされながらエプロンを装着した悠治は、その日の昼飯を何とか完成させたのだった。










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