責任 倫祐は街を抜けた後、城の裏手から城壁を越えた。 三階まで屋根や凹凸を伝い、窓から王座の間に入る。 中に居た沢也は二人を認めるなり、黙って書庫に誘導した。 倫祐は促されるまま、奥のソファに海羽を寝かせる。明かりを付けた沢也は、診察がてら傍らに佇む倫祐に問い掛けた。 「何があった?」 返答はない。脈や体温、血圧を確認した後見上げてみると、彼は俯き気味に中空を眺めている。 言いにくいのだろうか。沢也がそう感じて再度口を開こうとすると、倫祐が小さく呟いた。 「戻ってしまった」 何が、とは問わなくても分かる。寧ろその後悔に似た言い回しの方が気になった。 「多分」 悶々とする中に、半端な補足が入る。がくりと体を傾けた沢也は、先の疑問を後回しに補足の意味を考えた。 「記憶が戻って、直ぐに気を失ったのか?」 短い問いに首肯が返される。 「だから、また目を覚ました時に覚えているかどうかは分からないと」 呟けばまた首肯。沢也はため息で理解を示して彼を見上げた。 「思い出した切欠は?」 ピクリと、倫祐の身が揺れる。沢也が瞬きをする間に、彼の右手が持ち上げられた。 倫祐は黙って自分の掌を見据える。それを半端に握り締めて、まるで懺悔するように言った。 「触れたら」 「その手で?」 簡潔な問いに、首肯と呟きが返される。 「頭を」 「撫でたのか?」 倫祐はまた頷いた。申し訳なさそうに、ゆっくりと。 沢也は彼の感情を脇に追いやって、小さくため息を吐く。 「前にも同じことをしなかったか?」 見上げると、倫祐は短く考えて肯定した。 「それなら問題ない。単なる切欠に過ぎなかった訳だ」 安堵の混じる笑みが沢也の顔に浮かぶ。逆に倫祐は不安げに首を傾けた。勿論無表情なので、実際に不安なのかどうかは聞いてみないと分からないが。 「俺が心配していたのは、秀関連だよ」 沢也はいつものように、倫祐の考えを推察して答えを口にする。的を射ていたのか、彼の瞳がこちらを向いた。 「あいつの影響でこうなったのでなければ、それでいい。勿論、それも原因の一つではあるんだろうが。なにしろ、今日一日海羽を追いかけ回していたらしいからな。機械の類いを複数使い分けていたそうだから、透明化魔法の弱点を付かれたんだろう」 海羽が倫祐の元へと出向いた後、義希や沙梨菜から得た情報を提示すると、倫祐も動きを見せる。こちらは言葉でなく、物質のようだ。 沢也はルビーから出た品を、倫祐の掌から受け取り、目の前にぶら下げる。海羽がいつもしていた、彼女と相性の良い水晶…の、イミテーションのようだ。しかも水晶部分は見事に砕け散っている。 「壊したのか?」 「壊れた」 沢也が残りの欠片を受けとる間際、倫祐は説明した。 「抱えた時に」 バキッと、とまで囁いて、20文字の弁解は終了する。 沢也は何だか可笑しくなって、思わず吹き出した。まるで悪戯をして叱られた、子供の言い訳のように聞こえたからだ。 不思議そうに瞬いた倫祐に片掌を向け、謝罪の意を込める。伝わったのかどうかは分からなかったが、その間見下ろした水晶の欠片に混じる、不審な物体の正体は分かった。 「…発信器だな。探知機の」 透明な物の中に隠す為、わざわざ透明な素材を使った上に、回りを白い球体で覆っている。それに酷く小さい。 「かなりの粗悪品だ。電波を発する周期が5分近くはあるだろう。だからこの時間まで逃げ回れたんだろうな」 今はもう動いていないけど。そう付け足して、沢也は更に想像を巡らせる。 「気付かぬうちに、すり替えられたのか。だとしたら、俺が海羽に会わずにいたここ数日の事だろう。悪いことをしたな」 水晶を使えば偽物だと言うことに気づけた筈だ。