霧雨


 雨。
 そう呼んでも良いものか。歩く毎に微かに、ごく微量顔に付着する小さな小さな水滴が、空中を支配するかのように拡散されている。視界が白く煙り、ぼんやりと浮かび上がる風景に…夢の中か、或いは自分が存在していた世界ではない何処か遠い場所に飛ばされてしまったかのような感覚を植え付けられた。
 傘をさす意味も見いだせず、しかし無闇に霧の中を歩けばひんやりとした水分にまとわりつかれる、そんな状況で。彼はただ、ぼんやりと海を見据えていた。
 どうして?そう問われたとするならば、ただ何となくと答えるしかない。朝の光を分散するこの微粒子の中、海がどんな色をしているのだろうかと…不意にそんな好奇心に駈られたから、と曖昧な説明なら付け加える事が出来るかもしれないが。
 そこに来るまでの間のことも、これからどうするつもりだったのかも覚えている。そして、これから先の数時間は誰とも関わらずに過ごすべきだと言うことも。
 ただ無性に、それが寂しかったのかもしれない。自分自身でそんな答えを捻出した所で、どうなるわけでもないのだけれど。
 こんな時間に、こんな人気の無い場所で、誰かに遭遇することなど有り得ない。だけど、それが救いなのか絶望なのか、その判断は付かなかった。
 誰かに会いたいと願いながら、誰にも会いたくないと願う彼。
 そんな複雑な思いを覆い隠す様に広がる霧雨は、彼の持つ独特の空気も、闇を吸い込んだような黒髪でさえ、淡く淡く、まるで幻のように染め上げて。




