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 飛竜が夕焼け空に昇る。
 赤に滲んでいくシルエットを見送りながら、蒼が小さく口にした。
「覚えていたんですね。彼女」
「どこまで覚えてるんだかな」
 防音魔法の陣が輝く応接室を横目に、沢也が溜め息混じりの相槌を返す。蒼は席に戻りがてら、先程聞いたばかりの大地の話を念頭に回答した。
「僅か三歳の頃の事を、事細かに覚えているくらいです。記憶力は良いのでしょう」
「そうなると、やりづらくなるんじゃねえのか?」
 デスクに頬杖を付き、メールを読み漁る沢也の問い掛けが静かな部屋に落ちる。蒼はふっと息を漏らして笑みを強めた。
「そうですね。ですが、例えバレてもやることに変わりはありません」
「「元々潰す気だったから」で言い逃れる気か?」
「嘘は付いていませんよ?」
「そりゃそうだろうが…」
 振り向いた沢也に人差し指を回して見せると、彼は溜め息ついでに正面に直る。
 蒼は不服そうな沢也をクスリと笑い、デスクに置いたままの紅茶を手に取った。
「大丈夫です。彼女に覚られぬよう、静かに事を進めますから」
「…仮に、奴が乙葉の正体に気付いたら?」
 言葉尻に、沢也の流し目が蒼を捉える。いつものように微笑を浮かべたまま紅茶を口にした蒼は、カップから口を離す過程で笑顔を変化させた。
「その時はその時です。全力で潰させて頂きますよ」
 黒さの滲む柔らかい笑みが、沢也の背筋を確かに凍らせる。
 苦笑のままに半身振り向いた沢也は、困ったように片手の平を天に向けた。
「悪い王様が居たもんだ」
「光栄です」
「二の舞だけは踏んでくれるなよ?」
 ゴシップ紙を翻しては業務に戻る沢也に、蒼は笑顔を傾けて背を向ける。
「ご心配なく。細心の注意を払いますから」
 そう言って書庫へと足を向ける蒼を見送って、沢也は体の力を抜いた。すると、小一時間輝きっぱなしだった応接室の扉が元の色を取り戻す。
 ふうと短く息を吐き、肩を解すように回した沢也は、重なった書類を引き寄せて次々と目を通し始めた。



 晴れ渡る空に白い雲が浮かぶ。
 ライムグリーンの丘と、城下町の向こうに見える海と。
 その全てが一望できる三階の廊下の窓際に、白いケープを羽織った人影がぼんやりと佇んでいた。
 窓ガラスに片手を添えて、逆の手には分厚い本と書類を抱え、外の景色を食い入るように眺めている。
 その後ろ姿を見付けた沙梨菜は、出勤前に買い物でもしようかと今しがた王座の間から出てきたところだった。
 曲がり角を曲がって少し歩いてみても、廊下の中程に立ち止まっている彼女は気付かない。
 前にも、こうして外を眺めているのを見たことがあるなと思い出しながら。沙梨菜は歩みよりがてら声をかける。
「海羽ちゃーん♪」
 明るさに惹かれたように振り向いた海羽は、何度か瞬きする間に目の前までやって来た彼女に曖昧に微笑んで見せた。
「沙梨菜…」
「どしたの?誰か待ってるの?」
 ニコニコと朗らかに笑う沙梨菜の、なんとなくであろう問い掛けに。海羽は影の落ちた瞳を泳がせる。
「えと…」
 詰まった言葉の続きを探すことを諦めて、彼女は正直な想いを打ち明けた。
「分からないんだけど、最近気づいたら…何時も此処に居るような気がするんだ」
 消え入りそうな声で囁いて、また遠くの景色を見据える。海羽の悲しげな瞳の表面に、青空と白い雲が映り込んでいた。
「僕…何か、大切なことを…」
「海羽…ちゃん…」
 儚い眼差しがゆっくりと細くなる。理由を察した沙梨菜の震えた呟きは、次の瞬間驚きへと変化した。
「だ、大丈夫?」
 傾いた海羽の上半身を支え、虚ろな彼女の顔を覗き混むと、白い顔がみるみるうちに青ざめていくのが分かる。
「うん…なんか、ちょっと頭が…」
「みんなのとこ行こう?少し休んだ方がいいよ」
「うん、ごめ…ありがとう…」
 こめかみを押さえる海羽の肩を横から支えながら、沙梨菜は元来た道をゆっくりと戻った。


