呪縛






 

 甘い香りが立ち込める。

 魔法陣の光に包まれた噴水を循環するのはチョコレート。
 この日の為に特別製作された陣は、咲夜と大地監修の元、マジックアイテム課によって試作を繰り返されたもので、複雑な形のバリアで噴水の外側から内部までを見事コーティングしていた。
 更に噴水全体を囲うバリアは虫除けの為。蚊帳のようなそれを扱うのは孝の知り合いだと言う高齢の魔術師で、陣の外側に並ぶ人々を眩しそうに眺めている。
 混雑時は入場制限をかけているものの、人の波が減りさえすれば自由に出入りできるようになっており、流れるチョコレートの量も、先に比べて減っているように見えた。
 広場の二ヶ所で猫のキグルミが配る専用フォークは、時田がデザインし、夏芽が運営するリサイクル工場で製作した代物で、男女問わず若者にも好評の様子である。
 自前の素材を噴水のチョコレートに潜らせて、バリアから笑顔で出てくる人々を横目に、紫もふわりと列に並んだ。食材は臨時で出張しているパン屋や果物屋の露天から幾つか仕入れてある。
 バリアの中では20人ほどが舌鼓を打っており、順番までまだ暫くかかりそうだ。
 紫は隣で配布されたフォークを凝視する彼女をなんとなしに振り返る。
 いつぞやの金髪カツラに有理子が選出したキャップとガウチョを合わせ、ボーイッシュ風に纏められた乙葉が視線に気付いて顔を持ち上げた。
 元々黄緑に近い彼女の眼差しは、今は淡いオレンジ色に染まっている。
「紫」
「はい」
「では私は橙ですね」
「そうですね。そうしましょうか。橙さん」
 不意な提案にクスリと同意して、紫は周囲の様子に耳を傾けた。二人に気を留める者もなく、怪しい気配も見当たらない。周辺警備に当たっていた義希が、帯斗と定一に接触するのが見えた。
「町には良く来られるのですか?」
「去年は良く。今年はこれが初めてですね」
「遊び回っていらっしゃるのですね」
「否定は出来ません」
 棘のある呟きをかわしきれず、紫は堪らず苦笑する。橙はそれを横目に小さくため息を付いた。
 噴水が上から吹き出すチョコレートは控え目な飛沫を上げながら着地して、また巡回する。チョコレートが固まってしまわないよう熱を発する機能まで備えたというバリアを、何か別の事に使えないかと思案しかけたところで一気に列が動いた。
 二人は縦に並んでバリアの切れ目を潜る。
 噴水の縁、比較的空いた場所に手を付くと、バリアからほんのりと熱が伝わってきた。これが内側に行くほど高温になるのだと、咲夜が製作の苦労を語った時の事を思い出す。
 紫が取り出した食材を、橙がフォークにセットした。こうして近くに来ると、見た目にも香り的にも迫力満点である。
「これは元々あなた宛のものだそうですね?」
 マシュマロを落ちてくるチョコに潜らせながら橙が問い掛けた。
「はい。毎年沢山頂いてしまって…消費しきれず申し訳ないです」
 はしゃぐ子供を横目に紫が答える。彼はくるりと回したフォークに一口大の丸パンを刺した。
 二人の間に置かれた食材が、二人の子供の楽しげな会話の中、次々とチョコに浸される。
 感想もなく続く間食は、腹八分目のかなり手前で終了した。
「もう少し買ってくれば良かったですね」
「昼食が入らなくなっても困ります。それにあなたは何時でも食べらるではないですか」
 短い会話の後、ゴミを片付けてバリアの枠を飛び越える。内側からしか抜けられないよう術が作られている事からも、魔術師の力量を窺うことが出来た。
 振り返ったついでに時計を見ると、到着から40分程経過している。余りゆっくりしていては会議に間に合わなくなるだろうかと、時間の計算を始めた紫の隣に橙が付いた。
「勿体ない事をしましたね」
 彼女は橋の方角を見据えたまま、唐突に口にする。紫が振り向くと、まるで計ったかのように橙も彼を見上げた。
「逃した魚、大きいのではないですか?」
