残された余韻が彼を誘う。 進み行く足並みが彼を誘う。 呼び声が、彼を誘う。 記憶の世界へ。 本当の世界へ。 失われた機械の国へ。 「metro」 何処かの山の頂で、切らせた息を整えながら考える。 「感想は?」 「うん」 悠治は目下に広がるウイングの国を見渡しながら適当に頷いた、ように郁の目には見えた。 「うんって何よ?うんって…」 「ああ、分からない事が増えた」 「…例えば?」 「君の知り合いは、ウィングに居ないのか?」 「なかなか鋭いわね」 悠治の背を押し進行を促して、郁は後ろから話の続きを聞かせにかかる。 「あなた、私の父には会ってるわよ…実際いるのは土の中だけれど」 「あの墓ってやつ…?」 「そう。私の父は、あの木のある場所に行きたかったの。だから此処から抜け出した。自ら命を絶ってまで」 簡単に追い付いた郁を横目に、悠治は深く頷いた。その瞳が天を覆い隠す木々の枝枝に向けられるのを見届けて、郁はゆっくりと俯き、口にする。 「母は元より、檪がこっちに来るとは思えない。あの人は二度と木なんて見たくなかったでしょうから」 その呟きは風の音にかき消されて良くは聞き取れなかった。それでも悠治は頷いて、前を行く楓に続く。 誰も悪くない、と。彼女は言った。 郁の主観的に見れば悪いのは檪であってもおかしくはないはずなのに。 そう、檪にとって郁の家族が悪であったように。 全ては一本の木のために? いや、そうではない…。 人間でなければそんな争いは起きないのだから。 「郁」 「ん?」 「ここに来たことを後悔したことは?」 「ない、わ」 「そうか」 「…疑わないの?」 「いや。そうだな…」 顔を上げた郁に唸って見せ、悠治は脳から言葉を捻り出す。 「ここにも人は居る」 「そうね。でも、現世よりずっと生きやすい…おかしな話だけれどね」 苦笑する郁を見て、悠治も思わず笑ってしまった。死んでいるのに生きやすいとは、一体どういうことなのかと。 よくよく見れば、前方の楓も声を殺して笑っている。郁は笑いを空に上げ、開き直ったようにこう言った。 「後悔とか、そんなこと考えたくはないけれど…それよりなにより、私はこの国が大好きなのよ」 それが彼女の結論だった。 それならそれで、良かったのではないだろうかと。 悠治は一人、考えながら残りの山道を下っていく。 比較的歩きやすい道でも、体力の無い悠治にとっては苦行以外の何物でもないようだ。時折木の幹を背もたれに、回らなくなった酸素を目一杯補給する彼の姿は、池の中で餌を待つ鯉に良くにている…と、楓は思わず連想する。 山の天辺でウイングが臨めたと言うことは、恐らくまだ先は長い。日が暮れる前に平らな場所を探さないと…。 そう考える楓を他所に、悠治と郁は相変わらずの調子で漫才を続けている。 その日は山の麓で一泊して、次の日はまた別の山の頂上付近で。道中収穫した木の実や果物と、持参したお握りやパンを糧にして。 訪れた三日目の朝。 起きて早々山を下る一行は、岩を越え、小さな川を渡り、急な坂を避けながら、多少の角度がある雑木林の中を進み。どうにかこうにか山を抜けた先にある森の中で、出発から続いていた楓の話を聞き終えた。 「すると、楓の姉とやらもあっちに?」 「そうなるでしょうね」 「…どうして?」 「…どうして…でしょうね…」 不思議そうに顔をしかめる悠治に、楓は首を傾げて答える。 彼は微笑を真顔に直すと、正面に続く道なき道に向けて淡い声を出した。 「そもそも、どうしてこんな風に二つの国に分けられたのか…考えたことがありますか?」 楓の両脇に並ぶ二人は揃って首を振る。 「僕はずっと考えていました」 彼は目を丸くする二人から目を逸らし、きつい眼差しを地面に向けた。 「ずっと、ずっと…」 消え行く声を追い掛けるように楓の顔を覗き込んだ悠治は、視線に気付いて振り向いた彼に問い掛ける。 「何のためなんだ?」 聞くと、楓の眉が歪んだ。 「楓の見解として、だ」 そう付け足せば、今度は微笑を浮かべる。そうして楓は一歩前に出て、空に向けて答えを上げた。 「この為ですよ」 「この為…?」 訝しげな悠治の鸚鵡返し。楓が振り向くと、同時に郁が指先を持ち上げる。 「ねえ、あれ…」 楓はもう一度前を振り向き、郁が示す先を見据えた。悠治も同じように顎を上げる。 「…どうして、空が赤いの?」 郁は、僅かに震えながらそう問い掛けた。逆の手で悠治の服を掴みながら。 「だって、ねえ?まだお昼前よね?」 彼女の言う通り、朝早くから行動を開始したせいもあって、時刻は午前十一時前後だろうか?その証拠に、後ろを振り向けば青い空が広がっている。しかし進行方向に広がるのは、淡い赤からグラデーションし、遠くに行くにつれて赤黒くなる空だ。 