 白く霞む。
 目の前が、脳内が。
 何故だか分からないけど不安で不安で仕方がない。
 何が不安なのか全く説明が出来ないから、誰かに相談することもままならない。
 だって、何が不安なのか分からないけど不安なんだ、と言ってみたところで、相談された人は困るだろうし、僕もやっぱり先の説明に困るだけだ。
 だけど日に日に不安は増して、とうとう魔力が衰え始めたように思う。
 流石に伝えておいた方がいいかと思ったけれど、昔と違って長丁場で魔法を使う場面が少ない現状、それほど重要なことでもないかと思いとどまった。
 それよりも、蒼と乙葉の縁談を邪魔したくない。僕の体調なんか気にせず、前に進んで欲しい。

 だから、頑張らないと。

 意気込んで体を起こし、聖の会議に付いていった秀が帰らぬうちにと昼食の支度をする。その頃には頭痛も収まって、いつもの調子が戻っていた。
 城に勤める職員全員分の食事を用意するのはなかなか大変で、メイドさん達も忙しなく動いている。
 海羽はそれを邪魔しないよう手伝いながら、自らも調理に当たる。今日は蒼のリクエストで、ロコモコ丼とミネストローネだ。
 しかし全てを終える前に秀に呼び出され、聖や他の貴族達に挨拶をする。幸い、誰もが外でランチの予約をしていたらしく、直ぐに帰路に付いてくれた。

 その後自らもランチに行くと言う秀の誘いをなんとか断り、食事の後片付けを終えた海羽は、休憩の始めに自室を訪れる。
 シュークリームのおかげで紙袋が不足した為、バレンタインに配ったクッキーを入れた袋の余りを探しに来たのだ。
「確か沢山あった筈なんだけど…」
 ぼんやりとだが、何色か同じ種類の紙袋を買ったことは覚えている。
 本棚の一番下に置いた箱を開けると、色とりどりの毛糸が顔を出した。クリスマスに、みんなに編んだマフラーの余りだ。
 義希は赤、小太郎は黄色、沢也は薄い青、蒼は深い青。女の子達にも、それぞれオレンジとピンクと紫のふわふわの毛糸で、短めのマフラーを作っている。
 既に懐かしい心持ちがして、幾つか取り出しふかふかと弄んでいると、奥の方から白い毛糸が転げ出た。
「白いのなんて…買ったかな…?」
 記憶にない色に手を伸ばす。触れると温かく、柔らかな感触が伝わってきた。
 マフラーに文字を入れた記憶も無いし。時間も無かったから、仲間以外には編んでいない筈なのに。
 考えるうちにじんわりと頭痛が広がってきた。目を閉じて、白の中に顔を埋める。
 想像の中で、自分の手が白いマフラーを編んでいくのが見えた。長く、長く。少しでも温かいように。
 不意に気持ちがプツリと切れて、代わりに痛みが広がっていく。最後には意識がはたりと途切れ、真っ黒な世界がやって来た。