それをする余裕も無かったと言うことは、さぞかし怖い思いをしただろう。 沢也は海羽の顔を暫く眺め、謝罪するように息を吐いた。その後静かに立ち上がりがてら、未だ立ったままの彼に命令する。 「後始末はしておく。お前は側に居てやれ」 視線を送ると、倫祐は困ったように瞳を細めた。彼的に納得出来ない理由は、内情を理解しているだけに予測が付く。 それでも沢也は引かなかった。その理由は、きっと倫祐には分からないだろう。 「海羽も不安だろうし、記憶の有無を確認する為にも。お前、今日は非番だろ?何か予定でもあるのか?」 苦笑混じりに問うと、控え目な否定が返された。 「なら、頼む。やることが貯まってるんだ」 有無を言わさぬような理由を拵えて、しかし嘘は付いていないと心の中で弁解しながら、沢也は扉に手をかける。 倫祐は沢也がそれを外に押すまで沈黙を保っていたが、退出しようとする間際になってやっと了承した。 沢也はそれにヒラリと手を振り返し、出来るだけ静かに扉を閉める。 足音が遠ざかっていく。他に何も、音がしない。 室内を見渡せば、本の背中が沢山見えた。閉まったカーテンからは闇夜が僅かに透けて見える。 目線を下げると、ソファに横たわる海羽の体が、規則的に上下に動いているのが見えた。その表情は、確かにやたらと不安定に感じる。 倫祐は隣のソファを背に床に腰掛けると、傍らに収まっていた本を引き抜き、音もなく最初のページを開いた。 「沢也…」 扉が閉まるよりも早くに名を呼ばれた彼は、不安げな眼差しに小さく肩を竦める。有理子は自分の隣を通り過ぎ、長テーブルに歩み寄る沢也を追いかけた。 「目覚めてみねえと何とも言えないが、恐らく問題ないだろう」 「問題ないって、何よ…」 問い直すと同時。テーブルに片手を付いた沢也が有理子を振り返る。 「思い出しただろう、ってこと」 核心を口にすれば、有理子の瞳に映る光の色が変わった。それを目の当たりにした沢也は、念を押すように付け加える。 「まだ確定じゃない。それに、二人揃ってダメージを受けてる。魔力が縮小している可能性も否定できねえ」 「分かってる。でも、良かった…」 ストンと椅子に身を預け、ぐにゃりと肩の力を抜いた有理子の声が、見事に安堵の色に染まった。 沢也は彼女の旋毛にため息を浴びせ、スーツから携帯を引き抜く。 「勝手に安心するのは構わねえがな。問題は山積みだ」 言いながら短くない文章を短時間でメールにし、送信した。次に電話を耳に当てる。直ぐ様繋がり会話が始まった。 「周囲に秀、及びその部下が居るか?」 相手は誰だろう。有理子が考え付く間もなく、沢也は小さく頷いた。 「分かった。視界に入ったら直ぐに連絡をくれ。ああ、よろしく」 結局何処にかけたのか分からぬまま、立ち上がった有理子は沢也の手元を覗き込む。 すぐに耳元へ移動していった画面の中では、義希の番号が自動でダイヤルされていた。 有理子は詮索を諦めてコーヒーを淹れに行く。沢也はそれを横目に繋がった相手に問い掛けた。 「様子は?」 「倫祐の部屋に無断侵入して、今揉めてるとこ」 報告しようとしていたのだろう。義希にしては簡潔な答えが返ってくる。 「大屋さんが大分怒っちゃっててな…矛先が倫祐にまで向かいそう。何とか宥めてみるけど…」 「分かった。お前、気に入られてたからな。任せる」 「うぐ…もしもの時は…」 「分かってる。また何かあったら連絡しろ。ああ、それと。そっちに秀は居るか?」 「いや、上手いこと逃げられた」 「そうか。ならいい」 言うだけ言って通話を終えると、丁度有理子が側まで着たところだった。 