偽りの愛







 しっとりとした雨が降っていた。
 朝からずっと、窓の外は霧がかかったよう。
 おかげで式当日である筈なのに、街も、城内も、酷く静かだ。
 この天候では、貴族達も無理に王都にやって来るような事はないだろうと、城の上層部は逆に安心したくらいである。
 しかしこのめでたい日に、朝から薄暗くてはどうだろうかと女性陣は不服そうにしていたけれど、私は男性陣と同じく安堵していた。

 空が祝福してくれなくても構わない。
 空どころか、誰も祝福してくれなくとも構わないと。
 私は一人、そんなことを考えている。

 どうして?

 何故だろう。
 こうなった経緯に…いや、そもそもの生い立ちに原因があるのかもしれない。

 有理子ちゃんや海羽ちゃんに着せてもらったウエディングドレスは、正装と違って動き難い。それでも正装を選べなかったのは、みんながみんな、このドレスを推したからだ。
 それに、絹さんと旦那さん。それから彼等の知り合いの呉服関係のみなさんが、協力して一週間で拵えてくれたとなれば、着ないわけにもいかない。何より本当に美しかったから。
 だけど本当に良かったのだろうか。なんだか勿体ない気がして敵わない。
 真っ白な服を汚さぬよう、自分で出来る簡単な支度を進めながら、私は過去を振り返る。
 この白を着るのが後ろめたい理由を知るために。
 さて何処まで遡ろうか。やはり、一番生活に変化があったあの頃だろうか。



 国に名前が無くなった時の事は良く覚えている。
 三歳になった年の秋口。
 それは唐突に訪れて、私達家族から全ての物を奪っていった。
 王が消え、王都が消え。国が崩壊し、経済が破綻した影響だろう。
 貴族間で「間引き」が行われたのだ。
 子供だったせいもあり、詳しい手法までは分からない。ただ、日に日に生活が苦しくなって、5歳になった頃にはとうとう、両親共々着の身のまま放り出された。
 家も、財産も、全ては父の友人に奪われる。騙されたのだ。この不安定な世界で。「守ってあげる」と言う、甘く優しい言葉に飲み込まれて。
 リリスやクリフに流れ着いても、みんな冷た目で眺めるだけで、助けてはくれない。みんな不安なのだと、父が仕切りに呟いたのを覚えている。
 通信機器も使えず、国全体が混乱状態にある中、森で拾った果物を糧に移動を繰り返した。
 そうして最後には小さな村に拾われる。
 私達は暫くそこで平和に暮らすことができた。
 村人達は誰もが、元々の身分の違いなど気にすることもなく接してくれる。仕事や役割だけでなく、住む家や食べ物、優しさまでもを分け与えてくれた。
 温かな暮らし。私達は心から感謝して、懸命に働く事で恩を返してゆく。
 しかし、やはり逃げ切ることは出来なかった。見付かってしまったのだ。

 小山内に。全ての元凶に。

 私達が見付かった事で、匿ってくれていた村が制裁を受ける事になる。
 優しい村人達は、私達のことをなんとか助けようとしてくれたが、小山内の厳しい追求から逃れられず、私達を殺害するよう命じられた。
 これを断れば見せしめが出る。
 小山内の性格を嫌と言うほど思い知らされていた両親の決断は早かった。
 私自身、何が起きるかは察していたし、元より抵抗する気もなく両親に従うことになる。
 母は頻りに謝った。
 父は最後まで凛として、家族と運命に向き合った。

