空はない。
 鉄板で覆ってしまったから。

 風はない。
 外気を遮断してしまったから。

 緑はない。
 もう必要がなかったから。



 そう。全ては人間の為だけに。




「2517」



 世界は汚染された。
 今から50年程前のことらしい。

 詳しいことまでは語り継がれていないが、どうやら人間が作り出した物質で空気は汚れ、地上に住むことが難しくなったようだ。しかし人類はその手で新たな環境を作り出す。

 それが黒い空…フィルターだ。

 外の有害物質を遮断して、内側の空気を清浄、循環する。汚物や不要物の全てはフィルターの外に押し流し、自分達は安全なフィルターの内側、個々が所有する室内で生活すればいい。
 製作されたフィルターは裕福な国の数だけあると聞いている。それが出来るまで、出来た時の事も詳しく語られる事はない。
 代わりに人類が発明したフィルターがどんなに優れているか、そのお陰で生活している自分達がどれだけ優秀か、そんな話は耳にタコが出来るほど聞かされてきた。

 そう。確かに人間が作り出したものは便利だったのかもしれない。少なくとも俺が生きていた時代にそれらが無かったら、生きていく事自体が不可能だっただろう。

 例えば全ての食料は各家庭に一台はあるマシンが、分析されたデータを元に原子から新たに構築して生産する。だから形は全てが同じ。
 それが何から出来ているのか、それも然して問題にならない。腹が膨れて、栄養が摂取できればそれでいいのだから。
 パンも、お茶も、魚も肉も…全ては四角い塊。味はそれなりだが、ウイングで食べた本物と比べてしまうとあんまりかもしれない。

 例えば全てのコミュニケーションはコンピューターを介して行われる。学校も、遊びも。時にはライブで、時にはアバターで、時にはチャットで、時には音声だけで。実際に顔を合わせる事なくやりとりされる。
 だから、殆どの人間は自宅から出ることがない。実際に移動する必要が出ても、転送装置で飛んでいくだけでいいのだから、自ら進んで動く必要などないのだ。
 従って各々の家庭以外…外の世界など無いに等しい。実際外に出ても淀んだ空気と黒い空、荒れ果てた大地があるだけで楽しいことなど何もない。
 俺は確認したから知っているけれど、殆どの人間はそれすら知らずに生きている。知る必要が無いからだ。

 例えば家には全てのものが揃っていて、なに不自由なく暮らすことが出来る。掃除や料理は愚か、着替えや歯磨きまでを自動で行うロボットが居るのだからやりきれない。
 俺はせめて自分の着替えや歯磨きは自分でやっていたが、それを回りに知られると奇妙がられたものだ。それくらい、それらのロボットは人々の生活に浸透していたのだろう。

 俺は、その時代の所謂一般家庭で生まれ育った。
 母親は転送装置のメンテナンスを仕事にしていた為、殆ど家には居なかったが、俺は母親が余り好きではなかったからその方が都合が良かった。
 その分プログラマーで自宅勤務の父親とはうまがあったと思う。幼い頃から良く遊んでもらっては、いろんな事を教わった。
 父親は音楽が好きだった。
 それは祖父がそうだったから、自然と受け継がれたものなのだと父本人から聞いている。
 祖父が良く口にした歌を、父も俺に聞かせてくれた。
 歌だけでなく、過去の歴史の大半をフィルターの外に置いてきてしまった人類にとって、知識は過去の人間からの伝聞と、フィルターに移り住んでから新たに生み出したものしかない。
 だから過去の歌は貴重だった。メロディーは勿論、その言葉や意味ですら。
「このおおぞらにー、つばさをひろーげー…」
「飛んでー、行きたーいーなー♪だ。分かるか?悠治」
「…オオゾラ…?ツバサ…?」
「ははは…父さんも良くじいさんに聞いたものだよ。その度に、絵に描いて説明してくれたっけな」
「絵に?」
「ああ。この中に保存してあるから、字が読めるようになったら自分で探してみなさい」
 そう言われて、マザーコンピューターの中から言葉の意味を調べたのはいつのことだったか。
 調べても調べても、言葉として出てくるだけで映像は愚か、写真や絵すら出てこない。残念ながら、祖父の絵は下手すぎて良く分からなかったのだ。

