梅雨


  「うわっ」
 入室するなり仰け反ってまで驚きを表現した義希の一声は、元から室内にいた三人の顔を振り向かせた。



 布張りの表紙と裏表紙は模様や色合いも様々に、それぞれが自己主張激しく装飾が施され、中程から綺麗に折り畳まれている。
 しかしながらそれはただの飾りに過ぎず、その間に挟まる一枚の紙こそが本来そう呼ばれるべき代物だ。
 見合い写真
 厚さ一センチにも満たない一冊のそれが、何重にも重なってテーブルの上に山を作るその様子は、一言で言えば圧巻である。

 圧巻も圧巻と、それはもう物凄い感嘆の息を吐き出しながら恐る恐る近寄ってくる義希を、代わる代わる薄い本を開いては閉じる三人の冷めたため息が迎えた。
「…これ、本気で全部見合い写真?」
「そうなんですよ」
「へー、はー、さっすが蒼…モッテモテじゃんか!」
 圧巻の理由は正にそれで、普通ならこんなに大量の…そう、ただでさえ長すぎるくらいの長テーブルを埋め尽くす勢いの見合い写真の集合体にお目にかかる機会など、まず無いのだから。
 興奮覚めやまぬ勢いで鼻息を噴出し続ける義希を他所に、当の本人は喜びの欠片も無い爽やかな笑顔を浮かべたまま、徐に人差し指を立てた。
「モテるのは僕ではなく、この肩書きの方ですけどね」
 指先を胸の勲章に向けて折り曲げた蒼は、微笑から滲ませたため息を手元の…もとい目の前の写真の群れに落とす。
 そんな彼や、同じく何とも言えない表情で一枚一枚を確認し続ける沢也と有理子を見て、義希も一冊手に取って慣れない手付きでそれを捲った。
「たかが写真に、こんだけかける金があんなら、いっそ少しくらいこっちに回して欲しいよな」
 蒼に負けず劣らずウンザリしたようにそう言うのは、他でもない沢也である。彼の皮肉と舌打ちを受けた蒼は、続くであろうため息に被せて小さく肩を竦めた。
「沢也くんらしからぬ発言ですね」
「いや、こりゃあ沢也がそう言うんも分かるわ」
 最初に手に取った写真を、続けて沢也から手渡されたそれを、更には有理子が持つものまでを覗き込んでから頷きまくる義希を見て、有理子の眉が訝しげに歪んでいく。
「珍しいじゃない。こんだけ可愛い子揃いなのに、あんたがそんな渋い顔するなんて」
「有理子………?本気で言ってるん………?」
 全身全霊で信じられないと言う表情を表現した義希は、辛うじて開いたスペースに見合い写真を広げて三人にも見えるように提示した。
「これも、これも、これもっ!オレは作り物は認めないっ!って言うか不自然すぎて可愛くないし。自然が一番だろ」
 無駄に熱く語り始める彼に、呆気に取られた有理子が唸りながら問い掛ける。
「化粧とか整形の話?」
「いや、それはまぁ、好きにしてくれって思うけどさ…」
「じゃあ何よ」
「まさか義希くんにそんな特技があるとは……いえ、さすが義希くんと言った方が良いですかね…?」
 膨れる有理子の後ろで微妙な感嘆を漏らした蒼は、振り向く二人の視線を笑顔で受け入れた。
「?どういうこと?」
 くるりと首を捻って問う有理子に頷いて、蒼は手に持っていた写真をひっくり返して二人に向ける。
「これ、殆どが合成写真なんですよ」
 ふんわり柔らかなその発言で、俄に場が凍りついた。
 当然の様にそう言った彼はいつものように微笑むだけで、その裏側に潜む感情を読み取ることは出来ない。が、なんだかんだで長い付き合いだ。それが冗談でないことくらいは、有理子も義希も理解できる。
 くるくると思考を巡らせつつも、表面上はすっかり固まってしまった二人にため息を浴びせ、止まった時を動かしたのは沢也だ。
「そ。しかも殆どが原形止めてねえんだよな」
「うっそ…え?これも?」
 憤りを通り越して呆れきった沢也の呟きで、美女揃いの写真が全て嘘っぱちだと言う事実が信じられない…もとい信じたくない有理子が、写真を手に彼に詰め寄っていく。
「ああ、それな…」
「うわ…これは……」
 見せられたそれに口元を引き吊らせた沢也と、それを見て写真を覗き込む義希と。二人の様子を見て眉をしかめた有理子と。そんな三人を眺めながら、蒼は1人のんびりと紅茶を啜った。
「実物は化け物だったぞ」
「沢也くん…」
 率直を通り越して悪口になった沢也の発言を聞いて、思わず噎せた蒼が慌ててそれを宥める。咳払いでなんとか落ち着いた彼は、そのまま口を開けて固まる二人に困ったような笑みを見せた。
「……かくいう僕も、実際お会いしたとき三回くらい本人確認しちゃいましたから、人のことは言えないんですけど…」
 つまりは事実なのかと、落胆なのか感心なのか判別が付かない相槌を打った有理子は、義希を振り向き瞳を細める。
「二人の目すら誤魔化す合成っぷりなのに、何であんたには分かるわけ?」
「だーかーらー、作り物はだなぁ…」
「伊達に女好きとして生きてねぇってことだろ」
「まぁ、そーとも言う」
 言い訳を遮って核心を突いた沢也に頷いて、懲りずに見合い写真の山に手を伸ばした義希が次の瞬間。
「お」
 そう言って目を見開くと、振り向いた三人に向けて写真を提示した。
「この子、可愛いじゃん」
「あらホント。で、あんたがそう言うってことは…」
「モチロン作り物じゃない!」
 ビシッと中空に指を指してドヤ顔を決めた義希は、うんうん頷いて写真を奪い取る有理子と共にそれを眺める。
「それはそうと、時間はいいのか?義希」
 沢也に問われてはたと止まった彼は、パッと腰の時計を引っ張って時間を確認し。
「やっっっべ…!」
 言うが早いか全速力で部屋を出ていった。
「いってらー」
 写真から目を離してそれを見送った有理子は、慌ただしく閉まる扉が大人しくなるのを見計らって、小さくため息を漏らす。
「しっかしまぁ、よくも懲りずにこれだけ集まるものよね…」
 その小さな呟きは、既に仕事に戻った二人の顔に苦笑を呼んだ。

