moment







 ハート型のクッキー。

 沢也がその単語を耳にし、結が「読み取った」言葉の意味を完全に理解したのは、翌日の朝の事だった。
 倫祐に海羽と八百屋の話を伝えた時、結の中に聞こえてきたのは「違うなら、誰だろう」と言う、実に倫祐らしい、分かり辛い一文である。
 結の訝しげな眼差しを受けた沢也は、仕事の合間を縫って推理をしていたわけだ。

 単純に考えると。
 倫祐は「海羽の相手は八百屋である」と確信していたが、そうではないと理解した。ここまでは分かる。
 不可解なのは、「海羽には好意を持っている相手が居る」と言う仮定を、倫祐が全く疑っていない事。
 沢也には、倫祐と海羽が恋愛に関する話題を共有しているとは思えなかった。そもそも話さない男と、その男を前に緊張しまくる女が、そんな話に至る経緯が思い付かない。
 それなら何故倫祐は、そんな固定概念を持っているのだろう。
 倫祐と言う人物の根本を疑って掘り下げていく事も考えたが、そんなことをしていても一生答えに出会う事はないだろう。
 沢也は好奇心を早々に追いやって、解決策を模索した。まずはダメもとで他所から情報を集め、最後に本人から直接聞き出す。無粋ではあるが、結局はそれが一番の近道だ。
 それでも情報を集めるのは、ついでと言うか、せめてもの抵抗と言うか。つまりは「何かをやった」と言う証拠を作るような物である。
 勿論、倫祐本人はそんなこと気にもしないだろうから、どちらかと言えば、沢也の中にある罪悪感に対する言い訳だ。

 最初は有理子に声をかける。丁度隣の部屋から出てきたのだ。仕事の話がてら「海羽と倫の関係性について」を訊ねると、彼女は「折角記憶が戻ったのだし、これを機に早く進展しないかしら?」とため息を付く。海羽と一番親しい有理子にも、二人の関係は昔と変わらぬように見える訳だ。
 次に八雲と亮。「同僚に恋人が居るかどうか、どうやって見極める?」とアンケートでも採るような口振りで聞いてみる。八雲が「一番は指輪ですかね。後は日頃の言動。イベントのある日の立ち回りとか」と言うと、「イベント関連で大抵は分かります。難点は時間がかかることですね。冬であればある程度短時間で済むのですが」と亮も同意した。
 その時丁度沙梨菜がやって来てはやたらと話に入りたがるので、観念して別室に引っ張って話す事にする。最近のイベントを思い出せるだけ上げさせると、クリスマスやバレンタインと言ったそれっぽいものがほいほい出てきた。試しに「海羽が進んでアピールした事はあったか?」と訊ねてみる。沙梨菜は「最近のイベントは何だかんだ頑張ってるよね♪クリスマスは残念だったけど、誕生日もデート出来たみたいだし…あのチケット様様だよね☆あ、そう言えば…ちゃんとハート型にしたのかな?」と、独り言のような回答の最後に天井を見上げた。
「ハート型?」
「クッキーだよ。バレンタインに作ったやつ♪倫ちゃんのだけハート型にしなさい、って。有理子と勧めたんだけど」
「秀のは星型だったな?」
「うん。殆ど星で焼いてたよ?最後の生地だけはハート型で抜いたんじゃないかな?」
「見てなかったのか?」
「うん。恥ずかしそうだったから、有理子と外に出たの」
 そこまで聞いて、沢也は踵を返す。これ以上質問しても答えは見つからないだろうとの判断だ。
 最後は蒼。今までの情報を纏めて話せば、すぐに自分の考察と同じような見解が返ってくる。窓の外は既に真っ暗。二つの月も真上に昇っていた。
「海羽さんの性格からしても、倫祐くんの言動からしても、全てがハート型だったわけではないのでしょうね」
「だろうな。まあ、海羽のことだ。控え目も控え目に一枚だけ混ぜこんだんじゃねえか?」
「一枚だけ、ですか。例えばそれが複数枚だったとしたら。例えば、全てがハート型だったりしたら。少しは伝わったのでしょうか?」
 蒼の仮説が妙に儚げに響く。沢也は短く考えて、ため息を宙に上げた。
「伝わらないだろうな。どう転んでも「間違いだ」と考えるはず」
「渡し間違え。入れ間違え。はたまた余りを混ぜただけ…」
 蒼が倫祐の思考を推察して口にすると、確かにどれも有り得なくはないと思えてくる。勿論、海羽の気持ちを知らなければ、の話だが。
「逆にどうしたら伝わるのか…っつーか認めるのか…いや、理解するとでも言った方が良いのか?」
「海羽さんが沙梨菜さんくらい積極的になれば…」
「無理だろ」
「ですよね」
 一蹴された答えに苦笑しながら、蒼は目線を右側の扉に向ける。
「海羽さんの容態はどうですか?」
「一見普通だがな。妖精達が言うには、やはり魔力が収縮しているそうだ」
「ご本人に自覚は?」
「あるんだろう。だが記憶も戻ったし、そう深刻には捕らえていない。まあ、実際時間の問題だとは思うしな」
「倫祐くんは?」
「どうだろうな。こっちのが、寧ろ心配ではある」
「見た感じ普通なのは、彼も同じなんですよね」
「そう。似た者同士」
 二人が滞在する先を、二人は揃って眺めていた。沢也がため息と同時に目線を逸らし、手元の書類を持ち上げたことで、蒼も彼を振り返る。
「頼んでおいた事も滞りなく済ませてきやがった。海羽が半端にしていた発注も、八百屋の警護も。珍しく素直に義希や小太郎の手を借りたらしい。そこがまた、どう捉えたもんか…」
「暫く書庫に泊まるんですよね?」
「そう。それも素直に聞き入れやがった」
 普通ならここで「やっと伝わったのかもしれない」と考えてもおかしくないのだが、それは相手が倫祐でなかったら、の話である。
 何かしらの心情変化があったのは確かだが、それが吉兆か凶兆かの判断は、本人に話を聞いてみたところではっきりするかどうか…。