 村の外れに、解体予定の小屋がある。長いこと納屋として使っていたのだけれど、壁が朽ちてきて危ないからと、立ち入らないよう言われていた。
 しかしつい先日、同年代の女の子がかくれんぼの際侵入し、崩れてきた棚の下敷きになると言う事件が起きた。
 とても明るく、活発だった彼女。もう遊ぶことも、会うことも出来なくなったのだと知ってとても悲しかった。
 私達もそれと同じ。危ないから入ってはいけない場所に入って、彼女と同じ場所に行くのだ。
 幼い私は端的に、そう解釈していた。
 村人達もそれに気付いて後を追ってくる。殺せと命じられているのだから、武器を持たなきゃいけないと、父が不思議な説得をしていた。
 父は更に話を進める。
「このままでは村が危ない」
「しかしあなた方を殺すなど、そんなこと出来るわけもない」
「形だけでいい。やろうとしたと言う、意思だけでも見せなければ」
「それだけでいいのかい?それであの貴族は納得するんだね?」
「いいえ。彼は私達家族の死体を見るまで、何度でも催促しに来るでしょう。そしてその度に、惨劇が繰り返される。村人の誰かが、私達の代わりに死ぬことになるのです」
 父の言葉に、集まった村人達の半数が呆然とし、半数が愕然とした。
「一体…どうしたら…」
「武器を持ってください」
「しかし…」
「心配ない。あなた方の手を汚すつもりはありません」
 父は笑顔でそう言って、村人達一人一人に武器を持たせる。そして同時に謝罪した。私と母も、父の後ろで頭を下げる。
 最後の一人までそれを終えると、村人達全員が、武器を手に小屋を取り囲む形になった。父はそれを安心したように眺め回す。
「みなさん。本当に、ありがとうございました」
 心からの感謝だった。母も、私も、同じ気持ちだった。
 それくらい、村での生活は安らぎをくれた。忘れていた温かさをくれた。幸せを教えてくれた。
 それだけで充分だった。
 それなのに、恩を仇で返す形になってしまったことが悔やまれた。
「そして申し訳ないが。あとのことを、よろしくお願い致します」
 父は再度頭を下げて、笑顔で私達を振り返る。彼は娘と妻の肩に手をのせて、共に小屋の中に入った。
 外は戸惑いとざわめきに満ちていたけれど、小屋の中は静かだった。父は私達を強く抱き締める。
「ごめんな」
 呟きが落ちた。母が首を振る。
「本当に、ごめんな…」
 背中側で音がした。マッチを擦る、あの音だ。
 赤い光がぼんやりと、薄闇の中で揺れ動く。
 父は近場の藁にマッチを放った。あっと言う間に辺りが明るくなる。赤が増えるにつれ熱くなった。
 煙が凄い。目も開けていられない。空気を吸い込むと熱くて、酷く苦しい。
 三人は身を寄せ合って苦痛に耐えた。何時しか意識が朧気になる。
 パチパチと、木が弾ける音が耳に付いた。父の呼吸も、母の鼓動も、どんどん弱まっていくのが分かる。
 意識など殆どないのにおかしな話だ。だけど不思議と認識できた。

 全てが消えていくのだと。

 火を付けてから、どれくらい時間が経ったのだろう。
 建物全体を、赤が飲み込みつつあった。冬で、乾燥していたせいか火の回りは早く、そのことからしてもそう長い時間は経過していなかったのだろう。
 小さな小屋の、入り口が開いた。
 空気の流れが変わる。
 私達のすぐ側に、誰かが腰を下ろした。霞む視界。私の隣に冷たい物が置かれた。
 母がそれを驚いたように見据える。瞳には涙が浮かんでいた。
 口元が動く。聞き取れない。
 私の体が宙に浮いた。ガタガタと体が揺すられる。
 母が、父が、離れていくのが分かった。怖くて怖くて、手を伸ばす。
 視界が揺れた。
 不意に呼吸が楽になって、今度こそ完全に意識が途絶える。

 次に目覚めたのは見知らぬベットの上だった。
 どれくらい眠っていたのかは分からない。だけど次第に状況だけは理解した。
 私は助かったのだと言うこと。
 両親が亡くなったこと。
 私を助けてくれたのが亡くなった友人の母親だと言うこと。
 私の身代わりになったのが、亡くなった友人だと言うこと。
 私が今、その友人の代わりとして生きていること。
 友人の母親が、私のことを友人として育てようと決めたのだ。あのとき咄嗟に、そう考えたのだ。
 それが良いことなのか、悪いことなのかなんて、とても判断がつかない。だけど結果的に、私は助かった。
 だから私は、今も友人の名を借りて生きている。