 皮肉に笑うでもなく、しかし何かしらの感情が籠った無表情がゆっくりと問い掛ける。
「そうかもしれません。ですが、彼女にとって女王という立場は重荷でしょうから」
 紫は曖昧に微笑んで橋の方角を振り向いた。
 橙は反論も肯定もなく、ただ小さく息を吐く。
 二人は暫くの間遠くを眺めていたが、ふとした瞬間に紫が小さな笑い声を溢した事で、会話が再開された。
「やっぱり、やめておきますか?」
「え?」
「婚約です。今ならまだ間に合いますよ?」
 冗談めいて笑う彼に、彼女は僅かに瞳を細める。そうしてすぐにそっぽを向いた。
「お気遣いなく」

 程無くして紫が橙に次の進路を訊ねると、彼女は仕方がなさそうに「街を一周して帰ります」と足を動かす。紫は半端に振り向いた彼女を先導して街を歩いた。
 質問があれば返答したが、殆どは会話もなく散歩が終わる。
 喧騒に紛れて抜けた先、秘密の通路を使って城へと戻った二人は、椿と有理子と交代で通常業務に戻った。



 それから恙無く一日が終了し、月が天辺に昇った頃。


 3つに渡る会議の報告書を書き終えた蒼の元、乙葉に掴まって仕事の話をしていた沢也が舞い戻り、なんとも言えぬため息を吐く。
 仕事熱心なのは歓迎すべきところだし、女とは言え有理子やくれあのように変に密着するタイプでもないため、彼が言いたいことは一つしか思い浮かばない。
「少しは打ち解けてきたもんだと期待したんだがな」
 予想に違わぬ愚痴は、困ったような苦笑からもたらされた。考えを見抜かれている事を分かった上で発言した証拠である。
 蒼はデスクに戻る沢也に書類を差し出しながら、言い訳の前置きを口にした。
「沢也くんにはありませんか?興味を持てない話」
「無いわけないだろ。アレの話とか」
 即答は苛立たしげな視線を某所に向けて、ため息混じりに。蒼はコーヒーをカップに注ぎながらクスリと笑う。
「それを聞かなければならないのは、面倒ではありませんか?」
「ま、確かに…」
 それでも沢也が「当然」と言い切らなかったのは、蒼の話に見当を付けたからだ。
「彼女にとって、今一番興味がないのは僕の話だと思うんです」
 全てを理解していながら、蒼は何時もの調子を崩さず沢也のデスクにコーヒーを置く。
「特に今は、世界が広がって色々なものを吸収したい時期でしょう。それを我慢してまで聞きたくない話を聞かされるのは、苦痛以外の何物でもないかと」
「…お前の言いたいことは良く分かった。なら、どうするんだ?あいつがお前の話を聞きたがるまで待つとでも言うのか?」
「はい。その通りです」
 パソコンを起こしがてら問う沢也に、蒼は殊更強く笑って見せた。
 強い圧力を受けた沢也の口から長いため息が吐き出される。
「大丈夫ですよ。彼女も今日で学んだ筈です。これから先は取り繕うくらいして下さるでしょう」
「だといいが…」
「そんなに心配なら、お姉さんの力を借りてみますか?」
「…そうだな」
 蒼の説得と提案に気のない返事をしていた沢也は、驚いたように顔を覗き込んでくる彼を横目に捉えた。
「珍しいですね。あなたがそんなに急ぐだなんて」
「お前が内々に色々進めてくれるからだろ」
 呆れにも似た返答がため息に変わる。蒼は茶化しを引っ込めて肩を竦めた。
「お前としては、あいつの気持ちなんか関係ねえんだろうが…」
「そうですね。そうかもしれません」
「…だがな、内情を知っておいて損はないと思うぞ」
「仰る通りです」
 諭すような言葉に素直に頷いた蒼は、一呼吸の後沢也を振り返る。
「お願い出来ますか?」
「分かった。大地に頼んでみる」
 二つ返事に目を丸くする蒼を振り向かず、メール画面を開いた沢也の口元が微かに歪んだ。
「話を引き出すだけなら、左弥より大地のが向いてるだろう」


 その日、沢也が送ったメールの返事は翌日になって直接返される事となる。
