準備






 
 まだきちんと陽も昇りきらぬ早朝のこと。

 今朝の朝刊片手に、明日の朝刊用に提出する記事を見直す沢也の手元を有理子が覗き込む。
 淹れ立てのコーヒーを置く片手間内容を認識した彼女は、結婚の二文字を視界に収めて何とも言えぬ顔をした。
「公表するのね」
「ま、先にスッパ抜かれちまったからな」
 元々こうなることを予測していたような沢也の態度に半ば呆れ気味に、有理子は小さな吐息を挟んで先を繋げる。
「式の日取りは?」
「それは追々」
「大丈夫なの?」
「大丈夫だろ」
 随分と呑気な物言いに、有理子は互いの認識や価値観すら疑い始めた。結婚式と言えば重大で盛大で神聖な大仕事だと言う事実確認の為、更なる小言を繰り出そうとしたところで沢也が顔を上げる。
「早かったな」
 つられた有理子が振り向くと、大扉の前に倫祐が立っていた。いつの間に入室したのだろうと、何時ものことながら感心してしまう。
 そうするうちに間近までやって来た彼は、沢也のデスクの真上に手を翳して何かを献上した。
「団子?」
「あら美味しそうだこと」
 包みを解いた沢也の呟きと、漂ってきた香りに有理子の素直な感想が漏れる。ルビーに入っていたのだから、当然出来立ての状態。彼女は夜通し起きていたであろう彼の、遅い夜食にでもなればと早々に緑茶を入れ始めた。
 一方倫祐は沢也が団子を口にするまで正面から彼を眺めた後、傍らに置かれた新聞記事を見る。
 指で示された為沢也が頷いてみせると、彼はそれを持ち上げて目を通し始めた。
 まだ下書き段階のため手書きだが、そうとは思えぬほど整った文字が綺麗に並んでいる。
 それを有理子がつま先立ちで覗いて、見たままの事実を後ろから伝えた。
「結婚するのよ。決まったの」
「お前らの事が落ち着いたらな」
 沢也の声の直ぐ後に、小さいながら紙が置かれた音がする。二人が見上げると、珍しいことに倫祐の口元が動いた。
「…いい」
「へ?」
「ん?」
 不可解な二文字に疑問符が連なる。眉をしかめた彼等の様子に戸惑うでもなく、倫祐は更に呟いた。
「待つ必要がない」
 その時丁度入室した人物に、沢也がいきなり話を振る。
「とか、言ってるが?」
「そう言われましても…」
 困った笑顔を傾かせたのは勿論蒼だ。セキュリティー付きの扉から出てきた彼は、注がれる視線のうち一つを選択して返答に出る。
「あなたの気持ちもそうですが、彼女の気持ちもありますし…」
「言ったのか?」
 割り込んだ声に、言葉に、三人の目が丸くなった。一方倫祐は、ただいつものように蒼に小首を傾げて見せる。
「いいえ…まだ…」
「なら」
 回答を得た彼は、短く呟き海羽が居るであろう扉の先を指し示した。
 困って頬を掻く蒼と、緑茶を淹れる事で気を紛らわせる有理子と、頬杖を付いた沢也と。そんな短い沈黙の中で、沢也にだけ声が届いた。
「例えどんな状況にあろうと」
 彼が振り向いた先で、結が倫祐を見据えている。倫祐は既にタバコを取りだし、長テーブルに足を向けた所だった。
「祝福する気持ちに偽りはないから大丈夫、だってさ」
 最後まで口にして、結は沢也に流し目を送る。
「倫も海羽も、か。まあ…違いない」
 そんな沢也の呟きを拾い上げた有理子が、彼の目の前に湯飲みを突き出すついでに口を尖らせた。
「何勝手に納得してるのよ」
「海羽さんに報告すれば分かるんですね?」
「乙葉、連れていけよ」
 一方何が起きたかを瞬時に理解した蒼は、沢也の補足に頷いて扉の向こうに戻っていく。有理子はそれを見送った後、沢也に鋭い視線を送って解説を強制した。



