chou cream







 飾り気のない室内には大きな本棚が三つ並んでおり、どれも分厚い本がびっしりと詰まっている。
 その反対側の壁にベッドが、部屋の中央には小振りの丸テーブルと椅子が二脚。絨毯は綺麗な青だった。
 そんなシンプルな部屋の中でも一番目を惹くのは、丘と海を臨む縦長の窓。
 海羽はそれを正面にしてテーブルに付き、書類の束と格闘していた。
 何時もと違う部屋での仕事も、勝手にお茶を淹れられるくらいには慣れてきている。同じように仕事をしていた部屋の主は、今頃書庫で資料を探している筈だ。
 椿の部屋は蒼の部屋の隣にあり、壁を軸にして対になっている。要は彼女達双子は、元々宛がわれていた部屋に、そのまま戻った形になるわけだ。
 海羽は一息ついでに窓の外の眺めては、椿や蒼が見てきた景色に想いを馳せる。
 爽やかな空の青と、穏やかな海の青と、真っ白な雲の不規則な形と。まるで絵画を飾る額縁のような窓から意識を逸らし、彼女は手元の手帳に視線を落とす。
 4月に新調したばかりのそれを開くと、5月のカレンダーに覚えのないマークが付いていた。
「星…?」
 ボールペンで一筆書きされただけの簡素なものだったが、整った形からして異様に丁寧に記されているようにも見える。
「何だったかな…」
 自分が書いたのだろうか?不思議に思ってカレンダーを遡るも、同じようなマークは見当たらない。
 それでも何故か、酷く懐かしいような気がして無意識に指先でなぞる。
「なん…だった、かな…」
 不思議な心持ちがした。先月のことの筈なのに。ほんの一ヶ月前の事なのに。思い出せないのが気持ち悪く、しかしそうしてマークを眺めているだけで嬉しくなってくるような。
「海羽さん、少し休憩にしませんか?乙葉さんがお茶を淹れてくださったんですって」
 不意に開かれた扉から、椿が嬉しそうに顔を覗かせた。海羽はハッとして振り向くと、立ち上がることで返答とする。
「今行くよ」
 考え事をそのままに、日常へと戻る彼女を静かになった部屋が見送った。

 最近、夢を見ない。
 ついこの間までは、悪夢だろうと毎日必ず見ていた筈なのに。
 目を閉じて、眠りにつくと同時に見えるのは、霧がかかったような視界だけ。
 どれだけ待っても何も映らない。
 だから僕は諦めて意識を閉ざす。

 子供の頃の夢も。
 王座の間で悪魔と闘う夢も。

 どんな内容だったかすら、ぼんやりとしか思い出せなくなった。
 それでいいのかな?
 問い掛けても、誰も答えてくれない。
 代わりに頭が痛くなる。
 だからまた、目を閉じる。

 ずっとその繰り返し。

 甘い匂いがする。
 それはそうだ。僕は今、お城の厨房でお菓子を作っているのだから。
「あら、シュークリーム?」
「ん?」
「ん?じゃないわよ。ほら」
 何時の間にやら意識を脳内に飛ばしていた海羽が、何時の間にやらやって来た有理子の問いに反応しかねて小首を傾げる。海羽は彼女が持ち上げた掌サイズのそれに、なんとか焦点を合わせた。
「あ。うん、そうだな。シュークリーム」
「美味しそうー。わたしも食べていい?」
「うん…あの、みんなで食べてくれたら…」
「でも、何かあって作ったんじゃないの?」
 来客用に、とか。誰かに頼まれて、とか。そうして指折り理由を提示する有理子の声をぼんやり聞きながら、海羽は曖昧な答えを返す。
「えと…うん、なんとなくな」
 だって。
 どうして作っていたのか。
 その理由を思い出す事が出来なかったから。
「なんとなく…作りたくなって…」
「そう?それなら、作りたてを頂きましょうか。お茶準備するわね」
「うん…」
 やかんを手にする有理子の背中を目で追い掛けて、手に握られた絞り器に視線を落とす。
 中に詰まったカスタードクリームを少し指に取って味を見ても、自分が作ったことに間違いはなさそうだった。
 水曜日なのに早朝からやって来た秀さんが帰った後、仕事をして、乙葉達とお茶をして、お昼ご飯を作って、メイドさんたちと後片付けをして、仕事場に戻ってまた仕事をして、業者さんから荷物を受け取って、そのまま此処にやって来た。
 荷物を運ぶだけのつもりだったのに、何故こうしてシュークリームを作っているのだろう?
 日はまだ高い。丁度おやつの時間くらいだろうか?夕食の準備にはまだ早いから、本当に、ただお菓子が作りたくなっただけなのかもしれない。
「あら、海羽。こんなに沢山頼んだの?」
「へ?」
「小麦粉と卵…あとお砂糖も。発注ミスかしら?」
 有理子が見下ろす先にある注文書は、先程自分が業者さんから受け取ったものだ。
 当然のように品物を運んできたけれど、言われてみれば確かに多い。
「海羽?」
「あ…うん、えと…僕が頼んだんだ…」
「…なら、いいんだけど」
 微妙な表情で歯切れも悪く答えると、有理子の表情も不安そうに曇った。海羽は申し訳なく思う傍ら、辻褄の合わない自分自身に違和感を覚える。