 その後、噂を聞き付けた孝さんが亮さんを派遣、私のことを保護して下さった。村人達との話し合いの結果、暫くは孝さんのところにいた方が良いと判断されたのだ。
 私はみなさんに礼を言い、村を出て、孝さんの元で色々な事を学ぶことになる。
 孝さんの家には沢山の書物があるから、知識の吸収に不足したことはなかった。端から端まで読めるほどの技量はなかったけれど、疑問を解消するには事欠かない、そんな勉強環境だ。
 私は自分に必要なことを選択し、集中的に学んでいく。
 生きていく上で必要なこと、あの村に必要なこと、この世界のこと。
 そうしてできる限りの技術と知識を身に付けた私は、自立できるようなるや否や、村へ戻って恩を返す事になる。
 10歳頃のことだ。孝さんには勿論心配され、恐らくは裏から手を回してくれていたのだろうと理解もしていたけれど、それでも、私はあの村に住むことを望んだのだ。
 それから更に数年後。20歳の時だ。
 村人によって新規開拓された村に移住、更に数年を経て、先の自然破壊事件のお陰で現在に至る。

 こう、客観的に見るだけでもよくわかる。
 私は祝福されるほど、立派な人間ではない。
 こうして此処にいるのは自らの意思…どちらかと言えば我が儘のようなものだ。
 それに…

 考え事が小さなノックに遮られた。
 返答の後、開いた扉から孝さんが入ってくる。
 彼は窓際に立つ私を細めた目で見詰めた。雨空とは言え、逆光が眩しかったのだろう。
 他愛のない挨拶を終え、私は彼に椅子を勧めた。ありがとう、と前置いて、彼が椅子に腰かける。そうして短く問いかけた。
「如何でしたか」
 言葉に不足を感じ、私は首を傾ける。
「実際に、彼に会って」
 孝さんは穏やかな調子で続けた。私はそれでも、どう答えるべきかを計りかねて曖昧な笑顔を作る。
「分かりません」
「まだきちんと話をしていませんね?」
「仰る通りです」
「怖いのですか?」
「そうかもしれません」
「あなたは先入観が強いですからね」
 そう言って、孝さんは楽しそうに笑った。若者を見る老人と言うのは、どうしても相手を子供扱いしてしまうものらしい。尤もそれはその通りであるし、悪意がない場合が殆どだ。
 最初こそ不満に思っていた私も、歳上の人達の中で暮らすうちに自ずと理解する。教える立場に立ったことで、尚更共感した程だ。
 だから、彼が私をおちょくった訳ではなく、単に事実と忠告を伝えたかっただけだと認識し、今一度記憶を呼び起こす。
 確かに私は彼を色眼鏡で見ているのだろうし、今の今まで逃げていたのだろう。
 彼が私の苦手な王様なのは、揺らぎない事実なのだから。
「どうしても歩み寄れそうにありませんか?」
 孝さんは重ねて問いかけた。私は、正直な気持ちを、心の底から探し当てる。
 ふっと笑った私を、孝さんは変わらぬ微笑で見詰めていた。
「初めてあの方を見たとき、安堵した自分が居ました」
 一番最初。見合いと言う名の面接で、ローテーブルを挟んで向かい合った時の事を思い出す。
「彼は、青いですから」
 綺麗な青い空間に、涼しげな青が穏やかに座っていた。
 絵本で見た、深紅の絨毯に、黄金や宝石を散りばめた眩しい部屋も、髭を蓄えた偉そうな人物も、存在しなかったのだ。
 孝さんは私の複雑な感情を一瞬で読み解いて、満足げに、何度も首肯する。
「焦らず、ゆっくり向かい合うと良い。あなた方はまだ若い。時間はたっぷりあるのですから」
 私は彼の言葉をきちんと受け止めて、頷く事で理解を示した。目の前の彼は安心したように息を吐く。
 その仕草ですら、酷く危うく見えてしまった。彼がどれだけ生きてきたのか、改めて認識してしまう。
「孝さん」
 今言わないで何時言うのだろうか。そう自分を急かして頭を下げた。
「ありがとうございます」
「私は何も出来なかった」
「私を此処まで導いて下さいました」
 静かに首を振り、制する彼に。
 私もまた、首を振って答える。
「我が儘を聞いて下さって、ありがとうございます」
 そうして再度頭を下げると、孝さんは困ったように笑った。
「最初から分かっていたのですね?」
「薄々は、勘づいていました」
 村のこと。村人達のこと。小山内のこと。そのややこしさ。自分の立場。
 全てを理解している訳ではない。だけど、まだ繋がっているのではないかと、嫌でも想像することが出来た。
「だからこそ、断られるだろうと…駄目で元々と考えて、お願いに上がったのですが…」
「それでも、口に出したのは貴女ですよ」
 受け入れられた事に戸惑ったのは事実だ。これから何が起きて、どれだけの人に迷惑がかかることになるか、想像して悩んだ日々も記憶に新しい。
「分かっています。後悔など、する筈もありません。ただ…」
「これくらいの事、苦労と呼ぶ方がおこがましい。礼や謝罪は不要です。それよりも」
 孝さんは私の気持ちを先読みして、言葉を封じた。そして何も言えなくなった私の前に、ゆっくりと歩み寄る。
 彼が正面に立った。また瞳が細くなる。
「ああ、立派になりましたね。お母様にそっくりです」
 懐かしそうに、満足そうに。二度、頷いた孝さんはそっと手を差し伸べた。
「私にとっては、貴女のその成長が一番の喜びですよ」
 そう言って、彼は私の手を引き扉の前まで引率してくれる。
 気がつけばもう時間が迫っていた。