 乙葉の元を訪れた蒼は、王座の間を出てから10分もしないうちに海羽と対面することになる。何故なら乙葉の準備が既に完了していたからだ。
「結婚?決まったのか?」
 事前に打ち合わせした通り。寝起きであろう海羽に揃って話を始めるなり、彼女の瞳が輝きを増す。
「はい。一応…」
「おめでとう!」
 押され気味に肯定した乙葉の手を握った海羽は、ベットから落ちそうな程身を乗り出していた。それから直りながら、彼女は安心したように笑みを浮かべる。
「良かったな?凄いな…式は何時になったんだ?」
「それは…」
「まだ決めていません」
「何で?早い方が良くないか?また貴族に邪魔されちゃうぞ?」
「そうなんですが、あなたの事もありますし…」
「僕の?えと、どうして?」
 蒼の言葉に不思議そうに目を瞬かせた海羽は、数秒後にハッとして手を振り乱した。
「だ…大丈夫!今度はシュークリームばっかり作らないよう気を付けるし…あの、有理子にも手伝って貰うし…だから、な?ほら。何時にするんだ?梅雨になる前に食材発注しないと…」
「しかし…」
「駄目。今決めて?」
 必死の言い訳を遮ろうとした乙葉は、またも迫ってきた海羽の真剣でいて輝かしい眼差しを前に、降参したように両手を挙げる。
「こうなると…」
「聞かないんでしたよね…」
 顔を見合わせるでもなく確認しあった二人は、背後で笑いを圧し殺す椿に目線を送り。