 朝なのか夜なのか区別しにくい窓の外を見据えながら、茶色く染められた小さな小瓶を傾ける。
 合成的な香りのそれは、舌の上にも同じような味を残して胃の中に沈んでいった。
 空になった瓶を丸テーブルの上に叩き付けるように置き、くぁぁっと怪鳥のような声を上げる人物に、朝特有の気の抜けるような声が、欠伸混じりに注がれる。
「ってか有理子、ほんとに良いん?」
 声の主は、寝ぼけ眼を擦りながらベットの上に座り込む義希だ。ただでさえ頭の中身が空っぽなのに、起き抜けのハッキリしないそれで何を考えて発言したのかと。コメカミを押さえながらため息を付いた有理子は、腰に手を当て義希に向き直る。
「何の話よ?」
「ん?いや、同棲の話」
 今にも頭痛がはじまりそうな現状に、有理子はとりあえず椅子の上に腰を据えることにした。
「なんだかんだ、三泊もしといて…何を今更…」
「うん、だって荷物運んじゃってから、やっぱ無理ってのもさぁ…」
「そんなこと考えてたの?」
「あれ?言わなかったっけ?」
 話ながらもぼんやりが抜けない義希の表情に、有理子のため息と苛立たし気な声が注がれる。
「仕方がないじゃない。蒼くんにこれ以上心配かけたくないし」
「ああ、成る程、確かに心配かけちゃったみたいだな」
「それに、お見合いの事もあるし……」
「心配性の辛いところだな」
「そう言うあんたも、人の事言えないんじゃない?」
「まぁなぁ…」
 オレは心配事なんてないぞ、と返ってくることを予想していただけに。面食らった有理子はパチパチと瞳を瞬かせた。
「あら、藪蛇だったかしら?」
「え?蛇?」
「ああ、いいからいいから、で。何の心配事?」
 いくら時間に余裕を持って起床したとはいえ、いちいち単語に関する解説などしていては、出勤時間に遅れてしまうと。急かす有理子に不服そうに口を尖らせつつも、義希はサラリと確信を口にした。
「倫祐だよ」
「倫祐?」
 思ってもみなかった名前が出たことで、有理子の意識は朝の仕度から遠退いていく。
 義希はオウム返しに頷くと、霧に包まれた外の景色をぼんやりと眺め始めた。
「あいつの部屋、隣だったんだけど…オレがこっちきたら、一人だからさ…」
「倫祐なら、一人でも生きていけるでしょ?あんたと違って」
「うぐ…た、確かに…まぁ、買い物とかは仕事ん時に頼まれておけば買っていけるから平気だとしても…」
「買い物?」
 言い訳から一つの単語を拾い上げ疑問を口にした有理子に、義希はもごもごと整理の行き届かない説明をする。その全てを聞き終えて納得した有理子は、話の間に出来上がったコーヒーで一息付いた。
「なるほど。じゃあ、あんた…あいつには結構会ってたんだ?」
「まあ、な…」
「で?生活面が心配じゃないなら、何が心配なのよ?」
 真新しいマグカップに注いだコーヒー、それと一緒に砂糖と牛乳も自分の対面に置き、座り直した有理子は俯く義希の横顔に問い掛けた。
「倫祐は今、一人だから」
「……そんなの、あいつが…」
「会いに来れば良いって、言いたいんだろ?」
 不貞腐れたようにそう言って振り向く義希の様子に、有理子は僅かながら違和感を覚える。
「何でか知ってるの?」
 倫祐が来ない理由。そこまで言わずとも、義希は直ぐ様ふるふると首を横に振った。
「いんや」
「なら、何よ」
 言い終えてコーヒーを啜る有理子を横目に、頷いた義希はまた窓の外を見据える。
「多分、無意識なんだろうな」
 その瞳は恐らく、晴れていれば見えるであろう空を捉えていた。
「ぼうっとしてる時とか、必ず見てるんだよ。あいつ」
「何を?」
「城とか、海」
 答えを聞いて、有理子は思わず口をつぐむ。義希は一息間を置いて、ぽつりと続きを呟いた。
「だから、思わず聞いたんだ」
 そう頻繁に会っていた訳じゃない。だけど、会うたび何時も思っていたことを。義希は倫祐に訪ねた時と同じ調子で、殊更控え目に口にする。
「「城、行くか?」って」
 有理子は義希のその声を、まるで幻を見ているような顔で聞いていた。そして短く息を吐くと、苦笑混じりに質問する。
「あいつ、何て言った?」
「何も。ただ首を横に振っただけ」
 有理子のそれが移ったように苦笑いを浮かべた義希は、竦めた肩を戻すと共に瞳を伏せた。
「それ以降、あいつが城を眺めることは無くなった。その代わりにさ、今度は空を見るようになった。雲の流れなんかよりずっと遠くを見るような、そんな感じで」
 一息に、しかしゆっくりと。そこまでを語った義希が顔を上げると、微妙な表情のまま固まる有理子と目があった。
「ほんとは、会いたいんだろうな」
 義希はおどけて、笑顔を見せる。
「だけど、会えない何かがある」
 そのまま真っ白なシーツを見下ろして、ふうとため息を吐いた彼は、有理子が頷いたのに気が付いて僅に首を傾ける。
「お前は離れてたから分からないかもしれないけど、オレには分かる。あいつは昔から変わってない」
 言いながら立ち上がり、義希は有理子が淹れたコーヒーの前まで歩みを進めた。
「周りのやつらは慣れてないから気付かないけどさ。あいつは、いつも他人の為になるようなことを、ちゃんと考えてやってるよ」
「倫祐は、知ってるの?」
 ミルクと砂糖をたんまり流し込んだコーヒーをくるくるかき混ぜる義希に向けて、有理子は尋ねる。続けて何を?と、言った具合に首を傾げた彼を見て短く付け足した。
「海羽のこと」
 彼女が今、どんな気持ちでいるか。それも大事だが、それよりも今彼女が置かれた状況を、倫祐は知っているのだろうか?
 そんな意味の籠もった眼光を受けて、義希は困ったように曖昧な笑みを浮かべた。
「知らないだろ。だって、会ってないんだから」
「……そっか…そうよね…」
 ため息のようにそう言って、目頭を摘まんでコーヒーを置く有理子の正面。腰掛けた義希は実にのんびりとコーヒー…もといコーヒー牛乳を傾ける。
「それよりあんた、そんなのんびりしてて良いわけ?」
「……え?っげ!」
 問われて始めて時計を振り向いて、お約束のように驚いた彼は、素早くカップを空にして洗面所に駆け込んだ。
「あ、荷物、今日……無理だったら明日には運んで…」
「はいはい、いいから早く準備してきなさい」
 一度閉じた扉を開けてまで進言した彼に手を振って、有理子は長く、細い息を吐き出したのだった。