 咲夜にくっついて訪れた彼は、マジックアイテム課の講師の後すぐに、乙葉との面会を買って出てくれたのだ。

 蒼は相変わらず会議で忙しいらしく、一人王座の間で仕事をしていた沢也に案内され、大地は応接室の戸を叩く。
「お久しぶりです。環境調査の時以来かな?」
「大地さん…ご無沙汰しております」
 沢也から適当に言われて彼を待っていた乙葉は、半端な仕事をそのままに起立して頭を下げた。
 大地は促されて彼女の正面のソファーに腰を据える。
「ゴシップ紙、読みましたよ」
「恐縮です」
「取り繕えそうですか?」
「努力はしますが…難しいですね」
 何処と無く反省したような、萎んだような乙葉の口振りと、返答内容を聞いた大地の首が傾いた。
「そんなに陛下が嫌いなの?」
「さあ…どうでしょう」
「環境破壊の件が許せないからだと聞いたけど」
「その通りです」
 会話がてら傍らのティーポットに新しい茶葉とお湯を注ぐ彼女の様子を注視しても、はぐらかしたいと言った風には見えない。大地はふむ、と頷いて顎に手を当てる。
「問い詰めてはみましたか?」
「はい。はじめの面接の時に」
「彼等は言い訳をしなかった。…違
 うかな?」
「…はい。そうです」
「それはね、彼等が何を言っても言い訳にしかならないからだよ」
 朗らかに言い切った大地に、乙葉が真顔を頷かせた。それを待っていたかのように、彼は悪戯に表情を変える。
「だけど僕にならフォロー出来る。幾らでもね」
「え…?」
「この件。彼等に殆ど非はありませんよ」
 疑問符に直ぐ様答えを示した大地は、乙葉の眉が僅かに歪むのを見た。
「あはは、まあ、そんな反応されるだろうことは、分かっていました」
 そうして豪快に笑う彼に不服そうな眼差しを注ぎながらも、乙葉は話を促すように首肯する。
 大地は予め用意していたファイルを開きながら、彼女の理解を得るためのプレゼンを始めた。沢也や蒼に頼まれたからではなく、彼の独断であることを前置いて。
「元々彼等は自然破壊行為が起きないよう、郵便課を使って手を回し、出来る限り目を光らせていた」
 国が出来て暫くした頃、城に潜り込んだスパイを一掃してすぐの報告書がファイルの一枚目。
「しかしそれでも貴族達は、勝手に木を斬り倒していたんです。間引きだ何だと言い訳をして、ちょっとずつね。でも実際はそんなもんじゃなかった。目に見えて木が減っていくのが分かった。制止も聞かず、証拠の写真や映像も偽装だと難癖付けて突き返してくる。そんな対応じゃぁ埒が明かないと、最後の手段に出たのが去年の事」
 話に合わせて立て続けに捲られた資料の数々は、乙葉が見てきた山の風景に関する記憶を呼び起こした。
 大地は「最後の手段」となる計画書を開いたまま、その上に言葉を落とす。
「土地の開拓許可を出し、代わりに自然災害が起きた場合の補償は全て貴族持ち。そんな契約でした」
 サインが施された二枚の契約書のコピーが並べられた。乙葉は大地の手からファイルを預かって丁寧に眺め始める。
「その時点で既に手遅れに近い状態だったからね。それ以上広がらないよう、周りの土地を一時的に買い上げたりして被害の拡大を防いだ。で、その結果が君が見てきたもの」
 補足を受けて一息付き、並べたティーカップに紅茶を注いだ乙葉は、大地の前に1つを滑らせて自らもそれを飲んだ。
 まだ熱いくらいの紅茶を冷ましながら口にする彼女の目線は、直ぐにファイルに固定される。
 買い上げた土地の一時的な借用書だとか、その他諸々の契約書の後に来るのは、崩れた山々の姿が写る大量の写真だ。ページが進むに連れて、乙葉の表情も険しくなっていく。
 大地はそれでも最後まで目を通した彼女に苦笑を向けた。そこにあるのは負の感情ではなく、乙葉の感情や性格を読み取った事から来る、何とも言い難い思いだ。
 対して乙葉は小さく息を吐いて気持ちを落ち着けると、きちんと大地に視線を合わせる。
「ただ指をくわえて眺めていただけではないことは、良くわかりました」
