大切なもの






 
 
 王座の間に着信音が響く。
 豪華絢爛な和音が収まるのと同時に、秀が電話の向こうに居る人物と会話を始めた。
 ゆっくりと歩を進め、大扉から出ていく彼を見送って。海羽はそっと長テーブルに手を付いた。
 買い出しに失敗した数日後。室内には沢也と彼女の二人だけ。彼の通話が終わるよりも前に、窓から飛び出せば多少の時間はとれる筈。
 忍び足で歩いては近付いてくる海羽に気付いた沢也が、大扉に目をやって口を開く。
 しかし声が出るより前に、勢い良く扉が押された。
「…どちらへ?」
 半端な位置で振り向いた海羽の苦笑いが、言い訳に失敗して小さく傾く。
「いえ、ちょっと…」
「仕入れでしたらこちらで手配致しましょう。代わりに私も当日はこちらに」
 ズバリ言い当てられた事に萎縮したせいで、反論のタイミングが遅れた。早速携帯を耳に当てようとする秀を、慌てて止めにかかる。
「いえ、あの、僕が決められる事では…」
「では私が直々に交渉しましょう。陛下は会議室ですね?」
「あの、邪魔をしては…」
「問題ありますまい。どうせ進まぬ話し合いなのですから」
「勝手なことをして貰っては困ります」
 見かねて助け船を出した沢也を、秀のしてやったり顔が振り向いた。彼は扉を閉めて体ごと向き直ると、威圧を込めて命令する。
「では貴方が決定を下してください」
「はい。貴方だけ特別扱いするようなことは出来ません」
 当然とも言える即答の内容に、一時的に唖然としていた秀が立ち直るなり反撃に出た。
「この私相手に良くもそんな…ああ、海羽さん。お待ちください!こんな男直ぐにでも言いくるめてしまいますから」
 ただでさえ忙しい沢也の時間をこれ以上奪う意味も無いだろうと。入り口に向けて歩き始めた海羽を、秀が半端に追い掛ける。彼女は振り向きもせずにそのまま扉を開いた。
 秀は小さく舌を打ち、時間を惜しむようにしながらも長々と沢也に捨て台詞を吐く。
「貴様は何も分かっていない。私だからこそ特別なのだ。何せ彼女に選ばれた男なのだから。彼女も相手が居ないと困るだろう?それくらい分からないものかね。忙しさにかまけて放置するばかりでなく、少しは配慮するべきだ。そうすれば、父も多少はこちらに協力してくださるかもしれんぞ?多少だがな」
「何と言われようと例外は認められません。それに、あなたの考えているような豪勢なパーティーなどありませんよ。出されるものもあなたが庶民の食べ物だと手をつけぬようなものばかりです。何せ、ただの打ち上げですから。分かりますか?「打ち上げ」」
 負けじと淡々とした言葉の羅列を紡ぐ沢也をしっかりと睨み付けた秀は、ギリリと奥歯を噛んであからさまに顔をしかめた。
「…もういい!話にならん」
「そっくりそのままお返しします」
 華麗なターンを決めたところにしれっと言い返されて、秀はまた首を回して眼光を強める。
 数秒間無意味に無言の抗議を飛ばした後、彼は足早に廊下に出た。
「お待たせしました!さあ参りましょう」
 言いながら短い直線を突き当たりまで。直ぐに左を向けば、長い廊下の途中に海羽の背中が見えるだろうと予想していた秀の表情が凍った。
 青空を写す窓が向こう側まで続くだけの、何の変鉄もない通路。その途中に扉は無く、しかし振り返れば倉庫に続く道が伸びている。
 秀は直ぐ様背後のどん詰まりに足を進め、右側のドアノブを掴んだ。
「海羽さん…?」
 当然、ドアは開かない。同時に人の気配もしなかった。
 秀はまた踵を返して廊下の中央付近まで来ると、窓を開いて上半身を外に出す。二階の屋根や、更に下を覗き込むように眺めてみても、見晴らしが良い景色の中に海羽の姿は見当たらない。
 廊下を直進しただけにしろ、窓から脱出しただけにしろ、この景色のどこかしらに動く影があるはずなのに。
 秀は眉をしかめて再度城内を見渡して、良く通る声を出した。
「何処に隠れたのですか?無駄なお遊びは止めにして、その愛らしい顔をお見せください」
 優しい声色が反響する。その他には物音一つしない。遠くでメイドが作業をする音が聞こえてきたが、それは関係がないと一蹴してまた目を凝らした。
 あの倉庫に隠れる意味はない。何故なら窓が無いからだ。逃げ出せないのに隠れる程、彼女も馬鹿ではないだろう。
 彼女が行きたいのは城下町だ。隠れられる場所がないこの道を、通らなければ辿り着けない所なのだ。
「まさか海の上を…?」
 いや、それにしては窓から抜け出した痕跡がなさ過ぎる。あの短時間で、音もなく。空気の移動も感じさせずにこの視界から消えるなど、あり得ない。だからと言って、廊下を駆け抜けたとも考えられないのは、秀よりも海羽の方が明らかに足が遅いからだ。
 どれだけ急いで走っても、彼が王座の間から出た辺りで足音が聞こえてくる筈なのに。それすらなく、更には階段を下る気配すら感じられなかった。
 他にも幾つか方法はあるだろう。例えば端から廊下を歩かず、自室の窓から抜け出した、とか。しかし秀の頭の中には、不思議と凝り固まった確信が生まれていた。
「どのみちそうなる予定だったのですから」
 口の中で呟いた彼は、気味が悪い程の笑顔を浮かべながら廊下を歩く。そうして次第にクツクツと、押し殺した笑い声を上げた。