沢也は彼女の手からカップを受け取り、横目に大扉を観察する。 「多分、こっちに来るだろうな」 「返り討ちにしてやってよね?」 口元までカップを持ち上げた有理子の眼光が殺気に満ちた。思わず固まった沢也の代わり、沈黙を貫いていた人物が笑顔で答える。 「ご期待に添えるか分かりませんが」 その黒さは有理子のそれを軽く凌いだ。 やれやれと言った調子で苦笑した沢也の手元、持ったままだった携帯が振動する。 「見付けたか?」 繋げるなり訊ねれば、あちらから歯切れの良い返事があった。微かに部屋に漏れたそれは、有理子も耳慣れた小太郎のダミ声だ。 「悪いが、暫く見張っていてくれ。出来るだけ気付かれないように。銭には連絡しておくから、駐屯地に戻らずそのまま。…ああ、頼んだ」 「誰を見張らせるのよ?」 話が終わるなり問いかけてきた有理子に、沢也はコーヒーを飲んでから回答する。 「八百屋を見張っていた男」 「八百屋さんに危害が加えられては困りますからね」 静かにスタンプを起き、青いインクの蓋を閉じた蒼が補足した。彼はそのまま王座に移動する。 そのタイミングでまた、沢也の携帯が音を立てる。 「来たか?」 また、繋がった側から沢也は聞いた。その内容に有理子の身が硬直する。 「分かった。そのまま通してくれ」 指令の後、沢也は二人に目線だけで合図して、セキュリティ付きの扉に向かった。 彼は扉の前で立ち止まり、人差し指を持ち上げる。指先に淡い光を集め、それを滑らせることで小さな魔法陣を描いた。 沢也はそれを、タブレットやスマホの画面を拡大する要領で大きくする。仕草も実にそのまま、ピンチアウトするかのように。 海羽や小次郎は一瞬で陣を生み出すが、実はそう簡単なことではない。 ノータイムで陣を引けない魔術師は、呪文を用いて展開するか、実物大を指先や手のひらで描く事が多い。 「何時見ても不思議な光景ですね」 蒼が密かに見とれるうちにも、沢也は新たな陣を重ねて描く。因みに先のが防音魔法。今描いたのは衝撃吸収魔法。 「特殊らしいな。海羽にも驚かれた」 「魔法ってほんと、インスピレーションが大事なのね」 詠唱の合間に返された答えに有理子が納得する中、沢也の手が三つ目の陣を広げた。 こちらは衝撃を与えると大きな音で威嚇する陣である。 子供騙しではあるが、驚かせるには十分だ。 「でも、必要あるかしら?」 詳細までは分からぬものの、大袈裟に見えた有理子が小首を傾げる。 「念のため、な」 錯乱した秀が強行手段に出ることは容易に予測できた。セキュリティシステムが作動して、怪我をさせては面倒なのである。 「話は?」 「僕が」 「なら、これ」 単語だけが行き交う沢也と蒼の間を、銀色に輝くチェーンが飛んだ。 沢也が投げたそれをきちんと受け止めた蒼は、目の前に掲げて見せる。 「発信器だ。倫が触ったら壊れたらしい」 確かに、水晶に似せたであろう物体は粉々で見る影もない。 「重罪ですね」 「上手く使えよ?」 呟きが早口に重なる。例の足音が近付いて来たからだ。 「海羽さんを何処へやった?」 予想と大差ない文句と共に、大扉の両側が開かれる。振り向いた三人を順に見渡しながら、秀は部屋の中程まで進行した。 「隠しだてても無駄ですよ」 「元より隠すつもりなどありません」 「それなら、さっさと…」 応答した蒼が、王座に座ったまま腕を上げた事で秀の言葉が途切れる。真っ直ぐに、前に伸ばされた蒼の手には丸い水晶の付いた、ネックレスが握られていた。 何時の間に付け替えたのだろう。近場にいた有理子と沢也が、顔にも声にも出さずに、心の中で苦笑する。 「何です?それは」 秀の眉が歪んだ。