郁は仕切りに気味が悪いと言って、悠治の背中に張り付くようにして歩く。静寂が怖いのか、断続的に話す彼女に相槌を返していた楓も、次第に口数が減っていた。 悠治は歩きにくそうに、それでも空を仰ぎながら先に進む。五歩ほど前を歩く楓の背中が、いつしか霞んで見えるようになった。 「なんだか…目が…」 「空気が悪いんですよ」 「遠くが見えないのもそのせい?」 「はい」 その会話を最後に、二人は口を開かなくなる。空気中に漂う粉塵のせいで喉が痛いからか、不気味な程に静まり返る周囲に警戒しているからか。少なくともそんな二人から緊張を感じとりながら、悠治は一人別の種の不安を覚えていた。 しかし、その正体は掴むことが出来ない。それはそう、ウイングにいた頃の違和感に似て。 そうして慎重に、見にくい先を確認しながら歩いていた楓が不意に足を止めた。目を凝らすと、彼の正面に黒い壁が有るのが分かる。良く良く見れば、それは左右上方に伸びていた。 「これは?」 「…国境、でしょうね」 楓が呟く。少し左に進むと、壁の一部が出っ張っている。どうやら柱のようだ。その向こう側に更にもう一本。 巨大な二本の間には、鉄製の門がある。壁はずっと先まで続いているようだが、三人はそこで立ち止まり、巨大で頑丈そうな扉を見据えた。 「…此処から向こうが、メトロ…?」 郁の呟きに合わせて一筋の風が吹き抜ける。それは門に跳ね返されて、彼女が固唾を呑む音をかき消して行った。 不安気に門を見据える郁と、真剣な表情で手を伸ばす楓と。 二人の空気を無視するように、悠治は素早く門に触れた。 「…ツリ目!」 郁の制止を振り切って、悠治は両手に力を込める。何かに急かされるように、その先にあるものを確認するために。 門は、数秒の抵抗持って開かれる。同時に出口を探していたかのように、風が駆け抜けていった。 悠治の、郁の、楓の髪が後ろに流れる。強い風が吹いたことで辺りの粉塵が霧散され、一瞬だけ視界が開けた。 「何よ…これ…」 悠治の背を盾にして、門の向こう側を認めた郁が小さく呟く。 「これが、メトロ…?」 驚愕と、恐怖と、絶望と…全てが合わさって呆然とした郁の声が、何もない荒野に抜けていった。 三人が足を踏み入れたのは、砂埃が駆ける広い土地。ウイングのような草木も無ければ、建物もない。あるのはひたすらに平らな、剥き出しの地面だけ。 「…どうして…?どうしてこんな…。だってここには、沢山の人が住んでいた筈でしょう?」 「焼け野はら、と言う奴ですか?死体が無いだけまだ見られますが…」 熱く訊ねる郁と、無感情に呟く楓と。二人の温度差が妙に背に染みる。 「これは…誰がやったのかしら…人間に、こんな事が出来るかしら…?」 「出来ますよ。…いえ、人間にしか、出来ない事かもしれません」 二人は噛み合わない会話を中断し、悠治の背中を振り向いた。彼は、荒野を…その上に居座る赤黒い空の色を見据えたまま動かない。 「ツリ目…?」 郁が呼び掛ける。それでも悠治は振り向く所か、目立った反応を見せなかった。 また考え事でもしているのだろうかと、ため息を付いた郁の言葉は短い叫びに遮られる。 「止めろ」 それは確かに悠治の声だった。郁が踏み出した足を止めると、悠治はその場で頭を抱え始める。 「来るな」 今度は苦し気に、囁くように、溢れた声は次第に呻きに変わっていった。 踞り、ついには膝を付く悠治に郁が駆け寄る。 「ツリ目?ちょっと…大丈夫…?」 「思い出したくない…止せ…」 伸ばした手は振り払われた。焦点の合わない瞳を持って、頭を振り乱す悠治に郁は尚も呼び掛ける。 「ツリ目!一体どうしたの?何を思い出しそうなの?」 「止めろ…止めろ!来るな…!」 「大丈夫よ、ほら…私も…楓だって此処に…」 「煩い…もう…止めてくれ…」 瞳孔が開かれて。ガクガクと震えながら、悠治は狂ったように叫びを上げた。 絶叫が空に抜けていく。 暴れ、髪をかきむしる悠治の肩を掴もうと、郁は振り払われる手を何度も伸ばした。 彼女は彼の顔を正面から見据え、こちらを認識していない瞳に向けて声を張り上げる。 「悠治!」 ピタリ、と。発狂が収まった。見開かれた悠治の瞳の中に、郁の顔が映り込む。 「…大丈夫…大丈夫、だから…」 そう呟いて、郁は悠治の頭を抱えた。その肩に顎をのせ、悠治はゆっくりと瞼を閉じる。 荒い息は直ぐに収まった。しかし同時に実感が押し寄せる。 「思い出した」 悠治は呟き、郁から離れた。 「全部、思い出した」 そうして、見守る二人の瞳に真っ直ぐに告げる。 郁は、楓は、ただ頷いて答えた。それに更に首肯を返し、悠治は語り始める。 本当の、自分の事を。 |