 そうして翌日の朝早く、八百屋が活動を始めるより前に起きてきた倫祐を捕まえる。
 彼は勧めた椅子に座るでもなく、テーブルに仕掛けておいたクリームパンを手に取った。
 もふもふと食べ始める彼が食べ終わる前にと、沢也は早速本題に入る。
「ハート型」
 彼の低い声に似つかわしくない単語を聞いて、流石の倫祐も顔を上げた。そして今持っているクリームパンや、目の前に置かれたあんぱん等の形をわざわざ確認していく。
「入ってなかったか?」
 移り行く視線を追いかけながら、沢也は訊ねた。更に倫祐が首を振ろうとしたところに、追加で一言。
「バレンタイン」
 ピクリと、倫祐の動きが固まった。沢也は彼が全てを推察し、振り向くのを待って言い訳を口にする。
「結が読み取ったんだ。お前の思念」
 ああ、とでも言いたげに倫祐は瞬きをした。沢也が次の言葉を考えていると、倫祐が呟く。
「知ってるのか?」
 不意打ちのそれを咀嚼し、飲み込んで、意味を理解するまでに数秒ほど。突き詰めれば「海羽が好きな人間を知ってるのか?」と言う意味だろう。
 知らない、と言えば嘘になる。かと言って、目の前に居ると答えてみる気にはなれなかった。
 沢也は直接的な解答を避けて、倫祐の意図を掴もうと問いを投げ掛ける。
「聞いて、どうするつもりだ?」
 固まってしまった沢也が動き出すまで3秒ほど。黙って待っていた倫祐は、困ったような彼の反応に真面目な答えを返した。
「納得させる」
「誰を?」
 訝しげな問いに、自分を示して答える。そんな倫祐を前に、沢也もまた真面目な問いを返した。
「納得するのか?」
 低くなった声色に首を掻き、しかし微塵も感情を出さぬまま、倫祐は踵を返す。
「冗談」
「あ?」
 去り際に呟かれた台詞に、沢也の疑問符が重なった。倫祐はあんぱんを拐うだけ拐って、何も言わずに退出する。
「何がどう冗談なんだ…」
 額に手を当て幾つかの仮定を引き出してみるも、結局正解は分からない。沢也は仕方なく諦めて、長く深いため息を吐いた。