 海羽は南通りの裏路地で透明魔法を解く。独特の光が僅かに残り、細かな星のように散った。
 ついでに乗っていた水晶を縮めると、途端に辺りが暗くなる。
 周囲を見渡し、誰もいないのを確認した彼女は、急ぎ足で通りに出た。
 目的地はすぐそこにある。
 一日二、三件。それだけを済ませれば、誰かの手を煩わせる必要もない。多少強引でも、城内で魔法を発動させてしまえば問題ないだろう。
 言い訳のように考えながら歩く海羽は、慣れない事をした為に流れる冷や汗を拭った。

 丁度その頃。
 客を見送った八百屋の店員に、後ろから声をかける男が一人。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ!」
 にこやかな男の挨拶に、振り向いた青年の顔が明るくなる。彼は返答の直ぐ後に垂直に頭を下げた。
「あの、ありがとうございました」
 青年の後頭部を眺める男の表情は、最初から変わらない。口元だけを緩く微笑ませている。
 そんな彼に、青年は体を直して満面の笑顔を注いだ。
「あなたが背中を押してくれたおかげで、彼女と仲良くなれました」
「デート、成功したんだ?良かったね。俺も嬉しいよ」
 単調ながらも抑揚を付けて、優しく頷いた男を前に。青年は照れ臭そうに僅かに下を向いた。
 男は幸せそうな青年の姿を一頻り眺めた後、野菜に目線を移して雑談のように口にする。
「仲良くなれたなら、次のステップに進むべきじゃないかな?」
「…次の、ですか?」
「そう惚けなくても。本当は分かっているんじゃないのか?」
 ニンジンの葉を弄び、提示されている値段を確かめた男は、ピッタリの金額を青年の手に握らせた。
「また来るよ。店主によろしくね」
「え?あ、はい!ありがとうございました」
 鮮やかなオレンジを一本連れて、あっと言う間に去っていく男を見送ると、青年はほっと息を付く。すると今度は後ろから声がかかった。
「こんにちは」
「こ、こんにちは!いらっしゃいませ。今日は何をお探しで?」
 今しがたまで彼女に関する話をしていただけに、驚いて跳び跳ねた青年を見て海羽も目を丸くする。しかし彼女は急いでいることもあって、そのまま話を繋げた。
「えと、あの、今日は予約のお願いをしたくて…」
「予約ですか?もうじき梅雨ですからね。今のうちに言って頂ければ手配しておきますよ」
「良かった。助かります」
 ホッと、あからさまに息をつく海羽から目をそらし、青年はきょろきょろと通りを見渡す。
「今日は彼は…」
「え?ああ、あの、実はちょっと…その…」
 モゴモゴと言いにくそうに口に手を当てた海羽を見て、察した青年も密かに肩の力を抜いた。
「ああ、何となく分かりました。もし良ければ、携帯に直接連絡下さい。時間は何時でも構いませんから」
「良いんですか?」
「はい。お話出来るなら…あ、いえ。仕事のうちですから!」
 思わず零れた本音を誤魔化して、青年はにこりと敬礼する。
「ありがとうございます。じゃあ、また後でお願いします」
「はい!お待ちしてますね」
 好意に甘えて注文を後回しにした海羽は、その後秀に見つかる前に5件の発注を済ませることが出来た。