 半ば興奮気味の海羽を落ち着かせて、数分後には沢也の前に戻った。
「6月12日…」
「挙式日か?」
 蒼の微笑が歯切れ悪く告げた日付の意味を言い当てた沢也は、苦笑する二人に悪戯な笑みを注ぐ。
「盛大に祝福されたみてえだな」
「あの子、お祝い事になるとはりきるタイプなのね」
 肩の力が抜けきった背中を前に、和みと戸惑いを同時に声にした有理子が不思議な笑いを漏らした。
「負けましたね」
「はい。完敗です」
 珍しく意見も態度も一致させた蒼と乙葉は、参りましたと言わんばかりに窓際の倫祐を盗み見る。しかし彼は我関せずとでも言いたげに煙草を吹かすばかりだ。
「もう一月も無いけど、間に合うの?普通のカップルでも準備に一年はかけるのに」
 全てを脇に押しやって、現実問題を提示した有理子に視線が集まる。彼女は人数分の湯飲みをてきぱきと長テーブルに並べていた。
 疑問に回答したのはデスクに根を生やしたように動かない沢也である。
「そりゃ会場選びから始まり、来賓の招待、料理や当日の流れまで全部自分等で段取り組まなきゃならねえからだろ?」
「僕達の場合は元から全て決まっていますから」
「加えて来賓なしとくりゃ、城の中だけでぐちゃぐちゃと、まぁ数日もあれば済むだろう」
 蒼の合いの手を得て結論に辿り着いた会話に、有理子が上から疑問を乗せた。
「来賓なしって…」
「梅雨時ですから」
 にっこりと答えた主役本人と、その正面で真顔を頷かせる乙葉とを、有理子の驚いた顔が振り返る。
「式は城内で。披露は全て電波に乗せて。晴れてりゃ街頭パレードくらいしてもいいが…まぁやってもその程度だってこと。残りは身内で適当に打ち上げ擬き。披露宴はセルフサービスってわけだ」
「貴族はそれで文句言わないの?」
「交通手段も限られて居る中、わざわざ出向いて祝辞を述べるよりも。暖かい部屋でのんびりTVを観ながらお祝いして、後日適当な品を送り付けるだけの方が楽でしょうから」
「要は自分の力が誇示できれば何の問題もない訳なのね…」
 沢也、蒼と順に解説されて、納得した有理子がため息を付いた。それを間にして緑茶を啜った沢也が、団子の消えた串を置いて適当な指示を出す。
「問題は見映えする衣装と装飾だな。豪華じゃなくていいから、こう…シンプルで品のいいもん。適当に見繕って来いよ」
 数秒の間があった。次第に集まる視線に答えるように、乙葉がゆっくりと顔を上げる。
「それは私に言っていますか?」
「他に誰が居るんだ。てめえで着るもんくらい、てめえで選べ」
「それは彼も同じなのでは?」
 沢也を映していた彼女の瞳がくるりと回って蒼を捉えた。緑茶を口に当てたまま、視線だけを動かす乙葉の落ち着き具合に呆れたようにため息を返し、素っ気なく沢也は答える。
「一緒に行きたいなら日付合わせてそうすればいい」
「その方が面倒もなく、良いのではないですか?」
「ていうか、いっそ来て貰ったらいいのに…」
「嵩張る衣装を持って?そんならお前、ルビー持って迎えに行けよ。アポくらいは取ってやるから」
 有理子のぼやきを拾い上げた沢也が、返事も待たずにメールを打っては引き出しの封印を解き始める様を横目に、蒼も落ち着いた声を響かせた。
「装飾は孝さんにお願いしましょうか。色々お持ちのようですし」
「あの家の倉庫は尋常でない広さですから。たまには使わなければ勿体ないと思います」
「じゃあ、手配は亮に任せるか。いい勉強になんだろ」
 乙葉の同意を経て沢也が纏める。出てきたルビーを受け取った有理子が倫祐を横目に沢也に問い掛けた。
「料理各種は海羽任せでいいの?」
「ああ。段取りと量が決まり次第こっちから話す」
「その段取りやら参加者やらの選出は?」
「本人と俺で。城内の人間だけだから、わざわざ招待状作る必要はないだろう」
「パレードは?」
 続いた問答が短く途切れる。顔を回した沢也が単刀直入に当人達に問うた。
「やりたいか?」
「僕は特に」
「私も遠慮したいです」
「なら、島民の意向次第」
「義希にアンケートでも取らせる?」
「任す」
「本当、適当なんだから…」
「ああ、有理子」
 言い捨てて、踵を返した彼女を沢也が呼び止める。
「あんま広めんなよ?話がでかくなる」
「でかくなる方がいーんじゃないの?」
「誰が収集付けるんだ」
「めでたいんだからいいじゃない。それくらい」
「当人たちが慎ましやかにやりたいってんだからいいだろうが。国中に放送するだけでも充分大事だ」
 何処と無く不機嫌な有理子を適当に言いくるめ、沢也も徐に腰を上げた。
「どちらへ?」
「仁平んとこ。民放に任せると仕事の取り合いになって面倒だから、放送関連はこっちで全部仕切る」
「それより牧師さんの衣装合わせ、した方がいいんじゃないー?」
「今回は正式に頼むっつーの。茶化さんでいいから早く行け。先方は何時でも構わんそうだから」
「はいはい。じゃあ、さらっといってさらっと帰ってくるから、二人とも此処で打ち合わせしてて?」
 届いたメールの内容を聞いた有理子は、早朝にも関わらず足早に外出する。沢也もそろそろ出勤してくるであろう彼の元へと、携帯片手に向かっていった。
 残された三人が微妙な沈黙の中に居ると、支度をした海羽が出てきて静けさに困惑する。
 蒼と乙葉が振り向いて挨拶を飛ばし、立ち尽くす彼女を近場の席に座らせた。尤も、近場とは言え長テーブルに寄るとなれば、かなりの歩数が必要となるのだが。
 そうして三人が会話を始めるよりも前に、音もなく近付いた倫祐がテーブルの端に包みを乗せる。
「海羽さんに、ですか?」
 蒼はタイミングから判断して問い掛けた。倫祐が小さく頷くと、海羽の目が丸くなる。
「へ?僕に?」
「沙梨菜から」
 珍しく補足が加えられた事で、三人が一斉に彼を見上げた。倫祐はそれを受け取ることもなく、既に背を向けている。
 斜め前に座る蒼が海羽の表情の変化に注目し始めると、隣に座る乙葉も瞳を細めて彼女の背中を擦った。
 最初こそ呆然と、何処か嬉しそうにしていた海羽の顔がみるみるうちに苦悩に染まり、ついには俯いてしまったのである。
 蒼が包みを海羽の前まで持ってきて、了承を得て明け広げた。
 白い丸の天辺から赤が突き出た、手乗りサイズのそれを見るなり、海羽は瞳を輝かせる。
「イチゴ大福だぁ」
 無理にはしゃいだような声が響いた。まだ何処か辛いのだろう。それでも沙梨菜に感謝しなきゃ、と話す海羽の目は終始キラキラしていた。
「秀さんが来る前に食べてしまった方がいいですね」
「朝御飯、まだだけど…」
「たまには良いではないですか。デザートが先でも」
 蒼と乙葉の促しを受けて、折れた海羽が腰を上げようとする。
「じゃあ、お茶淹れるな」
「先程まで飲んでいたので。洗って来ましょう」
 先に急須を持ち上げた蒼が流れるように動く様子を、戸惑う海羽の視線が追い掛けた。
「でも…」
「先に食べていてください。いつ邪魔がはいるか、分かりませんから」
 あっと言う間に全ての湯飲みを盆に乗せた蒼は、最後に窓際を振り返り沢也の帰還を待つ人物に声をかける。
「倫祐くんも。吸い終わったら座って下さいね。お茶用意しますから」
 何処と無く威圧のある笑顔に目線だけを返して、倫祐はまた外を眺める作業に戻った。
 呼び出された手前、用件を聞く前に帰るような事はないだろうと納得して、蒼はゆっくりと厨房に向かう。