 彼女自身も不安なのだ。
 発注も、作業過程も、ぼんやりとしか覚えていない現状に。
 しかしそれと同時に、ワクワクしている自分がいる。だけどそのワクワクが何処から来るのか分からなくて、また不安になる。
 考えようとすればするほど、頭の中で行き止まりが増えていく。出口のない迷路のような。
 そして途中で気持ちが悪くなって、考えるのを止めるのだ。



 ざわざわとざわめく雑音。
 引っ張られている腕が痛くなってきた。
 だけど前を行く彼は止まらない。僕はまた諦めて別の事に目を向ける。

 現在地は城下町の大通りの中央付近。首を回せば様々な色が目に付いた。
 5月も数日が過ぎている。
 街は6月に向けて慌ただしく動いているようだ。
 在庫の相談や、倉庫の空き状況、船の運航スケジュールや積み荷の確認。梅雨時のメニュー思案や、日用品の運搬経路。保存食品の作り方や、本島の漁師町で干物製作が大詰めだとの話が飛び交う。
 中でも、道行く人々が頻りに人差し指を伸ばすのに気付き、海羽はその先を探した。正直ちっとも良い話では無さそうだったけれど、余りにもその話題が多く聞こえてくるので、流石に気になったのだ。
 彼女がきょろきょろと首を動かしていると、前方で自慢話をしていた秀が振り向き嘲笑を浮かべる。
「どうされました?」
「え?」
「何を探しておいでですか。…ああ、あの指が向けられる先ですね?」
 海羽の視線から目敏く目的を割り出した彼は、足を止めて彼女に目線を合わせた。
「ご存知ないのですか?今、街はあの男の噂で持ちきりですよ?」
 示された先には、先日事件で一緒になった近衛隊本隊の隊長の姿がある。
「なんでも、ロボットだとか」
「ロボッ…ト?」
 笑い混じりの呟きが酷く耳障りに感じた。思わず聞き直した海羽の声にしっかりと頷いて、彼は更に解説を続ける。
「言われてみればそうであってもおかしくないと思いませんか?全く表情が無ければ、ろくに言葉も話さない。加えてあの非常識な身体能力…何かの兵器と考えるのが妥当でしょう」
「兵器…」
 本当にそうなら、蒼や沢也が彼を採用するわけがない。そう思いながら秀の声を遮断した海羽は、止まらない噂話に一種の気持ち悪さを覚えた。
「ねえ?海羽さん。お気をつけ下さい。あの男に、迂闊に近寄ってはなりません」
 執拗に念をおしてくる彼に曖昧に頷いて、海羽はまた意識を逸らす。

 今日の夕飯は何にしようか。
 何が余っていただろう。
 残業の職員さんは居なかった筈だから、お昼の残りをアレンジしてしまうのもいいかな?
 あ、でも今日は有理子がお酒を飲みそうだから。おつまみの準備もしておいた方が良さそうだな。
 あとは、あの小麦粉と卵の使い道を考えないと…

 パンに、ケーキに、ピザ、手打ちパスタもいいな。他にも色々使えるから、小麦粉も卵も便利だよな。

 何を作ろう。
 何を作ろう。
 みんなは何が食べたいかな?

 くるくると卵が回る。
 くるくるとクリームが回る。
 かき混ぜているのは僕なのに。
 何処か他人事なのは何故だろう。

「海羽…また作ったの?」
「へ?」
 有理子の声に驚いて手元を見る。焼き上がったシュー生地に、カスタードクリームを詰める自分の手が半端な状態で止まっていた。
「あれ…?おかしいな…。違うもの作ろうとしてた筈なんだけど…」
 少なくとも、シュークリームを作るつもりはなかった筈なのに。だって、つい昨日作ったばかりなんだから。
 シュークリームが山と積まれた大皿を呆然と眺めた海羽は、困惑した様子で呟いた。
「ごめんな、こんなに沢山…」
「…大丈夫。みんな喜ぶわよ?あなたのシュークリーム、美味しいから」
 同じく困ったように、しかし直ぐに軌道修正したような笑顔で励ます有理子に微笑んで、彼女はまた呆然と口にする。
「どうして…シュークリームなんだろう…」
 無意識に漏れたであろう独り言に、有理子は答えを返すことができなかった。

