前日前夜






 
 壁際に組み上げられていくパイプオルガン。
 一週間かけて完成すると言う大掛かりな装飾…もとい豪華な楽器を前に、思わずポカンと口を開ける。
 そうして入室するなり固まってしまった蒼の隣、後から入ってきた倫祐もまた、同じようにオルガンを見上げて足を止めた。
 室内にはてきぱきと当日のレイアウトを当てる有理子と沙梨菜の姿がある。その奥の方では、オルガンそのものと技師と奏者を連れてきた張本人である沢也が、呆れたように口を開けて二人の様子を眺めていた。
 男三人が困惑気味の顔を見合わせるのに対し、意気揚々と指示を出す二人がぷりぷりと文句を垂れ流す。
「ちょっと沢也、参列役の職員さん達決まったの?決まったなら衣裳あわせの手配してよね、時間ないんだから」
「こっちの方もっとお花あった方が良くない?あと一時的にシャンデリアの飾りマシマシに出来ないかなぁ?ねえ、蒼ちゃん。これだとこの豪華なオルガンに釣り合わないよう」
「取り合えずカーテン閉めて、そこ開けてみましょう?ステンドグラスがあればそれなりに見えるかも」
「らじゃ!王座バックグラウンドカーテンスタンバイ、オープン☆」
 有理子の提案を受けた沙梨菜が、蒼の隣でくるくる回転し、ぴしりと綺麗なポーズを決めた。因みに蒼の立ち位置は、先程から一ミリも変わっていない。つまりは王座の反対側、大扉の前である。
 当然、王座の後ろにかけられた長い長いカーテンは、少しの揺れも見せることはなく。オルガンを弄っていた技師までもが、訪れた静寂を手伝って手を止める始末だ。
「…沢也ちゃーん!開いて開いて?」
 困った沙梨菜が赤面ながらに、小声の皮を被った大声を出す。対して名指しされた彼は盛大に舌を打ち、いつもの調子で捲し立てた。
「うるせえ。なんで俺がそんなクソコントに付き合わねばならんのだ!こっちは通常業務も平行なんだよ、ってか有理子!お前も既に決まったもんこねくりまわしてねえで、財務課の方手伝ってやれ!」
「だって!あんまりにもお金かけなさ過ぎじゃない?パイプオルガンだって、こっちが提案しなきゃ間に合わないとこだったのよ?それに合わせてレイアウト変えるくらい普通よ!」
「そうだよう!王様の結婚式だよ?素敵に綺麗に清楚にうっとりするような演出は必要だよ?きらきらーって、ふわふわーって☆」
 三人の早口が終わるよりも前に、蒼と倫祐がそれぞれに移動する。その動きが収まるか収まらないかと言うところに、沢也の大きな溜め息が落ちた。
「式だなんだっつっても、宗教に基づいてやってたもんが、今やあるのは名残だけ。牧師も司祭も、その手の知識があるただの人。普段は学者や教師、魔術師として働いてるのが殆ど。つまり根本からしてかなり適当なもんなんだ。変な拘り持ってかかる方がおかしいだろ。適当にしとけよ」
「夢もへったくれもない事言わないの。なにがどうあれ、式をやることに意味があるんだから」
「そうだよぅ。結婚式は世の女の子達の憧れだよ?その見本とも言えるのが蒼ちゃんと乙葉ちゃんの式なんだから、適当なんて絶対ダメなの!」
 呆れ返る沢也と。制止して腕を組む有理子と。終始腕を振り乱す沙梨菜と。噛み合わない一対二の構図は唐突に崩された。
「しまった。そろそろ来客の時間だわ。ちょっと準備してくるわね、沙梨菜?あと宜しく」
「へ?えと、うん?具体的には何を…」
「取り合えず衣裳あわせの手配をあれしてあれな感じで、あとは沢也に任せた」
 丸投げも丸投げで退出した有理子は、溜め息と共に厨房に向かう。
 何だかんだ文句は言えど、必要なことであれば手を回してくれるのが沢也と言う男である。認めるのは少々癪だが、後の指示はあいつに任せておけば間違いない筈だ。沙梨菜にとってもその方がいいだろう。

