愛の力






 
 まるで小さな心みたいに。

 それは読みかけの本にひっそりと挟まっていた。
 細い短冊に押し付けられた、ピンク色の小さな花弁。
 僕はこれを見ると蒼を思い出す。何故ならこれが、彼の本当の名前だったから。
 国の人達はみんな、この花を見たら国の事を思い出すのだろうか。
「だけど、どうして…」
 たったの一枚だけ。
 春になれば沢山花を咲かせるのだから、もっとデザインのしようがあった筈なのに。
 黒い短冊に浮かぶ、小さな小さな花弁。
 暫く眺めているうちに、目頭が熱くなる。

 桜のはなびらが舞うのだ。
 頭の中で。
 掌の中で。

 僕は羨ましく思った。
 何が羨ましかったのか。どうして羨ましかったのか。
 それは思い出す事が出来ない。

「海羽さん」
 椿の声がする。
 ああ、また気を失ったのだと初めて自覚した。
「大丈夫ですか?」
「うん…ごめ…なさ…」
 掠れた声が出る。体を起こすと、頬を何かが伝った。
「あ…」
 涙だ。止めようと意識してみても、溢れるばかりて収まる気配はない。焦って瞳を擦っていると、椿の手が肩に乗った。
「良いんですよ。そのままで」
 腕を退かす。椿の顔が歪んで写った。彼女は静かに頷いて、そっと頭を寄せる。
「無理に止めなければならない理由なんて、何処にもありませんから。ね?」
 すぐそばで響いた声は優しく、椿の肩に受け止められた額に温かさが滲んだ。
 僕は感謝して、目を閉じる。それでも温かい雫は沸き出るように流れていった。
 瞼の裏側に闇が映る。
 その中でキラキラと輝く白が、何時までも何時までも。
 寂しそうに舞っていた。




 昼時も過ぎて、父親と交代で休憩も取り終えた。
 丁度客足が引いて、のんびりと品出しが出来る時間帯だ。夕方までに全て整理してしまえば、帳簿にも手が付けられる。
 業者からの配送は済んでいると、父親から引き継いだ。後は母親と分担して、在庫の管理をするだけでいい。
 父親が休憩から帰る前に、店頭の事だけでも済ませてしまおうと、腕を捲る青年の肩がぽんと叩かれる。
 振り向くと、目深に帽子を被った、よく知る男が立っていた。
 最早常連と呼べるほどよく足を運んでくれる人物なのだが、顔を見るようになったのはつい最近の事である。
 最初は「暇だから少しだけ話し相手になってよ」等と言われて困ったくらいだが、毎回少なくとも野菜を買って行ってくれる為、邪険にも出来ずに相手をしていた。
 それからどういう流れだったか、いつの間にやら恋愛相談が勃発して、現在に至る。
「その後どう?進展は」
 帽子のつばを持ち上げながら、男は軽い調子で言った。
 青年は、この軽さに救われている自分が居ることを自覚して、密かに苦笑する。
「はい。うまくいっています。この間も電話で話をして…」
「楽しかった?」
「はい」
「告白はしないの?」
 唐突でいて単刀直入な一言に、青年の返答が止まった。笑顔のまま固まる彼に微笑を傾け、男は優しく言い分ける。
「もう良い頃合いじゃないかな?」
「そう、でしょうか?でも…僕はまだ彼女の事を殆ど…」
 言葉の途中、中空をリンゴが舞った。ふわりと落下したそれは、パシりと男の手の内に収まる。
「熟れすぎるとさ、腐っちゃうでしょう?野菜も、果物も」
 驚きで途切れた会話に、男の軽い声が割り込んだ。彼は青年の手に、いつものようにぴったりの代金を手渡しながらリンゴにかじりつく。
 シャリシャリと瑞々しい音が喧騒の中に浮かんでいた。他に客も居ない中、男の言葉を解析する青年の瞳がぼんやりと硬貨を写し出す。
 男は咀嚼を終えると共に、また青年の肩にぽんと手を乗せた。
「だから早い方がいい。それとも友達として発展したい?」
「それは…」
「大丈夫。君なら」
 否定を遮って、青年の横を通りすぎた男の手の中でリンゴが回転する。
「まだ若いんだ。乗り越えようと思えば、何だって乗り越えられるさ」
 背中越しに言いながら去っていく男を、青年は呆然と眺めていた。返答が無かったからか、不意に振り向き男は付け加える。
「勇気を出しなよ好青年。君にしか出来ないんだから」
 帽子の影で微笑む口元だけが、妙に印象的に映った。青年は手をはためかせて離れていく背中に向けて、きちんと頭を下げて呟く。
「ありがとう…ございました」
 こうして驚かされることは幾度もあった。妙に意味深な台詞が気になることもあるが、事実勇気を貰ってきた。だから、不快に思ったことは一度だってない。寧ろ本当に感謝しているくらいだ。
 …もし叶うなら。彼女と結婚して、一緒にこの店を切り盛りしたい。
 しかしそれには障害が多すぎると思っていた。だけどこのまま諦められる程、弱い想いでは無くなっているのも確かだ。
 男の言葉でそれを再認識して、手の中を見据える。握り締められていた三枚の硬貨が、汗で僅かに濡れていた。