 有理子が言うように、今回の開催で早三回目となるこの見合い相手の公募。
 蒼自身が特別結婚を急いでいると言うわけでもないのだが、それならどうして…と問われれば単に周囲がゆっくりさせてくれなかったのだ、と答えるしかないわけで。しかし少なくとも、彼がその全てに納得し、自ら率先してお見合い活動を行っているのは事実であり、そのことを理解している有理子ではあるが、端から見ると少し心配にもなる。
「男は30からって良く言うし。何も今やらなくても…」
 有理子がポツリと漏らした言葉は、蒼の浮かべる微笑に曖昧な変化をもたらした。
「忙しいのは山々なんですけどね、彼女達…放っておくと酷いんですよ?」
 ため息混じりの肩竦めに、沢也も頷いて同意する。
「要らねーっつってんのに無駄に高価なプレゼント送り付けてきたりな」
「熱烈なラブレターと必要書類を分ける作業なんて、やっていられませんしね」
「まだ結婚は考えてねぇ、なんて言ってみても聞きやしねぇし」
「躍起になるのか知りませんが、反ってお節介になりますもんね…主に周囲が」
「まぁ、そう言うことなら仕方ないけど…」
 単調ながらも不機嫌な感情の詰まった愚痴に苦笑して、有理子は思わず会話に区切りを付けた。蒼はそれに頷いて、意味もなく手にした書類を雨模様を映し出す窓ガラスに翳す。
「それに、あんまりのんびりしていると…随分と年下のお嫁さんをもらうはめになるかもしれませんし」
「良いことじゃない?」
「世間体がな。ロリコンだなんだってうるせえんだよ」
「女性は20代のうちに結婚したがりますからね」
「残り物に福があればいいんだけど、蒼くんの立場上それは難しいか…」
 前途多難どころか、苦難しか残っていないのでは…と逆に不安を強めた有理子は、その呟きを終えた所で携帯に呼び出された。
 もしもし、と始まった会話が扉の向こうに吸い込まれるのを横目に見届けて、デスクに肘をついたまま、沢也は蒼に確かめるように問い掛ける。
「現状こうして適当にあしらっとくが最善かもしれねえが、あいつが言うように決断まで急ぐ必要は無いんじゃないのか?」
「仰る通りなんですけどね」
 青い印を書類に刻み付けながら息を吐き、顔を上げた蒼は再度写真の山を見据えた。
「とりあえずこの中から数名…データベースから適当に見繕って頂けませんか?」
「見てくれに拘らねえんだったら、いくらでも?」
「そうですね。正直な所…」
「貴族からの申し出には期待してない、と」
 言葉を遮ってまで続きを口にした沢也の鋭い流し目に負けることなく、当たり前に笑顔で頷いた蒼はくるくると人指し指を回す。
「分かってるんでしたら、四の五の言わずにお願いしますよ」
「そう怒るなよ。実際、お前は結構面で選んでんだからな」
「そう仰るんでしたら…」
 自覚があるのかないのか、否定することもなく指を引っ込めた彼は、代わりに一冊の見合い写真を提示した。
「義希くんお勧めのこの方に、会ってみましょうか?」
 開かれたそれにため息を浴びせ、沢也はふいっとパソコンに向き直る。
「まぁ、本人確認の必要がないなら手間も省けていいんじゃないか?」
「全く、何だかんだ言って他人事なんですから」
「そうでもねえよ。面白がってはいるけどな」
「他人の恋愛には首を突っ込まないんじゃなかったんですか?」
「恋愛ではないだろ。これは」
 サラリと返された一言に、ふっと微笑んだ蒼は小さな間を置いて呟いた。
「返す言葉もありません」




