memory






 
 時を刻む規則正しい音。
 不規則に本の頁が捲られる音。
 どちらとも付かない二つの呼吸音。

 途中、夕食を運び込んだ有理子が去って時以来、部屋に響くのはその三種類の音だけ。

 倫祐は最初の位置から動かぬまま、既に二時間の時を過ごしていた。
 有理子が訪れたのが、丁度一時間前くらいだろうか?秀を本島に送り返し、他の始末も順調に進んでいる。今丁度、皆で食事を始めたところだと説明があった。
 彼はそれに一度だけ首肯して、彼女からタンブラーを受け取る。中身は温かい紅茶だった。他に、小ぶりのピザとシュリンプ、サラダの乗ったトレーがテーブルにのせられる。
 また誰かしら様子を見に来るから、と。最後にそう言って、有理子も遅い夕食に向かっていった。
 倫祐はその場で食事をした後、紅茶をお供に黙々と活字に溺れている。しかし時折海羽の無事を確かめるように視線を送ることは怠らなかった。
 毛布を被せた体が上下に揺れる。目を凝らすと微かに見える程度の小さな動きだが、それを認識するだけで安堵した。

 何度目の確認だっただろう。

 切りが良いところで目線を上げた彼の目に、先とは違う変化が訪れた。
 海羽の目が開いている。
 その瞳は天井や壁をゆっくりと見渡して、一度瞬きをした。
 次第に何かを探すように体を起こした彼女の視界に、倫祐の持つ本が映し出される。音もなく動いた彼が、掌ごと床に置いたものだ。
 倫祐の存在に気付くなり、海羽は安心したように力を抜いた。多少なりと持ち上がった背中が、重力に任せてソファに落ちる。
 その間にも腰を上げて部屋を出ていこうとする彼を、彼女の手が引き留めた。
 服を引っ張られ、振り向いた倫祐を海羽の不思議そうな眼差しが見据える。
 何も言っていないのにどうしてだろうかと考えて、しかし自分の手が前に伸びているのに気が付いた。そんな反応が彼女の顔面で繰り広げられる。
「ごめ…あの…」
 何とか声になった謝罪のような物を適当に流し、倫祐はその場に座り直した。丁度、海羽の目線の正面になる位置だ。声が聞き取りやすいよう、その場所を選んだのだろう。
 海羽もなんとなくそれを察して、しかし不安で手を伸ばした。再び伸びてくる指先をぼんやりと眺めていた倫祐は、それが向かう先にある物を持ち上げる。指先が掌に触れた。
 海羽は倫祐の指先を小さな掌で包み込む。それを控え目な力で自分の近くまで引っ張って、両手で支えた。
 彼が何処かへ逃げてしまわないように。
 そんな海羽の気持ちに気付くわけもなく、倫祐は不思議そうに首を傾けた。
 何処か痛いのか、何か話があるのか、自分の事はまだ覚えているか、誰か呼んでこようか。
 倫祐の中に幾つも浮かんだ質問が音になることはなく。代わりに海羽の口から小さな音が出た。
「夢…」
 呟きを拾った倫祐が左右に首を振る。現実だと伝えるための単純な仕草だ。
「夢を、見たんだ…」
 海羽は慌てて付け加えると、微かに頷いた倫祐をぼんやりと見上げる。寝ているせいで横向きに映る彼からも、同じようにぼんやりと見下ろされていた。
「倫祐にな、運んで貰ってる夢」
 確かに先程まで運んでいたと、倫祐はまた首肯する。同時に彼女の記憶がまだあるのだと言う事実を認識した。
 海羽は彼の仕草を相槌と捉え、話の先を口にする。
「一番最初に…ほんとに初めて、会ったときの…」
 半ば興奮ぎみなそれに、倫祐は反応しかねて固まった。その時の事を一番思い出したくないのは、彼女だろうと思ったからだ。
「ずっとな、思い出せなかったんだけど。何でだろうな?全部…一緒に思い出したのかな…?」
 困ったように笑う海羽は、倫祐の反応が無い理由を察して手の力を強める。辛い話じゃ無いから大丈夫だよと、笑顔だけで伝えてみた。
 倫祐の首が僅かに傾く。海羽は続きを促されたように話を再開した。
「倫祐は、着ていた服を僕にかけて、「大丈夫か?」って、手を差し伸べてくれた」
 視線を彼の手の甲に当てる。反応を確認しないまま、彼女は続けた。
「僕は、うまく返事が出来なくて…だけどなんとか頷けたと思う」
 目を閉じると、夢で見たのと同じ光景が瞼の裏に映し出される。これが「記憶」なのだと、彼女は痛く認識した。
「それから、僕を背中に乗せて。アジトまで運んでくれている間…僕が眠ってしまうまで…話をしてくれたよな?」