 水曜日の朝。
 まだ秀が姿を表さぬうちから城下町に下りていた海羽が、足取りも軽く八百屋を後にする。南通りのいつもの八百屋ではなく、北側の通りにある八百屋だ。
 一枚の発注書をしっかりと手帳に挟んで、次の目的地に向けて足を進める。
 時期が時期だけに。また、量が量だけに、請け負ってくれる店が少なくなってきた。少量でも構わないからと交渉をもちかけて、なんとか数箱確保する。
 だから時間がかかって仕方がない。最悪今あるものを少しずつ買い貯めて、ルビーに保管しておく手も考えたが、買い占め過ぎると一般家庭に被害が出そうで、実行は躊躇われた。
 目星を付けた店のうち、既に三分の二を回り終えている。残りの数件で確保出来ればいいのだけど。
 そう考えて通りを歩くうちに、シナモンの良い香りがしてきた。
 強化剤の事件で一旦壊されたと聞いていたが、きちんと復活したんだと嬉しくなって覗き込む。
 焼き上がったばかりのシナモンロールが、カウンターに並べられていくのを目の当たりにすると、いよいよ食べたくなってきた。
 お土産も兼ねて買っていこうと、勢いのまま入店する。扉を引いただけで甘い匂いが強くなった。
 メニューやショーケースを眺めてみると、大きなロールや、小振りのドーナッツに、小さめのアップルパイ。温かい飲み物やクッキーに至るまで、全てにシナモンが使われている。
 甘さに包まれて頭が麻痺しそうだなと、なんだか微笑ましく思った。
 さて注文をしようかと顔を上げると同時、店の空気が動く。背後で入り口が開いたのだと理解した海羽は、振り向いて入店を確認しようとした。
 カツリ、と。
 靴音が大きく響く。
 恐る恐る顔を持ち上げた。
 いや、見なくても分かる。
 こんなに派手な服を着て下町を歩いている人なんて、きっと他に居ないだろうから。
 海羽は、それでもきちんと顔を確認してから、数秒後に呆然と問い掛けた。
「……あの、どうして…此処が?」
「なんてことはありません」
 不気味な程落ち着いた笑みが、彼女を見下ろし声を出す。
「愛の力、ですよ」
 甘い、甘い。癖のある台詞が、まとわりつくように発せられた。
 すぐ目の前で囁かれたそれに、反応する事が出来ずに。ただただ硬直した海羽の腕が秀に掴まれる。
「さあ、参りましょう。こんな臭い店ではなく、もっと高級なスイーツを振る舞ってくれる店まで」
 執拗な抑揚が店内に木霊した。
 海羽は様々な感情を胸の内に溜め込んだまま、秀に引き摺られて足を進める。
 結局、海羽は予定の全てを秀に潰され、夕食が終わるまで拘束された。