 降り注ぐ雨は日によってまちまちに。
 昨日はやけにあっさりと。
 今日は恐らくしとしとと。
 夜に馴染む音を纏って落ちてくるそれを感じながら、待つ暇も与えられることなく明日を迎える。


 明日も、雨だろうか。




「疲れているのではないですか?」
 静まり返る室内。響いたのは聞き慣れた声。振り向けば、自身とそっくりな顔立ちが不安気な表情で瞬きを繰り返す。
 蒼はつい5分ほど前に自室へとやって来た姉から、温かいミルクティー入りのカップを受け取って、ほっと一つ息を落とした。
 彼女が何故そんな事を言い出したかと言えば、先の他愛の無い世間話で、簡単な質問を聞き漏らして問い返してしまったからに他ならない。
「そうですね……そうかもしれません」
 そうして始めて自覚して、その疲れを洗い流すかのように紅茶を飲もうとした彼が、その瞬間慌てて口を離す様子を見詰めながら、椿は密かにため息をもらす。
「明日の会議、代わりましょうか?」
「いえ、明日は僕が」
「そう言って、一度も譲ってくれないじゃないですか」
「そうでしたっけ?」
「そうです」
 ぷっと頬を膨らませ、抗議の意を示してみても軽く笑顔でかわされて。仕方なく自分のカップに視線を落とした彼女は、手元を揺らして湯気を拡散させはじめた。

 現在、国政に置ける人に接する仕事の殆どは国王である蒼が担当している。
 勿論必ずしも彼が負担する必要はないのだが、そこには幾つかの事情があった。
 一つは国政に関わろうとしてくる人物に厄介な人柄が多いこと。これによって対応出来る人材が限られてくるのが、一番の理由となるだろうか。
 尤も、蒼に一番近い位置にいる沢也も話術に長けていない訳ではなく、事実をありのまま説明する解説や司会進行役など、淡々と話を進める事にはこの上なく向いている。が、心にもないお世辞やおべっかなどのご機嫌とりに関しては、これ以上無いほどに向かないだろう。
 逆に蒼は持ち前の愛想の良さやポーカーフェイス、柔らかい口調などを駆使しての接待等はお手のもの、勿論説明や朗読と言った方面にも対応出来はするが、沢也が最も得意とする書類の処理能力が欠けている為、国の設立当初からこの様な体制が続いていると言う訳だ。
 有理子や椿も話術に長けていない訳ではないが、交渉などの政治に関する重要な事案は、一人の人間が通して当たるに越したことはないだろう。

 さわさわと雨の音が落ちる、あまり広いとは言えない蒼の部屋の中央で。向かい合って座る二人は、当たり前のように同じ仕草でミルクティーが熱を放出するのを待っていた。
 昼間は温かい雨も、夜になればいくばくか冷たくなってくる。それに併せて冷えた室内で、長いこと判子押しに勤しんでいた蒼にとって、カップから伝わってくる熱は実に心地よい。
 上から息を吹き掛けて、程好く冷めた紅茶をやっとの事で胃に流し込んだ彼に向けて、椿のジト目が数分越しに話を繋げる。
「私、そんなに信用無いですか…?」
 質問を受けた蒼は、その言葉だけで彼女の真意を汲み取った。彼女は、実際にそんなことを思っているわけではなく。
「そこまで気を使わせてしまうくらい、疲れているように見えますか?」
 そう、何とかして明日の会議を影武者として勤めようとしているのだろう。読まれてなお頷いた椿に笑みを返し、蒼はパタリとインクに蓋をする。
「それでは、今日は早めに切り上げるとしますか」
 時刻は既に11時過ぎ。それでも若干ながら安心したように息を吐いた椿は、やはり蒼と同じ様に何度か息を吹き掛けてから、急ぎ気味に紅茶を啜った。