 誰だっていい。
 相手が誰であろうと、納得するしかないのだから。
 聞く必要なんてない。言わせる必要なんてない。
 それでも聞いてしまったのは、やはり気になったからだ。
 気にしたところでどうにもなりは、しないのだけど。

 考えながら、民家の屋根に足を付ける。
 次の建物は少し背が高い。正面の壁に凹凸を見付け、それを足場にワンステップで上昇。平らな屋上に着地した。
 朝日に滲む街並には、疎らに人が歩いている。多くは町の商人だ。
 まだ喧騒も薄い中、倫祐は南通り側の側面から路地の方へと移動して、建物の間を観察する。
 響かぬようそっと、足音を殺して歩く気配が奥の方から近付いていた。
 倫祐は元から消していた気配を更に殺して身を屈める。
 隣は一階に八百屋が入った二階建ての建物だ。そのバックヤードとも言える位置で、先程の気配が停止する。
 見なくても分かった。この気配はよく知っている。
 人が少ない時間帯で助かった。探す手間が省けたのだから。
 倫祐は表通りの様子を伺う人物を注視する。視線に気付かれないよう十分注意した。
 八百屋のシャッターが開く。例の青年が段ボールと一緒に顔を出した。
 その時。
 僅かながら溢れた殺気が、倫祐の体を動かした。無意識のうちに路地に飛び降り、男の背後を取る。
「あんたは…」
 動けぬよう拘束した途端、横目に背後を見上げた男は驚いたように呟いた。
 数秒間、無言の攻防が繰り広げられる。逃げられないと覚った男が両手を上げた。
「分かった。分かったから。その物騒な物を仕舞ってくれ」
 首筋に当てられた小さなナイフ。少しでも動くと血を見そうな状態に、怯えた男の声が響く。しかしナイフが下ろされる気配はない。
「…そう簡単に信用しては貰えないか」
 男はため息混じりに舌を打つ。相手は散々付け回した人間だ。自業自得と言うやつだろうか?男は短く考えて、しかしこのままで居るのも癪だと口を働かせる。
「…昨日までの人は?」
 問いかけに、相手の反応はない。
「あんたでは無かっただろう。気配の消し方が違った」
 更に言葉を繋げてみても結果は同じ。
 因みに男の予想は半分正解で、半分間違いだ。夕方からは確かに小太郎が見張っていたが、それまでは昨日も倫祐が張り付いていたのだから。
 昨夜は諦めて帰ったらしく、小太郎からの引き継ぎは駐屯地だった。そこから文字通り真っ直ぐ、隣のビルまでやって来たのである。
「話が進まないな。データ通りだ」
 苛立った風でもなく、男が呟いた。ため息と苦笑が混じったことで呆れたようにも聞こえる。
「死ぬか」
 ぽつりと、倫祐が呟いた。
「話すか」
 低い声が告げた言霊に、男が固唾を飲む音が連なる。
 数秒の沈黙。ナイフが僅かに首筋に食い込んだ。
「…驚いたよ。それがあの大臣の指示か?」
 降参したように、男は言う。倫祐は気配で分かるように大きめに首を振った。否定の意味を籠めて。
「違うなら、誰の?参考までに教えてくれよ。あんたのお陰で、俺にはもう後がない。ここを逃れようと始末される運命なんだ。嫌がらせぐらい、してやりたくもなる」
 表通りを見据えて鼻から息を吐いた男は、ナイフが下がったことで僅かに後ろを振り返る。
「悪い」
「え?」
 言葉の意味を知る前に、男は意識を喪った。彼の呟きの直ぐ後に響いたのは、倫祐が首の後ろを叩く無機質な音だ。
 どさりと、地面に埃が舞い上がる。
 倫祐は背後の気配が止まるのと、表からの気配が近付いてくるのとを同時に察知した。
 背後の気配はまだ遠い。恐らく物音すら聞き取れない距離だろう。立ち止まったのは、彼が意識を敢えてそちらに向けたから。つまりは気付かれない為の配慮だ。
 一方表通りから訪れたのは、から箱を持った八百屋の青年である。
「近衛隊…」
 倫祐を見付けるなり呟くついでに、足下の人物も認識したようだ。
「この人…」
 誰かと思えば知り合いが、しかも綺麗に気を失っているのだから驚くのも当然である。しかし倫祐は説明もなく呟いた。
「荷台と麻袋」
「え?」
「後で返す」
 貸してくれ、と言う意味だと理解した青年が、首肯と同時に問い掛ける。
「…運ぶんですか?」
 真剣な声色を振り向いて、倫祐は一つ頷いた。
「それなら僕の方が怪しまれない。野菜と一緒に届けます」
 脇にあった台車を動かし、背後に積んでいた袋と段ボールを引き寄せる。彼が何処まで理解していてそうするのかは分からないが、確かにその通りだろう。
「お城ですね?」
 有無を言わさず、青年は訊ねた。倫祐は麻袋に男を積めて台車に乗せると、彼の目を見て肯定する。
 何かを企んでいる顔ではない。聞いていたままの性格なのだと納得して、全てを彼に託した。
「あの、門番に何て言えば…」
「待ってる」
 踵を返した倫祐を追いかける声に、簡潔な回答が返される。青年は暫く考えて、上方に消えていった彼の背中に呟いた。
「…ああ、そう言う意味か」
 クスリと笑う。早い方がいいと、台車をそのまま表に運び、父親に声をかけた。
「ちょっと配達に行ってくるよ。直ぐに戻るから」
 そうして八百屋を見張っていた男の身柄は城に移される。
 門の裏側で待機していた倫祐は、男を沢也に託して再び八百屋の警護に戻った。