 一方。昨日牧師を迎えに行った沢也は、本日は花屋とコーディネーター、それから山のような花を連れて帰宅。王座の間に入るなり義希に捕まる。
 時刻は4時過ぎ、来客を客室に放り込み、後を有理子に託してきたところだ。
 呼ばれた彼が返答するよりも早く、義希は本題を口にする。
「何かさー、街の様子がおかしいんだが」
「どういう事だ?」
「いや、その…うまく説明は出来ないんだけど、何て言うかな…」
 上着を放り投げ、手頃な椅子の背にかけた沢也は、唸る彼を振り向いてため息を吐いた。
「スパイみたいなのが異様に多いんだ」
 ふざけた風でもなく、真面目くさって呟く義希に、間をおかずにため息が浴びせられる。すると背後の大扉が開かれて、沙梨菜が入室した。
「沢也ちゃーん。今日はスパイの校外学習みないなのでもあったの?」
 顔を見るなり困ったような表情で問い掛けてくる彼女を見て、義希が同意を求めにいく。
 一方沢也は二人に構わず背後を振り向いた。
「…今日、秀は?」
「まだ来ていませんね」
 即答に舌打ちが答えると、騒いでいた二人が会話に割り込んでくる。
「つまりアレだね?あの人関連ってこと?」
「まだ分からないが、その可能性は高い。蒼、椿によく見ておくよう言っとけ」
「はい。出来るだけ話を聞くようお願いはしておきますが…」
 まとわりつく沙梨菜を邪魔そうにしながら、沢也は半端に言葉を切った蒼に目線を合わせた。促しを受けた彼は、微かに眉を下げて首を傾ける。
「やはり、頭痛が増えてきているようです。場合によっては気絶してしまう程酷いようで…」
 成る程、と口の中だけで呟いて。沢也は一人頭の中にコマを呼び出した。もちろん回らない方のコマである。
「今、ハルカを戻すのは痛いからな…」
「本島も大詰めって感じ?強化剤関連だよな?」
「そう言うことだ。ってなわけで、海羽を缶詰にしておくのが最良だと思う」
 義希の茶々を受け流しての結論を聞いて、蒼の首が更に傾いた。
「それは難しそうだと、姉さんが」
「何で」
「あと少しなんだそうですよ?」
「だからって、何かあったらどうすんだ」
「はい。僕もそう思います」
 笑顔で首肯しながらも、さっと人差し指を立てる。そうしてそれを回しながら、蒼はつらつらと持論を展開した。
「ですから、そのあと少しだけ。気が済むように見守ってあげるのが良いのではないですか?無理に止めても、抜け出されては意味がありませんから」
 言葉尻に、沢也の唸り声が被る。三人が彼に目線を合わせると、長めのため息が吐き出された。
「…変なとこ頑固なんだよな。あいつ」
「気持ちは分かるよ。こんなことって、なかなかないしさ」
「精一杯お祝いしたいよね」
 にこにこと、余りにも能天気な二人のフォローに再三となる沢也のため息が続く。そんな様子を前に、祝われる本人が複雑な笑顔を傾けた。
「何だかすみません」
「いや。誰も悪くはねえだろ。ならこっちは、何かあった時に備えるだけだ」
「パトロールな?」
「お散歩しまくります☆」
 流し目に直ぐ様敬礼して、二人はパタパタと部屋を後にする。単純な話、早速外回りに出向いたのだろう。
「明日も夕方までですか?」
「ああ。今度はオルガン奏者とオルガンそのもの。プラス技師な」
 蒼の質問に簡潔に答え、沢也は大きく伸びをした。
 蒼は判子を台に戻し、席に戻る彼と自分のための飲み物を用意する。