 夜。静まり返った王座の間。
 チェックを入れた表を前に長いため息を吐く海羽の頭上から、短く静かなため息が降ってくる。
「大丈夫か?」
「へ?」
 背後からの問いかけに驚いた彼女がすっとんきょうな声を上げるのにも構わず、声の主はスタスタと席に戻りながらゆっくり気味に補足した。
「材料集め。無理してねえか?」
「うーん…でも、八百屋さんから良いお返事貰えそうだし、多分だけど…なんとかなるよ」
 口ではそう言いながらも本音が顔に滲み出る。海羽はそれを自覚しながら、沢也が寄越してくる鋭すぎる眼差しをのらりくらりとかわしにかかった。
「それより沢也は大丈夫なのか?」
 席を立ち、距離を詰めると沢也の手がひらひらと動く。動物や沙梨菜にするような追い払う仕草だ。
「俺のはいつもの事だろ。じっとしてるより余程健康的だ」
「そうかな…?」
「そうだ」
 書類の隙間から顔を覗き込む。下から見上げる形で観察していると、困ったように見下された。
「…まあいい、何かあったら直ぐに言え。いいな?」
「うん、分かったよ」
 鼻先に指を突きつけられての念押しに、海羽も困ったように眉を下げる。次にもう寝ろと言わんばかりに、真横の扉に移動した指先を目だけで追いかけて、短く思案した。
 時刻は午後10時過ぎ。何時でも良いとは言われたけれど、流石に遅くなりすぎた。電話はまた明日にして、沢也の言う通りにしておこうと首肯する。
「沢也も早く寝ろよ?」
「これが片付いたらな」
「コーヒー、いるか?」
「いや。まだあるからいい」
「そうか。じゃあ、おやすみ。無理するなよ?」
「ああ。おやすみ」
 声に小さく頷いて、海羽は静かに扉を潜った。

 沢也もその一時間後には自室に引き返し、蒼と交代するまでの数時間を仮眠に当てる。
 蒼は4時までひたすら判を押していたらしく、固まった体を解そうと一人道場に降りていった。これから一時間ほど走るか、弓を引くかすのだろう。
 見送った沢也もいい加減運動したい頃合いではあったが、山積みの早急案件を片付けるのが先だ。
 急に割り込んだイベントとは言え、性質上済んでしまえば後始末の全ては蒼に一任される。従ってどうしても近日中に終わらせなければならない物を除いては、その辺に積んでおいて、後々ゆっくり処理するのが最善だろう。
 とは言え、量が量なのでできる限りは手を付けてしまいたいと考えるのも、また人情だ。