 結局沢也が帰ってきたのは蒼が戻った一時間も後の事。
 それまで足止めを食らった倫祐は、丁度完成した朝食までしっかり振る舞われてから、義希と一緒に出勤して行った。
 勿論偶然などではなく、沢也によって計算されたものだろう。と、試着の合間、蒼は密かに邪推する。


 その日の夜。


 だだっ広い王座の間の端と端、丁度王座の裏側に当たる場所と、真っ白な大扉の手前に金色の光が溢れていた。
 二人の小さな小さな人影が、それぞれに描いた魔法陣である。
 片方は複雑な紋様の中心に×印が。もう一方は同じ複雑な紋様の中心に丸印が書かれたもので、大扉の前までそれを確認しに行った沢也が、王座に向けて視線を持ち上げた。
 あちら側では陣の中心に蒼が立たされている。その傍らで小さな人影…つまりは妖精の一人が片手を上げた。全体的に黒っぽいので、恐らく烏羽だろう。
 彼の合図と共に、陣を保っていた二人の妖精が力を注ぎ始めた。つられて光も増す。
 元より光源の多い部屋だ。沢也が眩しさの余り瞳を細める。
 それでも事の顛末はしっかり見届けた。
 数秒前まで王座の後ろに居た蒼と、術を使った妖精が、今は沢也の目の前…大扉前の陣の中心に立っている。
「ね?すっごいでしょう?」
「これを使えば、確実に式が盛り上がります」
 沢也の興味無さそうな顔が鼻息荒く訴える二人に向けられた。口調も外見も正反対な二人は妖精の姉妹であり、活発な姉がつぐみ、大人しい妹がすずめと言う。二人は片割れから片割れの元へと、陣の中のものを転送する個性を持っている。
「もうっ!そんな顔しないの!」
「いきなり乙葉さんが登場すれば、みんなビックリだと思いますし」
「しかも魔法陣効果でキラキラふわふわだよ?使わない手は無いと思うの!」
「お城の中なんですから、問題は無いでしょう?」
 何も言わないうちから拒否された時の反応をする彼女達に、沢也のため息と蒼の笑顔がいつものように注がれた。
「彼女等も祝い事に参加したいのだ。勿論、俺を含めた全員がそう考えている」
 割り込んだのは自力でこちらまで飛んできた烏羽だ。沢也はそれに頷いて肩を竦めてみせる。
「そうだな…だが、カメラ越しにその魔法の凄さが伝わるかどうかは別だぞ?」
「それは…」
「気持ちの問題なのっ!もう…沢也の意地悪っ」
 別の方面から不機嫌な回答を受けた彼の背中に、蒼の手がそっと合図を送った。
「何とかなりませんか?沢也くん」
「お前がいいなら何とかするが…」
「ふむふむ。沢也は蒼に弱い、と」
「お前…今回の主役を忘れた訳じゃないよな?」
 つぐみの呟きを呆れたように拾い上げ、沢也は二人に念をおす。
「あくまでも俺はバックアップ。しかしお前等が参加するとなれば、できる限り警備を整えないとなんねえから、色々と仕事が増えるわけで」
「承知の上で頼みに来たのだ。こちらも協力は惜しまない」
 淡々とした助け船を振り向くと、烏羽は小さく肩を竦めた。沢也は彼に向き直り短く問う。
「それも、お前を含めてか?」
「当然だ」
「なら、問題ないか。凶悪な兵器でも攻めてこない限りは」
「そう頼りにされ過ぎても困る」
「それはこっちの台詞でもあるんだが?」
 困ったように首を傾け合う二人を蒼が笑った。沢也はそれをため息で流して話を纏めにかかる。
「ま、いい。打ち合わせはまた今度。乙葉にもそん時紹介する」
「やってもいいんですか?」
 すずめからすっとんきょうな声が上がった。沢也が頷くと、つぐみの表情も明るく変わる。
「ありがと、沢也!流石は大臣様、太っ腹だね」
「落としたり持ち上げたり、忙しい奴だ」
 誉められた当人がげんなり口調で皮肉を言うのは、彼女の性格が某人物に似ているからだろうか?等と一人考えながら、烏羽は彼の顔の前に浮き上がる。
「俺も次回で構わないか?」
「ああ。それまでに大まかな事は決めておく」
 そう言うなり残業に戻り行く沢也の背中を、三人の妖精と蒼が追い掛けた。