 夜のうちに強くなった雨は、いつも静かな城内にざわめきを運び込む。
 それに紛れるようにして訪れた来客達は、王座の間の階下にある会議室でいつものように話を拗らせていた。
「だから、さっさと海外に出るべきだと…何度言ったら分かるんだ!」
 分厚いテーブルに丸い拳を叩き付け、怒り任せに叫ぶのは「開国派」の貴族。対するは、冷静な様子で背もたれに身を預ける「鎖国派」の貴族。
「今はまだ、その時ではないでしょう」
「その通り。何をそんなに焦っているのか、詳しく説明してくれれば良いものを」
「何度も、繰り返し、説明してきた筈だが?」
 単語一つ一つにクレッシェンドをかけて、ついでにガンまで飛ばし終えた開国派を、鎖国派の男が淡々と説き伏せる。
「国内の物流だけでは満足出来ないから海外に出て金が稼ぎたい、そんなもの説明でも何でもない。ただの我が儘だ」
 ピシャリと言い切られた開国派の男。今にも張り裂けそうな赤いスーツを前に引き、舌を打って話をすり替えた。
「今、この国に必要なのはそんな保守的な考えではない!この改革の波に乗って、世界を広げていくことだ!」
「そうだ、こんな狭い島国で燻っているなんて、勿体ないとは思いませんか?」
「陛下も、なんとか仰って下さい…」
 部屋の際奥、観音開きの窓の手前の誕生日席に座らされた蒼は、集まった全員の視線に普段通りの笑顔で応える。
「その持論で黒龍を説き伏せる自信がおありなら、僕の方でアポイントメントを手配しておきますよ。尤も、失敗した際の保証まではできませんけど。それでも宜しければ」
 この件も何度目かと、呆れ返る鎖国派の正面で開国派が押し黙る。
 何故ここで黒龍の名が出たのかと言えば、この国に周辺諸国との交流が無い理由が、黒龍が国の周囲に張り巡らせているバリアのせいだからだ。
 これは約百年程前の外界との戦争が終結して以来、途切れる事なく続いている。
 それは本当に言葉通りで、蒼の父親が国を組織として動かし、盗賊団共々黒龍を拘束していた時ですらも存続していたのだから侮れない。
どうしてそんなことが分かるかと言えば、国の無い状態で海外から何者かが接触してきては面倒なことになると、予め対策を行ったら記録が小次郎の両親の手元に残っていたから。
「そもそも、建国からまだ二年間足らず、国内が安定していない現状で開国しようなど、浅はかにも程があるでしょう。黒龍も賛成するとは思えませんと、何度説明されれば気が済むのですか?」
 ため息のような孝の追い討ちに、怯むことなく喰ってかかったのは、開国派の中でも国内の更なる改革を推進する一派だ。
「それならまず、国内の状態を良くするためにも、我々の提案を飲んで頂きたい」
「それも黒龍の手前不可能です。こちらの提示した環境保全の説明には目を通して下さいましたか?」
「何度も聞いていますが、そのデータが正しいという保証はないでしょう」
 国の調査で分かったのは、妖精が動植物と同化しモンスターとなったこと、そしてこの二年の間にその全てを討伐したことにより、国中の生態系にダメージが出る可能性があると言うこと。そのデータは飛竜の盗賊団を中心に、小次郎の部下などが加わったチームが一年間で徹底的に調べ上げた代物であるだけに、かなり信憑性が高い。  しかし実際に「生態系が崩れたことによる被害」の事例があるわけではないので、これ幸いと貴族達が未開発の森を無差別に切り開こうと躍起になっているのだ。  国と鎖国派はその逆で、生態系の安定が取れるまではこれ以上自然に手を出すべきではないと考えている。それは黒龍と妖精も同意見で、そうであることも説明済みなのだが、彼等は妖精を便利な道具か何かと勘違いでもしているのか、妖精さえいればなんとかなると引く気配が無い。逆に妖精が危険な状態になると脅しをかけようもなら、今度は妖精を野放しにするべきだと主張し始めるのだから、面倒なことこの上ないのだ。
「モンスターが居なくなった途端、これだからな…」
 毎度の堂々巡りに苛立ちマックスの沢也が蒼の背後で舌を打てば、直ぐ様地獄耳の持ち主が目をギラつかせる。