「それでも彼を許せませんか?」
「許す、許さないの問題ではありません。経過はともあれ、最終的に貴族を貶めるために自然を利用したのは確かです」
「そこは否定できないな。だけどそうでもしなきゃ、もっと被害は広がっていただろう。それに、君は陛下ばかりを憎んでいるみたいだけど。あの計画には大臣も加担していたんですよ?」
「…存じております」
「それなら、何故彼ばかり?」
 大地の問いにはあからさまな困惑が含まれていた。乙葉自身も、彼が言わんとしていることに心当たりはある。それほど分かりやすく表れてしまっていたのだと、改めて自覚して。彼女は頭の中から答えを探した。
「何を考えているか分からないからです」
 口を出た言葉は偽りではなく、恐らく本心だ。大地も、乙葉も、密かにそう感じ取る。
 出来上がった小さな間は、互いに紅茶を飲むことで繋いだ。
「いつもにこにこと…人をはぐらかすような顔ばかりして」
「確かに沢也くんは分かりやすく見えるだろうけど…陛下だって、君に悪意を持っている訳じゃないと思うな」
「悪意がどうこうについてはよくわかりませんが…仕事をする上で、ハッキリ示して頂いた方がやりやすいではないですか」
「仕事の面だけで?君は彼と、婚約しているんですよね?」
「…それが何か?」
「多少なりと、好意や悪意の話になってもおかしくはないんじゃないかなぁと」
 茶化すでもなく首を傾げた大地を前に、乙葉は自らの胸に手を当てて身を乗り出した。
「私は、恋愛をしにきた訳ではありません」
「だけど、夫婦になるんだよ?」
「愛がなければ夫婦にはなれませんか?」
 真剣な眼差しが正面から注がれる。実際互いに好意を持って伴侶を得た大地は、乙葉の問いに即答する事が出来なかった。
「あの方も、私の考えに同調したからこの話を承けたのだと考えていましたが…」
「そうかもしれないね」
 目をそらして呟くように口にする乙葉に、大地は曖昧な同意を返す。
「だけど、陛下は君のような悪意を持っていない。…どうしてそんなに嫌うんですか」
 やるせないような、そんな大地の空気から彼が本当に聞きたいことを覚り、乙葉は徐々に肩の力を抜いた。
「他の子とは、仲良く出来ていると聞いてます」
「ですから…何を考えているか、分からないから…」
 しかし答えが見付からずに片手で顔を覆った彼女を、大地が申し訳なさそうに覗き込む。
「ごめん、責めているつもりはなかったんだ」
「いえ。構いません。私に問題があることは、分かりましたから」
 呼吸を調えて紅茶を啜り、浅い深呼吸と共に横を向く。大地はその横顔を、同じく紅茶を楽しみながら黙って眺め続けた。

 乙葉が次に口を開いたのは数分後の事。
「昔…」
「うん?」
 唐突な呟きに何とか反応した大地は、カップを置くことで聞く体勢を取る。
「私が子供だった頃。優しくして下さった方が居たんです」
 囁くように続けた彼女は変わらず顔をそむけたまま、カップだけをソーサーに戻して先を話した。
「私も貴族で、彼も貴族で。ですが、彼は大人でしたし、身分も上でした」
 大地は乙葉の話し方から、彼女が頭の中を整理しながら答えを探しているのだと解釈し、昔話に耳を傾ける。
「彼は王族を嫌っていました。お伽噺に出てくる王様のように、何もせずに贅沢をしている存在だと、良く話して聞かせてくれたのです」
 乙葉は言いながら微かに苦笑した。しかし微量過ぎてそこに籠められた感情までは読み取れない。
「私は子供ながらに疑問を抱きました。それなら何故、皆が王様を敬うのだろうかと」
 答えを求めるかのように大地を振り向いた乙葉の口から、過去に聞いた回答が吐き出される。
「彼は言いました。「それは「王様だから」だよ」と」
 含みのある台詞を、当時と同じ調子で再現したのだろう。彼女のものとは似ても似つかぬ悪意がじわりと感じられた。
