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 大きな夕陽が城壁の白を赤く塗り変えている。その姿が滲んでゆらゆら揺れていた。
 八百屋の青年が追って来るとも知らず、息を切らせて丘を登る海羽の頭の中は、沢山の言葉で溢れている。

 あの人が良い人だって、僕は良く知っている。
 秀さんと違って、一緒に居ると楽しい。ちゃんと話を聞いてくれる。僕の事、思ってくれているのが分かる。
 それなのに、どうして…どうして駄目なんだろう。
 何故頷けなかったんだろう。
 嫌いじゃないのに。拒否をする理由はなんだろう。
 分からない…分からないよ…

 ………


 分からない?


 そんなわけない。

 そうだ。

 理由なんて、一つしかないのに。


 不意に浮かんだ考えに驚いて、海羽はもつれた足を止める。
 城門が正面に見えた。門番の2人が不思議そうに首を傾けた気がする。
 意識とは別の所でされた認識をそのままに、海羽の頭が再び回転を始めた。
「一つ…しか…ない?」
 呟くと、頭痛が更に酷くなる。横から殴られたような衝撃がこめかみに走った。
 それでも彼女は考えを止められずに、流れていく言葉を必死に追いかける。

 どうしてそう思ったの?
 僕は何を知っているの?
 何を…知っていたの?

 額を抑えて立ち尽くす海羽の表情が苦痛に染まった。痛みと不安で泣き出しそうな彼女の名が遠くから響いてくる。
 つられて顔を上げた海羽は、城の裏手から城門に向かいながら、手をはためかせる彼を小さく呼んだ。
「リーダー…」
 懐かしさに任せて駆け寄ると、彼女の思考が悩みから遠ざかる。それにつれて頭痛も収まり始めた。
 リーダーは城門のすぐ近くで海羽と合流し、息の上がった彼女に笑顔を注ぐ。
「やあ、海羽ちゃん。久し振りだな」
「えと…お久しぶりです。お元気でしたか?」
「ああ、勿論」
 なんとか笑顔を浮かべて見せると、リーダーも笑みを強めて頷いた。その後一瞬だけ彼女の様子を確認するように首を傾けて、彼はまたにこりと笑う。海羽は再度口を開くリーダーの、屈託のない笑顔に安心して肩の力を抜いた。
 その瞬間。
「倫祐は元気か?」
 リーダーがなんとなしに口にした言葉が、一瞬にして海羽を闇に突き落とす。