 そう考えがてら短い距離を歩き、厨房の扉を開けた。中からは甘い香りが漂ってくる。
 海羽がお願いしていた茶菓子を用意してくれているのだ…と嗅覚だけで判断し、彼女は奥へと向かっていった。
 しかし有理子の目に飛び込んできたのは、シュー皮にクリームを詰める海羽の姿。瞬間的に、記憶を無くしていた時の彼女の姿とダブって見える。
 有理子に気付いた海羽は、固まる彼女に笑顔を注いだ。その柔らかさを見て、有理子は安心の息を吐く。
 横にカットされたシュー生地の半分にカスタードを詰め込んで、その中心に苺を丸々乗せていく…海羽はその作業を眺める有理子に苺を提示して、ふにゃりと肩を竦めて見せた。
「八百屋さんで買ってきたんだ」
 嬉しそうな横顔が眩しい。シュークリーム地獄の時とは大違いだと、有理子は思う。
「今、あの、郵便課の…畑担当の人が、八百屋さん手伝ってるだろ?」
「そうみたいね。警備も兼ねて」
「うん。でもほんと、忍者の里で取れた野菜、卸す約束したり、野菜の専門的なお話ししたりしててな、なんか、凄く楽しそうだった」
 何処と無く安心したような。それでいて申し訳なさそうに微笑みながら、海羽は苺にシューの蓋をかぶせていった。
 有理子は隣の台に注文の品がきちんと用意されているのを見付けて、そちらを指差し感謝を示す。海羽は頷いて作業を中断し、ヤカンが置かれたコンロに火を着けた。
「倫祐のことにも直ぐ気付かれちゃった」
 八百屋の話の続きだと、有理子は首肯する。つまり倫祐と一緒に行って、郵便課の人…要は倫祐の仲間を交えて話をしてきたのだろう。その余り長くはない筈の時間だけで、八百屋の青年は海羽の気持ちに気付いた、と言うことだ。
「僕、そんなに分かりやすいかな?」
「そうね。どちらかと言えば」
 正直に回答すると、海羽の顔が赤くなる。困った表情のままシューの蓋をする作業に戻りつつ、彼女は呟いた。
「色々ね、迷惑かけちゃったから。謝ろうとしたんだけど。断られちゃった」
 ゆっくりとした手の動きに、ゆっくりとした言葉が重なって、海羽の寂しげな微笑を呼び寄せる。
「その代わり、これからもご贔屓にって、言われてな」
 全てのシュークリームに蓋がかぶせられた。有理子は行儀よく並んだそれらから、俯く海羽に目線を合わせる。
「これで、本当にいいのかな?八百屋さんの優しさに甘えちゃって…」
「いいのよ」
 迷いの声を遮って、有理子はしっかりと頷いて見せた。
「相手がそう言うのなら、それでいいんじゃないかしら。それに、わたしね、今になって思う事があるの」
 戸惑う海羽に前おいて、彼女は続ける。
「あの時…わたしが、義希を待つって決めた時。蒼くんの言葉に、此処に居てくださいって、その言葉にね?もしも、背いていたら…きっとずっと、後悔しただろうなって」
 紅茶の茶葉を選びながら、お高いティーポットを取り出しながら、語る有理子の仕草を海羽の瞳が追い掛けた。
「今、好意に甘えておかないと、会いに行くのも難しくなる。そうでしょう?」
 振り向いた笑顔に考えながら頷くと、あちらも小さく首肯する。
「会えなくなったら、彼が何を考えているのか分からなくなる。想像する事しか出来なくなる」
 その通りだ、と。海羽は思った。有理子は茶葉をティーポットに移しながら言葉を繋げる。
「例えばそれが優しい嘘でも、彼から直接聞いた言葉に変わりはないわ。それはわたしが想像で描いた勝手な彼の気持ちより、ずっと彼に近いと思う」
 有理子の話を飲み込んで、しっかり納得した海羽が笑顔で頷いた。
 彼女は粉砂糖の雪をシュークリームに降らせて、ヤカンから二つの保温ポットにお湯を移す。
 有理子が取り皿やシルバー、おしぼりなどを用意する間に、片付けを終えた海羽が小さく呟いた。
「ありがとう、有理子」
 有理子は笑顔で頷いて、扉を指し示す。準備はもう大丈夫だから、先に行っててね、と言う合図だ。
 海羽はそれに従って、山盛りのシュークリームとティーセットを手に部屋を出る。閉まりかけた扉の向こうから、微かに話声が聞こえた後、意地悪そうな顔が覗いた。
「よお」
 現れた沢也はポットを手にコンロに近付く。お湯がなくなったから補充に来たのだ。
 有理子はそれを理解しつつ、彼の微笑を真似てみる。
「あら、聞いてたの?相変わらず趣味悪いですこと」
「そりゃどうも」
 当然のように軽く流され舌を打つ彼女を他所に、沢也はヤカンに水を足した。
 独特な音と共に火が点る。
「で?聞かないのか?」
「…何を?」
「お前が今疑問に思ってること」
 暇になるなり振り向いて、先と同じ笑みを浮かべる彼を前に、有理子はばつが悪くなって目を逸らした。
 沢也はその反応を予測していたかのように、彼女に歩み寄りポットを預ける。
「優しい嘘でも?」
「彼の言葉に変わりはない。分かった、ちゃんと聞いて納得したらいいのね?」
「勝手にこねくりまわして頭痛薬がぶ飲みするよりマシだろ?」
 不貞腐れた言葉を肯定し、後を丸投げした沢也はスタスタと厨房を出ていった。