 その後、50個近いシュークリームは様々な場所へと運ばれる。
 王座の間へ。
 セキュリティ付きの扉の先へ。
 民衆課へ。
 技術課へ。
 マジックアイテム課へ。



 それでも数は減らなかった。
 何故ならその次の日も、海羽は大量のシュークリームを作ったのだから。

 南通りの八百屋の前。
 海羽から紙袋を受け取った店員が、その中身を確認して問い掛ける。
「シュークリーム、ですか?」
「はい…あの、作りすぎちゃったので。この前のお茶のお礼にと思って…」
「わぁ!いいんですか?ありがとうございます。凄く美味しそうですね」
 処理に困ってこんなところにまでお裾分けしなきゃいけなくなったことに。また、そんな理由があるとも知らずに笑顔で答えてくれた彼に申し訳なくなって、海羽は頷く事も出来ずに首を傾けた。
 八百屋の青年は、そんな彼女を眩しそうに見詰めてぽつりと呟く。
「また今度、誘ってもいいですか?」
「え?」
「あ、いえ…見返りが欲しいとか、そう言うんじゃなくて…」
 慌ててそう言い分けて、ポリポリと頬を掻いた彼は、海羽の芳しくない表情を見て問い直した。
「お忙しいですか?」
「最近、ちょっと…」
 誰が、とは言わなかったが。秀を連れて八百屋の前を通ったこともあるから、彼も気付いている筈だ。それを証拠に、青年は深く言及することもなく眉を下げる。
「じゃあ、また暇になったら遊んで下さい。何時でも構いませんから」
「はい。ありがとうございます」
 肩を竦めて寂しそうに微笑んだ彼に、海羽もまた同じような微笑で応えた。

 その日もまた、シュークリームが完成する。

 日に日に増えるそれに、蒼は何時ものように笑顔を傾け、沢也は顔をしかめ、有理子は驚き、義希は喜び。しかし流石に城内だけで片付けられる量では無くなってきていた。
 何故なら、来客の関係でシュークリーム以外にも茶菓子が作られている上に、バレンタインの残り物が未だに蔓延っているからだ。



 王座の間の長テーブルのど真ん中。皿と篭と箱を占領するもわもわを前に、秀の眉が歪みに歪む。それはそう、流石の彼も言葉を失うくらいに。
「……」
「ご…ごめんなさい…」
「私はフルーツタルトを所望した筈ですが?」
「はい…」
「何故、またシュークリームなのですか」
「それは…その…」
 言い訳をするにも言葉が見つからず、思わず目を逸らした海羽を横から義希がフォローした。
「ま…まあまあ、オレは毎日シュークリームでもいいかなー。日に日に美味しくなるし」
「いくら美味しいからと言って、こうも続くと流石に飽きると言うもの。しかも量が量がです。全く…シュークリーム専門店でも開くおつもりですか?あなた様は」
「す…すみません…」
 言った傍からシュークリームをパクつく義希を軽蔑の眼差しで、萎縮する海羽を呆れた眼差しで。それぞれ眺めた秀は、あからさまな溜め息と共に立ち上がる。
「とにかく、街に降りて別のお菓子を買いに行きましょう」
「あの、僕はこれをなんとかするので…」
 そのうち特大サイズのクロカンブッシュでも作れそうな数のシュークリームを目で示した海羽に、秀は苛立ちも隠さぬままひきつった微笑を浴びせた。
「仕方がありません。あなたの分も、調達して参りましょう。それは何処かに押し付けたら宜しい。愚民なら喜んで食べるに違いない」
 言い捨てて去っていく彼の目当ては、これから訪れると言う聖への賄賂的高級スイーツだろう。
 彼からしてみれば、シュークリーム等庶民が食べる下等の菓子でしかないらしく、本人も初日に一つかじって絶賛して以降は手も付けようとしなかった。
 そんなことなど関係ないと言わんばかりに、口の周りをクリームまみれにしていた義希は、海羽の申し訳なさそうな顔と、クリームの代わりにビーフシチューやクリームシチュー、ミネストローネにシュー皮を浸して貪る沢也と、カスタードクリームの代用先を探して仕事の片手間スイーツブックを捲る蒼と、せっせとお茶を淹れながらも容器にシュークリームを詰め行く有理子とを見比べて天井を仰ぐ。
「じゃあ、あの…ちょっと配ってくるな?」
 控え目に宣言した海羽が、三つずつシュークリームを詰めた紙袋を幾つか持って部屋を出ていった。
 四人はそれを見送って、言葉もなくそれぞれに顔を見合わせる。