 その日の夕刻。
 そろそろ陽が沈む頃合だが、この天気とあっては太陽の詳しい位置までを把握できる筈もなく。
 何となく暗くなってきたかと窓を振り向けば、そこに映るのはやはり雨の色だけで。不機嫌そうに息を漏らした彼の元、何もなかった空間が不意に歪んで白い帯が落ちてくる。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃないかも」
 ため息混じりに呟く沢也の膝の上、白色の正体であるハルカはぐったりと体を投げ出した。
「何が、もしくは誰が」
「温かいミルク…」
 パタリと首を垂れた彼の内情は、当たり前のように傍らの結が代弁する。
「疲れたって」
「アホか…」
「誰がアホだよー!散々こきつかってさぁ!」
 呆れたような沢也の返しに激昂して、ハルカは猫ながらにムキーと膨れて見せた。
「蒼、ハルカにぬるっとミルク作ってやれ」
「ぬるっとですね?了解です」
「君達が言うから普通に聞こえるけど、その名称は如何なものかと思うよ?」
 沢也の頼みを素直に受けて、近場の厨房に行くべく王座の間を出た蒼を、ハルカの微妙な呟きが見送る。
「で、報告は?」
 苦情など全く聞いていなかった風に問い掛ける沢也に、ハルカはじっとりとした視線を送りながらも回答を始めた。
 ハルカは飛竜の盗賊団がほぼ総出で行っていたインフラ整備の補佐、そしてその確認作業を終えて戻ってきたばかりだった所を、今度は倫祐の集めてきたデータの裏を取る仕事を任されて、本島を駆けずり回っているのである。
 口頭での手短な報告を終わらせて、蒼の持ってきたぬるっとミルクにありついた彼は、猫とは思えぬ深いため息でその疲れを表現した。
「あー、あったまる…」
「今日、そんなに寒いの?」
「人間にはそうでもないかもだけど、猫には堪える寒さかなぁ」
 細かすぎてハッキリと目に映らないが、確かに空から降り注いでいる雨の存在を、白く煙る外界の様子から認識するハルカと結。二人の会話の溝を埋めるように、パソコンと向き合い続ける沢也が問い掛ける。
「倫はどうしてる?」
「そうだよ、どうして自分で報告に来ないか、知ってる?」
「……知ってる、って言うか……半分は憶測になっちゃうけど、いい?」
 食い付いたのは結だけでなく、自分のデスクに戻った蒼も興味があるようだ。沢也と結が頷くのを待って、ハルカはその身を翻す。
「倫祐は、やっぱりあの記事を信じてたんだよね」

 現在、新聞には三つ、種類がある。
 一つ目は国が直々に発行しているもの。
 二つ目は国が許可した、一般企業が発行しているもの。
 最後は何の許可もなく勝手に発行、配布されているもの。

