翼を下さい。
 飛ぶための翼です。

 あなたは持っているのでしょう?
 僕はあそこに生きたいのです。

 あの人に会いに…




「angel」



 風が吹き抜ける。
 それは相変わらず開いた門の外側に、逃げるように駆けていった。
 楓はそれに逆らって荒れ果てたメトロを見据えると、寂しげに声を落とす。
「やっぱり…そうだったんですね」
 長い語りを終えた悠治が顔を上げると、彼は右に視線を流した。それに構わず悠治は訊ねる。
「分かっていたのか?」
「いえ、確証はなかったです。でも、確率は高い気がしてました」
「そんなことまで予想できるんだな」
「僕が生きた時代にも、同じような予言はあったんですよ。それが君の時代に…」
 現実になった。
 楓は最後まで言えなかった言葉を脳内で反響させる。それに共鳴したかのように、郁が額に手を当てた。
「そんな…そんなことって…」
 もう一方の手も添え、顔を隠した彼女は続けて言葉を絞り出す。
「じゃあ、地球は…?今、地球に人類は…」
「どうだろう。多分、居ないんじゃないか?」
 悠治が半ば無関心な口調で呟くと、何処からともなくジャッジが下された。
「正解だ」
 聞き慣れぬ、幼い声。三人が振り向くと、門の上から何かが降ってくる。それは地面に着地すると共に軽い調子で言い放った。
「だからメトロは滅んだのさ」

 空気が変わる。

 身構える三人に歩み寄るのは、外見の至るところに幼さの残る少年だ。彼は大人のような微笑を浮かべながら、30メートルほどの距離を置いて足を止める。
「あなたは…」
「さあ、誰だろうね」
 楓の鋭い眼光を難なくかわし、少年は竦めた肩を悠治に向けた。
「悪かったね、勝手に記憶を操作して。不便だったかい?」
 世間話のようにそう言った少年に、三人の訝しげな顔が向く。
「記憶を…操作…?」
「君達にはまだ、地球が滅んだことを知られたくなかったからね。仕方がなかったんだ」
 戸惑う彼等を他所に、少年は次々と話を進めた。
「ここと、君が生きた頃の地球は似ているだろう?だからさ」
 掌を向けられた悠治が、何もなくなったメトロを振り返る。郁も楓も誘われたように少年に背を向けると、丁度そこに補足が加えられた。
「暴動が起きると困るから」
 ハッとして、三人はもう一度少年に向き直る。少年は変わらぬ笑みでそれを迎えた。
 ウイングの住人は元より白い服しか着ないが、彼もまた、全身に白い服を纏っている。加えてブロンドに近い茶の髪と、透き通るような草原色の眼差しが、おとぎ話に出てくる天使を連想させた。
 その独特な風貌と気配を前に、体を固くしながらも郁は強く問い掛ける。
「だから…みんな逃げなかったの?」
 良く通る声は、メトロの外壁に反射して荒野に抜けていった。少年は僅かに目を細めて応答する。
「あなたが記憶を消したから…メトロの人たちは…」
「それは違う」
 震える郁の声を遮って、幼い声が悠治に問うた。
「彼等は逃げ出そうなんて考えもしなかった筈だ。彼等にとって、機械は絶対だったから。そうだろう?」
 悠治は頷く。気配でそれを察した郁は、震える指先を握り締めた。
「教育は洗脳だ。喩え一度裏切られようとも、次こそはと思ってしまえるほどに…彼等は機械に染められていたってことさ。それに、未知の自然と一から向き合うよりも…馴染みのある機械を信じた方が、楽だからね。暴動を起こしたくなかったのは君達の国の方さ」
 確かに。悠治の話からしても、少年の話は間違っていないように思える。現に見渡す限り、生命の気配を感じないのだから尚更に。
「言っておくけど、生存者は探すだけ無駄だよ?今、この国に居るのは僕と君達だけだから」
「どうしてですか?」
 少年の言葉尻に被せるようにして訊ねたのは楓だ。彼は固まる空気に自身の疑問を投げ掛ける。
「どうして地球が滅んだことと、メトロが滅ぶことが…」
「分かってるくせに」
 か細いそれを遮って、嘲笑した少年に楓の鋭い視線が向けられた。
 楓は問う。
「僕らは、試されていたんですか?」
「そうではない」
 少年は否定して、しかしすぐにこう付け足した。
「だが、それに近いのかもしれない」
 含みのある言い方に眉をひそめた悠治の腕を、郁が取る。楓は一歩踏み出して少年に要求した。
「聞かせてくれませんか?」
「いいよ」
 ふわり、と。少年の体が動く。彼は軽そうな体を歩行で前に進めながら、楓の正面に立った。
「その為に、来て貰ったんだから」
「来て貰った…?」
 郁の声に振り向いたのは、少年ではなく楓の方。楓は一つ頷くだけで郁の質問を終わらせる。
 十数歩先に佇む少年は、楓の首が直るのを待って話を始めた。
「そもそもどうして二つの国を制作して、選ばせて、国境を越えてはいけないように定めたのか」
 固唾を飲む三人に、少年は軽く肩を竦める。
「選別するためさ」
 その言い様は、彼が普通の人間ではないことを確定させた。
 それぞれが言葉の意味を噛み砕き、飲み込むまでの間を少年の微笑が埋める。
 音の無い空間に割って入ったのは、怒りと戸惑いを帯びた郁の問いだった。
「何のために…一体、何の権限があって…」
「権限か…。確かにそんなものは持っていない」
 受け流すように嘲笑して、少年はサラリと話題を変える。
「資源を求めて不正入国した人間が、その後どうなったのか…君達は知らないだろう?」
 やや間があって、息を落とした郁の代わりに楓が重い口を開いた。
「まさかとは、思いますが…」
「そう全て、あれのようになった」
「あれ…?」
 悠治が呟く。少年は頷いて明確な回答を示した。
「君達の国に逃げた、あいつだよ」
 三人の脳裏に記憶が蘇る。悠治が見つけ、連れ帰ったあの男の顔が。
 固まる悠治と、震える郁と。二人を横目に、楓は訊ねる。
「彼はメッセンジャーだったんですね?」
「そうだ」
「だからわざわざ罠にかけて生かしておいた。そして役目を終えたから…」
「死んで貰った」
 答えあわせは静かに終了した。楓と少年の会話に付いて行けず、郁の口から疑問が溢れ出る。
「どうして…」
「そう言う決まりだからさ。自分が選んだ国から逃げた時点で、生きられなくなる」
「それなら、逆は…?ウイングから逃げ出した人達は…」
「勿論、同じように」
 少年の答えは簡潔に。その中には冷たさすら滲み出ているように思えた。
 沈んだ空気を入れ換えるように、彼は声のトーンを変える。
「心変わりを許さないくらいには、徹底された選別だってことだよ」
 天に向けられた掌は翻り、直ぐに下へと下ろされた。その手に向けられるのは、納得いかない、と言った三人の眼差しだ。
「地球が滅んだ時の環境に、より近い方を消滅させる…それが選別の方法だ」
 少年は小首を傾げ、困ったように頬を掻く。その仕草は理解されるを諦めたようにも見えた。
「こうなるまでには時間がかかった。最初の方は自由に往き来させていたりもしたんだけど、うまくいかなくなってね」
「最初の…方…?」
 苦笑から出た言葉に問い返した郁が、呆然とした表情になる。この人は一体何の話をしているのかと、今にも回りに説明を求め出しそうに見えた。
 少年は他の二人も答えを出しかねているのを見越してか、直ぐに回答を提示する。
「どの地球も、最期はこうなったってことさ」
 辺りが静まり返った。
 横目で背後を確認すると、そこにはやはり荒野しかない。少年の掌は、間違いなくそれを示している。
 いや、そんなことよりも…
「次の地球は此処だよ」
 三人の考えが纏まりきる前に、少年は言った。
「僕が消えれば、時間が動き出す。君達はまた、生きるのさ。死ぬまで。君達が選んだ自然と共に」

