それは飛ぶためにあるものだと思ってた。 だけど。 それは生きるためにあるものだと気付かされた。 そして生きるとは… 「wing」 風に巻かれ舞い落ちた葉が、緑色の羽根のように見えた。 楓は人差し指で眼鏡を押し上げると、閉めた扉の前で少年を振り返る。少年は楓のすぐ後ろで、彼の仕草を見守っていた。 二人の気配が遠ざかるのを確認して、一つ息を付いた楓が話を切り出す。 「君は神様なんですね?」 問いに、少年は頷いて付け加えた。 「僕だけじゃないけどね」 「他にも君のような人が?」 「そう。何人か」 「君も人間だった、違いますか?」 「…そうだよ。僕達が始めたんだ。この仕組みを」 「…何故?」 「…なんでだったかな…」 少年は頭を掻いて、答えを探すかのように空を見上げる。 「多分、君と同じような理由だったと思うけど」 赤い空を悲し気に見据え、答えた彼は楓に掌を差し出した。 淡く溢れた光が次第に球になる。楓はそれに手を伸ばす前に、少年に問い掛けた。 「この為に、僕を呼んだんですか?」 「理解が早くて助かるよ」 少年は笑顔で答える。 「もう疲れたんだ」 その笑顔が苦痛に歪んだ。 楓は、少年の掌から光を受け取ろうとした。少年は手を引っ込めて、今一度確認する。 「君もこうなるよ?いいの?」 「僕には義務があります」 楓は直ぐ様頷くと、右手を真っ直ぐに伸ばした。 「全てを見届ける義務が…」 「そうやって自分を追い込んで、何になるって言うんだ」 その問いは、自分に対するものだろうか?楓は思う。きっと、彼自身への問いでもあるのだろうと。 「やりきれないんですよ」 呟いて、目を瞑り。 「何も悪くないのに…どうして…」 楓は曖昧に思いを吐き出した。 「分かっていても。認めたくないんです」 言い切って、目を開く。顔を上げると、少年の顔には微笑が戻っていた。 「それを認められるようになるまで、諦められるようになるまで、か…」 それは嘲りか、苦しみか、そして誰に向けられた感情なのか。 楓は測りかねて、しかし悪意ではないことを確信する。 「確かに、あそこに残ったら時間が足りないだろうな」 少年は、手を伸ばす。乗せられた光が僅かに揺れた。 楓は光の上に手を掲げ、そしてそっと触れてみる。 「それじゃあ、頼んだよ。楓くん」 少年がそう言うと、光が周囲に充満した。 留まって、弾け、拡散したその先に、もう少年の姿はない。 「確かに、その通りです。でも、それ以上に…」 楓は、自らに溢れる力を認識しながら口にする。 「僕は見届けなければいけないんです。人間がこの世界を、変えることが出きるのか…」 それは自身のエゴとして。 「その行く末を」 勝手に背負い込んだ使命だと。 そうして懺悔を終えた楓は、自らが生み出した光の中に姿を眩ました。 丁度その頃。 森の中を進んでいた二人のうち、片方がその場に座り込んでしまうのを、遥か彼方で太陽が目撃する。 「郁…?」 「嘘ばっかり…」 呼び掛けた悠治を無視して、地面に呟きを落とした郁から嗚咽が漏れた。 「楓の馬鹿…」 声を殺して泣く彼女を、悠治は上から見守る形を取る。郁はそんな彼を見ることなく問い掛けた。 「どうしてかな?」 数秒待ったが、反応の無さに絶望した郁は思わず顔を持ち上げる。 「どうしてみんな、離れて行ってしまうの?」 勢いで出た本音は、悠治の瞳を瞬かせた。 「まるで私が疫病神みたいじゃない…」 慌てて顔を伏せた先に愚痴を溢し、郁は複雑な思いを胸中に押し込めた。 悠治は長く息を吐いて、首を掻いてから答えではない言葉を落とす。 「どうして嘘だと?」 「鼻よ…」 「鼻?」 「あの子、嘘を付くときに鼻を摘まむ癖があるの」 「へえ…」 郁が実際にやって見せると、悠治の口からは感嘆が漏れた。こんな状況でも変わらぬ調子に辟易しつつ、郁は彼の顎を見上げる。 悠治は不意に視線を流すと、メトロに向けて問いを投げた。 「つまり、戻ってくる気がないってこと?」 「そうよ」 「気付いてたなら、何故止めなかったんだ?」 「だってあの子は…ずっと、お姉さんのことを気にしていたから…」 「だから、翼が欲しかった?」 成る程、と言わんばかりの悠治の口調に、郁は首を傾げて問い返す。 「あの子、そんなことを…?」 「ああ」 そうだったのか…と、一人納得した郁は重さに耐えかねてまた俯いた。 「…私に遠慮して、ずっとずっと…我慢していたのかしら…」 「さあ」 「さあ…って…」 「だが、こうなる前にここに来ることは実際不可能だった訳だろう?良かったんじゃないのか?」 「そう言う問題じゃ…」 「ならどう言う問題なんだ?」 「……どうしてみんな、どっかに行っちゃうのよ」 「さあ…」 続く気の無い返答に、苛立ちを募らせた郁は立ち上がって抗議する。 「…もう!そこは嘘でも、「俺がずっと傍に居るから大丈夫」とか言うものでしょう?ねえ!聞いてるの?」 「なあ」 「え?」 不意に振り向いた顔に驚いて、寄せていた顔を引っ込めた郁は、悠治の真顔が僅かに歪むのを見た。 「嘘は嘘でも、何処までが嘘か、までは分からないだろう」 「どこまでって…」 「大丈夫、までかもしれないし、もしかしたら直ぐに、までかもしれない」 真面目腐った考察を受けて、そう言う問題だろうか…と考えを巡らせ始める郁に、悠治は肩を竦めて言い放つ。 「それに、死んでしまった訳じゃないと思う」 「それは…そうかもしれないけど…」 「なら、また会えるかもしれないだろう」 「あなたは能天気ね…」 「そうだろうか?」 「そうよ。これから生きていかなきゃいけないって言うのに…どうしてそんなに…」 呆れと気抜けと、同時にずっと付き纏っていた緊張を解いた郁に、別の使命感が襲い掛かる。 「…どうした?」 「いいえ。あなたに文句言ったって、仕方がないもの」 思い直して背筋を伸ばし、正面を見据えた郁は、自分が此処に来た意味を確信した。 「そうよ…生きなきゃ、いけないんだから…私がしっかりしないで…どうするのよ」 パチンと頬を叩き、閉じた瞼の裏側に今しがた見てきたメトロの光景を映し出す。 「こんなこと、これ以上繰り返してなるものですか」 静かな決意を胸に、歩みを始める彼女の背中を悠治がのそのそと追い掛けた。 「悠治?」 数歩先で、思い出したように振り向いた郁は真顔で問い掛ける。 「あなたは何処にも行かないわよね…?」 問われた悠治は、一度だけ瞬いて止めた足を動かし始めた。 「ああ」 短い返事は真っ直ぐに、郁の耳に届く。彼女は笑顔を返事として、彼の隣に付いた。 「さあ。帰りましょう」 柔らかな表情が、複雑な色を帯びる。悠治はそれを正面から捉え、徐に頷いて見せた。 「帰って、みんなに伝えなきゃ…」 郁の独り言は、まるで生き物のように。悠治の耳に届いては、胸の奥まで這っていった。 |