 更に3日後。


 長テーブルに自室から引っ張り出してきた料理本複数を広げながら、海羽が頻りに唸り声を上げる。
「乙葉は何が好きなのかな?」
「沙梨菜もちゃんとお話してないから、あんまり知らないんだ」
 向かいに腰かけた沙梨菜の肩竦めを受けて、海羽が若干表情を変えた。
「お仕事、忙しいのか?」
「うん、ぼちぼちかなぁ…?」
 本当は海羽ちゃんが心配で、ついついこっちに足を向けちゃうだけなんだけど。と脳内で呟きながら、えへへと頭に手を当てる。
 そこへバタコーン的な騒音と共に秀が来襲しては、つらつらと勝手な予定を話し始めた。
「さあ海羽さん、参りましょう。何でも今日は本島で有名なパティシエがこちらに来ているのだとか…」
「あの…僕、まだ仕事が…」
 本をかき集めながら困惑する海羽を、彼は当然のように微笑であしらう。
「そんなもの、そこの脳無しにでも任せて…」
「分かりました。準備をしたら直ぐに行きますから、下で待っていて下さい」
 沙梨菜を顎で示した秀の言葉を遮って、海羽はさっと席を立った。
「いえ。私もお供致します。あなた様は支度に時間がかかって仕方がない」
 言いながら、秀もスタスタと海羽の後に付いていく。二人の声が聞こえなくなると、嫌な静けさが王座の間に残された。
「沙梨菜にまで気を使わなくても良いのに…」
 口を尖らせ呟くと、彼女は紅茶片手に腰をあげて移動を開始する。目的地はすぐそこの、しかし書類の壁に隔たれた一角だ。
「倫ちゃん、いつもこんな気持ちだったんだね…」
 デスクに上半身を預けがてらそう言って、沙梨菜は紅茶を口にする。オレンジの香りが喉を通って落ち着きを運び込んでくれた。
「でも、海羽ちゃんの気持ちも良く分かる。好きな人悪く言われるのは、ほんとにムカつくし…哀しいもんね…」
「ここは懺悔室じゃねえんだが?」
 書類の隙間から覗いた沢也の口元が告げた通り。まるで懺悔室の如く、書類の山を挟んで話しかけていた沙梨菜は、苛立つ彼の気持ちを軽く流して自分の話を継続する。
「だってだってぇ…何て言うか、話さずにはいられないっていうか…もぅ、分かんないかなぁ?沢也ちゃん」
 もどかしくなって書類の隙間に顔を近付けて見るも、合間から見える彼は相変わらず仕事をしているようだ。パソコンに向き合う指先が忙しなく、しかし大した音もなく電子の文字を生産している。
「理解者が欲しいなら女同士で探しあえ。いちいち俺を巻き込むな」
「むぅうぅうう!最近輪をかけて沢也ちゃんが構ってくれなぃいぃ!でもめでたいから仕方ないか!分かったよう、乙葉ちゃんとこ行ってくる!ついでに好きなもの聞いてくるんだから!」
 冷淡でいて単調な言葉に、最初こそ文句を言いかけるもハッとした沙梨菜がウキウキとスキップを開始した。彼女はセキュリティ付きの扉の前で一度振り返り、見えない彼に向けて笑顔を放つ。
「沢也ちゃんも、沙梨菜に出来ることがあったら言ってね?」
 明るくそう言い残し、返事がないのを確認した後、沙梨菜は静かに扉を閉めた。