 沢也の仮眠中に戻り、翌日沢也が発った後に起きてきた海羽は、夜通し書類の整理をしていた蒼と交代で王座の間に留まった。
 長テーブルに座り、残り少ないリストを整理する。
 あと数日で梅雨入りするだろうと、予報は告げていた。六月に入っているのだから、別段早い訳でもない。
 今日一日だけ、朝食、昼食作りを休ませて貰えないだろうかと短く思案する。そうすれば、秀にさえ見付からないよう気を付ければ、何とかなる筈なのだ。
 昨日のようなことさえ無ければ、大丈夫だからと。半ば自分に言い聞かせるようにして席を立つ。
 沢也が早くに出発する関係か、まだ朝食の準備も始まっていないのに八雲が出勤してきていた。海羽は彼に断って、メイドさん達が集まる準備室に出向き、欠勤の交渉をする。
 幸い話は直ぐに纏まって、そのまま町に下りる事になった。
 有理子にメールで報告をして、念のため人避けバリアを発動する。
 この時間帯でも、青果関係の店は準備ながらに開いている事が多い。有り難いことだが。しかし逆に閉まるのが早いのである。
 海羽は城から遠い、橋の近くにある店から順に当たることにした。これまでは大きめの店舗から訪ねていた為、正に手当たり次第と言った感じになる。
 バリアを保ったまま、メインストリートを西に進むが変わったことはなく。まだ賑わう前の、俄に喧騒が生まれ始めた早朝独特の空気が漂っていた。
 ゆっくり歩くと30分はかかる道のりを、早足になんとか20分で通過する。流石に息が切れた。
 しかしそうのんびりしていては、後で後悔するかもしれない。海羽は息を整えがてら、一番近い果物屋を目指す。
 その後、二件目、三件目と順調に進んだ。少量ずつならと、幾つか発注も出来た。
 朝も過ぎて、昼に向けて動き出すに連れ、人通りが多くなってくる。海羽は裏道を選んで、時には透明になりながら、四件目、五件目と巡って行った。
 そうするうちに昼が間近に迫る。
 少し休憩しようかと考えたところで、忙しなく動いていたせいか、気にならなかった事が気になり始めた。
 黒い服の人が、妙に多い。
 バリアの内側でそれを認め、注意深く観察する。歩調を緩めて側を通ると、偶然だろうか。一人がこちらを振り向いた。
 見えない事が分かっていても、驚いて肩が跳ねる。二人連れの男の手には、平らな機械が握られていた。
 嫌な予感がして、海羽は直ぐに走り出す。なんとなく路地に滑り込み、大通りに合流して噴水広場に出た。
 誰もが海羽をすり抜ける。彼女を気にかける素振りも見せないで、通り過ぎるだけだ。
 今までずっとそうだった。この魔法を使っている時は。それが当たり前だった。
 そう考えながら、噴水の縁に腰掛ける。息切れの中、ぼんやりと辺りを見渡すと黒服の影が見えた。
 明らかに先程とは違う、しかし同じような二人組だ。暫く様子を見ていると、別の二人組が彼等に近付いてくるのが見える。
 海羽は立ち上がり、ぐるりと広場を見渡した。
 他に、黒服の姿はない。目についたのは黄色いワゴン。あれはクレープ屋だと、頭が認識すると同時に頭痛が駆け抜ける。
 続けてメインストリートに秀の姿を見付けた。彼の服装は遠目にも目立つのだ。
 海羽は足早にそこを離れる。
 振り向くのが怖くて、無意識のうちに秀が居る方角とは反対側に歩を進めていた。
 薄暗い路地に入る。近くに近衛隊員の姿を見付けて、安心して魔法を解いた。
 こちらを見ている人は、誰もいない。そもそも路地に居るのは彼女だけだった。
 すぐそこの果物屋で交渉に入る。滞在時間は5分程。直ぐに店を出て、伝票を握り締めたまま、先とは別の路地に入った。
 すると、遠くから秀の声が聞こえてくる。人が多い城下町中、常に自分を呼びながら歩いているのかと、嫌な汗が滲み出た。
 その後も幾度となく秀の声を耳にする。追われている感覚がどんどん強くなっていた。
 噴水広場を抜ける時、黄色いワゴン車を見る度に頭痛が走った。他にも、雑貨屋、キッチン雑貨店、カフェの側…特定の場所に差し掛かると頭が重くなる。
 それでも見付かるよりはマシだと、出来るだけ町中を歩き回った。一ヶ所に留まる時間が出来るだけ短くなるように工夫する。
 それでも、何処に行っても彼の声が聞こえた。ビクビクしながら、少しずつ用事を済ませていく。

 何時しか陽も暮れ始めていた。

 この時間まで見付からずに居られたのは、近衛隊や沙梨菜が度々黒服の人達を足止めしてくれていたからだ。職務質問を恐れてか、彼等が居るときには、黒服達は目立った動きをしないのである。
 しかし、それも明るい時間帯までの話。見付けられない苛立ちが、あちら側から伝わってくるように思えた。
 次第に行動が活発になってきたな、と感じ始めた頃。リストに残った店名は、あと二件。休みなく歩いていた海羽にも、大きな疲れが見え始めていた。
 流石に潮時だろうか。だけどあと二件だけだから。
 そんな葛藤の中、バリア諸とも裏道を歩いていると、少し先に黒いスーツの二人組が佇んでいるのが見えた。何やら棒状の機械を持っている。
 ギシリと、足が硬直した。
「おい」
 一人が何かに気付いて小さく合図した。
「ああ。お前、見えるか?」
「いいや」
「だが間違いは無さそうだ。報告を」
「ついでにあっちの班にも連絡しよう」
 短い会話が小声で交わされる。もう一人が掲げた携帯電話が、すぐに通話状態になった。

 どうして分かるんだ?
 一体何が、反応しているんだ?

