お前と俺

 君と僕

 あなたと私


 違うのは当たり前。
 違うからこそ個人なのだ。

 だけど、今の俺は果たして個人と呼べるだろうか?

 違う。
 違う気がする。


 俺は一体何処に居るのだろう。





「difference」




 空の色が濃い気がする。
 郁の曖昧な報告は、いつも穏やかな楓の表情を僅かに固くした。

 その翌日である今日は、分厚い雲に覆われて空の色など良く見えない。
 敢えて言えば、雲色の空。
 それを興味無さげに眺めていた悠治が、朝食である卵焼きを挟んだ箸片手にポツリと呟く。
「昨日の話だと、二人は此処でかなりの時間生活してるってことになるのか?」
 不意打ちすぎる問い掛けに、瞳を瞬かせた郁が鸚鵡返しをした。
「昨日の話?」
「時代が云々…」
 悠治が楓に視線を流すと、彼は郁にも分かるようにかいつまんで説明した後、悠治に問い直す。
「どうしてそう思うんですか?」
「いや、時代って言うからにはそれなりの時間が経過しないと…と思っただけなんだが」
「確かに、僕と郁の生きた時代を比べても百年ちょっとありますね」
 楓が見解に頷くと、悠治は郁を横目に率直な疑問を吐いた。
「どっちが先なんだ?」
「はい?」
「郁と楓。此処に来たのはどっちが先だ?」
「私よ」
「へえ。じゃあ少なくとも郁は百何歳?」
「レディに向かって何てことを…!この口ね?この口が言ったのね!?」
 聞き付けたそれを悪口と受け取って、郁は対面に座る悠治に顔を近付けては口の両端を引っ張る。
「ひはい」
 悠治はむいむいと伸ばされる頬をなんとか救出し、擦りながらひじきを噛み締めた。
 怒りの発散を終えた郁が席に付くと同時、隣でいんげんを飲み込んだ楓の解説が入る。
「悠治くん、実は現世とこの国とでは、時間の流れが違うみたいなんです」
 それを聞いて、悠治はごくりと喉を鳴らした。瞬きを相槌と受け取って、楓は話を先に進める。
「先に言ったように郁と僕とが生きた時代には百年弱の開きがある。でも、郁が此処に来てから僕に出会うまでの経過時間は…」
「そうね…5年くらいかしら?」
「つまりおおよそですが…こちらでの一年は現世での24年…こちらでの一ヶ月は現世での二年…と言う計算になりますね」
 郁の返答を受けて指折り計算した楓の回答に、悠治は更なる問いを被せた。
「なら、楓が此処に来てからはどれくらいの時間が経ったんだ?」
「僕が此処に来て、既に20年近くの月日が流れています。つまり君が生きていたのは…」
 楓は言葉を切り、頭の中で答えを弾き出す。郁と悠治は黙って答えを待った。
 楓の眼鏡が光を流す。反射が消えたことでクリアになったレンズの向こうで、彼の真剣な眼差しが呟いた。
「西暦2500年前後…」


 その回答を最後に三人は各々の思考に没頭していまい、リビングには暫くの間沈黙が居座る。
 それもその筈、未来の事などそう簡単に想像できる物ではなく、かと言ってその時代を生きていた本人が全くピンと来ていないのだから話など弾むはずもない。

 何かの手がかりになるかもしれないと思ったのだが…やはりそう簡単にはいかないものだと結論付けて、顔を上げた悠治を待っていたのは大きな丸いバスケットだった。
「今日はこれを柏原さんの所へ届けること」
「お昼までに戻ってくれればいいので」
「中身はアップルパイだから、落としたりひっくり返したりつまみ食いしたりしないこと。分かったわね?」
 入念に釘をさされ、ぐいっと押し付けられたバスケットを握りしめ。悠治は無言で頷くしかなかった。何故なら郁の笑顔が「断ったらどうなるか分かってるわよね?」と無言の圧力をかけていたから。


 そうして初めてのお使いに追い出された彼は、ハッキリしない空の空気を無視してそそくさと足を進める。
 高台ならこの位置からもなんとか見えるし、迷うことはないだろうと。真っ直ぐに、目的地を見据えながら歩く彼を強い風が後押しした。
 実際問題どれだけの時間がかかるのかいまいち掴めなかったため、彼なりに急いで坂道を登った所、やはりと言うかなんと言うか中腹で力尽きてしまう。

 先日郁が座っていた岩に座って休憩していると、目の前に広がる空の下を雲が流れていった。それは一様に海の方へと、かなりの早さで消えていく。真下に広がる森の色は濃く、まるでそこだけが夜のように見えた。
 悠治は感想の代わりに整った息を吐き出すと、立ち上がりがてら後ろを振り返る。草原の向こうに広がる山脈が、僅かに揺らいだように感じた。