質問に対し、蒼はいつもの笑顔を傾ける。 「何だと思いますか?」 ハッキリとした問い直しは、誰の耳にも含みのある物に聞こえただろう。秀は小さく口端を上げて、鼻から荒く息を吐いた。 「…知りませんね。私が付けたとでも仰りたいのですか?」 「そうなんですか?」 「知らないと言っているだろう。そんな安物、この私が贈るとでも?」 「誰に、ですか?」 「彼女以外に誰が居る!」 「彼女とは?」 「海羽さんだろう。頭がどうかしてしまったのですか?あなた様は」 何の躊躇いもなく言い切った秀は、蒼が作ったおかしな間を、訝しげな顔を回す事で消費する。 「僕は、これが彼女の物だとは、一言も、言っておりませんが」 うっすらと、開かれた瞳の青が酷く恐ろしい。絶句した秀が口を開くよりも早く、蒼は更に言葉を並べた。 「何故彼女の持ち物だと思ったのですか?」 「…見覚えがあったからです。彼女がしていたでしょう。毎日のように、首から下げて」 「それなら貴方が付ける必要はありませんよね?毎日のように、彼女が自分で付けているんですから」 「だから、何だと言うのです」 「どうして貴方が付けた等と、疑わなければならないのでしょう?貴方は何故そんな心配を?」 「知らないと言っているだろう。そんなもの!」 「そもそもどうしてそんなに怯えているのですか?」 「…どうして?そんな分かりきったことを聞くのですか?」 はは、と。秀の口から乾いた笑いが漏れる。彼はしっかりと腕を持ち上げて、蒼の持つ水晶を指差した。 「それはどう見ても偽物ではないですか。本物の宝石かどうかなんて、一目見たら分かります」 「分かるのですか?」 「当然です。私を誰だとお思いですか?貴族たるもの、それくらいのこと…」 ふわりと、蒼が席を立つ。 ゆっくりと接近してくる彼の笑顔と、その手前で揺れる透明な水晶とを。秀は交互に見据えた後、次第に瞳を泳がせた。 「偽物、ですか?」 問い掛けられて、彼は今一度水晶を凝視する。しかし答えは覆らなかった。それは確かに、本物だ。 「…っ!そんな筈は…」 焦りのままに、秀は上着のポケットをまさぐり、手を引き抜いた。恐る恐る開いたその掌には、小さな水晶が確かに認められる。 「やっぱり」 間近で聞こえた呟き。咄嗟に自身の手を後退させるも既に遅く、あっと言う間に掌から拾い上げられた水晶は、蒼の指先にそっと摘ままれていた。 「貴方だったんですね」 言霊が告げるのは単なる真実。しかし、その言霊を生み出した微笑が告げるのは、全てを闇に染める合図。 「違う!それは…」 「違うかどうかは、海羽さんに確かめれば分かります。貴方は知らずにすり替えたのでしょうが、この水晶は彼女の魔力に適応した、特別なものなんですよ」 穏やかで、酷く静かな、優しい声が響く。秀は冷や汗を拭うでも無く、歯軋りをしながら一歩後退した。 「だから、何だと言うのです?」 「不正電波の使用」 ポツリと、沢也が口にする。秀だけが、まるで助けを求めるように彼を振り向いた。しかし後続する沢也の言葉が彼を救う訳もない。 「プライバシーの侵害、不法侵入、窃盗、ストーカー行為、違法アイテムの無断使用…」 「五月蝿い!黙れ!」 ガッと。靴の底が焦ったように鳴いた。秀はそれを誤魔化す勢いで捲し立てる。 「そんなもの、彼女の同意があってのことです。彼女の同意さえあれば、彼女が許すと一言口にすれば、罪にもなりやしない」 早口に、早足に。セキュリティ付きの扉に歩み寄った彼は、勝ち誇った笑みを振り向かせた。 「どうせこの先でしょう?あの男が拐って閉じ込めたのでしょう?貴殿方はそれを黙認している、最低の人間です!恥を知れ。