 次に訪れたのは、首筋に何かが触れる感覚。
 闇に慣れてから随分と時間が過ぎたように思えた。
 それでも目を開けられずに居ると、ぐらぐらと肩を揺らされる。
「海羽さん、どうかされましたか?」
 ついでのように響いた声で、海羽は咄嗟に身を翻した。見上げると、秀の薄気味悪い笑みが注がれる。自分をすっぽり覆い隠す彼の影から逃れようと、僅かに後退した。
「…今、何か…」
 首筋に手をあて尋ねると、秀の口元だけが不敵に笑う。
「あなた様がこんなところで眠りこけているので、起こして差し上げたのではないですか」
 また油断してしまったのかと、背筋に嫌なものが伝った。しかしこれと言っておかしなところもなく、体はきちんと動く。寧ろ、目を覚ます前より余程調子が良かった。
 そうして状況を確認する海羽の手元を指差して、秀が訝しげに眉をしかめる。
「おや。その毛糸は何です?季節外れな…」
「これは…」
 何故だか、見られたくないような気がして背に隠すと、秀の顔が僅かに歪んだ。それを隠すでもなく彼は言う。
「何か探し物ですか?」
「はい…紙袋を…」
「そんなもの、また幾らでも買ったら宜しい」
「でも、まだ沢山余ってて…直ぐに見付けますから…」
 毛糸を片付けがてら、別の箱を引き出して蓋を開ければ、目的のものは直ぐに視界に入った。
 あった、と思って引き出したのは黒い紙袋。それを見た途端、また頭に痛みが走る。
 彼の目の前で、また気を失いでもしたら。
 そう思うと痛みとは別の感覚が身体中を支配した。
 海羽は咄嗟に袋の束を箱の中に押し込んで、作った笑顔を振り向かせる。
「ごめんなさい、勘違いだったみたいです。やっぱり、新しいのを買いに…」
「はじめからそうすれば良かったのです。さあ、参りましょう。ついでに美しい音色のオルゴールでも探しますか」
 どうせならオーダーメイドもいいですね、と宣いながら、自作であろう曲を鼻唄で唄う秀の後ろ。頭痛を悟られぬよう慎重に立ち上がった海羽が、溜め息混じりに退出しては扉を閉める。
 その時彼女の部屋を眺める秀の眼差しが僅かに歪んだことに、施錠に集中していた海羽は気付く余裕もなかった。


