失ったものは取り戻せると。

 君は信じているのだろう。



 だけど俺には。

 どうしても、信じることができない。




「lost」




 群青に赤が差し込む。
 夕暮れの終わりに見ることが出来るそれに似たグラデーションは、森の木々が映し出す影が作る色彩美。
 実際にはまだ、夕暮れが始まるくらいの時間だろうか?しかし重なる枝葉に隠れて空の青は見ることが出来ない。

 正面に直れば辺りは暗く、その闇は先に行くほど色濃くなる。他にある色と言えば、足下に映し出される淡い赤と青。それ以外は全てがモノトーンだ。
 そんな深い森の中に佇む悠治は、切り株に腰を据えて小さく息を吐く。そうして呟くように歌詞を並べた。
「真っ暗もーりーのー、森の中ーではー…」
 中途半端に途切れた戦慄は、数十秒後に曖昧に再開される。
「フフーハハヘーヘハー、真っ暗くらーいくらーい…♪」
 忘れた歌詞を誤魔化して、とりあえずで歌い上げた悠治はため息混じりに辺りを見渡した。
「……」
 森は当たり前に静まり返る。自身の声をも飲み込むように。

 ああ、これが本当の「怖さ」なのだ、と。悠治は一人納得する。
「恐怖」ではない。「怖さ」だ。それとこれはまた別のものだと、彼は勝手に認識していた。
 説明はつかない。何故なら感覚だけの問題だったから。彼にもう少しのボキャブラリーがあれば、もしかしたら言葉にすることも可能なのかもしれないが。

 悠治は暫し、その場で森の奥を眺めていた。しかしながら見えるのは暗闇ばかりですぐに飽きてしまう。
 もう少し明るければ、いつもの散策と同じように周囲を観察出来るのに、と。そんな事を思い立ったと同時に、手の甲に訪れた感触が彼の首を動かした。見ると、リスが足下に降りて木の実を拾っている。
 しかし悠治はその動物の正体を知らない。猫の時宜しく、覗き込んで問い掛けた。
「お前…帰り道なんて知らないよな?」
 声にした途端、慌てて駆けていくその背中を視線だけで追いかけて、悠治はポツリと愚痴を溢す。
「逃げることないだろ…」
 ふうっと重い息を上げて、見えぬ空を仰いだ彼は誰にともなく訊ねた。それこそ納得いかなそうに。
「そんなに目付き悪いか…?俺」
 ため息も虚しく風に紛れ、何処か遠くに去っていく。
 此処に辿り着いて既に一時間程になるだろうか?詰まるところ道に迷って行き着いたこの場所に、彼は郁の言い付けを守って留まっている最中なのだ。尤も迎えが来る保証は無いのだが、こうなってしまっては仕方がない。方向音痴とやらの辛いところだろう。
「迷子の迷子の仔猫さんーアナタノオウチハドコデスカー」
 頭の中で勝手に単語を検索し、ヒットしたメロディーを棒読みに口ずさむ。因みに仔猫さん、があの猫と言う動物の子供バージョンだと気付いたのはこの時だ。
 悠治は結び付いた納得に一人感心しながら、鼻唄混じりに体を伸ばす。長く息を止めたその合間、静寂に呻き声が落ちた。
「誰か…」
 続けて聞こえてきたそれに、悠治の体が反応する。半ば無意識的に声の主を探すと、数分歩いた先に踞る影が見えた。
 ゆっくり、様子を窺いながら近寄ると、どうやら木を背に横たわる若い男のようである。背後に広がる血痕が、彼が傷を負っていることを示唆していた。
 悠治はそのまま男の前まで足を進める。荒い呼吸が傷の深さをリアルに感じさせた。
 暗がりに更なる影を伸ばした悠治に気付いていないのか、すぐ傍まで迫っても男は顔を上げない。爪先を視界に入れても同じだった。
 目は開いている。しかし焦点が合っていない。恐らく、見えていないのだろう。
 悠治がそう判断した時、靴の裏が枝を折った。響いた音で男はやっと悠治の存在に気付いたようだ。すがるような声を出す。
「た…すけ…」
 掠れた言葉が風に巻かれた。靡いた服の質感が、身に付けているアクセサリーが、悠治に確信を抱かせる。
「この国の人間ではなさそうだな」
 無機質な色合いの男から、鮮やかな赤色が流れるその様を上から見下ろしながら。冷めきった声で呟いた悠治は、次に周囲を見渡した。
 他に人影は無い。気配は幾つかあるように思える。確認の為一歩踏み出せば、途端に上空が騒がしくなった。
「五月蝿い鳥…」
 血痕が続く道とは逆側の木の上で、先日と同じ鳴き声がする。悠治がそれを確かめていると、男が怯えた叫びを上げた。
「くっ…ここは…」
「喋るな。死ぬぞ」
 苦しそうな彼を制し、それでもそこを動かずに、悠治は言う。
「迎えが来るまでは安静にしていろ」
「迎…え…?」
「ああ…多分、来る」
「どのみち…もう……」
 言葉の合間に、咳が混ざった。思わず近寄りかけたが、遠くがざわついた気がして思い止まった。
 悠治は呼吸を整える男に呼び掛ける。すると、微かな声が言葉を紡いだ。
「もう…お…そ…」
「遅い…?」
 悠治は聞き直す。男は確かに頷いた。