ああ、海羽さん…私が今、助け出して差し上げますからね…待っていて下さい、今すぐに…」 途中、芝居じみた怒りや哀れみを振り撒きながら、そろそろと手を伸ばす。しかし扉に辿り着くより前に、秀の指先が触れた空気が光の波紋を起こした。 「小賢しい…貴様の仕業だな?」 現れた魔法陣を見て、秀は沢也を睨み付ける。そして直ぐ様拳を振り上げ、魔法陣の表面に打ち付けた。 「こんな魔法!」 バン。と、発砲に似た、しかしそれよりも大きな音が響く。 言葉の余韻は騒音に掻き消されて、更には驚愕の余り尻餅を付いた。何が起きたのか必死で把握しようとする秀の瞳がぐらぐらと揺れる。 次第に外が騒がしくなった。メイドをはじめとする職員が、心配して様子を見にきたのだ。 沢也に倣って耳を塞いでいた三人は、放心状態だった秀の意識がそちらに戻るよりも早く行動に出る。 「器物損害も付けましょうか?」 蒼が乾いた笑みで言った。研ぎ澄ました眼光を振り向かせた秀は、彼の仕草を見て大口を開ける。 「何をしている?」 「もしもし、お世話になっております…ええ、いらしていますよ。今日も、まだこちらに」 質問も虚しく始まった会話は、秀が立ち上がる間にも継続された。 「ですが少々困ったことになりまして、お忙しいのを承知でご連絡させて頂きました」 「やめろ…!」 伸びた手が蒼の手から携帯を奪う。肩で息をして、携帯を振り上げた秀の腕を蒼が掴んだ。 彼は難なく自分の物を取り戻す。次に通話が切れている事を認めて肩を竦めた。 「公務執行妨害」 「黙れと言っている!」 背後での呟きに激高した秀は、振り向くと同時にまた硬直する。何故なら沢也が携帯を耳から離したところだったから。 「直ぐに来るそうですよ」 「…は?」 報告に上擦った声が答えた。沢也はにこりと微笑んで、事務的に話を繋げる。 「聖さんです。丁度、王都にいらしていたようで」 「まさか!」 「と言うか先程まで会議に参加してらしたんですが。まだ居てくれて助かりましたよ。ディナーを終えたところだそうで」 叫ぶ秀を前に、沢也の表情がスッと真顔に切り替わった。秀の口元があからさまに引きつる。 その後ろから、音もなく蒼が近寄った。気配で気付いた秀が振り向くより前に、蒼はつらつらと警告する。 「これ以上報告するべき罪状を増やされたくなければ、大人しく待つことです。そうすれば、何とかして下さるのでしょう?」 すぐ目の前に、互いの顔が。歯を食い縛る秀を見下ろして、蒼は一言。 「貴方の義兄様が」 冷たい微笑で言い放った。 秀の頭に血が昇る様子を間近で確認する。その拳が伸びてくる様も、スローモーションのように見えた。 不意を突いたつもりだったのだろう。あっさりと受け止められた自身の拳を、秀の驚愕の眼差しが見据えた。 蒼はその手を簡単に解放しながら皮肉を放つ。 「傷害罪…いえ、未遂でしたね」 「暴れるなら手錠をかけさせてもらうが?」 両手を広げて煽る蒼を前に、怒りで震える秀を沢也の声が制した。 振り向いた秀は、沢也の手が回す銀の輪を忌々しげに睨み付ける。 「嫌なら大人しくしてるんだな。次、何かしたら問答無用で装着する。お前が散々笑い飛ばした、藤堂みたいに」 そう口にする沢也の笑みは、まるでいじめっ子が浮かべるそれのようだ。今にも殴りかかりそうな秀の表情が、振り向いた彼の肩越しに見える。 一人沈黙を保っていた有理子は、二人の放つ凍えるような殺気が外に漏れぬよう、野次馬にきた職員を散らしにかかった。 夕食の香りが漂う中、秀は聖の車に回収されて王都を出る。彼の部下達は、車を含めて全て置いていかれた形になるか。 