「王様で居れば…王様と言う称号さえ手離さなければ…誰もがその存在を、揺るぎなく信じ続ける…何の疑いも、持たずに」
 続く補足に、幼い頃の…そして今の彼女は納得しているのだろうか。大地がそう考えを巡らせる間に、乙葉は一呼吸で話を切り替えた。
「私の両親は、その彼に裏切られて亡くなりました」
 唐突な切り返しを、大地は瞬き一つで追いかける。彼女はそれを待って静かに先を繋げた。
「何かあったら守ってくれる、そんな同盟を…契約をしていた筈の彼に。信じていた人物に。追い詰められて…」
 最後に囁かれた言葉を聞き取れず。代わりに瞳を閉じた乙葉の真顔を、大地は正面から見据える。
 乙葉は自らの鼓動が落ち着くのを待って、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「私は王様を信じるのが怖くなりました」
 信じるべき「契約」ですら嘘ならば。この国を支える存在ですら嘘なのではないか。そしてそれは、現実として彼女達を追い詰める手伝いをした。そう、国に名前が無くなると言う、最悪の形で。
「何を考えているか、分からない人間を…信じられなくなりました」
 彼女達を騙した貴族…小山内と言う人間も、蒼に似て笑顔を絶やさないと聞いている。俯く乙葉の表情が曇った事からしても、本人も気付かぬうちに重ねてしまったのだろう。
 大地が密かに分析を続けていると、乙葉の口から長く細いため息が吐き出された。
「本当は分かっているんです。ハッキリ物を言うからと言って、裏がないとは限らないと言う事くらい」
 膝の上で両手を組み、ぎゅっと握り締める。乙葉はその上に落とすようにして、掠れた声で打ち明けた。
「情けない事に。私は今も、あの男の言動に縛られているのです」
 無意識に目を背けながらも、ずっと考えを巡らせていた事に向き合った。彼女から溢れるそんな空気読み取りながら、大地は顔を曇らせる。
 裏切られた人間は、裏切った側の人間に対してこうも弱いものなのかと。小山内は彼女を裏切ったのだから、小山内の言葉は全て嘘だったと言い切ってしまっても良さそうなものなのに。
 …いや。小山内の言葉は、この世の全ては「裏切る可能性がある」と言うことを示し、小山内は自らの行動でそれを証明して見せたと言うことにもなるのか。
 それでも彼女が聡明に育ったのは、両親と例の村人達のお陰だろう。
「…その人は今も貴族を?」
「そう、聞いています」
 不意な問い掛けに頷いた乙葉は、顔を上げた先で大地の真顔が苦笑するのを見た。
「彼に会うことになったらどうするつもりですか?」
「彼が私を覚えている可能性はどれくらいあるでしょうか?」
 答えより先に疑問が口を突いて出る。乙葉は大地が回答するより前に小さく首を振って続けた。
「私にも分かりません。しかし孝さんが何も仰らなかったと言うことは、問題ないからだと受け止めています」
「成る程ね。だけど、そんなに簡単に忘れるかな?」
「彼の交遊関係は広いと聞いております。それに今の…乙葉と言う名は、本当の名ではないのです。貴族の私は死んだことになっていますから」
 乙葉の言葉を受けて、唸りを引っ込めた大地が真面目くさって指を揺らす。
「そこはね、悪いけど知ってるんだ。調べさせてもらったので」
「それもそうですね。調べていない方がおかしいです」
 軽い謝罪を軽く流し、微かに微笑んだ乙葉は、ポットに残った茶葉にお湯を足した。
 大地は彼女の仕草を見守りながら瞳を細める。
「まさか君が、そこまで覚えているとはね…」
「忘れたことなどありません。全て鮮明に覚えています」
 淡々とした声は儚げに。当人にその気が無くとも、事情を知る大地には実情が垣間見えて複雑な心境になった。
 しかし同情などかけてほしくはないだろうと、一息で思考を切り替えて、彼は話を元に戻す。
「だから、僕が知りたいのはね?お相手の事ではなくて、君の気持ちの方なんですよ」
