雨音


 その日も梅雨特有の雨が降っていた。
 じめじめとした気候と薄暗い空気が、静かな空間を儚げに演出する。
 窓辺で雨粒が滴る音を聞きながら、ゆったりと紅茶を啜っていた蒼の元。階下に集まった客人の様子を見に行っていた沢也が舞い戻り、ため息で不機嫌を発散する。
「今すぐにでも追い返してえ。でなきゃ全員死ねばいい」
「そんな素敵な笑顔でそんなことを言わないで下さいよ、沢也くん」
 独断と偏見により選ばれた見合い希望者が、ぞろぞろと城に招かれたのが通達から一週間後、つまり今日のこと。
 黒過ぎる渦を撒き散らしながらデスクに歩み寄る彼にと、コーヒーメイカーからマグカップにコーヒーを注ぎ入れた蒼に。沢也は差し出されたそれを受け取りながら、うんざり顔で言い放つ。
「取り敢えず心の底からの同情を進呈しとく」
「仮にもあなたが選んだんですから、少しは責任を取ってくださいよ」
「流石に書類上での嘘までは見抜けねえよ。巧妙なヤツは特に」
 熱さを気に留めることもなくコーヒーを啜り、棒読みで呟いた沢也は、台詞の最後にフウッと息を吐き出した。
 彼が言うように、あからさまにヤバそうなものの大半は馬鹿正直な為に書類の段階で省けるが、少しでも機転がきく輩であればしっかり掻い潜ってくるのだから困り者である。
「分かってはいましたが、なんとかならないものですかね…」
「仕方ねえだろ?だからっつって冒険するともっと酷い目に合うからな。ま、今回のはまだマシな方じゃねえの?」
「投げ槍ですね」
「槍で済むならマジで投げてやりてえくらいだ」
 まともなのか駄目なのか、どちらなんですか…と小声で呟きつつ、蒼は紅茶を飲み干す事で思考を切り替えた。
「前回を参考に、今回は早目に切り上げますから」
「それが懸命だろうな」
「キレないよう善処してくださいよ?」
「オレに言われてもな」
「まさか先方に貴方をキレさせないよう気をつけて下さい、なんて言えませんから」
 素っ気ない返事がわざとだと分かっていながら釘を指した蒼は、応接室に引っ込む間際に人指し指を回転させる。
「有理子さんに伝達、御願いしますね?」
「分かった」
 音もなく閉まった扉に頷いて、沢也は直ぐ様携帯を耳に当てた。




 一度目の開催は散々だった。
 とりあえず一度でも呼びつけて話でもすれば、諦めてくれることはなくとも、最悪手紙や贈り物攻撃は収まるだろうと。申し出のあったうち半分を招待し、王座の間で一対数人の形式で見合いをしたのだが。
 蒼の背後に控えていた結は駄々漏れの欲に耐えきれず倒れるわ、制限時間を守らず押しに押して収拾が付かなくなるわで、後日改めてと言うことで殆どの時間を無駄にしての解散となった。勿論それだけでは終わらず、その後の対応にも必要以上の時間を取られた上、贈り物や手紙も止めどなく押し寄せると言う最悪の状態が数ヵ月続いたのである。
 これが建国から約半年後の事。
 やっとのことで第一回目の見合い騒動が収束したその数ヵ月後には、更なる面倒が押し寄せる。

 国家機関内部にスパイが紛れ込んだことによる、大規模な人員解雇だ。

 これは建国当初の雇用面接を、見合いと同じくグループで行い、しかも結の目を通さなかった事が招いた結果であり、孝の嫌悪する種の貴族達のやり口が明るみに出た大きな事件となった。
 それ以降、城の関係者として迎える人材は必ず個人面接を、蒼と沢也自ら王座の間で取り行うことを義務付ける事になる。
 このせいで基本的な人手不足が深刻化したわけで。更には倫祐にさせていたように、雇った人間の周囲の人間関係などの調査を極秘で行う必要まで出てきたのだから、たまったものではない。