 ずっと封じ込められていた音声が、映像が。頭の中で再生される。勿論、思い出せたのはこの時のことだけではなかったけれど、今はまだこの夢を…この記憶を見ていたかった。
 海羽は一頻り昔の彼の声を再生してから、そっと目を開ける。倫祐は先程と変わらぬ様子で彼女を見下ろしていた。
「僕が、答えなくてもいいように…答えが要らない、他愛のない話ばかり…」
 自然と笑顔になる海羽を見て、倫祐はまた首を傾ける。
 彼が何処まで覚えているのか、この記憶が本物なのか、不安になって、海羽は恐る恐る問い掛けた。
「仔猫の名前…決まったか?」
 新しく拾った仔猫の名前で揉めている、と昔の彼が言ったのだ。今とは違う、幼さの残る声で。
 問いを聞いた倫祐は、海羽の疑問の眼差しに確かに首肯する。
「次の日ちゃんと晴れたのか?」
 出掛ける予定があって、仲間が楽しみにしているけど天気が心配だと、二つ目はそんな話だった。倫祐はまた頷いて答える。
「結局どっちに決まったんだ?」
 三つ目の話題は来週のデザートに何を作るか。話が噛み合う事で嬉しそうにする海羽に、倫祐は躊躇いがちに答えた。
「…シュークリーム」
 チーズケーキか、シュークリームか。小さな彼は、記憶の中で確かにそう言っていた。同時にその単語が引き出したのは、ごく最近の記憶。
 彼のことを、何もかも忘れていた時の。
「…ごめんな?」
 倫祐が答えを躊躇した理由が理解できた。全ての意味で謝罪すると、無意識に手のひらに力が籠る。
「本当は…もっとちゃんと…用意するつもりだったのに…」
 溢れ出す記憶の波に押し出されたように、言い訳が口を突いて出ていった。上手く息が出来ないのは、申し訳なさ過ぎるから。罪悪感で今にも泣き出しそうだった。
「…美味しかった」
 不意な呟き。海羽は驚きで見開いた目を持ち上げて、瞬きをする。
「…ほんと?」
 前のめりに問い直すと、倫祐はしっかり頷いて答えた。
「良かった…」
 安堵と、喜びと、恥ずかしさと。倫祐の掌を持ったままの手に口元を埋め、海羽はふにゃりと頬を緩める。
 動けなくなった倫祐は、暫く続いたそれが、次第に涙目になっていく過程を眺めていた。
「怒っていいぞ?」
 ぎゅっと、指先に力が籠る。呟きにも、仕草にも、表情にも、疑問を抱いた倫祐の首が右に傾いた。
「だって、沢山酷いこと言ったから…」
 震える海羽の声。指先。怯える理由は怒られたら恐いからだと疑わない倫祐が、首を振って否定する。
 怒りはしない。そもそも彼女の言う酷いこととは何だろう?倫祐は、瞳を揺らがせる海羽が戸惑って小首を傾げるのを、不思議そうに眺めていた。
「でも…」
 反論がありそうな海羽の言葉の続きを待たず、彼は告げる。
「…ごめん」
 自分にしか分からないかもしれない、自己満足な謝罪を。
 これでまた彼女は「幸せになる」と言う目標から遠退いた。そんな気がして仕方がないのだ。
「どうして、謝るんだ?」
 ますます傾いて、海羽の首が真横に倒れる。丸まった猫のようにソファに頭を埋めた彼女を前に、倫祐は解説しないで済むよう誤魔化した。
 咄嗟につまんだ頬っぺたが想像以上に柔らかく、ついでに海羽がふにゃと鳴いたことで、場に止まっていた空気が拡散する。
 くすぐったそうに笑う海羽をそのままに、倫祐はそっと手を引いた。ついでに預けたままになっていた手も戻そうとすると、海羽の両手が引き留める。
「倫祐…」
 名前を呼ばれ、顔を合わせると、改めて懐かしく感じた。その感覚も、彼女そのものも。
 海羽は無表情のまま瞬きをした彼に、また自然な笑顔を向けた。
「ありがとう…」
 何が、だろう。感謝されるような事をしただろうかと、倫祐は首を傾ける。海羽はその仕草を懐かしそうに眺めた後、ふわりと瞼を閉じた。
「もう…絶対に…」
 忘れたりしないから。口の中だけで告げられた言葉は音にならず、しかし倫祐には読み取ることが出来た。
 どう返すべきか頭を働かせてみるも、答えにたどり着くより前に海羽の寝息が聞こえてくる。
 何とも唐突な寝落ちだ。無理をしていたのだろうかと額に手を当ててみるも、特に熱が有るようではない。単に肉体的にも、精神的にも、疲れているだけだろう。
 そう推察して、密かに肩の力を抜いた倫祐は、捕まったままの右手をどうするべきか考えた。
 このままでいいのか、悪いのか。
 またしても、巡る思考に答えが出ないうちに、彼の考えは元の場所に落ちていく。