とにもかくにも、それが彼の上司である聖の指示なのだから、抗う術など持ち合わせて無かっただろう。 後部座席に並んで座った二人は、言葉もなくエンジン音を聞いていた。 聖は何処まで事情を知っているのだろう。少なくとも、呼び出しの電話以外であの二人とコンタクトを取った様子は見られなかった。 ただ、退屈な挨拶と共に別れを告げただけ。ならば今、彼を言いくるめれば咎められる事もないのではないか。 秀は沈黙の中でそう考えて、意気揚々と聖を振り向いた。しかし真っ直ぐに、進行方向を見据えている彼の横顔を見た瞬間、喉の奥底まで言葉が引いていく。 聖は秀を振り向く事もなく、本島までの道のりを無言で過ごした。 貴族達は、本島に着いて直ぐのところにある草原に専用の飛行機を停めている事が多い。常駐している訳ではなく、連絡すれば直ぐ様家から向かえが飛んでくると言うことだ。 聖は車ごと乗り込める形の機体に、秀を乗せたまま搭乗する。パイロットは安全を確認した後、車の運転手と同じくやはり無言で離陸した。 高度が安定すると共に、モーター音も落ち着きを見せる。秀が行き先に不安を覚えて聖を振り向くも、彼は気にする素振りも、説明する素振りも見せなかった。 結局秀は何の言葉も聞かぬまま、数十分後に実家の前に下ろされる事になる。 何も言われなかったと言うことは、大したことではないのだろう。秀は安心して地面を踏んだ。勝ち誇った笑みすら浮かべていたかもしれない。 そんな彼を迎えたのは、彼の義理の兄である。挨拶の為出てきたのだろう、と言う秀の憶測は間違いではなく、彼は屋上に着陸した最新の小型機に近寄り、大声で話した。モーターの音が大きかったからだ。 「大変なご迷惑をお掛け致しました」 「もののついでです、構いません。それよりもきちんとした報告を、お待ちしておりますよ」 それだけ言って、聖は扉を閉めようとする。秀の兄はそれを遮り短く問い掛けた。 「秀は何か言いましたか?」 「いいえ?」 「黙秘したと言うことですか?」 「いえ。移動中は会話もありませんでしたから」 直ぐ後ろで会話を聞いていた秀が、義兄の流し目を受けて笑顔で肩を竦める。 「何も聞かれませんでしたから」 その仕草で顔をしかめた義兄が聖を見上げると、座席に座ったままの彼から溢れる空気が変わった。 「何故、私が話を聞かなければならないのですか?」 兄弟が揃って身を固めるのを鼻で笑い飛ばし、聖はさらりと言い捨てる。騒音の中、声も張り上げていないのに、二人の耳には彼の言葉がハッキリと届いた。 「面倒ごとは御免です。全てそちらの家で済ませた上で、報告だけ上げてください。簡潔に、言い訳は結構」 機体の扉が静かに閉まる。 残された二人は風圧に押されるようにして、家来が待つ家の入り口まで後退した。 その日、秀は何時ものように平然と食事を取り、義兄の制止を振り切って自室で眠りにつく。「疲れているのだ」と宣い部屋に入ったのが、午後10時の事だ。 翌日早くに呼び出された彼は、父親と義兄が放つ重苦しい空気を鼻で笑った。 座りなさい、と示されたいつもの椅子に座る。正面には義兄。左手の誕生席には父が座っていた。 「流石に度がすぎたな」 電話と文書で事の顛末を聞いた父親が、息子に向けて重い言葉を放つ。秀はそれに「はあ」と一言呟いてははっと笑って見せた。 そんな態度に反応した義兄が、震えながら事実を口にする。 「もしも妖精の力が消滅していたら…」 「消滅?まさか…」 「勉強したのではなかったのですか?」 秀の嘲笑を、義兄の驚いた顔が見据えた。彼はそのまま身を乗り出して、熱の籠った解説をする。 「彼女に負荷がかかりすぎれば、そんな事態も起こり得るんですよ」 ばしり、と資料が叩き付けられた。