 国が発行している新聞は主に民衆課が制作しているのだが、記事自体は沢也や椿を始め、各方面色々な所からかき集めている、言わば寄せ集めの集合体だ。内容は政治的なものからコラム、果ては義希の描いたくだらない4コマ漫画まで、老若男女幅広く、しかし可もなく不可もなく、それなりに楽しめる程度にはなっている。
 それはさておき。
 国の認可を得た企業の新聞は、記事の内容に不備があれば事前に指摘もできるのだが、勝手に発行されているものにまでは目が届かない。
 それをいいことに、一年ほど前のことだろうか。思い通りにならない事態に業を煮やした秀が、金で雇った記者に”海羽は自分の婚約者”だと公表させたことがある。とは言え載ったのが有名なゴシップ紙だった為、国民の大半は信用することはなかったのだが。
 しかし当時旅に出ていた倫祐は、帰還するまでその記事を信じていたらしい。今でこそハルカのお陰で誤解は解けたが、あの鈍い男が真意の程までを理解しているかどうかは不明。つまるところ誰も彼の内情を知らぬまま、今日まで来てしまった……と言うことになる。

「秀も海羽が倫祐のこと気にしてるのには気付いてるだろうし、もしかしたら彼とも何かがあって、来にくいのかもしれないね」
 そう言って取り合えず、と話を締めくくったハルカは、空になった皿を肉球で押しておかわりを催促する。
 沢也の向かいで彼から通訳を受けていた蒼が、それに気付いて席を立った時には既に、部屋の色が薄くなりかけていた。
 ため息で話の内容を飲み込んだことを示した沢也に、ハルカは大きく伸びながら近況を口にする。
「かくいう僕も、倫祐とは殆ど話が出来てないんだ。メモでやりとりするばっかりで」
「それ、大丈夫なんだろうな?」
 ピシリ、と空気に緊張が走った。固まる二人は別々の緊張を持って視線を交わす。
「え?何が?」
 驚いたように問い返すハルカに、沢也の口元が引きつりを増した。
「第三者に見られて困るような書き方、してねえよな?」
 短くも長い間の後に。
 失態を誤魔化すようなハルカの、微妙な笑いが不規則に響いた。


「たいと…って、帯斗のことかな…?」
 ただでさえ薄暗い部屋の中。音もなく降り注ぐ雨粒のもたらす効果で視界がぼやけるにも関わらず。電気を付けるわけでもなく、手にした紙切れに細めた瞳を落とすのは、他でもない能天気なお馬鹿野郎、義希である。
 彼はその日最後の休憩時間を利用して、取り合えず荷物を纏めるだけ纏めてしまおうと自室を訪れた際、倫祐に返し忘れていた丼と大皿の存在に気付いて、何時ものように彼の部屋を訪れた。
 倫祐の部屋は義希の住んでいる部屋を軽く上回る、本当に簡素なレイアウトで、ベットの他に有るのは小さな小高いテーブルだけ。いくら小さいとは言っても、大皿が乗らない程ではないし、そもそもベットに乗せておくのも可笑しな話なので、義希は当たり前にそのテーブルに近付いたのだが。
 そこには大皿の前に、先客があった。
 それが今、義希が手にしているメモである。
 買い物メモと同じ紙質、同じ筆跡、果ては同じ箇条書き。倫祐が書いたものと見て間違いはないだろうと、悪い視界の中、薄すぎる脳内の辞書を駆使して解読を始めたのがほんの数分前の話だ。
「えーと、なになに…?出身地…家族構成…両親に妹…親戚にも貴族なし…家族仲は良好で、円満な様……って、うぐっふっ」
 思いの外すらすらと、内容を小声で朗読していた彼の頭上に何かが降り注ぎ、解読は中断を余儀なくされた。突然の事に驚いて暴れる義希の頭から肩、更には腕まで伝っていった白いもふもふは、ひらりさらりとメモを奪い取る。
「いっ…痛い、いたいってまてまて、こら!ハルカっ!」
 謎の襲撃者の正体を認識した彼は、揉み合いの末難なくテーブルの上に置かれた丼の中に着地する子猫を困ったように見据えた。
「……ん?……え、何?」
 ハルカはメモをその場に置くと、義希のポケットから飛び出したストラップにじゃれつきながらにゃあにゃあと鳴き始める。文句と命令が混じったようなそれに、義希は首を傾げながらも携帯を取り出した。
 それを奪い取るように皿の上へ滑らせて、ハルカは器用にも両前足で画面を叩く。
「すっげえ、ハルカ、メール打てるん?って…あ、ちょ…誰に送った…」
 言っている間にも送信画面に変わった携帯を取り返した義希は、わたわたと送信BOXを確認した。
「なんだ、沢也か…って、折り返しはやっ!」
 ホッと息を吐いたのも束の間、切り替わった画面が沢也からの着信を知らせる。慌てて通話ボタンを押し、耳に当てたスピーカーから聞こえてきたのは棒読み且つ威圧的な台詞だ。
「今すぐ城まで来い」
「え?でもオレまだ仕事……」
「いいから、今すぐ来い。三分以内に来なけりゃ殺す」
「そんな理不尽なぁぁぁああ」
 一方的過ぎる会話は、やはり一方的に通信を切られた事で終了する。
 義希は仕方なく、様子を見上げていたハルカを肩に乗せ、とぼとぼと城へと向かうことにした。