 その時。

 ズドン…と、鈍い音が響き渡る。遅れて地面がぐらぐらと揺れた。ざわめきは風と共に辺りに広がって、様々な波紋を呼ぶ。
「何が…」
 鳥の羽音が収まると同時、呟いた悠治は男を振り返る。呼び掛けても、頭を庇うようにして倒れ込んだまま動かない。しかし肩が上下している事から、呼吸はしているようだ。
 悠治はふっと息を付き、周囲に意識を移す。何度か見渡すうちに、聞き慣れた声が近付いて来るのが分かった。
「ツリ目ー!」
「無事ですか?」
 呼びあって合流すると、二人の顔が酷く懐かしく思える。息を切らせた郁が膨れた顔を接近させてくる傍で、楓の安堵が漏れた。

 それも束の間。

「この人は…」
「今気を失った」
 楓の指摘に、悠治は答える。
「もう遅いって」
 続いた言葉にぎょっとして、悠治を見上げた二人はその表情が妙に落ち着き払っているのに気が付いた。ついでに倒れている人物に息があることからしても、まだ遅くはないだろう。
 では何が?
 足りない言葉の追及を何処かに追いやって、郁は二人を促した。
「…兎に角運びましょう。ツリ目、童顔」
「分かりました。行きましょう、悠治くん」
 楓の頷きを受けて、悠治は男の左腕を支える。その掌は、やけに冷たく感じた。



 夕暮れは進む。
 先程悠治を包んだ色合いが、空に昇っては消えていこうとしていた。
 三人は山間から昇る煙を横目に森を抜け、男を家まで運び入れる。

 どうやら怪我をしているのは足のようだ。しかも両足、加えて目も潰されては動ける筈もない。
 郁が手早く応急処置を終え、辺りを消毒する間にも楓が柏原を呼びにいこうとしていた。と、言うのも手当てには助手が必要だったし、そうかと言って悠治では役立たず。その上今まで迷子になっていた人間を、夜が迫る屋外に出すのも何だか不安だ。
 仕方がなく後回しになった伝令を送り出そうとした時、丁度男の意識が戻る。

 空気の異変に気付いたのだろう。声をかけるなり、彼は小さく呟いた。
「…ここは…」
「気が付かれましたか?」
 入り口から踵を返した楓が問うと、男はいきなり体を起こして強く問う。
「此処は何処だ?」
 少し前の悠治と全く同じ質問内容に、郁と楓は固まった。揃って悠治に視線を流すが、彼は男を見下ろしたまま黙っている。
「…此処はウィングにある小屋の中ですが…」
 楓が答えると、男は掌で顔半分を覆った。
「ウィング…!?そうか…助かっ…たのか…」
「まだ起き上がっては…」
 苦し気な反応に楓が手を伸ばせば、男の手も手探りで伸びてくる。見開かれた瞳に差し込む光が妙に強く感じた。
「メトロは…」
 男は問う。
「メトロはどうなっ…」
 半ば興奮気味に途切れたそれは、呻き声へと変化する。楓が慌てて支えると、男は何とかベットに留まった。
「落ち着いて下さい」
 宥められても落ち着かず、未だ答えを求める彼に、郁が控え目に説明する。
「さっきメトロのある方角に黒煙が上がったの。凄い音も聞こえた…」
「やっぱり…」
「遅いって…?」
 男の言葉を遮って、悠治が問い掛けた。男は顔を歪めて疑問を示す。
「さっき言ってただろ?もう遅いって」
「…そうさ…もう、遅いと思った」
 男は悠治の問い直しに頷くと、見えないはずの自身の掌に向けて言葉を落とした。
「いつの間に国境を越えたのだろう…夢中だったからな…」
 最初は微かに。次第に大きくなる高笑いが、室内を満たしていった。その声は、寒気すら覚える程に狂喜じみている。

 三人が視線を交わして顔をしかめていると、不意にバタンと入り口が開かれた。
「大変だ!」
「柏原さん…!」
 その血相と、いつもは穏やかな彼の所作から見てもただ事ではない。三人は瞬時にそれを読み取って、とりあえず柏原を招き入れる。
 柏原は勧められた椅子を断って、自らの膝に手を付き僅かに息を整えた。
「メトロが…機械の国が…」
 柏原は言う。急かすように続いた声の断面を、息を呑む音が繋いだ。
 徐に顔を上げた柏原は、三人の顔をぐるりと見渡し。そして。

「消滅した」

 簡潔に、結論を呟いた。









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