 今、何て…?

 それは声にならず、それぞれの脳内に響き渡る。

 暫く、無音の時が流れた。その間、少年はラフに佇むだけで身動ぎ一つしない。
 三人は会話もなく、視線を合わせることもなく、俯き気味に思考を巡らせた。

 どれくらい時間が経過したか、静寂の中で不意に郁の口が開く。
「なんのために…」
 呟きが、他の三人の顔を上げさせた。郁も声を出した勢いで視線を持ち上げて、少年と目を合わせる。
「なんのために、そんなことを…」
「さあ、どうしてだろう」
 少年はそう言うと、大人びた笑顔を横に流した。
「僕ももう、忘れてしまったよ」
 ふざけたようでも、誤魔化したようでもない声色を受けて、郁は思わず押し黙る。
「いいんですか?こんなことを話してしまって」
 間を置かず、今度は楓が問い掛けた。
「次の選別に影響があるんじゃないですか?」
「そう。いい加減、影響を与えないといけないのかもしれないと考えた…それだけのことだ」
 少年は言いながら、また掌を持ち上げる。
「それくらい、代わり映えしなかったってことさ」
 呆れたように、絶望したように。

 混乱、迷い、戸惑い、どれとも付かぬ感情が辺りに充満する。郁と楓が瞳を泳がせ、最後に無言を貫く悠治を振り向くと、彼はただ真っ直ぐに少年を見据えていた。
 つられて二人が少年に向き直れば、彼は待っていたように話を繋げる。
「折角忠告したんだから、せめて気を付けてくれよ?次に死ねば、記憶も無くなる。新しく生まれ変わるから」
 何でもないようにそう言って、少年は微笑んだ。
「次に死んでもまた、同じように生かされたくはないだろう?休憩って奴だ」
 何も知らない無垢な子供のように。しかし、発言だけがそれに伴わない。
 だからだろうか?いや、恐らく関係ないだろうが、三人は話の内容に怒る気にも、嘆く気にもなれずにため息を吐き出した。

 だからと言って、気持ちの整理が付くわけではないのだが。

 郁は背後を振り向く間際に問いを投げ掛ける。
「メトロの人たちは…?」
「彼等はもう生まれ変わることはない。消滅したからね」
「…そんな…」
「そうじゃなければ選別の意味がないだろう?」
 冷淡な声が呆れたように答えた。郁は表情を曇らせて、楓の様子を盗み見る。
 すると彼は、郁が振り向くのを待ち受けていたかのようにこう言った。
「二人とも、先に帰っていて下さい」
 郁も、悠治も、その笑顔に息を詰まらせる。楓は正面に直り、少年に歩み寄りながら続けた。
「帰って、みんなにこのことを話してください」
 遠ざかる背中。郁が慌て呼び止める。
「楓…あなたは…?」
「大丈夫ですよ。直ぐに戻りますから」
 そう言って、振り向いた楓は笑顔のまま、指先でそっと鼻を摘まんだ。









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