 しっかりばっちりメモを見たにも関わらず、義希はその真意について、特に深く考えることをしなかったらしい。それを証拠に、城への道中ハルカに語りかけた内容の殆どが他愛のないものであり、メモについての質問は愚か、何故呼び出されたのかと言う当たり前の疑問すら浮かんでいない様子だ。
 ハルカは城に着くなり本当に説明が必要か、このままやり過ごしても問題ないんじゃないか、と疑問を投げ掛けたが、沢也は間髪入れずに頷くと、ハルカからメモを受け取って義希に質問を開始した。どうやら義希が倫祐の部屋に出入りしていた事情も、有理子から一通り聞いたらしい。部屋の隅では蒼と有理子が我関せずと言った態度で仕事に勤しんでいる。
「お前、帯斗に姉貴が居るって知ってたか?」
「へ?妹じゃないん?」
「それ、帯斗本人の口から聞いたんだよな?」
「いんや、さっき、倫祐の部屋で…」
「だろうな。で、そこで見た情報が本当かどうか、本人にも確認するつもりだったろ?」
「うん。妹が居るなんて初耳だったし」
「どうして倫の部屋に、そんなメモが置いてあったか…」
「倫祐の仕事って、それなんだろ?どーして言ってくれなかったん?」
「お前にだけは知られたくなかったんだがな」
「んなっ…なん…なんでそーいうことぉー」
「これからこの事実を微塵も表に出さず、隊員と接することが?」
 低いトーンでそう問われ、ついでに冷めきった眼光まで注がれて、義希は初めてその情報が口外すべきものではないことに気付いたようだ。みるみるうちに青ざめていく彼の口から、実に正直な曖昧すぎる返答がこぼれ落ちる。
「…………でき、る、かな?」
「ほれ見ろ」
 一度は威勢良く抗議しただけに、義希は勿論、ハルカも沢也に頭が上がらない。
「なるほど、だから倫祐だったんか…」
「そう言うことだ」
「でも、やっぱ分からん。何で倫祐なんだよ!」
「は?」
 ガバリと顔を上げ、怒ったようにそう叫んだ義希に、メデューサも真っ青な沢也の睨みが降り注ぐ。
「ひぃぃいぃい!睨むな、睨むなって!だって、倫祐はほら、忙しくなっちゃって今もまだ海羽に……」
「会いやすいように、報告っつー一番手っ取り早い名目を作ったにも関わらずだ」
「あ、なる…」
 力強くも低速な説明で直ぐ様納得した義希に構わず、沢也はデスクに両手を叩き付けると、そのままゆっくりと立ち上がった。
「あいつはその全てをハルカに押し付け、あろうことかその文書が置いてある部屋の合鍵をお前なんぞに……………あ」
「ふ?」
 棒読みの怒りがある種の確信を得たように固まると、気迫に怯えていた義希も間の抜けた声を出して沢也と同じように口を開く。
 沢也は溶かすように引きつらせた眉と口元を俯かせ、座り込む義希を見下ろした。
「テメエ…義希、まさかとは思うが…」
「へ?な、何?」
「倫に、有理子のこと愚痴ったり…」
「……あ」
 走馬灯よろしく駆け巡った記憶の中に、確かにそんなことがあったと認識した義希の表情は、わざわざ声に出さずともその事実を沢也に伝達する。
「んのやろ…」
「なんか……いや、うん…オレもうどーしたら…」