 つまり、こうなってしまっては。それが例え「見合い」であろうと同じこと。


 リベンジ戦となった前回からは、見合いの流れの全てを蒼と沢也で取り仕切り、会場も例外無く王座の間で、その真横にある応接室を控え室として使用している。
 わざわざ王座の間でやる意味は、勿論相手の内情を把握するためだ。その要となる結は、沢也の隣に置かれたランプ上で欠伸を洩らしつつも、蒼が用意しているであろう紅茶の香りにご満悦の様子である。
 先に説明した通り、二回目からはマンツーマン方式を採用しているのだが、希望すれば二人まで同伴者を連れ込むことが可能で、実際そうする参加者が大半だ。従って、必然的に用意すべきお茶の数も、洗い物の数も増えることになる。
 現に沢也の隣にも、招待客の数に対して三倍を上回る、上等なティーカップが用意されていた。




 雨音はしとしとと、量の割に自己主張も控え目に窓を打つ。
 それは窓辺を振り向いた沢也に、身に染みいる切なさに似た不思議な感覚を植え付けた。
 グレーの中に浮かんで見える無数の水滴は、室内から溢れる光を鈍い色へと拡散していく。それ故に煙る視界の向こう側、確かにあるであろう海の色は確認することも叶わない。
 沢也はノックに気付いて室内に意識を戻したが、まるで耳鳴りのように雨音がまとわりついた。それはいつも冷静な彼の気分を若干ながらざわつかせる。
 間を持って返した短い声に反応した扉は、まず誘導者である有理子を、次いで沢也が苦手な種類のざわめきを室内に招き入れた。
 その間にも応接室から顔を出した蒼が、アイコンタクトで有理子に進行を促す。


 そうして全員を控え室に押し込んで数分後。滞りもそこそこに、見合いと言う名の面接が開始される。


 今日だけは書類の全てを、間借りしたポケットルビーや書庫に追いやって。これ以上に無いほどスッキリしたデスクに腰かける沢也は、彼だけに聞こえる結の言葉を、パソコンの中にデータとして還元してゆく。
 事情が事情だけに、文字通り他の誰にも任せることが出来ないその仕事が、苦痛で苦痛で仕方がないと言わんばかりに顔を歪める彼から放たれる邪気を祓うように。何時もより笑顔を全面に押し出す蒼が、やんわりと話を進めていた。
 一人目、二人目、そして三人目。それぞれの持ち時間は最短の10分と良いペースで進んでいたのだが、最後の最後、8人目まで来たときにそれがピタリと止まる。

 蒼が自ら言うように、モテるのは専ら「王様」と言う職業の方で、だからこそ蒼自身は蔑ろにされやすい。
 現に彼の趣味趣向に興味を持つ者はなく、皆如何に自身が他より優れているかをアピールする事に一生懸命なのだ。
 宝石の大きさも、昼食の豪華さも、衣装の絢爛さも、執事の数も。会う人会う人様々ではあるが、蒼も、そして沢也や結も。そう言った類いのことは既に聞き飽きている。
 その場で好き勝手言える結や、当事者ではない上に結の呟きを聞いていられる沢也ははまだしも、蒼の心情は内心穏やかではないかもしれない。笑顔を崩さず相槌を打つからこそ誰も気付かないが、後ろから見守る二人には彼の背後がやけに黒く渦巻いている様に感じることが…少なからずあるようだ。
 だからこそ。少しでも違う話題が上れば、興味をそそられてしまうのは人の性では無いだろうか。
 沢也は話の流れに眉をひそめつつ、一人そんなことを思っていた。


「失礼を承知で、陛下に一つ頼みがあります」
 ソファーに座るや否や、前のめりにそんなことを言い出したのは、他でもない義希お薦めの彼女の兄に当たる人物だ。
 小首を傾げる蒼を前に、見合い相手である当人は俯いて自らの膝を眺めるだけ。
「今回のこのお話、私どものような弱小貴族に与えられるには、大きすぎるチャンスだと言うことも重々承知しております。ですが、もうあなた様しか頼れるお人は居ないのです」
 半ば芝居じみたそれを、やはり笑顔のままで聞き終えた蒼は、紅茶を置いて短く一つ頷いた。
「僕に出来ることが有るかどうかは分かりませんが、取り敢えず話だけでも聞かせて頂きましょうか」
「あ…ありがとうございます…!」
 蒼が放ったのが、いつもと変わらぬ穏やかな声だっただけに、快く受け入れられたように感じたのだろう。深々と頭を下げた彼は、顔を上げると同時に妹に向き直る。
「良かった…良かったな、雛乃…!」
「はい、兄さん…」
 しかっと手を握り合い、頷く二人の目尻に浮かんだ涙を見る限り、完全に「演技だ」と言い切る事が出来ず、流石の沢也も口を挟まぬまま最後まで見届けることにした。
 尤も、蒼が彼等をどう見て事を了承したのかまでは、表情の見えない沢也と結には分からなかったのだが。