 なんだかんだで山を切り崩しながら時を過ごしていると、いつの間にやら机の隅に満たされたコーヒーカップが置かれている。
 顔をあげる前にディスプレイを確認すれば、既に3時間が経過していた。
 恐らく有理子が置いたであろうカップを取って、口をつける。温いどころか冷たかった。
 半端に残して腰を上げると、長テーブルの端に座る金髪が、だらだらと食事をする様が見える。
「近衛隊の出欠確認は出来たのか?」
 唐突な問いかけに、びくりと跳ね起きた義希がポカンと口を開けて沢也を振り向いた。
「何キョトンとしてやがる。出来たならすぐに出せ。出来てねえならすぐにやれ!呑気に飯なんか食ってる場合かこのクソ野郎」
「うぇあぁあ、ごめんごめんんん!昨日あと数人ってとこで万引きの連絡が入ってそれで…」
 間の抜けた声を聞くうちに、沢也の思考が業務から結婚式側に引っ張られる。つられて零れたため息が義希の詰まった言葉の溝を埋めた。
「言い訳はいい。出勤したらすぐにでも確認して、速攻報告すること。この際電話でもメールでもいい」
「ら…らじゃ」
 敬礼を伴うそれを受けて、再度ため息を吐いた沢也がコーヒーメーカーに移動する。いつの間にやら新しく淹れられたそれを、歩く間に飲み干したカップに半分だけ注ぎながら、携帯を耳に当てた。
「仁平か?忙しいとこ悪いんだが、誰か民衆課に派遣して押し売り関連の電話番号片っ端から繋がらないよう改造してくれ。あれじゃあ仕事にならん」
 繋がるなりつらつらと命令を飛ばし、二言三言で通話を切る。切ったかと思えばまたすぐにコールをかけて、別の人物と会話を始めた。因みにコーヒーはその短い間で綺麗に消費される。
「今日の夕刊刷り終わったか?まだなら今から言う記事、出来るだけ大きく載せて欲しいんだが…」
 傍らで盗み聞きする義希が、オムレツを切り崩しながら「新聞社か」と予測していると、沢也の口からすらすらと文面が流れ始めた。要約すると、「式に関する押し売りお断り」それでもまだ用があるならこちらまで、とご丁寧にも特設した電話番号を伝える始末。
「そんなに酷いんか…」
「昨日の退勤前、珍しく八雲さんが燃え尽きてたわ」
「まじか」
「まじよ」
 義希の独り言を拾った有理子が真顔で答える。八雲は沢也にドMと称されるだけあって、ちょっとやそっとじゃへこたれないタフさを身に付けているのだが。
「まあ、国王の結婚式なんて、これを逃せば少なくとも二十年くらいは無いわけだし…」
「だなぁ。まずは蒼の子供が産まれんと、話にもならんしな」
 そりゃ押し売りも必死になるわけだと思いつつ。次に蒼の子供の顔を想像してはにやついて、義希はくるりと首を回した。
「そういや本人達は…?」
「着飾りと段取りと装飾の相談。このあと会議だから急がないといけなくて…はい、もしもし。はい、承っております。はぁ…ええ、しかし王は現在取り込み中でして…」
 会話の途中で通話を始め、自室へと引き返していく有理子を名残惜しそうに見送る。そんな義希の隣にこそりと立った沙梨菜が、朗らかに現状を推測した。
「猫の手も借りたいみたいだね?」
 小さな声にびくりとしながらも、彼女が持つタブレット端末に義希の興味が移る。
「沙梨菜…それはもしや」
「アンケートだよ☆街頭で押してもらうの。集計は全自動だってさー。鑑定所にもおんなじものがあるんだけどね?」
「街頭パレードについて?」
「あと当日積極的に写してほしい場面とか、その後のお披露目を希望するかとか…なんか色々」
 回答がてら向かいの席に移動して、ドーム型のカバーを外すと綺麗な朝食が現れた。テーブルには他に一つ、沢也の分と思われる物が残っている。
「あんたも、早く食べちゃいなさいよね?またあの貴族が来たら五月蝿いんだから…」
 電話を終えたのだろう。慌ただしく出てきた有理子がだらける義希に釘を差した。テーブルの片付いた側に書類を広げる彼女を見届けて、義希はまた首を回す。
「そういや、海羽は?」
「朝から市場に降りて色々とね。あの人が居ると食材調達が捗らなくて…」
 朝食を作ったであろう彼女がわたわたとする様子を想像で補って、義希がうーんと一言。
「手伝おうか?」
「あんた、食材の良し悪しが分かるの?」
「肉なら任しとけ!」
 ビシッと突きつけられた親指に悩ましげな顔を向けていた有理子が、ふとした瞬間に視線を上げる。それとほぼ同時に白い紙の束が脳天を打った。
「お前はこれ」
 こちらも通話を終えたのだろう。いつの間にやら背後に立った沢也からの、有無を言わさぬ命令を受け取った義希は、働かない頭をなんとか回して内容を読み取った。
「ああ…当日の警備…」
「やるにしろやらないにしろ必要だからな。どう転んでもいいように、倫と小太郎…他の面子も合わせて配置決めしとけよ?分からないことは纏めて質問するように」
 細かな指示や区画等、非の打ち所がない書類に閉口する義希を振り向いて、沢也は短く補足する。
「俺は明日から暫く、朝から出張。いずれも戻るのは夕方になる。それまでに出来るだけ終わらせておいてくれ」
 返事も待たずに退出した沢也を見送り切れぬまま見送って、義希はフォークを持ち直した。
「忙しそうだな…」
「民衆課がまさかのパンク状態だから、仕方ないわよ」
「明日は何処にいくのかなぁ?沙梨菜もついていきたかったなー」
「牧師さん迎えに行くの。当日まで二階の一室に泊まって貰うのよ」
 義希、沙梨菜と順に返答した有理子がコーヒーで喉を潤す。
「牧師さん…?ああ、当日嵐が来たら困るもんな」
「あんたにしては察しがいいわね。ま、そう言うこと。手回しは早いに越したことはないわ」
 珍しい正解に目を丸くして、有理子もまた席を立った。
「そんなわけで、わたしも暫く補佐で忙しくなるけど…出来るだけ現状報告はしてよね?」
「おっけ。色々見て回っとくよ」
「沙梨菜も巡回がんばりますっ☆」
 三人揃って軽く手を振る。有理子が扉を閉めたことで、忙しなさに区切りがついた。