 準備に不足はない。
 扉の前で深呼吸。

 静かに戸を開き、自室を出る。
 室内に向けて礼をして、ゆっくり振り返ると、廊下には鮮やかな群青色が立っていた。
 声が出ない。
 まるで絨毯がそのまま人の形に浮き上がったみたいに。擬態しているようでいて、しかし不思議と存在感がある。
 不意に青が振り向いた。
 青空のような眼差しが瞼に隠れる。
 彼はしっかりとこちらに向き直り、右手を前に掲げた。自然と持ち上がったマントがカーテンのように、彼の右側に垂れ下がる。
「参りましょうか」
 幼い声が合図した。
 彼の仕草に従って歩を進める。マントに包まれるようにして、彼の目の前で足を止めた。
 返事の代わりに彼を見上げる。
 間近で受けた眼差しが、想像以上に優しく感じた。
 まだ、声は出そうにもない。
 彼もまた、それ以上は話さなかった。

 本番はそれから5分もしないうちに開始となる。
 二人は王座の間で別れ、それぞれ別々にスタンバイした。



 蒼が立つのは大扉の前。
 静まり返った廊下の途中だ。

 時間が訪れると同時、オルガンが静かな音楽を響かせる。
 開始の合図がそれに続いた。
 蒼は背後でそれを行った沢也に頷いて、静かに大扉を開く。彼の後に続くのは、仁平と沢也が操る大型のカメラだ。
 教会に見立てたセットの中央を、群青色の絨毯が走る。
 外は雨。更にカーテンが閉められているせいで、室内はかなり暗い。ステンドグラスが取り入れる光の水溜まりがゆらゆらと揺れていた。
 部屋の四方にもカメラがあり、それをカモフラージュするように絨毯と同色のカーテンが下げられている。
 観覧席には身内を初めとして、見映えする程度のエキストラを職員から選出した。
 彼等は一様に起立して、ステンドグラスの色を眺めている。
 蒼は殊更ゆっくりと、絨毯の上を進んだ。いつの間にか魔法でもかけられたのかと、自分を疑いたくなる程の速度である。
 一歩ずつ。今までの人生を確かめるように。
 背が引き摺るマントが立てる微かな音が、オルガン奏者の独特な動きと同じくらい気になった。自分が緊張しているのか、そうでないのか、判断できなくなってくる。
 正面にはステンドグラスを背負う王座が一つ。その前に辿り着くと、両側の窓にかけられたカーテンが開く手筈になっていた。
 オルガンが奏でる曲も終わりに近付いて、彼の足が王座の手前の、一番初めとなる段差を踏みしめる。
 心なしか、辺りが明るくなった。
 両足で一段目をきちんと踏んで、また一歩。中間の段に立つと、また少し。
 思わず横目に確認してみたが、カーテンは開いていない。誰かが明かりを焚いたのだろうか?
 そう思いながら、王座の前に足を踏み出した。
 カーテンが開くより前に、あからさまに光が溢れ出す。目の前のステンドグラスが輝きを増していた。
 寒色系の光に照らされながら、王座と対面する。その時やっと、カーテンが開いて外の景色が映し出された。
 窓の外は光に満ちて、雨に濡れた大地を目映いまでに照らし出している。
 いつの間に雨が上がったのだろう。
 静寂を保っていた筈の室内に、控え目な声が行き来した。