 乙葉の好物は唐揚げ、天ぷら、コロッケ等。
 沙梨菜に聞いた情報の元、義希の手を借りてメニューを決定した海羽が城下町に買い出しに出る。
 梅雨時前なので、ただでさえ注文数が多大な城の発注先には、これ以上負担をかけたくない。だからと言ってこのギリギリの時期に、一つの店で大量注文するのも忍びない。
 つまりは、町中のお店から少しずつ買い上げるのが妥当な線だと言えた。
 半分はメイド長の橘さんが発注を請け負ってくれたので、海羽に課せられたのは青果類と精肉だけである。
 数十種類のフリッターと、数十種類のコロッケと、唐揚げも手羽先や軟骨、モモ肉やササミなど変化をつけたいところ。他にもサラダやフルーツの盛り合わせ、ディップソースに使うトマトやセロリなどの野菜や果物が大量に必要だ。
 今はまだ大丈夫なものの、何時梅雨に入るか分からない。出来るだけ早く注文を済ませてしまいたいと考える海羽の後ろを、一人の邪魔物が付いて回る。
「こんな貧相な店で仕入れるのですか?品質管理は大丈夫なのでしょうね?」
 何時もの八百屋に辿り着くなり、何時もの調子で声を大きくした彼を、海羽の困った微笑が振り向いた。
「あの…秀さん」
「披露宴の料理でしたよね。勿論私も招待されるのでしょう?」
「いえ、されないと思いますけど…」
 新聞は既に出回っているのだから、どう言う条件での式かは分かっている筈なのに。
 海羽の答えを聞いた秀は、あからさまに眉をしかめて鼻息を鳴らす。
「陛下は貴族を差し置いて庶民を呼ぶのですか?なんとも無礼な話です」
「ですから、披露宴ではなく打ち上げパーティーなので…」
「そもそも、こんな時期に催し物をやろうと言う方がどうかしているのです。だから満足に客も呼べぬ侘しい結婚式など…」
 つらつらと始まった演説を右から左に、やはり連れて来るべきではなかったと後悔しながら、海羽は小さく息を付いた。
 これ以上ここに居ては店にも、通りを歩く人にも迷惑がかかる。
 海羽は「また来ます、すみません」と八百屋の青年に声をかけて、爪先を橋の方角に向けた。
 青年は笑顔で頷き、明るい声を彼女の背中にかける。
「またお越しください」
 良く通るそれを耳の端に納めた秀が、やっと目の前に海羽が居ないことに気付いてふっと笑い。
「ああ、やはりやめにするのですね?流石は海羽さん。賢明な判断です」
 そう大声で口にしては、スタスタとその場を後にした。

 二人はその後も城下町を歩く。
 しかし海羽は店の場所や品揃えをメモしただけで、一度も店頭に立ち止まるようなことはなかった。




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