 その翌日も快晴だった。

 瓦屋根が古木の看板を支える細長い建物の一階部分。そこが倫祐が贔屓にしている和菓子屋だ。
 その軒先からかなりの距離を置いて立ち止まった彼は、後ろでこそこそ花を飛ばす二人を振り返る。
「おお…あの和菓子屋か…!」
「わっくわくだね!どっきどきだね!」
 小声に話しながらも、身を縮めて両手を振り乱すのは義希と沙梨菜だ。
 前者は以前の約束から、後者はその付き添いと言うか暇潰しと言うか、とにかく行きたいとの事で案内する流れになったのである。
 良い意味で有名人な二人が出入りすれば、店にとって良いことはあっても悪いことは無いだろうと思いながらも、流行ってしまっては自分は行きにくくなるわけで。少しの寂しさを煙と共に宙に吐き出して、煙草を揉み消した倫祐の手から携帯灰皿が消えた。
 それを待っていたのか、左腕に沙梨菜が巻き付き下から顔を覗き込む。
「倫ちゃんはいつも何を買うの?」
「倫祐はいつも箱入りのまんじゅうとかだな。あ、自分用には他にも色々買うん?」
 逆隣から代返する義希に、倫祐は回した首を横に振った。その横顔を追いかけるようにして上半身を曲げた沙梨菜が、次に店の作りを確認して一人納得する。
「そか。カウンター式だと倫ちゃんには敷居高いんだねぇ…」
「じゃあ今日は、思う存分買ってけ?オレ等が注文するからさ」
 よだれ混じりにサムズアップする義希が歩を進めると、倫祐の腕を掴む沙梨菜の手に力が入った。
「はじめて入るお店って緊張するよね…」
「ん?そうか?まあ、じゃあほら、まずは倫祐から入って貰えばいいんじゃん?」
 そわそわしていた沙梨菜は、振り向いた義希の提案を聞いて彼の腕に移り行く。
「倫ちゃん、お願いしますっ☆」
 そうして二人に時間差で敬礼された倫祐が、いつものようにフラフラと店先に歩み寄った。
 中に他に客が無いことは確認済み。カウンターに近寄れば、中で書き物をしていた老婆が顔を上げる筈だ。
「あらあら、どうも、いらっしゃいませ」
 姿を認めるなり笑顔で会釈をしてくれた彼女に頭を下げた倫祐は、続けて奥から出てきた主人から鼻息荒い宣言を受ける。
「おい坊主!今日こそは買っていって貰うからな」
「ごめんなさいね、自信作が出来たらしいんだけど、上手いこと売れなくて…」
「お前はまた余計なことを…」
 早々のフォローにわなわなと震える主人を差し置いて、老婆は倫祐の後ろからこそりと覗く二人に気付いて目を丸くした。
「あら、お友達?」
「こんにちはー」
「お…お友達です☆」
 いつも通り愛想を振り撒く義希と、緊張しながらも営業スマイルで応える沙梨菜の声が連なる。
 そうして問われた当人が何も答えぬまま、話は先へと進んでいった。
「この前貰った饅頭がおいしすぎて連れてきてもらったんだ。あ、これかな?もふもちっとしてうまいんだよな」
「でもほら、義希ぃ。お饅頭以外もおいしそうだよ?これとか可愛い…!綺麗!」
 箱詰めされた丸の数々を発見した彼が、沙梨菜に促されてショーケースを覗き込む。そこには確かに沙梨菜をはじめとした女性が好みそうな、愛らしい姿のねりきりや寒天、羊羮などが行儀よく並んでいた。
「団子に…わらびもち…最中もうまそう…」
「この透明なのなにかな?ピンクのこれは?お花が一杯で目移りしちゃうね!どれも凝った形で綺麗…端から端まで一つずつ欲しくなるね!」
 ガラスに張り付く勢いで瞳を輝かせる二人を見て、カウンターの中から老婆が笑う。
「ふふふ、賑やかなお友達ですね」
「あ、すみません…!ついはしゃいじゃって…」
「構いませんよ。今、お茶淹れますから…どうかゆっくりなさってくださいな」
 倫祐の代わりに返答した義希に会釈して、彼女は店の奥へと引っ込んだ。残された店主が所在悪そうにするのにも構わず、屈んだ沙梨菜がショーケースの中を指し示す。
「おすすめはこれだね?おじいちゃん」
 けして目立つ色合いではないが、和紙に筆で書かれたポップから目線を移動した沙梨菜を見下ろして、硬直する店主の口からどもった声が漏れた。
「おじ…」
「若い子の相手は慣れないものでねえ。まったく、真っ赤になって…」
「う、五月蝿い。あー、なんだ」
「「食って損はない、それは保証する」でしょう?」
 狼狽える主人を穏やかにフォローしながら、茶器をお盆に乗せた細君は優しい笑顔を傾ける。
「そう言うことなので、宜しければどうぞ、食べてやって下さいな」
 それを無下に断る理由などなく、三人は揃って店主のおすすめと、それぞれ気になった物を注文してベンチに腰掛けた。
 愛らしい形のねりきりや「すあま」、串団子を何本かと饅頭に最中、それから羊羮等。多種多様な和菓子が赤い布の上に並ぶ。
 それを三人揃ってぺろっと平らげた辺りで、沙梨菜がまたショーケースに張り付いては顎に手を当てた。
「甘くないの、何かあるかな?」
「それでしたら、焼き団子なんて如何ですか?」
 カウンターの向こうでさっと団子串を出した女店主を見て、義希と沙梨菜が片手を挙げる。彼女はそれに頷いて、大きめの平らな丸が3つ刺さった串を網に並べると、炭火で炙り始めた。
 開け放した店頭に煙が昇る。いい具合に焦げ目が付いたところにタレを塗りこむと、香ばしい匂いが立ち込めた。
「いいにおいが…!」
「甘辛味噌味なんですよ」
 完成した片方を近場にいた義希の手に持たせると、忽ち天辺の丸が口の中に消えていく。
「おひしひ…」
 感動と感想を同時に放出する彼の表情を横目に見据えつつ、沙梨菜も差し出された団子をもちもち、数秒後には輝く真顔で一つ頷いた。
「これなら沢也ちゃんも食べられるかもっ!お土産に買ってこうかなぁ…」
「あらあら。甘いものが苦手なお嬢さんなのかしら?」
「馬鹿野郎…!お前は本当に…沢也っつったら、あれだろうが!」