 海羽の脳内に警告と頭痛と、疑問が押し寄せる。疲れた体を無理矢理動かして反転するも、そちらから秀の声が響いてきた。
 仕方なしに二人の男とすれ違い、反対側に抜けようとする。途中、棒を持った男が回転して海羽の後を追った。
「移動しているな。今、あの辺りだろう」
「こちらです。ええ、路地裏に潜んでいます」
 携帯の向こうにもう一人が返答する。怖くなって走ると、後ろの二人も動いた。
「!逃げたか?」
「追え!直ぐに見つかるはずだ」
 最早ひそひそ話等ではなく、焦ったように号令が飛ぶ。
 あの機械が何かに反応しているのは間違いない。
 だとしたら…
 走りながら想い至って、通りを横切り別の路地に移ったところで発動していた魔法を解く。するとあちらの動きがピタリと止まった。
 続けて戸惑う声が聞こえてくる。
 やはり魔力に反応していたのだと確信して、海羽はそろそろと移動を開始した。
「…やはり駄目です」
「くそっ」
「なに、まだそう遠くへは行っていない。直ぐにあちらの班を寄越せ」
 背後で交わされた会話が彼女の身を震わせる。他にも手段があるのだとすれば、そうゆっくりはしていられない。
「海羽さん、どちらですか?早く姿を御見せください」
 指示のすぐ後に、秀の声が呼び掛けた。まだ近くに彼女が居ると確信している…自信に満ちた声だった。
 海羽は息を殺して物陰に座り込む。今、音を立てる訳にはいかないと、防衛本能が働いたのだ。
 返答を待っているのか。秀は辺りを見渡しながら、路地と大通りの境目に立つ。その顔が楽しそうに歪み、押し殺した笑いが漏れた。
「悪戯好きな方だ。仕方がありません。直ぐに見付けて差し上げますよ」
 高々な宣言を通行人が振り返る。秀はそれを無視して通りを行進した。
 海羽はそれを、黒服達までもが去っていくのを見届けてから、路地の奥に向けて足を進める。同時に頭の中を様々な憶測が駆け抜けた。
 熱感知だろうか?それとももっと別の、何かだろうか?
 分からないけれど、熱感知や魔力感知だけで、あんなにもピンポイントに見付けられるものだろうか?
 今はたまたま黒スーツの人達に鉢合わせたから、なんだろうけど。
 それなら昨日のアレは?今日、何処にでも現れたのはどうして?
 あんな偶然、本当にあるだろうか?
 八百屋や果物屋ならまだしも、何の関係もないお菓子屋で。
 息も切らさず、余裕の笑みを浮かべて立っていた秀の姿を思い出し、身震いする。
 絶対に何かある筈だ。
 だけど、何が?探知機だとしたら、発信器が付けられているものだと沢也に教わった。だけど秀からの貰い物は身に付けていない。
 体や服に付いている?それはない。だって着替えも入浴もしているのだから、昨日と今日では条件が違う。
 ここ数日、沢也に会えなかった事が悔やまれる。少しでも顔を会わせていれば、気付いてくれた筈なのに。
「直接頭に埋め込むこともある」冗談のような沢也の言葉が脳裏に浮かんだ。そうしてゾッとする。
 近頃直ぐに気絶するのも、もしかしたらそのせいなのではないかと、本気で疑った。
 埋め込まれたなら何時だろう。あのキャラメル?あれそのものに発信器が入っていたの?ううん、それなら流石に気付くだろう。
 …前向きに考えよう。発信器が付いていたとしても、どうやらそう精度が良いものじゃないのかもしれない。正確な居場所が分かるなら、とっくの昔に見つかって、今頃本島に連れ出されている事だろう。
 なら、せめて、見付からないように城に帰らなければ。あちらは僕が逃げ回っていた事を知っているのだから、見付かったら、どうなるか分からない。