テーブルの上で大人しくなったそれを三人が見据える。 態度を改めない秀を前に、義兄は諦めたように椅子に腰を下ろした。 一貫して反省の色を見せない秀の態度から、事の重さを理解していないのは十二分に分かると言うもの。この家に課せられた「魔導師から妖精の力を獲る」と言う指令に、「実行不可」しかも「自ら破壊した」と言う最悪の報告をしなければならなかったかもしれないのだ。当主も、自分も、国王陛下からの説明を受けながら、さんざん冷や汗を流したと言うのに。当の本人がこの様子では、また同じようなことをしかねない。 「消滅しなかったのだから問題ない」とは結果論であり、その危険性を考慮しない行動そのものは大問題に他ならない。人の首を絞めたが、死ななかったのだから罪にはならない、と馬鹿げた主張をするのと同じである。 指令をこなせなければ。この家に危険が及ぶ。存続に支障が出る。 しかし秀の中ではその危機感よりも、目先にある自身のプライドが優先されているのだろう。実に馬鹿げた話である。彼のプライドが保たれたところで、家が無くなっては彼が侮辱する平民以下に成り下がると言うのに。 泥のようなため息が義兄の口から漏れた。ダメージを受けた彼の様子を前に、秀は寧ろ愉快そうである。 そんな二人の間に長い息を割り込ませた当主、要は彼等の父親に当たる人物が、やはり疲れた様子で実の息子を振り向いた。 「そう言うわけだから。秀、お前にはこの任務を外れて…」 「馬鹿な。私以外に誰が彼女を落とせると言うのです」 がたりと、秀が立ち上がる。一体何を邪推したのか、義兄を睨み付けて舌打ちした後、踵を返した。 「見ていろ。直ぐにでも彼女をここに…」 「止めろと言っているのが分からんか」 威圧のある声が彼の足を止める。父親を振り向いた秀は、徐に眉を吊り上げた。二人の接触を避けようと、義兄が咄嗟に間に入る。 「今は接触してはなりません。精神が安定するまでそっとしておかなくては」 「精神が不安定な今こそチャンスなのでしょう。あなたは何も分かっていない」 「分かっていないのはお前だ秀!」 机と拳がぶつかる衝撃音と、父親の怒鳴り声が重なった。 義兄は歯噛みし、秀は目を見開く。 全員が全員、視線を反らしたまま、沈黙が訪れた。 落ち着いた場に父親が再度命令しようと口を開けば、それよりも早くに秀が進言する。 「ならば彼女に接触しなければいいのですね?」 は?と、裏返った二人の声が漏れた。秀は呆然とする彼等に禍々しい笑みを注ぐ。 「あの男を抹消します」 愉しげに、言い切った秀の耳に、二人の抗議は届かなかった。 「それなら問題ありますまい」 問題にしかならない。扉が閉まった矢先に溢れた義兄の言葉に、当主のため息が見事に重なる。 それでも二人が必死で止めようとしないのは、彼の策略などせいぜい王都に迷惑をかけるくらいで、成功した試しが無いからだ。 そもそもこちらには被害が及ばない。後は降りかかる火の粉を払うだけで言い。ずっとそうしてきたように。 しかし本当にそれだけで大丈夫だろうか? 義兄の脳内に疑問が走る。 今回のような事があれば… 「私達は何も知らなかった」 当主が、諦めたように呟いた。振り向いた義理の息子に、彼は更に釘をさす。 「何も知らなかったのだ。あいつは聴取を拒否して家を出た。ここには来なかったのだ。…いいな?」 有無を言わさぬ圧力があった。 「…分かりました。義父上」 その日から、秀は姿を見せなくなる。 彼の生家にも。 王都にも。 城にも。 王座の間にも。 cp95 [palm]← top→ cp97 [memory] |