 5月最終日。
 もう何時梅雨入りしてもおかしくはない。天気予報も下り坂だ。
 慌てても仕方がないことは理解していても、どうしても気持ちが先走る。
 あと数件。両手の指で足りる程の発注が、なかなか終わらない。理由は言わずもがな。ついでにギリギリになればなるほど、望みの品が入手できる確率は低くなるのだから、あちこち走り回る必要があった。
 明確な期限があればまだいいのだが、季節の移り変わりを的確に予測するのは不可能だ。何時、船が運休になる時が来るだろうか。何時、受注が締め切りになるだろうか。
 そう考えるだけで心が落ち着かない。
 みんな、式に向けて慌ただしく働いている中、オープンカフェで悠長にお茶を飲んでいる自分が情けなくなってくる。そんな気持ちがあるからこそ、誰かに頼ると言う選択肢は、既に彼女の中から消えてしまっていた。
 ふうと、短く息を吐く。俯いた先でミルクティーの表面が波紋を描いていた。
 不意に立ち上がった秀の手が首筋に当たる。何かが引っ掛かり、引っ張られる感覚が海羽を振り向かせた。
 服の中を水晶が滑っていく。引っ掛かったのはネックレスだったのだと、その時初めて気が付いた。
「落ちましたよ」
 海羽が屈むよりも早く、秀が転がり落ちた水晶を拾い上げる。彼はそれをしげしげとながめながら、海羽に背を向けて推理を始めた。
「チェーンが切れた訳ではないようです。金具が緩んでいたのでしょう」
 仕草を不思議に思った海羽が、席を立って彼に近付く。すると秀は徐に振り向いて、ネックレスのチェーンを真っ直ぐに伸ばした。
「こんなちんけなネックレスでなく、私が贈った高級な物を付けて欲しいのですがね…」
 首に向けて伸びてくる両手。思わず後退りしようとしたが、秀は構わず海羽にネックレスを装着した。
 透明な球体が海羽の胸元に落ち着く。
 秀は両手を後ろに回し、満足気に笑顔を頷かせた。
「今日は帰ります。あなたもゆっくりなさってください。雨が降りそうだ」
 え?と、短い疑問符が漏れる。驚く海羽をそのままに、秀は足早に歩を進めた。
「くれぐれも風邪など引かれませんよう」
「…はい。気を付けます」
 戸惑いは残ったものの、これで多少は発注が進むと安心の息を吐く。
 しかし時刻は既に午後4時を大幅に過ぎていた。
 もう暫くしたら、夕食の準備もある。今から何件回れるだろうか?
 考えるよりも早くその場を片付けて、海羽はカフェを飛び出した。
 飛んでいく事も考えたが、余り街中で目立ちたくはない。何より焦っている事をみんなに知られたくない、という思いが大きかったのだ。