 それには、走らないと。

 声が、響いた。海羽の名を呼ぶ声だ。
 空に反響するそれが、何処から発せられたものかは、分からない。
 海羽は路地を走り、南通りに抜ける。黒服も、秀も居ないのを確認して通りに出た。
 城に向けて走っていると、後ろから忙しない会話が聞こえてくる。
 慌てて背後を確認しようと振り向くと、不意に横から腕を掴まれた。
 光が薄れたのは裏路地に入ったから。海羽は自身の腕を引いて走る人物を薄闇の中で認識する。
 長袖を二の腕まで捲り、腰に紺のエプロンをして、ポケットから軍手をはみ出させた、短い茶髪と爽やかな笑顔の持ち主。
 何時も新鮮な野菜を城門まで届けてくれる、八百屋の青年だ。
 彼は八百屋の裏方まで海羽を連れていき、物陰に隠れて秀達をやり過ごす。そうして呼び声が遠ざかるのを耳の端で確認した後、背に匿っていた彼女振り向いた。
「大丈夫ですか?」
 俯く海羽の両肩に手を乗せる。震える彼女の、涙ぐんだ瞳を覗き見た彼の顔が歪んだ。
 海羽が何とか呼吸を整え口を開こうとした矢先、青年の腕が背中へと回される。額が彼の肩口に押し付けられて、上半身が後ろに反れた。
「あの…」
「好きなんです。あなたのことが…」
 困惑する海羽の耳元で、青年は確かに想いを口にする。戸惑いのまま固まってしまった彼女を解放した彼は、またその肩に手を乗せて正面から真剣な眼差しを注いだ。
「あの貴族のことは知っています。でも、どうしても諦めきれなくて…」
 掠れた声が荒い呼吸に変わる。海羽は青年が息を整える様をぼんやりと見据えていた。
「あなたは、あの人の事が好きではないのでしょう?」
 問い掛けに、反射的に頷いた海羽の両手が彼の両手に持ち上げられる。
「なら、僕と一緒に逃げましょう」
 真っ直ぐな想いが直ぐ近くで響いた。近付いてくる彼の瞳が微かに伏せられる。
「辛い道になるかもしれない。けれど、あなたとなら…」
 途切れていた呼吸が不意に戻り、肺が息を吸い上げた。強く握られた手が熱を帯びる。
 確かに感情が動かされている筈なのに、気持ちだけはちっとも変わらないことを不思議に思いながら、海羽はそっと手を引いた。
 青年は控え目な彼女の仕草に気付いて直ぐに手の力を緩める。そして悲しげに瞳を揺らした。
「…嫌ですか?」
「………分からないの」
「僕のこと、嫌いですか?」
 嫌いじゃない。嫌いなんかじゃない。ああ、僕は彼を傷付けたんだと、酷く自覚する。
 そうして涙が出そうになりながらも、海羽は理解できなかった。
 どうして彼の気持ちに応えることが出来ないのか。
 彼女は小さく首を振りながら、正直な気持ちを口にする。
「お気持ちは、嬉しいです」
「それなら、何故…」
「分からない…」
 苦し気な声が零れた。説明できないのが申し訳なくて、考えようと働かせた頭に痛みが走る。
「分からないけど…だけど、やっぱり駄目なんです…」
 片手で顔を覆うと、掌に涙が落ちた。海羽はそれを誤魔化す為に俯いて、短く息を吸い上げる。
「分からないのに、ダメ…?何故…」
「ごめんなさい…」
 今度は青年が困惑する番だった。どうにもならなくなって駆け出した海羽を追い掛けることも出来ず、呆然と立ち尽くす。
 頭の中で沸き続ける疑問は、海羽の苦し気な顔を見て直ぐに止まった。
 あれだけ辛そうにしながらも頑なに断るのだから、何か理由があっての事に違いないと。一人納得して業務に戻ろうとする彼を、路地の先から呼び止める者があった。
「どうして諦めちゃうの?」
 聞き覚えのある声に青年の足が止まる。振り向いた彼を待っていたのは、常連客であり今回の事をアドバイスしてくれた張本人でもある人物だ。
「ほら、もたもたしてないで追いかけなきゃ。まだ勝機はあるよ」
「でも僕は…彼女の気持ちを無視してまで、踏み込むつもりはありません」
「だけどせめて、理由だけでもきちんとさせないと…一生後悔することになるよ?」
 困った笑顔から発せられた言葉に、青年も思うところがあったのだろう。考えるように地に目線を向けた。
 その様子を見た男は、ふうと息を落として穏やかに言う。
「この八百屋の為にもさ。ほら、行くだけ行って、踏ん張ってごらんよ。男なら…」
「八百屋の…?」
「育ててくれたご両親に楽させてあげたいでしょう?」
「それが…なんの関係が…」
「それは君の頑張り次第。ほら、急がないと間に合わなくなるよ」
 会話の間に歩み寄ってきた彼に肩を押され、通りの明るみに影を伸ばした青年の眼差しが疑問と闇に染まった。
 男はそれをかわすように彼を振り向かせると、力強く背中を押す。
「大丈夫。店主には俺から上手く言っておくよ」
 通りに押し出された青年が半端に振り向いてみると、そこにはいつもの男の微笑があった。しかし路地の影がかかったそれは、彼の眼に不思議と不気味に映し出される。
 違和感を胸に、ひらひらと手を振る男から後ずさるようにして、青年は海羽の後を追いかけた。

 西日が眩しい、城の建つ丘の方へと。




cp93 [大切なもの]topcp95 [palm]