 さて。沢也の手元にあるデータによれば、二人は兄の方が口にしたように弱小と呼ばれるに等しい小規模財産を所有する貴族の子供で、彼等の父親は普段定期的に行われている、貴族の会合や会議などに出席出来る程の権力は持っていない。
 従って必然的に、彼等よりも上の立場に当たる強い権力を持つ貴族が、彼等の「意志」を代弁する…と言う形で、彼等を下に付けていることになる。
 つまるところ今回の様に特別な勅令でも出ない限り、彼等がこの部屋に足を踏み入れることも無かっただろう。
 女嫌いの沢也ですら「義希の目は間違っていなかった」と思える程に整った顔立ちの妹は、伏せ目がちに蒼を見据えて微かに顔を紅くした。隣に座る兄とお揃いのライトブラウンの巻き髪をくるくると弄り、深く吸い込んだ息に言葉を乗せる。
「あの、私、雛乃と申します」
「はい。後れ馳せながら、はじめまして。蒼と申します」
「その……私のようなものが、厚かましい申し出を……そのっ…」
 下げた頭を持ち上げぬまま、もごもごと話を続ける雛乃を宥めたのは隣の兄だ。
「申し訳ありません、妹は少々口下手でして…代わりに私の方から説明しても…?」
「構いませんよ」
「ありがとうございます。お時間を取らせる訳にも参りませんので、手短に…」
 承諾にホッとした表情を見せた彼は、自らも簡単な自己紹介を済ませ、肩肘を張って両手を膝の上に置く。
 翔と名乗ったその兄は、手短にと言う前置きを盛大に裏切って、饒舌な上遠回りな話を始めた。
「妹は今、望まない結婚をさせられようとしています。あ、勿論陛下とは別の人物と、ですよ?ええ。例えば私が女だったとして、それと結婚しなければならないと言われたら卒倒しそうになるような相手です。それで、ですね。父は他に良い相手がいなければ、強制的にその人と妹を結婚させると、息巻いておりまして……」
「あの方と結婚するくらいなら死んだ方がましです…」
 そこで小さく漏れたため息は、蒼の背後の沢也のもの。確かに彼にしてみれば、くだらいことこの上ないような話なのだろうが。
「つまり、政略結婚ですね?お父上とはそんなに仲が悪いんですか?」
 蒼は小さく首肯すると共に、話を纏めて簡単な質問を投げ掛ける。
「そう、そうなんですよ…!私の話でしたら、幾らかは聞いてくれる父なのですが…妹が絡むと途端に不機嫌になるので、困っておりまして…」
「権力者からの申し出を断るには、もっと権力のある人物に嫁がせる他方法がない、と」
「はい、しかし私のような者に、そのようなツテは無く……恥を忍んでお願いに上がりました次第にございます」
 先回りで話を進める蒼の頭の回転の早さに驚いているのか、若干声を裏返しながら言い切った翔は、そこで置かれたままの紅茶に口を付け、更に前傾姿勢に直った。隣では雛乃が膝に置いた手をぎゅっと握り締める。
「条件は何でも、そちら様の提示された物を飲みます。ですから、どうか…」
 言葉は掠れ、そのまま途切れた。しかし翔の目は蒼を捕らえて離さない。
「どうか、妹を助けては下さらないでしょうか?」
「お願いします…どうか、お願いします…!」
 揃って頭を下げた二人の後頭部を見据えながら、蒼は短く思案するとそれを直ぐ様口にした。
「結婚する、しないはまた別の話としましても。手を貸すことは出来ると思いますが…」
「本当ですか?」
 がばりと、兄妹の顔が上がる。輝く瞳に頷いて、人指し指を立てた蒼は変わらぬ表情をもって説明を開始した。
「言うなれば、これは一次面接のようなものなんです。これを通った方には、試験が待っています」
「……試験、ですか?」
「期間は一ヶ月。取り敢えずそちらに逃げ込めば、少しは猶予を得られるのでは、と思いまして」