 痛みと苦悩の渦の中心へと。

 瞳が揺れた。同時に掌が震え始める。
 頭の中でいくつもの矛盾が沸き上がって、解決しないまま体の外へと滑り落ちていく…そんな感覚に見舞われた。
「…………え?」
 辛うじて漏れた声の中に、彼女の疑問の全てが混じる。
 どうして僕にそんなことを聞くのだろう。
 どうしてリーダーがその名前を口にするんだろう。
 リーダーはいつの間に彼の事を知ったのだろう。
 リーダーは飛龍の盗賊団の頭領で…何時もはアジトにいる筈なのに。
 アジト…盗賊団のアジトは、今…郵便課の拠点にもなっていて。
 昔のままの、洞窟にはなくて…
 今は…昔…………忍者の…
 そこまで考えた瞬間、後ろからハンマーで殴られたような衝撃が全身を駆け抜けた。
 たまらずしゃがみ込む海羽を、リーダーが慌てて支えようとする。
「海羽さん…!」
 彼女の名を呼んだのは、街の方から駆けてきた青年だった。顔を上げたリーダーと、苦し気な海羽を交互に見据えてから、彼は海羽の背に手を当てる。
「大丈夫ですか?何か言われたんですか?」
「いや、オレは何も…」
 突然の疑いに弁解するリーダーも、流石に困惑して眉を下げた。
 そんなやり取りを、少し離れたところから横目に眺めていた正宗が、瞳を正面に直して相方に声をかける。
「茂達」
 呼ばれた彼は、直ぐ様頷いてリーダーに歩み寄った。
「手を貸して頂けますか?」
「今参謀をお呼びします。あなたもご一緒に、エントランスでお待ちいただけますか?」
 その背後から正宗が、焦燥する青年に呼び掛ける。答えを出すよりも前に茂達に誘導された彼は、リーダーに支えられる海羽を気遣いながら城門をくぐった。
 短い中庭を抜け、背の高い扉を開いた直ぐあとに、茂達が唐突に問い掛ける。
「あの方はお知り合いですか?」
「…え?」
 自分宛だとは思えなかったのだろう。キョロキョロと辺りを見渡す青年を正面から見据え、茂達は簡潔に補足した。
「あなたの後ろを付いてきた方です。お気付きではありませんでしたか?」
 閉まった扉の向こうを示すように、数秒間流していた目をまた正面に直す。そんな茂達の仕草を追い掛けながら、青年はその人物に見当を付けた。何故なら他に思い当たる知り合いが居ないから。
「その人は多分…お店の常連さんで…」
 呟くと、自然と背筋に寒気が走る。俯いていた顔を海羽に向け、彼女が意識を失ったことを認めた彼は、困惑と不安と焦りの全てを声に滲ませた。
「彼女の…海羽さんのこと、色々後押しして下さったんですが…」
「八百屋の事で脅されでもしたか?」
 上から降ってきた声の内容に、加えてラジオで聞いたことのある響きに、驚いた青年の顔が上がる。
「おど…彼は、一体何なんですか?僕に、何をさせようと…」
 狼狽える彼を横目に見据え、階段を下りきった沢也は、まずリーダーに肩を竦めた。
「悪い、部屋まで頼めるか?」
 ぐったりと力の抜けた海羽を抱え上げていたリーダーは、彼の苦笑に曖昧な笑顔で応える。
「それは構わんが…悪いときに来たようだな」
「後できっちり説明する。暫く見ててやってくれ」
 何とも言えぬ表情を傾けた沢也に頷いて、リーダーは王座の間へと足を向ける。その後、彼の背中が階段の向こうへと消えるのを見届けてからやっと、沢也は小さく口を開いた。
「海羽のこと」
「…え?」
「どうするつもりで来たんだ?」
「…どう…って…」
 降りてきた眼差しの鋭さに戸惑いながらも、青年ははっきりと言葉を紡ぐ。
「どうにもなりませんよ。僕は、彼女の意思を踏みにじるつもりはありませんから…」
 悲しげに俯けていた顔をまた持ち上げて、沢也と目をあわせた彼は、淡く笑みを浮かべて結論を言った。
「だけど、あの人の言う通り…理由があるのなら、聞いておきたいです。それからあの人の事も、きちんと理解しておきたいと思います」
「本当…良くできた人間だな」
 沢也の口の中での呟きを聞き取れず、青年は僅かな間を開けて小さく反応する。
「え?」
「誉めたつもりだ。気を悪くしたのなら、悪かったな」
 そう言って背を向けた沢也は、茂達に目配せした後階段に足をかけた。
「来いよ。全部説明してやる。お前が納得いくまで…全部な」
 半端に振り向き手招きする彼を前に、青年は言葉を詰まらせる。茂達はその背を軽く押して、自らは持ち場へ戻っていった。
 傾いた青年が振り返りながらもそのまま足を進めると、少し先で待っていた沢也も進行を再開する。
 階段を昇り、廊下を歩き、曲がり角を曲がった先に大きな扉が見えた。
 けして短くない道中、終始無言だった沢也がチラリと青年を振り返る。青年は元から目付きの悪い彼の流し目を受けてビクリと肩を揺らした。
「さっきの奴にも事情を説明しないとならないんだが…俺もそこまで暇じゃないんでな。こっちの都合で悪いが、纏めてさせてもらうぞ」
 扉を開きながら断った彼は、室内に居たリーダーを呼び寄せて部屋を横切る。
「海羽は?」
「有理子ちゃんにお願いした」
「書庫か?」
「ああ。そこまではちゃんと運んだから安心してくれ」
「一緒にいいだろ?」
 リーダーの肩竦めに頷いた沢也が青年を示した。二人は互いに目配せしてから沢也に直る。同意したものと見て、沢也は彼等を応接室に案内した。
「さて、何から話すかな…」
 呟きがてらソファーを勧め、蒼からコーヒーと茶菓子を受け取った沢也は、体制を整えた後、扉に防音魔法を施す。そうしてゆっくりと話し始めた。