 翌日は雨だった。

 夜明け前から同じ調子で降り続いており、このまま梅雨入りするだろうとの見通しだ。
 目覚めた男の聴取が早朝から行われる。沢也の出張も今日で最後。昼過ぎに出て、孝を迎えに行くだけだ。
 聴取室に入った沢也は、向かいに座る男の苦笑にパプリカを放る。
「八百屋からの差し入れだ」
「……」
「嫌いだそうだな」
「あんた、何処まで分かってて、何処まで彼に喋ったんだ?」
 眩しい程の黄色を弄びながら、男はため息混じりに聞いた。沢也は椅子に座りながら問い返す。
「彼、とはつまり。八百屋の方か?」
「勿論。だがあの近衛隊長に関しても聞いておきたいことは山とある」
「話してやっても良いが、お前の話が済んでからだ」
 胸ポケットからペンを抜いてくるりと回した沢也の無表情に、困ったような男の苦笑が注がれた。
「やりにくいな。なかなか口車に乗ってくれない」
「安心しろよ。あっちと違って、大人しく従えば命までは取らない」
 例の無口な隊長から聞いたのだろうか。男は硬直を解いて肩を竦める。
「そうやって、何人引き入れた?」
「生憎、物分かりの良い奴が少なくてな」
「そうか。馬鹿だな。こんな美味しい話は無いだろうに」
 呟きがてら全身の力を抜き、嘲笑を天井に上げた。それだけで緊張が何処かに行ってしまうのだから、不思議なものだ。
「俺はそんなに美味しい情報を持っちゃいないが?」
「構わん。それに大して良待遇でもねえさ。どのみちこの程度じゃ死刑には出来ないだろう?」
 再確認しようとした条件は、沢也の呆れたような微笑に一蹴される。
「お前が居た世界が極端だった。ただそれだけの話」
「そうか」
 確かに、その通りかもしれない。ここがどれだけ安全かは、考えれば直ぐにわかる事だ。
「馬鹿なのは、俺の方か」
 そう呟いて、男は供述を始める。
 何を見て、何を聞いたのか。その全てを。
 彼の言う通り、重要な情報など殆ど出ては来なかった。しかし一つの案件が片付いた事に代わりはない。
 八百屋を唆し、海羽と繋げるようにすること。倫祐の監視し、繋がった二人と接触させること。男が受けた指示はこの二つだけ。
 成功すれば八百屋も男も貴族に目をかけて貰えるが、失敗すれば八百屋も、男も存続が危うくなる。知らされていたのもこの二つだけ。
 他はターゲットである三人の大まかなプロファイルを見せられただけで、特別なものは何も見ていないし、聞いていないと言う。指示を出していた男が何処の誰かも分からない。文書だけでのやり取りだった。その文書も郵送された物ではなく、電話で指定された場所で回収した物らしい。
 しかしその大本が何処にあるのかは、男が見たプロファイルが全てを物語っている。海羽の苺好きや倫祐の甘党等。そんな細かな情報を知っているのは、貴族の中では秀の家くらいなものなのだ。
 この男を抹消しようと蠢いていた影は、八百屋にターゲットを移すことなく二日程で消失する。こちらも男同様に、任務を達成できない焦りから逃げたのか、実際に消されたかのどちらかだろう。
 続く刺客が放たれるかどうかは様子見の段階だ。