 蒼の話に、二人が間の抜けた表情で瞬きを繰り返すのも無理はない。その事実を知るのは、実際に一次選考を通過した人物だけ…つまり、彼等が始めてなのだから。
 蒼がすっかり固まってしまった二人を見守っていた時間は数十秒。ゆっくりとティーカップを持ち上げて、煽り、そっとソーサーに戻してテーブルに乗せる。それからやはりゆっくりと、小首を傾げて促した。
「どうされますか?」
 簡潔すぎる問い掛けにも関わらず、光の早さで硬直を解いた兄が落ち着きなく起立して直角に腰を曲げる。
「勿論!是非とも受けさせて下さい!なぁ、雛乃」
「は、はい…」
 呼ばれてハッとした雛乃は兄に倣ってやはり深々と頭を下げた。蒼はそんな二人の顔の前に来るようにテーブルの上に紙を乗せる。
「では、こちらの書類に目を通して頂いて…」
「はい、サインですね?」
 言葉が終わらぬうちに頷いて、ペンを手に取った翔は、それをそのまま妹に滑らせた。蒼は雛乃があっという間に書き上げていくサインを見据えながら、笑顔を崩さず補足を始める。
「試験は女王としての適性検査が主です。が、この城では女王と言えど簡単な家事から仕事まで、殆んどの事を自分で行います」
「家事から…」
 小さな呟きは、雛乃の口から漏れたもの。それは心なしか震えているように感じた。
「はい、家事だけでなく身の回りの事は殆んどです」
「あの、陛下は……」
「勿論、僕も同じですよ」
 それを聞いて、持ち上げていた戸惑いの眼差しを伏せた雛乃は、立派な印を取り出してサインの隣に押し付ける。翔に促されるまま書類を差し出す彼女からそれを受け取って、蒼は僅かに笑顔を強めた。
「会場はリリスにある第二支部の特別棟です。やる気が無いと判断された場合には、容赦なく放り出されますのでご注意下さい」
「そんな……」
「全部、この書類に書いてあるんですけどね」
 そう言って、蒼が顔の横にぴらりと広げたA4の紙に、二人の目が釘付けになる。
「サインは同意の証、それくらい理解してるだろ?貴族だもんな」
 いつの間に歩み寄ったのか、蒼の手から雛乃のサインが入った書類を拐った沢也の、含みのある物言いに顔をしかめた翔は、それでも苦言を飲み込んで顔を横へと反らした。
 蒼は沢也が不備を確認し終えた書類を彼の手から抜き取ると、呆然とする雛乃にそれを返却する。
「試験の前にもう一度、お父上とよくご相談の上、こちらに足を運んで下さい。答えはその時で構いませんよ」
 何処か余裕のあるその台詞に、返された書類を受け取れないまま見つめていた二人は、遠く響く鐘の音に急かされたように瞬きをすると、困ったように顔を見合わせた。
 時刻は既に午後5時を回っており、これ以上居座れば帰宅も困難になる。
「良いお返事を期待しています」
 最終的に、蒼の放ったその言葉に追い出されるようにして席を立った二人は、しっかりと書類を持って王座の間を後にする。
 扉が閉まって数秒後。
 蒼が微かなため息を落とした所に、後ろから皮肉じみた声がかかる。
「顔に負けたか?」
 すっかり冷めてしまったコーヒーを啜りながら問う沢也に、蒼は振り向くと共に苦笑を返した。
「心外ですね。そう見えましたか?」
「生憎、目玉を遠方に飛ばす技術なんぞ持っていないんでな」
「それは残念です。僕の顔が後ろにもくっついていればよかったですね?」
「んな恐ろしい冗談吐くってことは、内心の黒さは俺と大差無さそうだな」
 会話の間に安い紅茶を入れ直し、沢也は蒼に歩み寄る。
「それなら何だ?」
「何が、ですか?」
「そこで勿体ぶるなよ。なんであいつを試験にかける気になったんだっての」
 差し出されたマグカップを受け取り、口を付けながら。最後に沢也が漏らしたため息までを聞き終えた蒼は、ふっと笑みを強めた。
「恐らく、ですが」