 オルガンの余韻と共にざわめきが収まり、ただ光だけが頻りに揺らぐ。
 蒼は静まり返る世界の中で、右腕を払った。遅れて付いてきたマントがゆっくりと重力に従う。
 蒼の動きに従うように、王座が右へ移動した。彼は更に左手を持ち上げて、人差し指を回す。その先に突如としてもう1つ、立派な王座が現れた。
 対となる王座がステンドグラスの光を背負う。
 蒼は透明バリアの中に居るであろう海羽に小さく頭を下げてから、ゆっくりと振り向いた。
 固唾を飲む観衆と、カメラのレンズが良く見える。
 もう一度、払うように右手を広げた。先より派手にマントが翻る。
 その動きが落ち着かないうちに、足元が輝き始めた。
 蒼が立つ位置から数歩ずれた先、丁度右肘の真下辺りに魔法陣が現れる。それはくるくると回転して光を増殖させた。
 数秒間続いた演出が弾け飛ぶ。
 その場に居合わせた人々も、カメラの向こうに居る人々も、揃って目を眩ませた。
 弾けた光は次第に弱まりながら、雪のように天から舞い落ちる。その全てが桜の花弁を模している事に、一体どれだけの人が気付けただろう。
 観衆も、民衆も、蒼の腕が支えるマントの内側に現れた人物を注視していた。どちらかと言えば見惚れると言った行為に近いだろうか。
 長い髪を綺麗に纏め、純白のドレスに身を包む乙葉の顔はヴェールに隠れているものの、その佇まいだけで十分美しい。
 魔法の光で華やかに彩られた室内が落ち着きを取り戻したところに、司祭が訪れる。
 彼が部屋の端から移動して、並ぶ王座の中央に立つまでの間に、二人もカメラに背を向けた。
 オルガンが再び音楽を奏でる。ゆったりと、落ち着いた音色に合わせて司祭が神の言葉を読んだ。
 聞きなれない、マイナーな言葉が唄のように流れていく。異様に心地よく、こんな状況でさえなければ眠気を誘うに違いない。
 二人も、観衆も、黙って全てを聞き終えた。オルガンも〆の音を靡かせる。
 司祭は歩み寄ってきたシスターから指輪の乗った台座を受け取り、二人の前に差し出した。
 これから二人は順番に、相手の薬指にリングを装着する。

 それだけで、二人は誓ったことになる。
 この先何があろうと、愛し合い、支え合って行くことを。




 台座から大きい方のリングを取った。自分の右手につままれたそれをまじまじと眺める。
 男の人の指輪にしては少々華奢に見えた。
 隣で動く気配がする。つられるように体を回転させた。
 向かい合ったのが、ヴェール越しでも分かる。相手の髪と瞳の色がやけに目についたのだ。
 同じような色合いの中、コントラストの違う部分だからだろうと頭の中で納得して、差し出された掌に左手を添える。
 自分の左手が彼の右手に支えられ、リングを填められる様をレースの合間から覗き見た。
 感覚の全てが視力と左手の薬指に集中してしまい、他の事は良く分からない。
 所作を終えると、彼の掌は静かに離れていく。

 今度は私の番だ。

 申し訳ないが、国民には嘘をつく事になる。
 目の前の彼もまた、それと同じ。

 おかしな話だ。
 これは何の儀式だっただろうか?