 もう二度と、思い出さなくてもいいと思っていた筈なのに。

 頭の中で呟いて、彼は煙草をくわえる。しかし窓も開いていない現状、火を付けるのを躊躇ってそのまま天を仰いだ。
 見えるのは何の変鉄もない天井だけ。白地に銀の模様が走る、大きくも小さな長方形。
 握られたままの指先に海羽の吐息が伝わって、飛ばした意識が引き戻される。つられて俯いた先には安らかな海羽の寝顔があった。
 倫祐は一呼吸の後、また上を見上げる。何度も何度も思考から逃げようとするも、失敗して。
 彼は仕方なく全てに付き合うことにした。
 頭がざわついて仕方がない。
 いや、頭だけではない。
 胸の奥も。指先も。身体中が、ざわめくのだ。
 まるで矛盾した感情を押さえ込むかのように、無意識に力が入る。
 倫祐は床に置かれたままになっていた本を、空いているソファに乗せた。俯いた先で海羽の表情を確認し、そのまままた、上を見上げる。

 そうしてゆっくり、目を閉じた。

 頭の中に箱が浮かぶ。
 体の奥底で記憶を封印していた、あの古びた箱だ。
 元あった中身は既にない。泉の底で全て出し、自分の内側に取り込んだから。
 その作業は島中のモンスター排除に勤しんだ二年間、そのうちの後半に大抵片付いた。旅に出て直ぐはそんな暇も無かったが、モンスターの数が減るに連れて考える時間が増えたのである。
 目撃情報を探しながら、宛もなく歩くのと。
 何の記憶か分からぬまま、当てずっぽうに触れてみるのと。
 二つの作業は、似ているようで全く異なった。