「何か言ったか?若造」
 連続して響く雨音に紛れるように呟いたのに、と思いながらも瞳を細めて苦情を受け入れた沢也は、耳をほじくりながら淡々と皮肉を吐き出した。
「耳鳴りですか?そりゃそんな怒鳴ってばかりなら当然でしょう。少々落ち着かれては?」
 開始から既に二時間。全く見通しの立たない展開の中、口癖を出さなかっただけ上出来だと頷いた蒼は、震える赤スーツの貴族に釘を差す。
「とにかく今の所、これ以上の開拓や開国を始める気はありません。どうしても、と仰るのでしたら僕ではなく、黒龍の方に直接交渉でもなさってください」
「黒龍への交渉こそ、あなたの役割でしょう!陛下!」
「はい、ですから僕は黒龍の意向に賛成します。交渉する気は毛頭ありません」
 笑顔のまま威圧を撒き散らす蒼に、長いことこの手の会議を渡り歩いてきた面々も流石に怯んだが、それでも負けじとなあなあな反論を始めた。
「意気地無しと罵られても?」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」
「国の事を考えたら…」
「国の事など微塵も考えてない方に言われたくはない台詞ですね」
 代わる代わる続いたそれに即答して、やっとのことで生まれた会話の溝に、蒼の長いため息が落ちる。
「僕に喧嘩を売る暇があるのなら、国内で少しでも売り上げを出す方法でも考えたら如何ですか?」
「そんなことはとうに……」
「やっても出来なかった、ならこっちに譲ってくれよ。その事業」
 まだ黙らないのかと、とうとう机の端に手を付いた沢也の微笑が、重い空気に不気味な色を添えた。
 再び訪れた小さな間。それを繋いだのは、鈴の鳴るような高い声。
「そうですね、無能は少し黙っていて頂きたい」
「聖…貴様…」
 長い髪を軽く払いのけ、歯軋りで名を呼んだ男を笑顔で無視した彼は、元の家柄の良さや品格の高さと言い、華麗過ぎる容姿に似合わぬ手腕と言い、開国派の中で一番若いにも関わらず一目置かれる存在だ。
 それを証拠に、同じ派閥の人間を意図も簡単に黙らせ、本来の議題に軌道を戻す。
「それよりも、陛下。インフラの整備は完了されたのですよね?」
「ええ。確認調査まで全て」
「でしたら、次の政策はどうされるおつもりですか」
「まずは失業者対策を終わらせてしまおうと思っています」
 嘘のようにトントンと進む、まさに会議らしい問答がそこで短く途切れた。集まった視線に動じるどころか笑顔を浮かべ続ける蒼に、聖の柔らかい声が注がれる。
「これはまた、大きく出ましたね?」
「とは言っても、目処が立っているわけではありませんので、他と同時進行になりますが」
「いえいえ、頼もしい限りです。後は、あなた様のご結婚が決まれば申し分無いのですがね」
 何事もなかったかのように平然と話を進める蒼を茶化す聖に、回りの数人が次々と苦情を被せた。
「そうですよ。いい加減、うちの娘も招待して頂きたい」
「うちだって。今回も見送られましたが、どうなってるんですか?」
「我が家なんて今日も娘に……更には妻にまで詰め寄られて…」
「分かります。こうなっては死活問題ですぞ」
「陛下もお忙しい身です。そう不平ばかり言うのは止したら如何ですか」
 会話の合間にやって来た有理子によって注がれた温かい紅茶を啜りながら、聖は項垂れる貴族連中を宥めにかかる。
「こうなったらクリスマスに催されるパーティーに、期待するしかありませんね」
「その手があったか」
 孝が何気無く紛れ込ませた情報に、誰かがぽんと手を打ったことでその場はすっかり収束した。
「では、いい時間ですし…今日はこの辺りで終了とさせて頂きます」
「仕方がありません。問題はまたの機会に持ち越しますか」
「しかし陛下、嫁選びと政策は是非とも慎重にして頂きたいものですな」
 立ち上がり、資料を束ねた蒼の横顔に皮肉を浴びせる赤スーツを、沢也の不機嫌な眼光が突き刺すように睨み付ける。
「肝に命じておきましょう」
 蒼は微笑を頷かせ早足に歩を進めると、あとの事を有理子に託し、一早く会議室を後にした。