 朗らかに尋ねる妻の横から、店主が呆れ混じりに驚きの声を上げる。驚いた彼女が目を丸くする中、彼はカウンターをペシペシ叩きながら焦りぎみに解説した。
「泣く子も黙る鬼参謀の名前だ!ほれ、お前が好きな新聞のコラムを良く書いとる大臣様!」
「ああ…ああ、あの…?あらあら、随分と偉い方とお友達なのね…」
 最初は驚き声を高くしつつも、ぽかんとする義希や沙梨菜と向き合うなり、女店主は落ち着いた調子で首肯を繰り返す。義希はそんな彼女の反応に困ったように頭を掻いた。
「オレ等は偉くなる前から友達だからなぁ…そんな凄いことじゃないんだけど」
「良く見りゃ…お前もあれだ!かの有名な近衛隊第一部隊の隊長じゃねえか」
「もちっと言っちゃえば、この子も一部じゃ有名なアイドルだけど、知らないかな?良くその辺でライブやってるんだけど」
 身を乗りだし目を見開く店主に沙梨菜を示して問い掛けると、カウンターの中からは納得の息が長めに吐き出される。二人はそれが切れるなり、口を開けたまま倫祐に首を回した。
「あなた、やっぱり凄い人だったのねえ…」
「なんでえ、心配して損した」
 舌打ちの後、ぽつりと呟かれたそれに注目が集まる。隣にいた妻君に至っては、口に手を当て主人の顔を覗き込んだ。
「あらあら、言っちゃって良かったんですか?」
「!う、うるせえ…あーてめえら、さっさと食って帰りやがれ!他の客の邪魔んなる!」
 ハッとするなりそう言い捨てて、長い暖簾を潜って奥に消えていく店主を四人は黙って見送る。
 足音が消えた辺りで振り向いた女店主が、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんなさいね、単なる照れ隠しですから…」
「慣れてるから。なぁ?沙梨菜」
「うん。小太郎や沢也ちゃんも時々あーなるよね?」
 顔をしかめるどころか、寧ろ和んだ様子の二人のやり取りを前に、逆に驚いた女店主がまた目を丸くする。
「でもほんと、いつまでも居たら邪魔になっちゃいそうだし…お土産買って帰ろ。んでまた今度来よう!」
「そうだね!一度には無理でも毎日来れば一個ずつ食べられる訳だしね!」
 そうして体を伸ばした後、幾つかのお土産を手に店を出た三人は、見送りに出てきた老婆に手を振り南通りに出た。
 暫く西に進む。噴水広場を経て中央通りに出るためだ。
 丁度広場に差し掛かった辺りで、義希と雑談していた沙梨菜が一歩前に出る。
「倫ちゃん」
 振り向きがてら呼び掛けると、彼は瞬きで返答した。
「あのね、これ…沢也ちゃんに渡してくれないかな?」
 手に持っていた袋のうち一つを差し出して、彼女は続ける。
「沙梨菜から渡すよりもね、食べてくれそうな気がするんだ…」
 寂しげな呟きが賑やかな中に落ちた。
「あんまりご飯食べてないみたいだからさ。会議とか何だとかで、半端にしちゃうのもしょっちゅうだし…ほら、沙梨菜より細くなられたら洒落にならないじゃん?」
 言いながら倫祐の前に歩み寄り、袋を持たせた沙梨菜は照れ臭そうに笑う。
「沢也ちゃんの事だから、きっと大丈夫だって分かっててもね?やっぱり心配なんだよ。仕事しながらでも片手で食べられる、おいしいもの探してみたりしてるんだ」
 ルビーの中に品物を仕舞い、全てに一つの頷きだけで決着を着けた倫祐を見て、沙梨菜がホッと息を吐いた。
「倫ちゃんも、他にもおすすめのお店あったら教えてね?義希がさ、倫ちゃんはいつもこっそりおいしいもの見付けて食べてるーって言ってたから♪」
 空いた手を取りブラブラ振りながら、楽しそうに言う彼女から目をそらし、倫祐は義希をチラリと見据える。ニカリと、屈託のない笑顔を返された彼が反応するよりも前に、沙梨菜がふわりと回転した。
「さ、そろそろ行かなきゃ。あとそうだ、ついでにね、これも」
 再び振り向いて、更にもう一つの袋を倫祐に押し付けた彼女もまた、義希と同じ種の笑顔を浮かべる。
「海羽ちゃんに。沙梨菜からだよって…明日、お城に行くんでしょ?」
 倫祐は問い掛けに対して肯定も否定もしないまま、しかし何か言いたげに首を傾げた。
「沙梨菜はこれからお泊まりレコーディングなのです。だから、宜しくねー☆」
「がんばってらー☆」
 拒否を拒否する勢いで去っていく沙梨菜を義希が見送る。彼は困ったように振り向いた倫祐を見上げ、嬉しそうに笑った。
「和菓子屋のおっちゃんじゃないけどさ。なんか、オレも安心した」
 優しい声色を聞きながら、倫祐は沙梨菜から受け取ったものを仕舞う。義希は彼の変わらない表情を見上げたまま、明るく言い訳を口にした。
「隊以外にも、噂に騙されない人がいてくれてるんだなーって、なんか、当たり前のことなんだけどな」
 それに対して、倫祐が何を思ったのかは分からない。それくらい反応がなかったからだ。
 義希は曖昧な微笑を残して進行を再開する。その隣から音もなく、倫祐の手が伸びた。
「ん?」
「…お返し」
「何の?」
 手を出すと、その上に小さな飴玉が落とされる。毬に見立てて模様が入れられた、食べるのが勿体ないような一品だ。
「マシュマロの」
 倫祐は義希が顔を上げるのに合わせて呟くと、自ら中断した歩を進めにかかる。もう暫くすれば、二人とも休憩が終わって業務に戻らなければならないのだ。
「お返しのお返し?」
 義希は飴玉を掌に乗せたまま、面白そうに頬を緩ませる。
「いや、でも。喜ぶと思う」
 瞳だけ振り向いた倫祐に頷いて、彼は彼の隣に並んだ。
「オレが渡しちゃっていいん?」
 見上げがてら訊ねると、倫祐はしっかりと首肯する。
「そか。…分かった」
 本当は自分で渡したいんだろう?と口を付いて出そうになった呟きを押し込めて、義希はルビーに飴玉を収納した。