 沢也が有理子と話す間に王座の間に戻った海羽は、長テーブルで資料を纏める倫祐の前に静かにシュークリームを置く。
 倫祐は彼女に目配せと、頷くような礼をして早速シュークリームを手に取った。
 紅茶の準備を終え、躊躇いがちに彼の向かいに座る海羽を遠目に眺めていた沙梨菜の隣。乙葉がふらりとやって来て、こそりと問い掛ける。
「すっかり元通り、ですか?」
 王座に一番近い場所で名簿を作っていた沙梨菜は、隣に座った乙葉に短く唸って見せた。
「元通りって言うか、もっと仲良くなった感じかな?」
 一番大扉側に居る例の二人に目立った会話はなく、更には向かいに座っているのだから、当然彼女達二人より距離がある。
 それでも沙梨菜は「もっと仲良く」と言ったのだ。乙葉が不思議そうに瞬くのも無理はない。
「あの二人はね、お互いこう、遠慮しがちだから。沙梨菜みたいにずいずいずっころばしに突進していかないの」
「ほんと、少しは見習って欲しいよな?」
 こそこそ話になりきらない話を、通りすがりの沢也が拾って溜め息を付く。そのまま歩き去る彼を遅れて認識した沙梨菜は、前のめりに声だけで追い掛けた。
「そ、それは沙梨菜が?それともみ…」
「お前がに決まってる」
 自分の席に座りがてらキレ気味に言い切って、沢也は沙梨菜の声をシャットアウトする。暫く続いたうにゃうにゃ抗議にピクリともしない彼を諦めて、沙梨菜はコホンと咳払い。
「そんな感じで、あれでもかなり急接近な二人なんだよ?今は事情あってペア行動だけど、普段はあんま一緒にいるの見たことないかな」
 乙葉に向き直り、何事も無かったように解説を続行した沙梨菜を見て、彼女からクスリと笑いが漏れる。
「だから、なんだか嬉しくて」
 沙梨菜は普段余り笑わない乙葉の表情と重ねて結論を言った。その柔らかな表情を前に、乙葉もまた笑みを強める。
「それなら、私も安心しました」
 言いながら立ち上がり、乙葉は彼女の顔を再度見詰めた。沙梨菜はひまわりのようにぱっと笑顔を輝かせて頷きを返す。
 そんな彼女に手を振って、乙葉は沢也の元に歩み寄った。主に書類を受け取るために。
 待ち受けていたのか、顔も上げずに分厚い紙の束を差し出してきた彼は、もう片方の手でメールを打ちながら別の書類を読んでいた。何とも器用な話である。
「恐らく明日呉服屋が来る。お前もついでに同席して衣裳の再確認しておいてくれ」
「参列役のみなさんの衣裳ですか?」
「ああ。色合い揃えたいんだと」
 うんざりと言った調子で答える沢也に、成る程と溜め息を返す。その時やっと、彼は彼女を振り向いた。
「分かりました。スケジュールを開けておきます」
「時間決まったら連絡する」
「はい。宜しくお願いします」
 乙葉はきちんと頭を下げて、自室へと引き返していく。途中海羽に呼び止められて、シュークリームと紅茶を持たされたが、困った様子もなく笑顔で答えていた。
 沢也は短く溜め息を付き、来客に備えているであろう蒼が居る応接室を見やる。乙葉と蒼が何処まで話し合って、何処まで有理子や沙梨菜に任せるつもりで居るのか、と言うかぶっちゃけこのままで良いのかと、短い間に疑問が駆け抜けた。
 しかしそんなことをグダグダ考えていられる程暇ではない。全てを脇に追いやって、沢也は仕事を再開する。

