ふわふわと漂うのは柔らかな香り。 初めてのようでいて何処か懐かしいそれに鼻を擽られ、彼は重い瞼を開いた。 「place」 「此処は何処だ…?」 寝ぼけ眼を擦りながら、宛がわれた一室から顔を出すなり呟く悠治に、呆れた郁の疲れた声が返答する。 「あんた、痴呆か何か?」 「とりあえず、朝食でもどうですか…?」 昨日と同じ、玄関に一番近い位置に座る楓が悠治に勧めれば、郁もため息と共に朝食の準備を再開した。 悠治は促されるまま、席に付く手前に窓の外を確認する。そこには眠りにつく前と然程変わらぬ光景が映し出されていた。 「良く眠っていましたね?」 「見た感じちっとも分からないけど、きっと疲れてるのね」 運んできた食器を置きながら顔を覗きこむ郁に、悠治は首を傾げて応答する。 「あなた、半日ちょっと眠ってたのよ?分かる?」 「今は…」 「朝の七時くらいですかね?」 悠治がぼんやりしているのは、起き抜けのせいだけではないだろう。昨日の経験を踏まえてそんな判断をした二人は、顔を見合わせて肩を竦め合った。 片眉の根本を下げたまま頭を掻き、目の前に並べられた朝食をまじまじと見据えた悠治は二人に倣って手を合わせる。 「いただきまーす」 郁がそう言って箸を付けると、遅れて楓もお椀を手に取った。 並んで座る二人の対面、悠治は見慣れないものでも掴むようにして手元の椀を取り、おっかなびっくり口にする。 目覚めの時に嗅いだその香りは、まさにその水分のものだった。 「…美味い」 「でしょう?今日の御味御汁は最高に良くできたわ♪」 「おみおつけ…?」 「あなたが今飲んでるそれのことよ」 呆れと驚きの混じった声で答える郁に、悠治は尚も問い掛ける。 「これは?」 「…あなた、実は物凄い馬鹿…とか…?」 悠治が箸の先を向けた料理を見て、郁の眉根と楓の目尻が下がった。対してぼやけた表情を傾げた悠治に、楓が質問を投げ掛ける。 「悠治くん。ではこれは…?」 「箸だな」 「これは?」 「カップだ」 左右それぞれの手に持ち上げられたそれの名称を、間髪入れずに答える悠治を振り向かせ、郁は真面目腐って詰め寄った。 「ツリ目?鮭って、聞いたことあるわよね?」 「アルコールのことか?」 「違う、その酒じゃなくて!これよ!この魚の名前!」 長方形の平べったい皿に乗せられた、赤みを帯びた魚の切り身。指し示されたそれを多方向から観察し終えた悠治は、二人の予測に反して感嘆に近い疑問を漏らす。 「魚…?これが泳ぐのか?」 「…はい…?」 唖然とした疑問符を受けても尚とぼけた顔を上げ、悠治は訝しげに眉をしかめた。 「なんだ…?違うのか…?」 「ボケにしてはあんまりだわ」 同じく顰めっ面でコメカミを押さえる郁の肩に手を乗せて、楓がやんわりと場を宥める。 「郁、決めつけるのはまだ早いですよ。僕らはまだ、彼に何も話していないですし…何も聞いていませんから」 「それは…そう…だけど………ねえツリ目?あんた、此処が何処だかは分かったんでしょう?」 問い掛けに、未だ鮭の切り身をしげしげと眺めていた悠治は顔を上げ、真面目な顔で答えた。 「ああ。ウイングと言う国だ」 「じゃあ…」 「が、それだけでは俺の疑問は解消しない」 郁の確認を遮ってそう続けた悠治は、ぼんやりながらに真剣な言葉を並べ連ねていく。 「どうして俺は此処に居るんだ?啓示とは一体何だ?この国は地球上のどの大陸にあるんだ?」 「ツリ目…」 詰問にたじろぎながら、勝手に付けた彼の渾名を呼ぶ郁の表情があからさまに曇った。昨日と同じ展開になることを懸念したのか、続けて口を開こうとする悠治に楓が質問する。 「まだ思い出せませんか?」 「だから聞いているんだが…」 困ったようにそう言って、張っていた肩を下ろした悠治を制し。楓はゆっくりと箸を持ち上げた。 「食べ終わったら…少し、外に出ましょうか?」 その笑顔と空気、そして空腹に負けて、悠治は取り敢えずの了承を示す。 食事が終わるまで、そして終わってからも。楓は元より郁までもが口を開かない。 そんな二人の様子を見て、ただただ不思議そうに目を細める悠治の腕を、箸を置いて数分後に楓がついっと引っ張った。その瞬間、食器を抱えて台所に向かう郁を横目に、悠治は楓に引率されて外に出る。 扉を閉めると、それだけで世界が違って見えた。まるで自分までもが風に支配されているかのように感じ、思わず足を止める。 楓はそんな悠治を少し先で待っていた。半端な振り向き具合が、悠治の眼に不思議に映る。 そうして悠治が足を踏み出すと、楓も同じく歩みを進めた。