 前者は見付かれば殺さなければならない。
 後者は何であろうと生かさなければならない。

 違うのは当然だ。

 ただ、見付けた相手を切り裂くのも。見たくない記憶を呼び戻すのも。どちらも同じように、痛烈な痛みが走る。それだけは、何処まで行こうと変わらなかった。

 島のモンスターが残り少なくなるにつれ、泉に浮かぶシャボンの数も減っていく。書類と視界、頭はクリアになるのに、胸の奥には大きな穴が空いたようだった。

 俺は「笑う」ために箱を開いた。「笑う」ために箱の中身を吸収した。
 では何故「笑う」事を思い出したかったのかと言えば、彼女の側に居たかったからだ。

 最初こそ秀の登場が穴の原因だと思っていたが、どうやら違うらしい。
 箱を開き、記憶を取り込んだ俺は。
 相変わらず、笑うことが出来ないままなのだ。
 自分の見込みの甘さや、解決策の喪失、それでも消えない欲。
 ただただ、情けなく、申し訳がなくなった。
 だから俺は、空いた箱の中に「矛盾」を押し込めた。

 馬鹿みたいに、彼女に側にいてほしいと言う自分勝手な願望と。
 彼女の「願い」が叶って欲しいと言う、当たり前の願望を。

 閉じ込めても閉じ込めても、二つはいつも争って箱を飛び出す。
 箱そのものが、彼女に開けてもらったものなのだから、彼女の干渉があると開いてしまうのは致し方が無いことのようだ。
 そもそも、いつまでもそうして閉じ込めている訳にもいかない。
 だからまず彼女の願い…「彼女が幸せになる」事を優先させた。
「二度と思い出さなくてもいい」と思ったのは、そのせいだ。
 しかしその裏側で、箱の中で蠢いていた感情を、俺は知っている。

 嫌と言うほど、知っているのだ。

 それが安堵となって全身に被さった。それが今の彼の状態。
 これが良いことなのか悪いことなのかは、この手を離して良いのか悪いのかを決めるよりずっと、難しい。
 自分の安定は必要なものだ。つい先日の事件でも、過去の事件でも、思い知らされた事だ。
 それでも自信を持って「良いことだ」と言えないのは、この状態が彼女にとって「悪いこと」だとしか思えないからだ。

 俺では彼女を幸せに出来ない。
「幸せにしてやる」なんて大法螺を吹くわけにはいかない。
 そもそも、方法を知らない。
 知っていても自分が笑えないなら意味がない。

 八方塞がりだ。
 何もかも分からないのだ。

 ただ、嬉しくて仕方がなかった。

 名前を呼んでくれたことが。
 笑いかけてくれたことが。

 理解できたのは、また沢山のものを貰ってしまったと言う事。そして、その沢山のものの代わりにあげられるものを、持っていないと言う事。

 また元通り。
 いつも通りの結末だ。

 だからと言って、ここで塞ぎ混んでも仕方がない。
 折角事情を知ってくれたのだから、暫くは友人の言う通りに動いてみるのが良いだろう。

 そうして自分の事を解析していた倫祐は、一つの事実に気付いてしまった。
 躊躇なく他人に全ての判断を委ねてしまえる程、自分が信じられなくなっている。
 …こんなとき笑って誤魔化す事が出来たなら、幾らかは救われたりするのだろうか?
 分からない。
 けれど、笑えないよりはましだろう。