 以上が丁度式の一週間前の話。

 一方下町では生放送を見るためにテレビがバカ売れしたり。便乗して巨大モニターを設営する酒場やレストランが現れたり。
 お祭り騒ぎとはまた違った現象が、着々と起こりつつあった。
 義希と小太郎がその対策に追われる中、倫祐は隊のスケジュール調整を買って出たり、海羽と一緒にパトロールに出向いたり。
 城では数日前からリハーサルが重ねられ、段取りの確認がされていく。
 仕事の合間に行われるそれは、ああでもないこうでもないと試行錯誤が繰り返されて、二日前にやっと全てが固定された。
 他にも細かな事柄は、有理子や沙梨菜、それからメイドの皆さん等職員から問題提示され、その都度沢也が蒼と乙葉に確認を取る。因みに二人とも拒否したことは一度もなかったが、挟まれた沢也が半ば死にかけたとか何とか。


 そうして訪れた式前日。

 この日はリハーサルの前に一つの大仕事が待っていた。それも、余りよくない方の。
 普段殆ど王都を訪れない小山内が、この日に限って訪ねてくると言うのだ。
 表向きは挨拶と商談となっているが、実際は見物に来るだけだろう。
 誰を?
 勿論、翌日女王となる乙葉をだ。
 小山内は好色家として知られている。彼と縁を結んだ雛乃も、年や性格はどうあれ見た目に美しいと評判であった。その上部下に当たる人物の娘とあらば、これ以上の好条件はない。どれだけ酷い仕打ちをしようと、文句など言えるわけがないのだから。
 現に小山内の回りには美女が絶えないとの噂がある。乙葉を直接拝みに来るのも、何かしら考えがあっての事だろう。
 しかし沢也と蒼は、敢えて彼等を二人きりにする策を立てた。とは言え勿論、隣室に複数人が待機するのを前提とした、王座の間でだ。
 乙葉本人にも了承を得た上で、簡単な作戦が実行された。

 応接室での謁見を終えた蒼と小山内は、当然王座の間を通って廊下に出ることになる。その時王座の間には乙葉が一人。隣室に沢也と倫祐、海羽が待機した状態で、蒼に電話が。
「少し失礼。こちらでお待ち頂けますか?」
「構いませんが…そちらは?」
「彼女がそうですよ。…暫くお願いしますね」
「かしこまりました」
 手はず通り、セキュリティ付きの扉に入っていく蒼を見送って、乙葉は小山内と向かい合う。
 かなりの距離がある中で、あちらがツカツカと歩を進め、すぐ近くまでやって来た。
「はじめまして。乙葉と申します」
「…あなたが?」
 丁寧に下げた頭。後頭部に嘲笑が注がれる。
 無表情を持ち上げると、小山内の口端があからさまに持ち上げられた。
「うちの嫁を出し抜いたと言うからどんな娘かと楽しみにしていたんですけどね」
 いきなり何の話だろうか。ああ、他にも陛下にフラれた貴族が沢山居るのだった。
 乙葉は一瞬そんなことを考えながら、小山内の表情を観察する。
 火傷だろうか?顔の半分が爛れ、右目には眼帯がかけられていた。髪は整っているとは言えず、しかし服だけは立派である。
「おっと、失礼。何もあなたがパッとしないと言っているのではありませんよ?ただ、うちの嫁と比べてしまうと…」
 反応が無いのを良いことに、小山内は勝手に同情を始めた。貶された事がショックで仕方がないとでも思われているのだろうか。
 乙葉は注意深く、相手の仕草や反応を追い掛けた。
 彼はクックッと笑いながら、次第に乙葉の顔へと焦点を定める。その瞳はやけにキラキラと輝いて見えた。
 右手が伸びてくる。その甲から指先までもが爛れていた。
「陛下は何も話していないのですね。可哀想に…」
 そう囁いて、小山内は乙葉の頬に指を這わせる。
「行くところがなくなったらうちに来るといい。雑用くらいなら使ってあげられるでしょうから」
 最後まで憐れんで、見下して、さっと手を引いた。そこに蒼が入ってきて、いつもの笑顔を見せる。
「お待たせしました。参りましょうか?」
 促すと、小山内は反発もなく従った。彼を携え、蒼は大扉に向かい行く。扉を支え、先に小山内を通した。横目に振り向くと、乙葉が口の中で言葉を紡ぐのが見える。
「変わりませんね…あの方は」
 唇の動きだけでそれを読み解いて、蒼は静かに扉を閉めた。