先導する彼に従って歩いていくと、家の窓から死角になる裏手に辿り着く。 楓はそこで立ち止まり、悠治を振り向いた。その背後にあるのは、鴬色の草原だけ。 悠治は楓の姿とその景色の全てに問うようにして声を出す。 「どうして隠すんだ?」 「隠している訳じゃ…」 「なら、答えてくれ」 急かすような悠治の言葉に、楓は敢えて別の話題を返した。 「悠治くんは、此処が好きなんですね」 ふわっと笑った楓が眩しく見えたのか、悠治はただ目を細める。 「気付くと良く景色を見てるので」 楓はそう付け加えると、視線を横へと流した。偶然か計らいか、彼の動きに合わせて吹き付けた風を追いかけては不可解そうに眉を歪めた悠治は、目の前にある事実を受け止めて小さく首肯する。 「多分…そうなんだろうな」 流れ続ける風が草原に波を起こし、遠く向こうに去っていくのを見届けて、彼は楓を振り向いた。その瞳はぼんやりと、現実から遠ざかるようにして色を無くす。 「ただ今は…素直に喜ぶ気になれない」 「それは…」 「その理由も、お前には分かるのか?」 訝しげな問い掛けに、楓は誤魔化すような笑顔を浮かべた。そして曖昧に目を反らすと、またぐるりと話を変える。 「郁はああ見えて、繊細なんですよ」 家の中を視線で示す楓に、悠治は反論しなかった。代わりに漏れたため息が、遅れて楓に到達する。 「そんなに言いにくい事なのか?」 「あの様子を見て察して貰えたら嬉しいんですけど」 「悪いが、そういうのは苦手なんだ」 真っ直ぐに延びてくる眼差しを、楓は今度こそ真っ向から受け止めた。 「どうしても聞きたいんですね?」 「ああ」 「後悔しませんか?」 「随分と念入りだな」 悠治はそう言って、左手の人差し指と中指で額を押さえる。楓は、何かを待つかのようにただ、悠治を見据えていた。 また、風が吹く。当たり前に流れて、去って。辺りに静寂が舞い戻る。 悠治はその静けさの中に声を落とした。飽きもせず、全く同じ質問を。 「此処は何処だ?」 「此処は…」 楓は呟く。そして、必要も無いのに首を回して辺りを確認した。 そこにあるのは相変わらず、だだっ広い草原だけだ。 釣られてそちらに目を向けた悠治の耳に、楓の静かな声が告げる。 「此処は…天国ですよ、悠治くん」 強い風が二人の髪を靡かせた。柔らかい楓の髪は、何時までも揺れるのに。固い悠治の黒髪は、直ぐに何事もなかったかのように元の位置に収まる。 「…そうか」 悠治は短く納得を示し、ゆっくりと楓を振り向いた。そこに動揺が見えないのを認識して、楓は呟く。 「…思い出しましたか?」 「何を?」 当然のように倒れた首に苦笑して、楓は短く補足した。 「死んだときの事です」 ああ、と。短い相槌が漏れる。悠治は暫し思案したかと思うと、直ぐ様首を振って否定した。 それを見た楓は不意に声を出して笑い始める。対してやはり不思議そうに顔をしかめた悠治は、瞬きを繰り返すばかり。 「珍しいです。君みたいな人」 楓はそう言うと、空を仰いで一息に説明した。 「時々居るんですよ。自分が死んだことを忘れて此処に来て、本当のことを受け入れられずに、塞ぎこんでしまう人が…」 だからあんなに慎重だったのか。悠治は一人納得すると、頷いて草原を、森を、空を見渡す。 一周回った彼の視界が楓を捉えると、彼は待っていたように小首を傾げた。 「嘆かないんですね?」 「そうだな」 悠治は答える。それが当然だとでも言うかのように。 その真意はお互いに分からない。ただ今は、それで良いと悠治は思う。 そこに近付いてきた控え目な足音が、二人の首を動かした。 恐る恐ると言った風に前進する郁は、戸惑いを隠せぬまま楓の方に問い掛ける。 「…言ったの?」 「はい」 「…その割には、随分とけろっとしてるのね」 首肯を受けて短く悠治を観察した郁は、先程となんら変わらぬ彼の様子を見て肩の力を抜いたようだ。 「なーんだ、ばっかみたい。気を使って損しちゃった」 大きく伸びをしてそんなことを言った彼女が、直ぐ様後ろを向いてしまうのを目線だけで追いかけて。悠治はまた、空を見上げる。 「悠治くん?」 室内に戻ろうと動き始めた二人が振り向いても、彼はその場から動かなかった。 「もう少し」 呟きは空に向けて。 「此処にいる」 告げられた二人は何も言わず、しかし勝手な配慮を持って顔を見合わせる。 「一雨来そうですから、降られないように気を付けて下さいね」 最後に楓の忠告を残して、二人は家へと戻っていった。 死への思いは人の数だけあるだろう。 悠治はそんなことを念頭に、全く別の感覚に身を委ねる。 その場に居たいという、自らの率直な欲望に。 |