 ため息と共に目を開く。扉の外に気配がしたからだ。
 この気配と足音は沢也だと、倫祐は直ぐに把握する。壁にかけられた時計は、先程とさして変わらぬ時刻を示していた。
 ノックの後、扉が開く。挨拶もなく入室した彼を振り返ろうとして、倫祐は気が付いた。
 まだ手が繋がれたままだと言うことに。
「起きたみてえだな」
 二人の状態を見てすぐ、沢也は苦笑する。彼は倫祐の隣まで歩を進めると、腰だけを曲げて海羽の顔を覗き見た。
「熱は無いんだろ?」
 問い掛けに合わせて、沢也は首だけを倫祐に向ける。問われた彼はいつものように頷いた。
「何か食ったか?」
 続く問いには首が振られる。長いこと起きていた訳ではないのだろうと推察し、沢也は体を垂直に直した。
「お前は?」
 倫祐は小さく首肯する。空の皿が数枚と、タンブラーがルビーから放出された。
「もう一枚持ってくる」
 沢也は全てを回収しながら歩を進める。その横顔を倫祐の疑問の眼差しが追い掛けた。
「毛布」
 傾いた首に簡潔に回答すると、心なしか威圧が増したように感じる。沢也はドアに向けていた体を倫祐に向け直し、小さく肩を竦めた。
「残念ながら、帰っても寝れないぞ?部屋荒らされた上に、大家が拗ねちまったから」
 大家、と言う単語を受けて、倫祐の動きが硬直する。噂のせいもあり、彼と大家が上手くいっていないらしいと言う事は方々から聞いていた。
「義希に任せときゃ、そのうち機嫌も直るだろ」
 沢也は困ったように首を掻く倫祐に軽く言い捨てて、半端に踵を返す。
「他に欲しいもんは?」
 問うと、倫祐は短く硬直して俯き気味に首を振った。
「遠慮してんな?それ」
 先程から独り言を言っているような状態のせいか、思ったままが口から出ていく。すると真っ黒な瞳だけが沢也に向いた。
「窓?開けるのか?」
 指先での指示を明確にし、実行に移す。夜風はまだ冷たく、温まった空気が外へ逃げていった。
 倫祐はそれが終わらないうちにと煙草を取り出し、火を付ける。膝立ちになった彼をクスリと笑い、沢也はその肩に手を乗せた。
「吸い終わる頃にまた来る」
 言うが早いか、ローテーブルを避けて扉に向かっていく彼を、煙草の煙がゆるりと見送る。
 沢也は20分程時間を置いて、宣言通りの物を持ってきた。
 二本の煙草を吸い終えた倫祐は、言われた通りにその日をそこで過ごすことにする。


 翌朝。

 目覚めた海羽は、目の前にある掌をぼんやりと眺めた。
 眠っている間中ずっと温かかった、その名残を確かめるように。
 開いた窓が朝の匂いを運んでくる。
 部屋には他に誰もいない。
 だけど、つい今しがたまで誰かがいた事は間違いないと、ぼやけた頭が確信した。
 隣のソファに置かれた毛布。
 テーブルに乗った灰皿。
 微かに漂う煙草の匂い。
 半端に残されたその全てが、彼の余韻として海羽の記憶に刻まれる。
 体を起こし、再び掌を見据えた。
 確かにまだ温かい。逃げないように握り締める。
 暫く続いた沈黙の中にノックが響いて、扉が開かれた。
「起きてたのか」
 入室した彼の声を聞くなり、海羽の頭に現実が駆け抜ける。表面的には呆然と、ここ数日を遡る彼女が戻ってくるのを、彼は傍らのソファに座って待った。毛布が置いてある正面のソファだ。
 起き上がった海羽の表情も、そこからなら良く見える。因みに海羽が寝ていたのは扉の正面、部屋の最奥にある窓の前。
「ごめんな、沢也」
 数分を経て呼ばれた彼は、持参したコーヒーをカップに注いで口を付けたところだった。
「それは、直ぐに助けを求めなかった事に対する謝罪か?」
 一口飲んだそれを置いて、海羽にホットミルクを差し出しながら沢也は問う。海羽はソファから足を下ろしてしっかりと首肯した。
 沢也の指輪からシュガーポットが出てくる。海羽は白の液体に白の粉を注ぎ入れ、付属のスプーンをくるくると回した。
「理由があるなら聞いとく」
 もう一度カップを持ち上げながら沢也は呟く。海羽は頷いて、ミルクの中に答えを落とした。
「やり過ごせると思ったんだ」
「途中までは上手くやってたんだろうしな」
 ため息に似た声が連なる。海羽が顔を上げるよりも前に、沢也が重ねて問い掛けた。
「探知機が付いてることには気付かなかったか?」
 驚いたように瞬きをする彼女に、沢也はネックレスを提示する。元々海羽が持っていたままの状態に戻したものだ。
「…これに付いてたの?」
「正しくはそれのイミテーションが付けられてた。心当たりがありそうだな?」
 震える手で受け取ったそれを見下ろす海羽に、沢也は説明する。海羽は俯いたまま頷いて、次に勢い良く顔を上げた。
「秀から取り返したのは蒼だ。礼を言うならあいつに」
 顔の前に掲げられた沢也の掌。海羽はその手が膝の上に下がるのを待って、小さく息を吐く。
「もっと早く、気付くべきだった」
「追い詰められりゃパニックにもなんだろ。良く逃げたもんだ」
「あの人が、助けてくれたから」
 互いにカップの中身を眺めたまま、静かに続く会話に小さな間が空いた。
 沢也はカップをテーブルに戻し、ゆっくりと首肯する。
「事情は聞いてる。説明もした」
「…そうだったのか。ごめんな」
 自分が気を失ったあとの事を想像で補って、海羽は申し訳なさそうに身を縮めた。沢也は息を吐くように軽く笑う。
「また遊びに来いって。客として」
「…でも」
「俺はあいつの伝言を伝えただけだ。後はお前次第」
 言い訳の勢いを殺すように、若干早口で言い切った沢也は、コーヒーカップを手にして大きく傾けた。
 海羽はその間を使って自分の中で決着を付ける。
「ちゃんと、話すよ。僕からも」
「それが良いだろう」
 深呼吸の後、呟かれた結論に短い同意が続いた。沢也はすっと席を立ち、カップをルビーに収めながら人差し指を海羽に向ける。
「だが暫くは安静。せめて二日は大人しくしてろ。色々検査もしてえし」
「分かったよ。もう無茶はしない」
「当日ぶっ倒れられても困るからな」
「ううう…ごめんってば…」
 意地悪な笑顔に苦笑を返し、海羽は沢也の背中を見送った。
「悪かったな」
「…へ?」
 扉が閉まる間際に呟かれた一言は、解析するのに苦労こそしたが、理解してしまえば何と言うことはない。海羽はただ、一人頷きながら曖昧でいて愉快そうな笑みを浮かべた。