 止まない雨はない。
 分かっていながら、やはりこの時期はもどかしい。
 この雨が無ければ、それはそれで困ると言うことも理解してはいるけれど。
 晴れ間を恋しく思うのは、きっと誰も同じはず。



「ここに居らしたんですか?」
 観音開きの窓の内側、空から落ちてくる大粒の雨を追い掛けていた蒼は、入り口から聞こえてきた声にゆっくりと振り向いた。
「姉さん、どうしたんですか?こんなところまで」
「姉さんはやめて、って…いつも言っているじゃないですか」
 鳥から人間へと変化を遂げながら、微かに開いたままだった戸を閉めた椿は、しんとする会議室をそろそろと進み行く。
 長く重厚な茶のデスクと、青に統一されたふかふかの椅子が20脚程並ぶその部屋は、王座の間の3分の1にも満たない広さで、置かれた物に対してやや狭くも感じられた。
「姉さん、この部屋は始めてでしたか?」
 電気の落ちた中、きょろきょろと辺りを見回す彼女の様子でそう判断した蒼の質問に、椿は当たり前ですと口を尖らせる。
「昨日も言った通り、蒼くんは一度だって会議に出してくれたことがないじゃないですか」
 隣まで辿り着いた彼女の言葉に、ああっと納得して。蒼は苦笑いを窓の外へと流した。
「それ以外で会議室に来る必要なんて、あまり無いですからね」
「そうです。……でも、それなら何故なのですか?」
「何が…ですか?」
「何故、ここに…?」
 問われて椿に顔を向けた蒼は、瞬きの間にも一つの疑問を思い浮かべる。
「姉さんこそ、何故此処だと分かったんですか?」
「なんとなく、です」
 椿も椿で、きょとんと蒼の顔を見上げたまま、不思議そうに言葉を繋いだ。
「なんとなく足を…羽を運んだら、此処に辿り着いてしまったんです」
「あなどれませんね」
 嘘とは思えぬその様子に、参りましたと広げられた蒼の手の中には、今流行りのオマケ付きキャンディー。ただでさえ金欠の現状で、そんなものを買っていると知られてはバツが悪い。
「また怒られては敵いませんから」
 そう言って肩を竦める蒼に、椿も思わず苦笑する。
「今日は怒ったりしませんよ」
 たまの息抜きだって分かってますから、と普段はその手の無駄遣いに厳しい彼女も、弟を模倣するように肩を竦めた。
 蒼はそれに安心したのか、また空を仰いで短い息を吐く。
「本当は…」
 呟きに引かれて蒼を見上げた椿は、動かぬ彼の視線の先を見据えた。
「雨が、気になったんです」
「雨?」
「はい。僕はいつも、此処に座るので…」
 小首を傾げる彼女を避けて、昼間長いこと身を預けていた椅子の背もたれを掴んだ蒼は、会議室全体を見渡した後、背後の窓を振り向いて。
「窓の外が見えないんですよ」
 言いながら、くるりと人差し指を回した。
「ですから、此処から見る雨は、どんなものかと思いまして…」
 蒼はそう繋げると、目を丸くする椿に青色のキャンディーを差し出して、再度窓に映る雨空を見上げる。
「背を向けて、音ばかり聞いていると…」
「気になりますか?」
 言葉を遮って問い掛ける椿を、蒼は思わず振り向いた。

 そうか、こんなに簡単なことにすら気付けなくなるくらい……
 今の僕には、余裕がないんですね

 蒼が短い思いを巡らせる合間、口の中に飴玉を放り込んだ椿は、返答も待たずにうっすらと微笑んだ。
「……今度、出てみますか?」
 躊躇いがちに、しかしハッキリとそう問い掛けた蒼を、椿の意外そうな眼差しが捕らえる。
「その代わり、様々な負担や重圧などなど、与えられるストレスに関する保証はできませんよ?」
「分かっています。その日が来るまで、もう少ししっかりと勉強をしておきますから」
 悪戯に微笑む蒼が、手元で弄んでいたキャンディーを拐い、椿は満面の笑みで頷いて見せた。




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