 三人が応接室で事情を確認しあっている、丁度その頃。


 書庫のソファーに横たわる、海羽の意識が頭に戻る。
 頭痛と言葉の波の中、曖昧な光が瞼の向こうで揺れた。人の気配を感じてうっすらと目を開く。
 まず最初に見えたのは、風に靡くカーテンだった。白に滲む空の色は、赤と藍の両方を含む。
 曖昧にぼやけた視界が不意に揺らいで、耳に何かがこぼれ落ちた。再び歪んでいく天井の模様を眺める彼女を、馴染みのある声が呼ぶ。
「海羽…」
 心配そうに覗き混んできたのは有理子だった。海羽は彼女の顔がゆらゆらと揺れる様を暫く見詰めてから、瞼を閉じて歪みを払う。
「どうして…」
「…え?」
 詰まった呟きの合間に有理子の戸惑う声が落ちた。
 海羽は両腕を持ち上げて顔を覆い、溢れだす雫を強制的に拭う。
「どうして、僕…泣いてるんだろう…?」
 声が掠れる。
 頭の中で響く言葉は途切れる事なく、同時に締め付けられるような痛みも断続的に訪れていた。
 だけど、それよりも。
 胸の奥が圧迫されて、酷く苦しいのだ。上手く息が吸えない程に、考えれば考えるほど…痛くて痛くて仕方がない。
 だから涙が流れるのだろうか。
 止めようとしても止まらないのはそのせいだろうか。
 伸びてきた有理子の掌を無意識に握りしめる。安心したのか、していないのか、よく分からない感覚が押し寄せた。
 それに合わせて逃げていた思考と向き合うと、痛む頭に声が響く。
 出鱈目に鳴っていた沢山の言葉が止んで、きちんと整列して、順番に、語りかけるように。

 閉じた瞼の裏側で。
 黒の中に白が舞う。
 一枚の花弁が踊るように。

 その間中、背中を擦って側に居てくれた彼女の手を解放し、海羽は短く深呼吸する。
「ごめん…有理子。行かなきゃ…」
 答えは直ぐに出た。自分が何をするべきなのか、何を疑問に思っているのか。
 狼狽える有理子を見上げ、涙目で問い掛ける。
「だから、教えて?」
 ピタリと、有理子の動きが止まった。膝立ちだった彼女の力が抜けて、海羽と正面から向かい合う。
 海羽は有理子の両腕にしがみ付いて、静かに問い直した。
「あの人は…隊長さんは、何処にいるんだ?」
「海羽…」
「お願い…どうしても…会わなきゃ…」
 鈍い痛みが全身を抜ける。堪えるため、身を縮めた海羽を見据えていた有理子の表情が微かに変わった。
「分かったわ」
 呟いて、携帯に文字を打ち込んでいく彼女の伏せた眼差しが、不安と期待の狭間で揺れる。
 数分後。
 沢也からの返答を伝えた有理子は、震える掌で地図を握り締め、魔法陣を生み出した海羽をその場で見送った。光に紛れて見えなくなった彼女の姿が、向かう先を想像しながら。