 隊員の事を調べ回っていると知れば、いくら義希と言えど問いただしに行くかもしれないと、ご丁寧にわざわざ首謀者まで知らせた倫祐の計画を理解した義希は、いたたまれなくなってその場に正座した。
「取り合えず、忘れろ」
「え、何を?」
「そのまま思い出すなよ」
「ちょ…え?あ、あああ!大丈夫、帯斗のじょーほーは口が割けても…」
「お前が馬鹿で助かった、と言いたい所だが、説明を省くより危機感を煽った方が確実そうだから言っておいてやる」
 ため息のようにそう言って、沢也はドカリと椅子に座ると、飲み掛けのコーヒーに口を付ける。
「その情報、誰が調べたかがバレれば、倫の立場が更に悪くなると同時に、隊の信頼もなくなる可能性が大きくなるから気を付けろ」
「あー、あー、うん…なる……」
 確かに、義希にとっては疑問は残るが大事ではないにしろ、沢也や蒼を良く知らない人間からしてみれば、自分の周りを嗅ぎ回られて良い思いはしないだろう。
「って、責任重大じゃねーかぁあぁああ」
 少し考えれば分かりそうなことを。身内を信頼する余り、とんでもない行動に出るところだった自分自身に気付き、義希は思わず頭を抱えた。加えて、自身が隠し事が苦手だと言う事実にも。
「あいつはそのリスクよりも有理子とお前の仲を気にしたんだ、もう二度と喧嘩なんてすんじゃねえぞ」
「喧嘩じゃないけど…でも、うん。分かったよ。もうしないから」
 言い訳を押し込めて項垂れた義希にため息を浴びせ、沢也はメモを横目にずれたネクタイを直す。
「じゃ、理由くらいは説明しておいてやるとするか」
「え?何の?」
「知りたくねえなら別にいいんだが」
「いや、知りたい知りたい!えーーーーーーーーーっと」
「どうして隊員のことを調べていたか、ですね?」
 見かねて割り込んだ蒼の問い掛けで、頭上にランプを点した義希は、ブンブンと大袈裟に頭を振って頷いた。
「説明はするが、口が裂けても口外すんなよ?」
「りょ、りょーかいです」
 ハルカの耳を弄びながら半ば不機嫌に切り出した沢也の、単調で分かりやすい説明は30分程で義希を納得させる。

 そうして何とか業務終了ギリギリに駐屯地に戻った義希は、その後は特に何事もなく、定時でタイムカードを切ることが出来た。
 これ幸いと、その日のうちに一人ぼっちの引っ越しを終わらせた彼は、結局最後まで倫祐に会うことが出来なかったそうだ。




 目の前が真っ白だった。
 煙る世界には、冷たい小さな集合体が広がるばかりで、掻き分けることも出来なければ、先を見通すことも叶わない。
 ただ晴れるのをじっと待つことが出来なかった彼は、そんな状況でも取り合えず、歩みを進めていたのだろう。
 しかし霧と言うのは厄介なもので。
 例えそれがすっかり晴れて、前が見えるようになったとしても。
 見えぬうちに進んでしまった分だけ、自分の立ち位置を見失ってしまうものなのだ。
 だから彼は、まだ分からない。いや、軌道修正が出来ずに居る。


 自分が何処に立っているのか。
 何処に向かって、進むべきなのか。


 霧雨は冷たく、身に染みる。
 黒に吸い込まれ、例え見えなくなったとしても。

 蝕むようにして、その身を冷やす。
 温もりなど忘れてしまえと、嘲笑いながら。




cp08 [梅雨]topcp10 [雨音]