 だから俺にとっては想像の中だけの存在。
 空も、木も、草も、海も…風ですら。

 現実に愛想を尽かしていた俺は、そうして想像の世界にのめり込んでいく。そんな趣向に同調する者が居なかったのも、拍車をかける原因だったのだろうと思う。
 ある時口を付いて出た言葉がきっかけで、俺は世間から更に孤立する事になった。世間とは言っても、取り敢えずは学校と言うコミュニティの中での事だったが、どこへ出てもそう変わらなかっただろう。
「お前、今なんて?」
「フィルターさえなければ空が見られるかも知れないと言ったんだ」
「馬鹿だな…お前は」
「そうだそうだ、フィルターが無くなったら、有害物質が直ぐに人間を殺しちまうんだぞ!」
「まあ、間違ってもフィルターが無くなるなんてことはないだろうがな」
「ああ。我ら人類の最高傑作だ。こんなに凄いものを発明出来た我々だ。そのうち空だって造り上げるに決まってる」
「そうさ。酸素だって精製できたんだ。間違いない、近いうちに拝めるだろうよ」
「フィルター内でな」
 そう言って笑った中に、ウイングに逃げてきたあの男も居た気がする。しかしそれ以降会話をすることもなかったので良くは覚えていない。
 尤もそのグループでは、相変わらずフィルターを抜け出したがっている俺を笑うことが格好の娯楽だったらしく、時折良くわからない思想や罵倒を添えてはメールで知らせてきたのだけれど。
 俺はそんな奴等に関わっている暇さえ惜しいくらい、自然と言う環境に魅了されていたから、実際にどんな噂をされていたかまでは把握していない。

 さて、そうして周囲から一歩引いた俺を待っていたのは孤独だった。
 それは突然やって来て、死ぬまで家に居座った。
 確か15歳頃の出来事だったと記憶している。
「大丈夫。どうしてバレるものですか」
 深夜、母親の高い声がひそひそ話をしているのを聞いた。
「転送先は?」
 聞き覚えのある男の声が囁く。
「外よ。あんなところ、誰も行かないでしょう?」
「外って…フィルターの?」
「まさか。そこまでの手間はかけていられないわ。たかが500万ぽっちに」
「それもそうだな」
 ははは、と。堪えきれずに溢れた笑い声がリビングに充満した。
 俺は二階に続く階段の中腹で話の続きに耳を傾ける。
「で、次はいつにする?」
「まだ満期にならないの。あの子が20歳になる頃が頃合いだわ」
「そうか。じゃあ卒業を見届けることになるなぁ」
「あの子、あの人に洗脳されて訳のわからない事を言ってるんですって?先生には苦労をかけるわねぇ…」
「あなたのせいではないですよ。まあ、適当にさせてもらいます」
「ええ。どうせ数年後にはあの人と同じようになるんですから」
「それじゃあ、また近々」
「お待ちしてますわ」
 転送装置の独特な起動音が会話の終わりを告げた。
 母親は、何事もなかったかのようにリビングの隣にある自室に戻る。そうして一時間後に眠りに付いた。
 俺はその時を、階段の闇に紛れてじっと待っていた。母親が睡眠した事で照明がオートで落ちるのを確認し、そっと腰を上げれば無機質な透明が足元を淡く照らし出す。
 踏みしめた部分が次々に光り、いつも通り俺をリビングまで導いた。俺は勝手に付いた照明を切って、リビングの奥に向かう。
 そこには丸い台が置いてあるのだが、それこそが転送装置と呼ばれる代物だ。消去しない限りは過去数回の転送先を勝手に記憶している。
 俺は台の手前にあるパネルを操作して、履歴を確認した。
 ひとつ目は、俺が持つパソコンと接続している学校の教師宅。母親と教師がそう言う関係にあることは随分前から知っているが、俺にとってはどうでもいいこと。
 それよりも。
 俺はその手前に記載された、名称の無い番号にカーソルを合わせる。
 そうして、転送装置に飛び乗った。

 ふわり、体が浮き上がる感覚の後、沈むような不快感が訪れる。
 次に目を開ければ、転送は既に完了されている筈だ。

 俺は一瞬の間を置いて瞼を開ける。
 間を置いたのは、覚悟が必要だったから。

 まず見えたのは薄暗い世界。
 ダクトやパイプが無尽蔵に這いつくばる荒れた空間だ。
 自分と黒い空の間にあるのは、沢山の家々。パイプなどのラインはそこから伸びて、地面や空に突き刺さっている。要はゴミや汚水を捨てるための物だ。
 遠くで時折光る赤は、外にある物のメンテナンスをするロボットのセンサー。俺は遠く向こうにそれを認め、近くに焦点を合わせる。
 そこにも、ロボットが発する光の色が広がっていた。