 疑問は幾つもあった。
 まるで禁句が幾つも設定されているかのように、ある言葉に行き着くと必ず行き止まりになる。
 忍者、と言う単語もそうだった。
 リーダーに関する記憶は特に禁句が多く、彼の事を思い出そうとすればするほど頭が痛くなる。
 僕はみんなと一緒にリーダーに会った。それがはじめてのはずだった。だけどそうじゃなくて、もっと昔から「知っていた」ような事を、言おうとした辺りで記憶が途切れる。
 その先のことは思い出せない。
 みんなと旅をしていた時の事も、殆どが禁句だと気付いたのもそのせいだ。
 所々覚えている事はあっても、全てを覚えている事は絶対にない。
 コーラスで有理子と話したことは覚えてる。凄く嬉しくて、だけどちょっと戸惑った。本当に良いのだろうかと、後ろめたく思った。
 沙梨菜に初めて笑いかけて貰った時も嬉しかったな。あの日は沙梨菜と沢也が喧嘩して…だけどちゃんと仲直りできて、凄く安心したんだ。
 そのあと、森の中でリーダー達に会って…。
 会って、どうしたんだっけ?
 義希が喫茶店でリスみたいに頬を膨らませていたのとか、蒼が美味しそうにビーフシチュー食べるのとか、沢也が有理子にお酒勧められて困ってるのとかは覚えてるのに。その時に何を話していたのかは覚えていない。
 リリスに帰った時に、朝水や隼人に会ったことはなんとなく覚えてるのに、記憶が凄く曖昧だ。
 タワーに行くのに義希が女装したのは覚えてるのに、タワーまでの道のりも、そのあとの事も、殆ど覚えてない。
 ずっとずっと、そんな感じ。曖昧な記憶が延々と続いている。

 僕は過去を覚えていない。
 だけど僕はここにいる。

 他の誰もが見ることが出来ないバリアの中に。
 向かってくる全ての人々をすり抜けながら歩いている。

 このままこうして消えたままだったら、僕は居なかった事になるのだろうか。
 …だけど今のままだと、結局あの人に見付かってしまう。そうなる前に、みんなが探しに来てくれるかな?
 そうだと良いな。見付けてくれると良いな。
 あの人だけが僕の事を見付けられるだなんて…それはちょっと、怖いから。
 本音が頭を過ると同時に足がすくんだ。大通りのど真ん中で立ち止まってしまっても、通行の妨げになるようなことはなかったけれど。自分を感知出来ずに通りすぎて行く人々の無関心が、勝手ながら怖くなって。海羽は無理矢理足を踏み出す。
 行き先は通りの反対側、橋に程近い…ちょっと前まで義希が住んでいた小さなアパートだ。
 裏路地を歩いてもいいのだが、バッタリあの人の関係者に出会した時に周りに誰もいないのは怖いからと、彼女は敢えて人だらけの道を行く。
 身体中にまとわりつく恐怖から逃げるように、頭痛の種となる言葉と向き合い歩行をオートにした。薄闇に染まる空を飛べるほどの元気は、もう残っていないのだ。
 それでも足は勝手に動く。理由は自分でも不思議な程に理解できた。
 リーダーが彼の名を口にしたことも。
 シュークリームを貰ってくれたのが嬉しかったことも。
 顔を見た時懐かしく感じたことも。
 そう、心当たりが多いのは確かだ。
 だけどそれよりも。

 ただ、無性に会いたかったから。

 殆ど知らない人の筈なのに、どうしてだろう。
 会って、何を話していいのかすら分からない。だけど、それでも会いたかった。
 会いたくて会いたくて、気が急くくらいに。

 何時しか駆け足になっていた。
 頭が痛いし、息も上がっていたけれど、纏まってしまった気持ちを止めることなんか出来なかった。
 今の僕には、それにすがるしか、前に進む方法を見付けられそうにない。
 足がもつれて体が傾く。それだけでまた頭痛がした。
 何か思い出せそうな気がしたのに、それより先に痛みが押し寄せる。
 膝から流れた血をそのままに、立ち上がった海羽はまた走り出した。
 何処からか響いてくる呼び声から逃げる為にも。
 早く辿り着かなければ。
 あそこまで行かないと、会うことが出来ないんだから。