 それよりも重要な問題が、男の聴取が終わると同時に発覚する。

「秀の消息が掴めないらしい」
 沢也は携帯をデスクに置きながら、その場に居合わせた二人に報告した。振り向いた彼等は動きを止めて先の話に耳を傾ける。
「本家から直々に連絡があった。いつの間にか出掛けていて、暫く戻っていないそうだ。こっちに来ているもんだと思っていたと、義理の兄貴が言ってきたが…どうだかな」
「ここ数日見ていませんし、帰らないとあればこちらから苦情の電話くらいはしますからね。お兄さまが嘘を付いていると考えるのが妥当でしょう。珍しくボロを出すくらいには、あちらも困っているようですね」
 沢也の話を噛み砕いて解説した蒼が、自席で悠々と紅茶を飲んだ。沢也はそれに頷いてもう一人の彼と向き直る。
「つまり、何か企んでる秀を見て見ぬふりで放置しているわけだ。てなわけで、お前は海羽の警護に回れ。八百屋の方には郵便課が一人来る」
 正面から沢也の、斜め向かいから蒼の視線を受けた倫祐は、頷くでもなく瞬きをした。
「リーダーの好意だ。商取引の関係もあるから、そのついでだと。逆に郵便課の配達員として、民衆課から一人送った。秀が不穏な動きをしてるとなれば、本島の方も気が抜けねえからな」
 続く説明に納得したのだろう。頷いた倫祐は、顔だけで海羽の居る厨房を振り向いた。
「別にこそこそ付いて回る必要はねえぞ?普通に一緒に仕事してろ」
 背中に補足を注がれて、彼はまた振り返る。そうして暫く沢也を眺め、天井を見上げ、ぐるりと部屋を見渡した後、躊躇いがちに歩を進めた。