 丁度その頃。

 王座の間で仕事をしていた海羽を、城下町に買い出しに出向いていた秀が手招きしては廊下に呼び寄せた。
 今日は蒼が本島に出張、有理子もそれに便乗している上に、八雲と亮も民衆課に籠っている為、王座の間の人の出入りは無いに等しい。唯一常駐している沢也に見送られて退出した海羽は、歩きながら先導する彼が口を開くのを待った。
「部屋の整理をしておきましたから」
「…え…?」
 唐突に出てきた言葉に驚いて、思わず足を止めた海羽を秀の楽しげな笑みが振り返る。
「大丈夫、凄く綺麗になりましたよ。後日、新しい家具や小物を買いましょう」
「あの…どうやって…」
「あなたが頼んだのではないですか」
 前のめりになった海羽の目の前に、彼女の部屋の鍵が提示された。それは疑いようもなく彼女が持っていた筈のもので、しかし現在は秀の美しい指先につまみ上げられている。
「え…?」
「まだ、混乱なさっているのですね。可愛そうに」
 言いながら、固まる海羽の肩に手を乗せて。秀はそっと鍵を戻す。元々彼女が仕舞っていた…そう、サロペットのポケットへと。
 海羽はその気配を感じながらも動けずに、すぐ耳元で囁かれる彼の声を聞いた。
「大丈夫、直ぐによくなりますよ。そう…私の側に居れば…」
 ねっとりと、貼り付くような声色が余韻として残る。
 彼は殊更ゆっくり海羽から離れると、足音を響かせながら廊下を曲がった。
 追いかけて文句を言おうにも、カラカラに乾いた喉からは言葉が出てきそうにもない。
 諦めて、震える足を自室に向ける。陽の当たらない薄暗い通路側酷く不気味に思えた。
 辿り着いた扉に鍵を差し込み回してみると、いつもと変わりない、小気味の良い解錠音が聞こえる。そっと鍵を手元に戻し、ポケットに仕舞う。
 あとは扉を引くだけなのに、それが異様に恐ろしかった。
 固唾を飲む。冷や汗が額に滲んでいた。海羽は震える掌でドアノブを握り締め、その勢いのまま引き寄せる。
 開かれた先にあったのは、何時もと然して変わらぬ光景だった。
 それはそうだ。貴族である彼が、誰の手も借りずに大掛かりな掃除など出来るわけがないのだから。
 海羽は密かに安堵と納得を繰り返す傍ら、酷い虚無感を覚える自分にハッとする。
 感覚をそのままに、ふらふらと足を進めてみても特別思い当たるものはない。
 だけど、見渡してみれば確かに物が少なくなっている…それだけは理解できた。
 本棚の隙間。不自然に空白がある棚。半端に開かれた引き出し。タンスからはみ出た衣類。捲られたかけ布団。ずれた椅子。よれたカーペット。
 全てが気持ち悪くなって、近場のものから直していく。しかし引き出しや椅子は正せても、そこに置かれていた筈の物達の為に、代わりの物を置く気にはなれなかった。
 もしかしたらまだ捨てられていないのではないかと思い立ち、慌て外に出る。