 それから二十分後。更に言えば出発から二時間後。

 なんとか頂上のガラス工房に辿り着いた悠治の息は当然のように乱れていた。
 入り口前でしゃがみこみ、足と肺を休ませていると半分だけ扉が開かれる。
「いらっしゃい。待っていたよ」
 顔を覗かせた柏原を見上げて、悠治は忘れかけていた手荷物を差し出した。柏原はそれを受け取り室内に入れ、悠治に手を貸して中の椅子に座らせる。
 悠治が何も言えないまま体を落ち着かせていると、柏原が何処からともなく麦茶を持って来た。琥珀色がガラスに当たって綺麗な音が連なる。滑らかで涼しげなそれが収まると、目の前にグラスが差し出された。
「記憶がないんだって?」
 無言で受け取る悠治に、柏原は唐突な質問を投げ掛ける。
「この前チラッと聞いたよ。楠木くんに」
 そう付け加えて悠治の斜め向かいに座った彼は、小さなテーブルにグラスを置いて悠治の瞳を覗き見た。
「私は医者だが、そちらの方は専門外でね。詳しいことまでは分からないが…」
 相談くらいには乗れるだろう、そんな意味合いの籠った眼差しが、黒髪の下で笑みを浮かべる。悠治は天井に長く息を上げて、麦茶を少し飲んでから小さく頷き、そして呟いた。
「医者にガラス職人に…随分と忙しい人生だったんだろうな」
 ぼやいたようなそれを受け、柏原は一瞬の間を置いて大きく笑い始める。明るく穏やかなその声は、天窓に跳ね返されて室内に戻ってきた。
「現世の話か。実に懐かしい」
 悠治はここに来てからお決まりとなった不思議そうな顔つきでそれを眺めながら、落ち着いてきた息を宥めて麦茶を啜る。滲んだ汗に、染み渡る冷たさが心地よかった。
「難なら参考までに、ちょっと聞いていくかい?樫園くん」
 足を組み、手を組んで膝にかけ、首を傾けた柏原の表情が楽しげで、悠治は何となく頷いてみたくなる。それをそのまま行動に移すと、柏原も同じように頷いた。

 彼は見た目30代くらいの優男で、凄味も無ければ威厳も無さそうだが、背筋だけはしっかり伸びている…そんな生き生きとした柔らかさを持っているように見えた。
 対して悠治は背だけは高いものの、ひょろりとしていて頼りなく、背中も曲がっている。
 同じ黒髪を持ちながら、その性質までもが全く逆なようだ。柏原の髪は、楓のそれと良く似ているように思う。
 悠治はそんな観察をしながら、麦茶を振る舞う彼の話を待った。

 柏原は麦茶を一口飲んでから、最初の言葉を口にする。
「現世での私は栗平くんより先に生まれ、栗平くんより後に死んだ」
「栗平…?」
「楓くんのことだよ。栗平楓くん」
「ああ…」
 そう言えば聞いていなかった、と自覚して納得し、悠治は一つ頷いた。柏原はそれを待って話を繋げる。
「彼が若くして命を落としたせいもあるが、私が随分と永く生きてしまったせいもあるだろう。あちらに居た年月は、ざっと90年弱と言ったところか…」
「90年…」
「そうさ。若い頃は医者として生き、年老いてから趣味のガラスに手を出した…。確かに忙しくはあったが、君が想像するような苦痛なものではなかったよ。充実していた」
 悠治は、その年数の長さを想像しきれないのと同時に、柏原の言うことが俄に信じられなかった。全てではない。その中に誇張や偽りが含まれているのではないか、と言う疑いのような物だろうか。
「…腑に落ちない、と言った顔だな」
 柏原の指摘通り。複雑な感情を顔面に滲ませていた悠治は、笑いを溢す柏原を見て更に眉を歪めた。
「同じくらいの年齢なのに、随分反応が違うものだ」
「…なんの話だ?」
「君と栗平くんだよ」
 そう言うと、柏原はまたグラスを傾ける。数秒後に垂直に戻したそれを置いて、彼は続けた。
「彼は、私の話も気持ちも直ぐに理解してくれた。しかし君は私の言ったことを理解はすれど、同意は出来ん…そう言う顔になった」
 僅かに顔を覗き込まれ、視線だけを持ち上げた悠治は意外と鋭い柏原の瞳を捕らえる。彼は更に微笑を持って問い掛けた。
「同意出来ない理由を説明できるかい?」
「無理だ」
 悠治は直ぐに否定して、視線を窓に流す。
「今の俺には難しすぎる」
「そうか。そうかもしれんな」
 柏原は頷き、同じく窓を振り向くと、柔らかな声で語りかけた。
「記憶が戻れば簡単に説明できよう。逆に言えば、そこを突き詰めて行けば記憶に辿り着けるかもしれんと言うことだ」
 振り向いた二人は顔を合わせる。お互いに身動きせず、ただ瞳だけを向き合わせていた。
「君の根底を探ること。回りの私達に出来るのは、その手伝いだけ」
 柏原はそう言って、ゆっくりと立ち上がる。そして悠治に右手を伸ばした。
「後は君次第だよ。樫園くん」
 悠治はその手を取る。

 あの時郁に促されたように。









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