「私の、ですか…」
 確かにそう聞かれた筈なのに、不安に押されて追いやってしまった問題を、乙葉はきちんと目の前に据えた。
「確かに、彼に恨みを抱いていないと言えば嘘になります。ですが、女王候補と言う立場を捨ててまで報復する気はありません」
「女王になるのは報復が目的ではないし、顔を会わせても平静を装えると?」
「報復は元より頭にありません。私が此処にいるのは国政に携わりたいからです。彼の事も、前以て現在の姿を確認して居さえすれば問題ないでしょう」
 真っ直ぐな目でそう言われ、大地は気付く。彼女はいつも、前しか見ていないのだと。
「何となく分かったよ」
「…え?」
「君の性格が」
 大地は困ったように微笑んで、瞬く乙葉に小首を傾げて見せた。
 家族を殺したと言っても過言ではない小山内に対する憎しみの方が断然強い筈なのに、微塵も顔に出すことはない。
 だけど陛下にだけは、周りが察知出来るほど感情を剥き出しにする。
 どう言うことか。
 簡単だ。
「君は陛下に期待していた」
「……」
「だけど想像していた結果が出なかった」
「………」
「だから怒っている。それはまだ、彼への期待が薄れていない証拠ですよね」
 彼女が過去の話よりも、未来に目を向けているのなら。するべきは「今」の話だろうと。
 そうして模索する大地への回答は、はっきりとした困惑だった。
「分かりません…」
 沈んだ顔が、殊更ゆっくりと前を向く。
「私は信じていいのでしょうか?」
「信じられなくなったから此処に来たんじゃないのかな?」
「元々信じて等いませんでした」
 囁くように否定して、乙葉は自身の気持ちを確かめるように掌を見下ろす。
「ただ、信じたい気持ちだけはありました。彼の言葉から逃れる為に」
 独り言にも似た彼女の語りは、最後には天井に向けて放たれた。
「そのうちに、私の勝手な期待を彼だけに押し付けるのが嫌になって。だからこそ、自ら国を良くしようと……ああ、そうすることで、私はあの言葉を嘘にしようとしたのですね」
 ぼんやりと宙を…いや、天井の模様を追い掛けていた乙葉の視線が降りてくる。その色はやはり複雑に染まっていた。
「やっと、自分の中でも納得がいきました」
 苦笑に苦笑を返した大地は、彼女が過去をずっと自分の中だけに溜め込んでいた事を理解して、同時に彼女が明白な答えを持っていない理由にも行き着いた。
 行き詰まった考えと言うものは、誰かに話すことで導き出される可能性が高い。実に単純な話である。
 乙葉は大地が考えを纏める間に追加の紅茶をカップに注ぎ、長く息を吹き掛けた。
「このお話は彼にも伝わるのでしょうか?」
「自分で伝えてみる気はありませんか?」
「正直、気が進みません」
 呟いて、一口飲んで。乙葉はカップの中に自らの瞳を浮かべる。
「どうせまた、何を考えているか分からない顔で…何ともなさそうに肯定なさるのでしょうから」
 波打つ紅茶の表面が落ち着くのと同時に、大地が空になったカップをソーサーに戻した。
「結婚に対する意思は、変わらないみたいだね」
「…国を良くしたいという想いに嘘はありません」
「と、言うことはこの話を陛下が受け入れられたら、正式に婚姻関係になる事になりますが…」
「はい。問題ありません」
 揺らがない紅茶の表面に、自身を真っ直ぐに見据える乙葉の顎が映り込む。
 大地は起立しながらそれを見下ろして、ゆっくりと了承を示した。
「……分かりました。では、そのつもりで話をしてきます」
「宜しくお願い致します」
 同じく席を立ち、綺麗な礼をする彼女に見送られて、大地は応接室を後にする。
 残された乙葉はソファーに座り直し、暫くの間紅茶を片手に天井を見上げていたが、溜め息と共に視線を落として、また静かに仕事を始めた。






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