 結局二件の店を回ったところで時間となる。発注まで漕ぎ着けたのは、そのうちの一件だけ。
 とにかく夕食の準備を済ませ、早めの夕食を食べた後、八百屋の彼に電話をかけることにした。
 夕食を食べる椿に断って、窓際で携帯を耳に当てる。三回のコールの後、威勢の良い挨拶が響いた。
「はい、南屋です」
「もしもし」
「あ、海羽さんですか?良かった…かけてきてくれたんですね」
 初めの一声で直ぐにお互いを認識した二人は、注文の相談を終えると、自然に他愛のない世間話を始める。
 その途中で先日の話になった。
「この間は、何だかすみませんでした」
 切り出した青年の声が微かに小さくなる。海羽は慌てて姿勢を正し、見えないのを承知で首を振った。
「え?いえ、謝るのはこちらの方で…」
「だって、気を使って離れて下さったのでしょう?うちの店の為に注文が後回しになってしまったみたいで…」
「あの人はいつもああなんです」
 静かな調子で青年の言葉を遮る。息を吸い上げる音が耳元で鳴った。
 海羽は短い間を置いて結論を言う。
「だから、それを知っていて連れて歩いている僕の方が迷惑な存在で…」
「そうでしょうか?」
「だって。大切にしているお店を、あんな風に言われたら悲しいでしょう?」
「大切に、ですか。どうしてそう思われたんですか?」
「野菜が美味しいから。それに、あの…対応を見ていれば、お客さんも、お店も、大事なんだなって…分かります」
 必死に理由を説明する海羽の声に、青年の笑い声が混じった。彼は笑いの延長線上に嬉しそうな声を乗せる。
「僕達家族は、最初は小さな村で農家を。次にちょっとした町で露店商をするようになってね。国が出来…王都で出店を募集しているのを見付けて、思い切って店を構えたんです」
 うん、と。聞こえない相槌が間を繋いだ。青年もそれに頷いて先を話す。
「昔から三人で試行錯誤してきた集大成が、このお店。だから僕には宝も同然なんですよ」
「そうだったんですか…」
「だから、何も言わなくても分かって貰えたなんて、本当に嬉しいんです。ありがとうございます」
「…いえ、僕は…」
 誠心誠意、心からの言葉に海羽は戸惑った。どう返していいのかが分からなかったのだ。
 青年はそれを見越したように、すらすらと言葉を直す。
「あなたのように分かってくれる方が、いつも買いに来てくれるから。このお店は成り立っているんです。だから、本当に。いつもありがとうございます」
「あ、はい。こちらこそ。いつもありがとうございます」
 また、見えていないのに頭を下げていた。その様子を背後で見ていた椿が静かに笑いを堪えている。
「お客さんもそうですが、両親にも感謝してます。今、毎日楽しいですから。なんとしても恩返ししたいですね」
 ついでに全てを吐き出してしまおうと言わんばかりに、青年の口から本音が漏れた。海羽がまた小さく相槌を打つと、向こうから咳払いが聞こえてくる。
「あの、海羽さんのご両親は…」
「あ、えっと…僕には…」
 もういないんです、と小声に付け足せば、青年のトーンが僅かに沈んだ。同時に海羽の体調も僅かに沈む。
「すみません。立ち入ったことを…」
「いえ、そんな。大丈夫です」
 言った側から始まった頭痛が声を震わせた。
「…本当に大丈夫ですか?」
「すみません、少し…頭が…」
 心配そうな彼に本当の事を伝えると、相手からは労いの言葉が返ってくる。
「注文は確かに承りました。後日伝票をお届けに上がりますから、今日はゆっくり休まれてください」
「ありがとう、ございます」
 無理矢理微笑んで通話を切ると、背後から椿の不安げな顔が覗いた。
「海羽さん…」
「大丈夫。休めばすぐ良くなるから…」
 手を借りて、ベットに辿り着くと少しだけ楽になる。だけどまた考え始めたら頭が痛くなる筈だ。
「無理はなさらないで下さいね。難なら発注は誰かに任せて…」
「あとは果物だけだから…なんとかなるよ」
「そうですか?」
「うん。ごめんな?心配かけて」
 間借りしているスペースに、椿がカーテンを引いてくれる。仄かに暗くなった一角に顔だけを覗かせて、彼女は圧力のある笑みを浮かべる。その仕草は本当に蒼そっくりだった。
「せめて今日は早くお休み下さいね」
「うん。そうするよ」
 早々に敗けを認めて頷いた海羽は、ぽふりと枕に頭を埋める。
 まだ少し頭は痛いけど、ここなら安心して眠ることが出来るから。

 また明日、早く起きて市場にいこう。
 大切なものを、わざわざ傷付ける必要などないのだから。





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