 沢也の口が全てを語り終えるのに、実質15分もかからなかっただろうか。
「そうだったんですか…」
 静かな部屋に呟きが落ちる。特別質問や反論も無く納得の意を表したのは八百屋の青年だ。
 彼はその後数秒を経て、表情を哀愁から憂いに変える。
「僕は、彼女がふわってなるのが好きで…」
 まるで思い出し笑いでもするように微笑を浮かべた青年は、呟きながらハッとして居合わせた二人を見渡した。
「ああ、すみません。ほら、何て言うか…考え事するときに、嬉しそうに宙を見上げて笑う仕草を見て、好きになったんです。だけど…」
 言い訳がてら俯いていった彼の、組んだ両手に力が籠る。
「おかしいとは、思ってました。いつの間にかそうならなくなったから」
 懺悔にも似た言葉を聞いて、リーダーも沢也も彼の旋毛を黙って見下ろした。
「今思えば、それはその人を忘れたせいだったんですね。ついでに、彼女がああなるのは、その人を思っている時だった」
 掠れた言葉尻にふうと息を吐き出した青年は、不意に笑顔を持ち上げて苦笑に直す。
「なんだか、スッキリしました」
 その物言いに何か言いたげな二人の反応を待たず、彼はまた言い訳を話した。淡々と、自分を納得させるように。
「最初から勝ち目が無かったんだと分かったら、立ち直れたと言うか…心が折れずに済んだと言うか…。正直、自信喪失しそうだったんですよね。あれだけ後押しされての玉砕だったから」
 そこで一息付いて、また俯いて、瞳を閉じた彼の口調が低く落ちた。
「でも、あの人にも裏があった訳でしょう?騙されていたのはショックですが…本心でなかったのなら、それはそれで良かったです」
 怒っているのだろうか。いや、どちらかと言えば騙された事を後悔して、自らをたしなめるような。沢也とリーダーにの目は、彼の仕草がそんな風に映った。
「さて、帰らないと。そろそろ店仕舞い…忙しくなりますから」
 最後に出されたコーヒーを飲み干して立ち上がった青年は、いつもの調子を取り戻そうと明るい声を出す。見送りの為腰を上げた沢也を振り向き、彼は曖昧に笑って見せた。
「海羽さんに宜しく言っておいて頂けますか?また、遊びに来てくださいって。勿論お客さんとして」
「分かった。伝えておく」
 扉を開けた先に居た八雲に青年を任せ、静かに戸を閉める。再び外界と遮断された室内は、静寂を保ったまま。残されたリーダーを振り向くでもなく、沢也は問い掛けた。
「怒ってるのか?」
「いいや。聞いたところで何も出来んのは確かだからな…」
 内容に違わぬ声色で、ため息混じりにそう言ったリーダーは、やっと半分振り向いた彼に苦笑を注ぐ。
「あん時な、違和感は感じたんだよ。海羽ちゃんから」
 沢也は頷いて先を促した。リーダーはため息で間を繋ぎながら、苦笑を複雑に歪める。
「だから、倫祐の名前でも出したら、何時もみたいに可愛い反応してくれるかな、なーんて…思っちまって」
 片手で顔の半分を覆った彼の瞳が、テーブルの上のカップを映した。沢也はその瞳に落ちた影が色濃くなるのに気付きながら、黙って話の続きを聞く。
「だから少し驚いた。それと同時に、何時までも倫祐を好きでいてくれる補償なんてどこにもないんだなって、納得する自分も居た」
 沈んだ声を切り替えるかのように、またため息が吐き出された。実際にそうして肩の力を抜いたリーダーは、優しげな微笑を浮かべて言う。
「あの子は今も、あいつを好きで居てくれてるんだな」
「だろうな。じゃなきゃ八百屋の申し出を断るような事も無かっただろう」
 例え記憶がなくとも。
 口にしなかった言葉を汲み取ったせいか、曖昧な相槌を残して、リーダーはコーヒーカップを空にした。
「帰るのか?」
「まだ仕事が残ってるからな」
「結局用事は何だったんだ?」
「大丈夫。さっき蒼から受け取った」
 懐に入れていた設計図の直しをチラリと覗かせて、リーダーは小さく肩を竦める。沢也はその悪戯な笑顔に半ば呆れた眼差しを注いだ。
「わざわざその為に?」
「顔見たかったってのも、正直ある。けどまた今度にするよ」
 ヒラヒラと手をはためかせては退出しようとする彼の背中。沢也は追いかけるでもなく呟いた。
「たまにはゆっくり遊びにこい。あいつも喜ぶ」
「そうだな。考えとく」
 きちんと振り向いて苦笑したリーダーは、頷く沢也に片手を振って王座の間へと抜けていく。
 一人残った沢也は、小さくため息を吐き出しては半端に体を伸ばした。そしてテーブルの上に置かれた中で、唯一満たされたカップを立ったまま持ち上げて覗き込む。
 黒に浮かぶ自らの顔をため息で掻き消して、彼は一息にコーヒーを飲み干した。