 赤。

 その色は不思議と鮮やかなまま。
 父親の体から流れ出て、辺りを染め上げる。
「父さん…」
 呼び掛けても、返事など無かった。当たり前だと気付いたのは、父親の体に触れたときだ。

 ああ。父は死んだのだと。
 あの母親と、あの教師が殺したのだと。

 父親の冷たさがそれを実感させる。
 そして、次は俺の番であることも。


 ぽつり。
 ちいさな一粒が頬に落ちる。
 父親の体温に似たそれは、次第に数を増やして辺り一体に降り注いだ。


 人間が汚した水は、ダクトを通して一ヶ所の巨大タンクに貯められる。それが一杯になると、フィルターの天井に向けて放出されるのだ。
 真っ黒な水が滴となって降り注ぐ。死んだ大地に、家を持たぬ人々に。
 家を持つ人々は、その現象を「雨」と。そう呼んでいた。


 俺は雨に打たれながら、赤から黒に染まり行く父親の亡骸を見据える。
 こう言うとき、どうしたらいいかなんて誰も教えてはくれなかったから。ただ呆然と、悪臭の中に晒される父親を、見ていることしか出来なかったのだ。
 あっと言う間に鼻は麻痺して、自分の体も黒く汚れていく。このまま死んでしまえば良いと、そんな考えが頭を過った。だけど、俺にはそれが出来そうもない。

 あるのだ。心残りが。

「死ぬならせめて…」
 空を見上げる。顔一面に黒い雨を浴びながら。
「外の世界で」
 黒い空にそう誓い、俺は転送装置に這っていく。そうして霞む意識の中、パネルに浮かんだ自宅の住所を押した。


 それから暫くは熱と病に魘される毎日を送ったが、保険金の為か母親から差し向けられたロボットが手厚く看病してくれた。

 全快したのは半月後。
 そこから三年間、俺は母親に生かされる状態で生き続ける。

 学校を卒業し、運良くデータファイルを整理する仕事に付いた俺は、仕事の片手間に色々な資料を漁った。
 空がどんな色をしていたか、植物とはどんなものだったか…。こうなるまえの外の世界の事を、できる限り。
 有るところには有るもので、三年の間に何度か写真や絵画を見る機会もあった。だから、俺は青い空と緑の草原がある風景を知っていた。…いや、見たことがあった。
 始めてウイングの景色を見たときに感じた感慨深さや違和感は、それのせいだったらしい。


 …さて、そろそろ、俺がその後三年間しか生きられなかった理由を話そうか。
 母と教師は言った。殺すのは俺が20歳になってからだと。しかし俺は18歳でウイングにやってきた。どうしてか。

 それは…

「ああ、願いが叶ったのか」
 俺は呟いて、目の前に広がる空を見上げる。それは見たこともない色を持ってそこに広がっていた。
 人工的な光とも違う、自らに流れる液体の色とも違う…幾重もの色を折り重ねたような、赤い空。
 感動して起き上がろうにも、もう体は動かなかった。思い返せば答えは明白で、一時的とはいえこうして意識が戻ったのも奇跡としか言いようがない。
「自業自得ってやつか」
 ははは、と。微かな笑いが漏れる。それに混じって沢山の悲鳴が響いているような気がした。
 何が起きたかって、俺にも詳しいことまでは分からない。それもその筈、俺も当事者の一人だったのだから。

 だが恐らくこう言うことだ。

 全てのゴミを外の世界に垂れ流してきた人類に、大きなしっぺ返しがきた。
 それは自然の怒りだったと言ってもいいかもしれない。
 轟音を携えて、激しい波や風がフィルターを突き破り、あっと言う間に人類を飲み込んだ。抵抗など出来るものか。いや、した所で無駄だっただろう。外に投げ出された後も、波の勢いは収まる気配がない。
 何かに打ち上げられ、流されながらも、俺は僅かに顔を動かしては足元で揺れる液体の赤に、その独特な動きに、意識を集中させた。
 これが海か。空の色を反射して赤く染まるそれを、脳が勝手に判別する。続けて流れた空気の香りに誘われて、そっと目を閉じた。

 俺はそこで風を知ったのだ。
 人工的でない、自然な大気の流れを。

「これでもう、悔いはない…」

 吹き付けた風は強く、いつまでも頬をなで続ける。
 不意にそれが収まった時。
 遠く向こうで大きな爆発音が聞こえた気がした。









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