 今日も外は雨だ。
 王座の間を出ると、静かな廊下に雨音が響く。
 怪しい気配はない。当然であるはずのそれをわざわざ確認して、厨房の前で立ち止まった。
 中から聞こえてくるのは他愛もない、楽しげな会話。この中に自分の気配を馴染ませるのはかなり難しい。
 しかし沢也の考えが分からない訳ではない。
 あの男が次に狙うとするならば、やはり海羽本人か。ともすれば自分である可能性もあるのだから。
 どちらに矛先が向いても可笑しくないからこそ、同じ場所に置いておいた方が監視も予測もしやすいのだ。
 互いに力が弱っているのであれば、尚更。
 海羽に危険が及ばぬ為に、沢也が下した判断ならば、多少周囲に迷惑がかかろうと、従っておくに越したことはない。
 勿論、できる限り迷惑がかからないよう努力はするつもりだが。
 消していた気配を表して、扉に手をかける。これを押すだけで空気が固まることは間違いないだろうと思いながら。
 厨房の扉は重い。ゆっくりと内側に押していけば、少しずつ室内が見えてくる。幸いな事に、一番最初に海羽と目が合った。
「どうしたんだ?お水、無くなっちゃった?」
 中央の作業台に居た彼女は、パタパタと扉に近より声をかける。倫祐は首を振って入室し、扉を閉めた。
「もしかして、あの…手伝いに来てくれたのか?」
 問い掛けが室内に響く。数人が目線だけを彼等に向けた。
 倫祐は自分を見上げたまま回答を待つ海羽に、とりあえず肯定して見せる。すると彼女は胸を撫で下ろした。
「ほんと?良かった。あのな、やりたいことがあって…」
 そう言って先導する海羽に倫祐が付いていく。部屋の奥にある調理台の上を指し示し、彼女は説明した。
「梯子が壊れちゃったんだ。高いとこのもの、下ろしたいんだけど届かなくて…」
 確かに、可動式の梯子が隅の方で所在悪そうにしている。巨大な換気扇の上にある棚は、背の高い倫祐が手を伸ばしてやっと届く位置にあった。
 倫祐はまず梯子の様子を確認する。レールが故障して動かそうにも動かず、外したところで不安定で使い物にならないだろう。
 諦めて棚を開けた。横にスライドするタイプの物が、壁に沿ってずらりと取り付けられている。
 海羽が作業台を空けて場所を作っていたので、倫祐は端から順に中のものを出していった。彼はルビーを持っているので、作業は一瞬だ。
 作業台に広げられた品々は、どれも使用頻度が低い物ばかり。
 高級過ぎて式典にしか使わないような食器とか、塩や砂糖、調理酒等腐らないもののストックとか、割り箸や使い捨ての皿などが山盛り眠っていたりとか、エスニック風のタペストリーとか。
 棚からルビーに、ルビーから台にを繰り返すうちに、メイドさん達も作業に加わり始める。他の収納場所を探したり、別の部屋に移動させるか検討したり、上のスペースに置くべきものを話し合ったりと賑やかだ。
 倫祐はそんな光景を横目に、部屋の中央付近にある棚を開ける。すると、戸の近くで何かが蠢いた。
 何かと言っても正体は一目瞭然で、倫祐は手にナイフを呼び出し処理にかかろうとする。しかし奴は自己主張激しく飛び立った。
「う…ぁわわわ…!倫祐っ……」
 奴の存在に気付き、慌てた海羽が背中を引っ張る。その叫びが叫びを呼んで、厨房は一時的に戦地のようになった。
 上方を飛んでいた奴が元の場所に戻り、奥の方に潜ってしまう。騒がしかった場が僅かに静まって、次第に落ち着きも戻ってきた。
 ホッとしたのも束の間、倫祐が棚に近付き手を掲げる。海羽はその背中にしがみついて必死で懇願した。
「駄目、あんまり、あの、一杯出てきちゃったらどうするんだ?」
 涙目で見上げられ、しかしそのままにしていくわけにもいかないと、彼は暫く考えを巡らせる。そして辿り着いた一考を実行に移そうと、出口に足を進めた。
「わ、あの、駄目、行かないで…」
 未だ離れない海羽に怯えたように引き留められては、ふりほどくのも説得するのも難しい。
 困って見渡すも、部屋中の視線が集まっているのに気付いて更に困った。
「沢也」
「へ?」
「呼んで」
「あ、うん…わ、分かった…」
 考えを口に出すと、海羽がやっと手を離す。しかしそれを制するように、眼鏡をかけた年長の女性が片手を挙げて出ていった。
 倫祐は視線の行き場に困って、自然と棚を見上げる。するとカサコソと大きな音がして、また海羽を怯えさせた。
 何時もなら恥ずかしさが勝るところを、恐怖が勝っているくらいなのだから、彼女が周囲から注がれる温かい眼差しに気付ける余裕など有るわけもない。
 とにかくしがみつくだけで必死な彼女に背中を占領されたまま、倫祐は黙って棚を見据え続けた。
 程なくして沢也が登場する。
「何時から壊れてたんだ?」
「一ヶ月くらい前かな?頼もうと思ってたんだけど、あんまり使わないからそのままに…」
 状態に変化のないまま、海羽は沢也の質問に答えた。
 沢也は海羽のテンパり具合と、倫祐の困惑具合とを笑わぬよう堪えながら、棚の状況確認に移る。
 適当な椅子を持ち出し上に乗り、中身が無い方の棚を開いて覗き見た。
 予想通り、端から端までひと続きになっている。
 沢也は倫祐と分担して、残りの荷物を下に移動、奴が出てくる前に全ての戸を閉めた。
「棚丸ごとバリアで覆え」
「う、うん」
 指示された海羽は、言われた通りに魔法を発動させる。沢也は一番端の戸に手をかけて、背後に声をかけた。
「倫、漏れたの頼む」
 言いながら、彼は掌大の球体を取り出し弄ぶ。
「沢也?」
「何だ?」
「それは、その…なぁに?」
 海羽の不安げな問い掛けを振り向いて、沢也は笑顔で解説した。
「対害虫用兵器。人間には無害だから安心しろ。ま、換気するに越したことはねえが」
 普段、こんな風に楽しそうに笑う沢也を見る機会のないメイド達が、様々な反応を見せる中。
「あの、あの、中で死んだ奴は…あの…」
「処理してやるから泣くな」
「でも、沢也これから出掛けるんじゃ…」
「倫がいるだろ?」
 既に涙目の海羽の訴えを宥める沢也。空気は回りに伝染して、厨房は不安に満ちる。
「あー、面倒だから苦手な奴は終わるまで出とけ。他にも仕事はあんだろ?」
 しっしと無慈悲に言い放つ彼に従って、先程の眼鏡のメイド、課長の橘さん以外は退出し、城内の先に掃除を済ませる事になった。