 防音魔法を解いた沢也が通常業務に戻った頃。



 赤と藍の光を背に受けながら、海羽は暗い階段の前に立つ。
 背後から注がれる僅かな光源を頼りに地図と部屋番号を確認した。
 短く息を整えて、一段目に足をかけて。顔を上げた先に、今しがた見たのと同じ番号が見える。
 両手の指先を先の段に付きながら、半ば這うようにして階段を昇りきり、ふらつきながらもなんとか扉の前に辿り着いた。
 呼吸が荒い。鼓動が忙しない。手が震える。上手く声が出ない。
 固まる体。無意識が勝手に魔法を解いて、無理矢理手を持ち上げる。
 扉に接触しようとした拳は、短く躊躇ってまた動きを再開した。
 小さなノックが二度響く。
 中からの反応が無い代わりに、外から名前を呼ばれて酷く焦った。
 しかしまだ声は遠い。ここで魔法を発動させたところで、絶対に逃げられる訳じゃない。
 それより、何て言ったらいいんだろう。この扉が開いたら何を話すべきなのだろう。
 恐怖と緊張との間で揺れながら、ガタガタと震える足を堪えて胸に手を当てる。
 すると、カチリと音がして、そっと扉が開かれた。
 恐る恐る顔を上げる。
 扉の向こうで、無表情にかかる黒髪が微かに揺れた。
「あ…っあ、あの……」
 何か言わなければ、と動かした口から意味の無い文字がこぼれ落ちる。その時また名が呼ばれたことで、彼女の身がビクリと跳ねた。
 それを見たからか、彼は扉を大きく開いて室内に海羽を引き入れる。
 扉が閉まると、僅でも外の世界と隔離された安心感から肩の力が抜けた。
 海羽は脱力の余り上手く動かなくなった体をそのままに、足元に向けて言い訳を落としていく。
「ごめんなさい…急に、押し掛けて来たりして…」
 不思議なことに、勝手に口が言葉を話した。玄関に置かれたスニーカーの大きさと、背の高い彼の影とを眺めているだけで涙が零れそうになる。
「あの…こんなこと、いきなり言われても…困るかもしれない、んですけど…」
 涙も、痛みも、震えも、焦りも恐怖も緊張も。全てを堪えて顔を上げると、視界が揺らいで体が傾いた。
 頭が痛い。立て直さなきゃと、壁に伸ばしかけた腕がそっと支えられる。
「大丈夫…です。ちょっと、目眩が…」
 何か言われた訳でもないのに、言わずにはいられなかった。心配されているのが、掌から伝わってくるから。
 海羽はその手に…彼の腕にすがり付いて、今度はきちんと顔を上げる。
「僕、どうしても思い出したいんです」
 二人は顔を向かい合わせた。
 必死で涙をせき止めながら見上げた彼の顔を、海羽はやはり懐かしく感じる。
 泣き出しそうな彼女の顔を見下ろしながら、彼は頭の中で呟いた。「思い出さなくて良いことだ」と。
 海羽の手に力が入る。戸惑った倫祐は逆に支える力を抜いた。
 呼び声が窓から侵入する。まだ遠い筈のそれが、異様なほどに大きく聞こえた。
「とても、大切なことのような気がして…」
 焦るように呟く海羽の体が小刻みに震えている。
 怖がる彼女を前に、慰めの言葉の一つも吐き出せない自分のことなど、どうでも良いことだからと。倫祐は密かに歯噛みした。
「思い出さなきゃいけない気がするのに…思い出せなくて…」
 吸い上げた息が声を裏返らせる。ふらつく海羽の瞳から涙が溢れるのを見て、倫祐は確かに動揺した。
「だから、だからね…お願いです」
 続けて必死に懇願する海羽の泣き顔から目を離せずに、どう返答するべきか頭を働かせる。
 しかし直ぐに小さく首を振った彼は、近付いてくる声の方に意識をそらした。
 彼女はあれから逃げてきたのだろうから、取り合えず対策をしないといけない。
 海羽は顔をそらした彼の意識を呼び戻そうと、指先に出来る限りの力を籠めた。
 倫祐は、彼女の必死さを受け入れる為に頷いて、そっと右手を持ち上げる。
「なにか、知っていたら…」
 呟いた海羽の頭に彼の手が乗せられた。
 彼女の頭を包み込めそうなほど大きな掌が、圧力もなく、そっと。
 大丈夫だから、落ち着いてくれと。それだけが音もなく伝えられる。
 頭の天辺から降りてきた感覚が全身に広がって、海羽の力を奪っていく。
 不思議なほど周囲が静かで。何の音もしない中、頭の中身も同じように静まり返っていた。
 音は無いのに、心臓が異様な早さで波打っているのがわかる。