 門番二人の証言を得て一時間ほど街を探し回ったが、大きなゴミ袋を抱えていたと言う秀の姿は見当たらなかった。
 追跡魔法を遣うことも考えたけれど、この人通りの中を巨大な水晶が転がるのは如何な物かと思うし、持って歩くだけでもかなり目立つ。だからと言って文字通り飛んでしまうのはもっと良くないと、諦めて自力で探索した。
 廃品回収にでも出したのだろうか、最後に辿り着いた義希の証言で、秀が何も持たずに島を出たことが明らかになる。

 実際に見ればきっと思い出せる筈なのに。何が無くなってしまったのかも分からないのが酷く落ち着かない。
 だけど部屋に帰って隙間を眺めているだけで、また頭痛が押し寄せて来るのだからどうしようもない。
 思い出せたのは、以前見られた使いかけの毛糸、紙袋。それから、本棚に並んでいたアルバムだった。みんなの写真が沢山詰まっているものだ。
 だけどこれは沙梨菜が元のデータを持っている筈だから、暇なときにまた焼き増しして貰えば済む。
 そう納得してみても、あちらこちらに点在する幾つかの空白が無言の圧力をかけてくるように思えた。
 考えようとすればするほど目が回るので、諦めて頭を休めることにする。
 体ごとベットに投げ出して、うつ伏せに深い息を吐いた。
 と、枕の下に固いものが当たる。
 何だろう。
 そう思って引き出すと、透明に近い白が姿を見せた。
 つるりとした表面は丸みを帯びて。薄く固い質感が、不思議と海の香りを纏う。
 掌に収まる小さなそれは、真っ白な貝殻だった。
「どうして…」
 こんなところにあるのだろう。
 そう言いかけて、しかし思い直す。
 手に持ったそれを眺めるうちに、胸の奥がざわめき始めた。
 白い透明を裏返すと、内側の虹色に自分の顔が映る。それは酷く歪んでいたけれど、嫌な気はしなかった。
 指先でそっと、撫でる度に冷たさが増して、だけど同時に温かさも帯びる。
 不意に視界が滲んだ。不思議に思って瞬くと、手の甲に温もりが落ちる。
 二度目の瞬きで、彼女は自分が泣いていることを悟った。
 瞬く度に零れるそれは、次第に温度を失って皮膚と同化する。

 どうして涙が出るのか、それは痛いほど分かった。
 大事なものが無くなったから。
 だけど、それが何だったのか…思い出すことは出来ない。

 前にも同じようなことがあった気がするのに。
 何時のことだっただろう。それすら、分からない。
 思い出せそうにもない。

 思い出せなくとも、痛かった。痛くて痛くてたまらなかった。自分の一部を失ったような…それでいて、現実だけが別の場所に在るような…
「頭…痛い…」
 不協和音が脳に響く。
「気持ち…悪い…」

 どうして…
 どうして…大切なのに…

 おぼえていないんだろう


 頭の中の呟きが全身に拡散された。
 そっと握り締めた貝殻が、今にも割れて消えてしまいそうに思える。
 その危うさと同じくらい、自分自身も。
 この曖昧さに潰されて、壊れてしまいそうだった。


 真っ白だ。
 光っているのか。
 滲んでいるのか。
 何もないのか。
 柔らかいのか。
 暖かいのか。

 何も分からないくらい。
 真っ白なんだ。

 僕は白が好きだよ。
 だけど。
 この白に染まっていてはいけない。
 そんな気がするんだ。

 どうしてだろうな。
 この白に身を委ねてさえいれば。
 痛みや不安に飲み込まれることも無いのに。

 僕はどうしても、抜け出さなきゃいけない。

 だって。
 手を伸ばせば届きそうだから。



 温かく、優しい白に。




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