 一時間後。
 換気の為に開け放たれた窓と扉。倫祐が棚の中身を掃除する中、いつの間にやらやって来た轟がせっせと梯子を修理している。
 普段男っ気が無いせいもあって、厨房に漂う空気も何処か新鮮だ。
 どれだけ奴が居ただとか、どれだけ直すのが難しいだとか、倫祐も轟も一切説明しないまま、それぞれに作業を終わらせる。
 轟が名前通りの声を残して帰っていくのを見届けて、厨房は昼食に向けて準備を開始した。
「あのな、倫祐、揚げ物ってする?」
 今日の昼食は沢也不在の為パンケーキだ。粉と卵と牛乳とを巨大なボウルに入れながら、海羽は片手でノートを広げる。
「ソースどうしようか迷ってるんだけど、いつもどうしてるかなって…」
 どうやら結婚式当日の話らしい。メニュー表が記されたノートを覗きながら、リンゴの皮を剥く倫祐が小さく頷いた。
「わ!凄い、色々あるな」
 指輪から出てきた幾つかの瓶を手にとって、海羽は瞳を輝かせる。振り向いて首を傾げたのは、味見しても良いかという仕草だろう。
 頷いた倫祐に笑顔を向けて、海羽は次々と瓶を開けていく。因みに、倫祐が出したソースは全て、前回の弁当の余りものだ。
「オーロラソースか。これなら調味料買い足すだけで出来るな」
 呟きながら味見を繰り返す海羽の元、作業ながらのメイドさん達が代る代るやって来て、レシピの考察をする。質問してくる人数が増えている事に、倫祐は内心驚いていた。
 もっと嫌煙されるだろうと踏んでいたのだが、こうも馴染んでしまうとは思いもしなかった…と。
 そんな倫祐の無表情から感情が漏れる筈もなく、穏やかな昼食作り兼レシピ考案は継続される。
「あと、魚屋さんからお願いされて…売れ残ったお魚安く買い取ったんだけど、捌くのが大変で…」
 ね?と、周囲に求めた同意が方々から返ってきた。それだけの人数が居ながら捌ききれない数と、様々な種類の魚が巨大なルビーから出てきたのが数秒後の事。
「これで三分の一くらいかな…」と呟いた海羽も苦笑いである。魚屋は魚屋で、これの更に倍以上を売らなければならないと嘆いていたそうだ。梅雨時には珍しい話だが、どうやら干物業者の見込みが外れただけらしいとの噂話まで持ち上がる。
 そんな中、倫祐が流しの下から包丁を二丁探しあて、徐に構えた。
 下がってろ、とジェスチャーで追いやられた海羽は、他の面子にも下がるよう説明する。
 安全が確認された空間に、魚が数匹舞い上がった。倫祐が適当に放ったのである。
 彼はその魚が落下するより前に両手を動かし、数秒で静止した。
 素早すぎて何が行われたのかちっとめ分からなかったが、まな板の上にはビタビタと捌かれた魚が落ちてくる。
「凄い、そんなの何処で取得したんだ?」
 一回で5匹も綺麗に三枚におろしてしまう荒業を、海羽の呆然とした問い掛けが賞賛した。倫祐は肩を竦めるだけ竦めて次の魚をトスする。
「そっか、大家族だったんだもんな?」
 不意に、思い出したようにふふっと笑った海羽に注目が集まる。そうだったんですか?とか、郵便課が、とか、そんな言葉が飛び交った。
 その間にも順調に捌かれていく魚たち。海羽は骨や腸、種類ごとに身を仕分けて丁寧に包んでいく。
 そのうち捌かれる前に魚の分別が行われ、大量に出た骨を炙る作業が始まったり、しかしその傍らではホットケーキやフルーツが積み上げられていたりと、見た目的にも臭い的にもなかなかカオスな状況が完成しつつあった。