 最後のリハーサルも無事済んで、夕食もとうに終えた王座の間。

 みんな自室に引っ込んで、居残るのはいつもの二人だけ。
 飽きもせずに書類の山を崩しゆく沢也の元、ふらりとやって来た蒼がにこりと問い掛ける。
「彼は本当に覚えていないんですか?」
 何処か威圧と不安を含んだその声色に、沢也の瞳が細まった。
「それは結に聞いてんのか?」
「そう受け取って頂いて構いませんよ」
 小さく肩を竦めた蒼は、体ごとランプに向き直る沢也の旋毛を見据える。対して沢也はひらりと舞い上がった結が、ランプの笠に座って身を乗り出す様を見据えていた。
「余り良い答えとは言えないかもしれないけどね」
 思うところがあったのだろうが、今まで黙っていたところを見るに確信には至れなかったのだろう。
 言いにくそうに、彼は呟く。
「嬉しそうだったよ。凄く…」
 ピクリと、沢也の眉が動いた。振り向いた彼を待ち構えていた蒼は、その表情だけで大体を察する。
 沢也が結の言葉をきちんと通訳すると、蒼は小さく「やっぱり」と呟いた。
「わざわざこの日を選んで来る辺り、嫌な予感はしていたのですが」
 微塵も態度に出さなかったが、小山内は乙葉を覚えていたのだろう。いや、思い出した?それとも直観で理解した、はたまた予め調べてあって、確かめにきただけだったのか。
 細かいことまでは分かりようもないが、とにもかくにも小山内が乙葉を「認識した」のは間違い無さそうだ。
 沢也は蒼にしては珍しい種類の微笑を横目に、自らも難しい顔をする。
「急いで正解だったな」
「はい」
「あの村が関わった下請け、全部潰したんだったな?」
「はい。幸い監査を通過した会社は一つとしてありませんでした」
 法外な利子、暴力的な取り立て、書類の改竄…上げればきりがないくらい、悪いことをしている金貸しが殆どだった。そんなのがまだまだのさばっているのだ。小山内の下、保護されて。
「上に名簿は?」
「残っていたとしても、足取りを追うのは不可能です。名前があった5人は、全員こちらで保護していますから」
 今回潰したのは下請け中の下請けだ。小山内が直接治める中堅以上の会社に捕まらなかったのは、村人達の用心の賜物だろう。
 監査も、今回ばかりは下請けの小さな会社だけで済ませた。余り大々的に動くと、小山内もまた、動く事になると踏んだから。
 しかしこうなってはそれも無意味なのかもしれない。だからと言って今動くのは少々酷だ。暫くはあちらの動向を窺いながら、小山内の管轄を少しずつ潰して回る他ないだろう。
「あとはあっちが何処まで執念出してくるか…だな」
 沢也が呟く。一番の懸念は村人達の移住先が小山内に見付かることだ。
 蒼も小さく同意して、微かに苦笑する。
「花形さんが警備役を引き受けて下さって助かりましたよ」
「おかげで花形に同行した弟子のダチは、郵便課の課長押し付けられててんやわんやみてえだけどな」
 毒を使う花形に勝手に弟子入りしたのは、過去海羽との戦闘時に毒を使用した伝だ。つまりは現在、雅紀や大吾が郵便課長代理。花形と伝は今、乙葉の後任として例の村に滞在している。
 長い溜め息の後、沢也は上に大きく伸びて憂鬱や不穏を払い落とした。そうしていつものように、不器用に笑う。
「ま、今やるべきはとにかく式を成功させること」
「ですね。では早めに休むとしますか」
 促されて肩を竦めた蒼は、自室に向けて歩き始めた。その背中を見送る沢也が、悪戯でもするかのように忠告する。
「寝癖対策、きちんとしとけよ?」
 微かに振り向いて、微笑を強め。蒼は静かにその場から退散した。







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