 そうして海羽が笑う間に王座の間へ出た沢也は、厨房から戻った倫祐とすれ違い様に会話する。
「安定するまでは、出来るだけ側に居てやれ」
 命令口調に相手が頷く訳もなく、しかしみすみす逃がすわけにもいかない。
「八百屋の事を気にしているのか?」
 沢也は核心をそのまま口にした。広い室内に、彼の言葉は珍しく響かない。何故なら小声で話しているから。
「海羽はあいつを選ばなかったそうだ」
 解答を得ないうちに呟くと、倫祐が体半分振り向いた。疑問の眼差しが真っ直ぐに伸びてくる。
「お前の記憶が無い時の話だぞ?」
 事実を口にしただけなのに、あちらはまだ納得していないようだ。目を逸らして何やら考えているようにも見える。
 振り向いて結を確認した沢也は、彼の顔が複雑に歪むのを見た。
 全ての紐解きを後回しにして。
 再度倫祐に向き直った沢也が話を纏めにかかる。
「そんなわけで、幾つか頼みがあるんだが…」

 その後の会話はほんの数分で終了した。
 二人分の食事を取りに行っていた筈の倫祐が、手ぶらのままセキュリティ付きの扉を押す。
 彼が何かを持ったまま歩いているところを、殆ど見たことがない。沢也は不意にそんなことを思い起こしながら、ルビーの存在意義について考えを巡らせた。しかしそれは、踵を返した時には霧散する。
 山と積まれた書類や、待ちわびたような結の眼差しが彼の目に飛び込んできたからだ。
 蒼が判を台に戻して席を立つ。隣の部屋から有理子が顔を出した。
 沢也はため息と共に大きく上に伸びる。ルビーにしまったままだったコーヒーカップを、長テーブルの上に乗せた。

 そうして朝は過ぎていく。
 何事もなく、平和なまま。





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