 二時間ほどして。

 全ての作業に区切りを付けた海羽は、王座の間でのんびりと書類を片付ける。
 今日は蒼も会議を休んで、自室で書類に埋もれている筈だ。有理子も自室や民衆課を行ったり来たりしており、現状部屋に留まっているのは海羽と倫祐だけ。実に珍しい状況と言える。
 海羽が書類に書き込みを続ける間、倫祐は新しく発行する魔法書に関する文書の整理をしていた。新しく認可された魔法や、没になった陣などを、解説を交えて載せる…つまりは参考書のようなものである。似たような案件が増えてきた為、その対策の一貫だ。
「あの…」
 一区切り付いたところで、海羽が顔を上げる。テーブルの大半に紙を広げていた倫祐が振り向いた。
「近衛隊には行かなくていいのか?」
 首を傾けて訊ねると、あちらの首も傾く。
「えと、事情はさっき沢也にちょこっと聞いたんだけど…。倫祐もお仕事とか、用事とかあるなら、僕も一緒に行くから…あの…」
 纏まらない説明に自ら困る海羽に、暫く考えた倫祐が小さく頷き、次に肩を竦めた。彼はそのまま作業に戻ってしまう。
「あの、大丈夫?」
 再び問うと、首が傾いた。
「だって、色々手伝わせちゃったから…」
 申し訳なさそうに呟く海羽に、倫祐は首を振って答える。でも、と続けかけた彼女の呟きは、彼が動いたことで喉の奥に引っ込んだ。
 倫祐は海羽の正面に置かれたティーセットでお茶を淹れる。海羽はその仕草をまじまじと眺め、密かに全てを記憶した。
 二つのカップに注がれた紅茶。片方には角砂糖を一つ、ミルクを少し。もう片方には角砂糖を二つ、ミルクを少し。くるくる混ぜて、甘過ぎない方を海羽に渡した。
「ありがとう…あの、えと、じゃあ、明日お礼に何か作るよ。あの、何が良い?」
 受け取りながら、顔を上げる。一秒だけ目が合った。
 倫祐は考えるように視線を逸らし、二秒後にまた戻す。
「シュークリーム」
 短い呟きが静かな部屋に落ちた。
 海羽は微かに首を傾けて踵を返した彼の背中に、しっかりと頷きを返す。
「うん」
 今度は苺も入れるね。と呟き、俯いた海羽の嬉しそうな笑顔は、残念ながら倫祐に認識される事はなかった。






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