 そうして蒼が語った見解を、耳にしてから一時間弱。



「僕が言うのも難だけど、蒼のセンサーはよっぽど性能がいいと思うんだ」
 ランプの上で胡座をかいて、つんと口を尖らせたのは沢也の作業を見守る結である。目にもとまらぬ早さで書類やパソコンのデータを洗う沢也も、首を縦に振ることで同意した。
「自分はポーカーフェイス貫いておきながら、相手のポーカーフェイスは見事に見抜く…末恐ろしい能力だな」
「沢也くんに言われたくないんですけど」
「そう謙遜すんな。褒めてんだぞ?」
 時刻は夕食前の午後6時。一旦仕事を切り上げて、私服の状態で自室から戻った蒼は、両手で器用に書類とキーボードを捌く彼に笑顔を向ける。
「とてもそうは聞こえませんが…まぁ、良いでしょう。それよりも沢也くん」
「分かってる。裏ならもうすぐ取れるとこだ」
「仕事が速くて助かりますが、流石に早すぎじゃないですか?」
 まさか、と苦笑を伴い疑ってかかる蒼に液晶画面を指し示し、やはり冷めきったコーヒーを一口飲み込んだ沢也は、珍しく楽し気な笑みを浮かべた。
「お前の勘だかなんだか知らないが」
 向けられた親指の先を覗き込んだ蒼と、元からそれを見ていた結が同時に唸りを上げる。
「ああ、やはりそうでしたか。しかし、偶然にしては良く出来すぎていませんか?」
「僕もそう思うよ」
「お前らが疑うのも分かるが、ここに裏は無さそうだぞ」
「そう仰るという事は、あなたも疑い済みだということですね?」
「まぁそうなるな」
 蒼は先の会話内容と結の読み取った情報、そして兄妹の様子から、二人が何らかの圧力を受けてこの場に挑んでいるだろうと憶測した。それは彼等の父親、ひいては…
「雛乃の”相手”の貴族、恐らくあいつの息が掛かってんだろうな」
 沢也の呟き通り、強制的に結婚させられようとしている相手ですら、黒幕の手駒なのだろう。その証拠となるものは、今しがた沢也が探し当てた書類に記された「派閥」と「日々の活動内容」だ。
「大方こっち内部情報を手に入れる戦略として送り込まれて来たんだろうね」
「ああ。簡単に言えばスパイだな。会場ばらした時のあの顔を見る限り、間違いねえだろう」
「しかし、それでも受けると思いますよ?彼女は」
「どのみち、城に関わっていさえすりゃあ、得られる情報があるかもしれねーからな」
「そしてもう一つ」
「お前を落とせれば万々歳、ってか?」
 問い掛けに笑顔で肩を竦めた蒼に、沢也はため息混じりに含みのある微笑をひきつらせる。
「そりゃあ立派な野心だな。まぁ、確かに目がそう言ってたが…」
「仕方がないとは分かっていても、やるせないですね」
「変なもんに纏わりつかれてる俺が言えたセリフでもねえが、ご愁傷様だな」
「それ、嫌味にしか聞こえませんよ?沢也くん」
「俺にもそれが嫌味にしか聞こえねえんだが」
 満面の笑みとひきつり笑いは向かい合って数秒後、そのままの形状で仕事に戻った。
 見かねたのか疲れたのか、会話の合間に船を漕ぎ始めた結も、いつの間にやら夢の中だ。
「無いものねだりって、こういう事を言うんですかね?」
「だからって立場交換するとか言い出すなよ?マジで」
「大丈夫ですよ、そこまで落ちてはいませんから」
 現状を笑い飛ばすかのようにそう言って、青い印を量産しながらなお顔面に笑みを張り付け続けていた蒼は、ふとした瞬間に首だけで背後の窓を振り向いて。
「普通の恋愛なんて、望んではいませんが…せめて……」
 ただでさえ小さな雨音に負ける程の声量でそう囁いた。
 聞こえなかった振りも忘れて、思わず顔を上げた沢也に、蒼はいつもと変わらぬ笑顔で、ただ微かに小首を傾げる。
 そうして直ぐに椿に呼ばれ自室に向かった彼を見送って、沢也もまたデスクに向き直った。

 せめて…、なんだろうか。
 ニュアンスとしては確かに伝わった。しかしその真意が何処にあるのかまでは掴むことが出来ずに。
 沢也は器用にも書類に目を通しながら、浮かんだ思案を継続する。

 彼が望むのは
 仕事か
 平和か
 金か
 それとも

「愛、か…」
 自分の口から零れたとは思えぬその言葉に、沢也はあからさまに顔を歪め、誰も聞いていなかった事を幸いに思いながら、手近にあったコーヒーで後味の悪さを洗い流した。




cp09 [霧雨]topcp11 [理由]