 だって、そうだろう?
 僕はこの感覚を…この気持ちを知っているんだから。

 そうして固まる海羽の落ち着いた様子を見て、倫祐は僅かに安堵の息を吐いた。
 頭から離れていく彼の掌。
 海羽はそれを呼び止めるように口にする。
「…………………りん…すけ…?」
 消え入りそうな響きを聞いて、彼の掌が硬直した。目に見えて震える彼女を背景に、半端に持ち上がったままの掌を見据える。
 すると、彼女の手がそれに触れた。
「どうして…僕…忘れて…」
 掠れた声も、触れた掌も、全てが震えている。
 顔を上げた彼女の瞳が悔しげに歪んでいった。
 海羽は固まってしまった彼の顔をしっかりと見詰めて、胸の底から言葉を放出する。
「ごめんな、さい…」
 同時に溢れだした涙が、握りしめたままの倫祐の手の甲に落ちた。
「ごめん…ね………」
 抜けていく力。再び呟いてみたが、強制的に意識が閉ざされた。
 倫祐は気を失った海羽を支えたまま、その苦し気な横顔を見下ろす。

 不用意に触れたりしなければ、こんなことにはならなかったのだろうか。
 思い出さなければ、笑って居られたかもしれないのに。

 謝るのはこっちの方だ。

「ごめん…」
 意味のない呟きが静寂に落ちる。
 彼女が起きて、まだ自分の事を覚えていたのなら。またきちんと謝らないといけない。
 例え意味が伝わらなくとも。
 倫祐は小さく息を吐いて、彼女を支えたまま靴を履いた。
 後悔ばかりしていても、状況が改善される訳ではないから。
 とにかく彼女を逃がさなければ。あの男の居ない、安全な場所へと。
 そう思って背負った海羽の胸元で嫌な音が響く。
 何だろうかと、今一度下ろした海羽の服の裾から欠片が落ちた。
 拾い上げてみると、どうやら宝石のようだ。良く良く見れば何かの部品も混じって見える。
 倫祐は海羽の首もとからネックレスを外して掌に乗せた。
 先の音の理由に、また、周囲から困惑の声が響き始めた理由にもあたりをつけながら、彼はきちんと海羽を背負い直す。
 彼女の頭から近衛隊のジャケットを被せていると、複数人が階段を昇ってくる音が、気配が立ち込めた。それを機に床を蹴った倫祐は、三歩で窓枠に足をかける。
 階下にこちらを窺う影はない。息を殺して玄関前に迫る人々が揃うより前に、隣の建物に飛び移った。

 もう闇は深い。
 あとは屋根を伝って走るだけ。




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