 仕方がないから愛の代わりに誓うしかない。
 平和を願い続けることを。
 住み良い国を作っていくことを。

 リングを左手に持ち直し、右手を差し出すと、彼の左手が伸びてきた。
 そっと触れてみる。意外に大きい。しかしやはり華奢だと思う。
 薬指に指輪を通す間中、所々に出来た小さな傷やマメが気になった。しかし引っ掛かることはなく、すんなり着地する。
 プラチナのシンプルな、何の飾り気もない結婚指輪が二人の指に無事収まった。
 場の空気が変わるのが分かる。誰も何も言葉を発していない筈なのに、祝福されているのが直に伝わってきた。
 自分が今、大変な変化のうちにあるのだと自覚した時には、目の前に彼の両手が伸びてくる。静かに、ゆっくりと、ヴェールが持ち上げられた。
 咄嗟に閉じた目を、感覚に任せて開く。先程まで朧気だった視界がクリアになっていて、余計に立場を実感させられた。
 彼はそんなこともお構いなしに、司祭からティアラを受け取り、こちらに直る。
 目が合った。
 数秒間、そのままだったと思う。
 私の瞬きを合図に、彼の動きが再開した。ティアラを酷くゆっくりと回転させる。
 その仕草を、落ち着いた気持ちで眺めながら、少し複雑な気分になった。
 ティアラが頭上に昇っていく。少し頭を下げると完全に見えなくなった。代わりに、僅かな重みとなって存在を主張する。
 顔を上げると、彼の瞳に自分の姿が映った。
 皇女として即位した証をしっかりと目に焼き付ける。

 自分の立場を忘れてしまわないように。



 蒼は、睨み付けるような眼差しを正面から受けながら、いつものように手を差し伸べた。
 乙葉は、笑顔を作ってそれを受け入れる。
 二人は司祭に頭を下げて、ゆっくりと観衆に向き直った。
 二人の背後から人影が消える。残された二つの王座に、それぞれが腰掛けた。
 オルガンの演奏が始まる。
 音楽に促されるように観衆が列を作った。扉に近い人から順に退出して行く。
 カメラもその様子を撮しながら、同じように部屋を出た。大扉が閉まったところで映像が終わる。
 静まり返る王座の間。
 オルガン奏者や司祭達も、外の有理子に招かれて部屋を出ていった。
 王座に座る二人だけが、広い部屋に残される。

 沈黙が続いた。
 撮影を終えた確認が取れたのだろう。廊下が俄に騒がしくなる。
 それでも、広過ぎる室内に言葉は落ちない。二人が会話を始めるよりも前に、大扉が開かれた。
 廊下から顔を出し、有理子と沢也が手招きする。蒼は乙葉に目配せだけして席を立った。
 ドレスの裾は長い。一人で歩くのは当然困難だ。



 手を伸ばすと、彼女の指先がそっと乗せられる。少しだけ手に力を入れて、彼女を立たせた。
 ふわりと立ち上がった彼女が、自分のすぐそばまで来る。何てことはない。立ち位置的に、自然とそうなっただけだ。
 彼女は僕を支えに歩く。そうする他ないから。
 僕らは並んで歩みを進めた。

 まずはあの扉に向けて。

 本来ならば、何か言うべきなのだろう。
 しかし何を言うべきか分からなかった。
 正確には適切な言葉が見つからなかった。どれもこれも、僕が面と向かって言えるような言葉では無かったのだ。
 彼女はきっと必要としない。寧ろ無い方が楽だろう。無駄な労力を使わなくて済むのだから。

 彼女はどう転んでも僕の側に居てくれる。この国が無くならないよう手を貸してくれる。この国が繁栄するよう尽力してくれる。

 これは結婚式なんかじゃない。
 その為の契約だったのだ。

 彼女はそう思って居るに違いない。
 人生の伴侶をこんな風にして選ぶ女性が、この世にどれだけ居るだろうか?
 それは僕にとって都合のよい相手がどれだけ居るだろうか、と言う問題の答えに程近い。

 だから僕は感謝した。
 彼女と出逢えた奇跡に。
 だから僕は謝罪した。
 彼女を大切に思ってしまった事に。

 ありがとう。
 そして
 ごめんなさい。

「これでもう、逃げられませんね」
 そんな言葉が口をついて出ていった。

 ゛元より逃げるつもりなどありません゛
 その言葉が口から出ていく事は無かった。

 彼女は笑っていなかった。
 彼は笑っていた。

 何時ものように。
 何時ものように。







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