 いくら喜んでくれるから大丈夫だと励ましてもらっても、流石に何日も同じものを差し入れに行くのは気が引けた。
 だからまだ、差し入れていない課はなかっただろうかと脳内で検索をかけ、いっそ食堂に「ご自由にどうぞ」と張り紙を付けて放置してしまおうかと考える。
 だけど結局宣伝しなければ誰も気付かないし、宣伝するとしたらメイドさん達の力を借りないと捗らないし、何よりわざわざ食堂まで取りに来て貰わなきゃいけないのだから、現実的なのは現在やっているランチのおまけに配ることくらいだろう。
 とにもかくにも、無意識だろうと自分で作ってしまっている以上、自分で処理をしない事には申し訳が立たないと、海羽は廊下を歩きながら小さく溜め息を吐いた。
 その時、黒が隣を通り過ぎる。
 少しの驚きと共に顔を上げ、振り返ると黒い背中が見えた。
 秀の言葉が…沢山の噂話が頭の中を行き来する。
 しかしそれとは別のところで体が動いていた。

 腕が伸びる。
 掴んだのは、背を向けて歩く彼の服だった。

 暖かくなってきた今日この頃。長袖を着ていると暑いくらいだが、彼はきっちり近衛隊のジャケットを着込んでいる。それが目一杯伸びた辺りで、二人はピタリと硬直した。
 スローモーションさながらの速度で、倫祐が振り返る。それを見た海羽が慌てて口を開いた。
「あの…その、えっと…」
 何を言うべきか。何の用事もないのに呼び止めてしまったことを、謝るべきか。そう考えて思わず俯いた彼女の目に、手に抱えた紙袋が映る。
「お、おなか、空いてますか…?」
 ハッとして顔をあげると同時に問い掛けた海羽は、倫祐が瞬きをするのを見て説明を続けた。
「えっと、その、これ、作りすぎちゃって…それで、だから…」
 上手くまとまらないそれを途中で諦めて、一つを抜き取り手を伸ばす。
「良かったら…その…」
 差し出された紙袋に焦点を合わせ、倫祐はまた一つ瞬きした。
「シュークリーム…嫌い、ですか?」
 中身を口に出してみたが、彼は固まるばかりで受け取ろうとしない。しかし否定も拒否もされていない現状、引っ込めていいのかも分からずに、海羽もまた硬直する。
 数秒後。
 道の向こうからメイドさんの気配がやって来た事で、倫祐の方が先に折れた。
 軽くなった右手をピクリとさせて、倫祐を見上げた海羽がふわりと笑う。
「…良かった…」
 俯き気味に呟かれた言葉はホッとしたように。倫祐はそんな彼女が顔を上げると共に小さく頭を下げた。
 海羽はその仕草を見て瞳を揺らがせる。不思議な程強い安堵で肩の力が抜けた。
「じゃあ、僕はこれで…」
 沈黙に気付いて背を向けた彼女を見送って、倫祐も踵を返す。
 その途中、紙袋は音もなく指輪の中へと消えた。

 30分後。

 定期検診を終えた倫祐が帰宅して15分が経過した王座の間。
 舞い戻った海羽を見て、せかせかと会議の準備をしていた有理子が問い掛ける。
「どうしたの?何か良いことあった?」
「へ?えっと、どうして?」
「何か、嬉しそうだから」
 有理子が驚きのあまり目を見開くのも当然だ。何故なら海羽は、あからさまにニコニコ笑っているのだから。
 同じように呆然とする蒼や沢也を見渡して、彼女はわたわたと言い訳を始める。
「うーん…えと…あ、あのね…?シュークリーム、えっと…お裾分け…貰ってくれたんだ」
「誰、が…?」
「隊長、さん。ほら、あの…本隊の」
 必死で言葉を探す彼女の、半ば興奮ぎみな声が残響として残った。
 目の前の三人が固まってしまった事に戸惑った海羽が、また要らぬ心配を始めるより前に有理子が動き出す。
「そっか…うん、良かったわね?」
「うん…あ、お茶の準備しておくな?秀さんももう暫くかかるだろうし」
「そうね、お願い」
 頷いて見送ると、海羽の背中がふわふわと大扉を出ていった。
 有理子は小さく息を吐いて、背後の二人に言葉を投げ掛ける。
「例え記憶が無くなっても、好きになる人は同じってことなのかな…」
「はたまた、心の何処かで覚えているか」
「どちらも正解だと思いますよ?僕は」
 それぞれの見解が返ってきたことに安心して、有理子はゆっくりと肩の力抜いた。



 更に翌日も、早朝からシュークリームが量産される。
 材料もまだまだ残っているし、オーブンも業務用なだけに量が焼けること、ついでに作業に慣れてきている事から、次第に製作数が増えているものと思われた。
 しかし何時まで続くのかと本人が目を回し始めているものの、逆に周囲が慣れてしまい「この際だから極めようず」だとか「いっそこれで一儲けを」だとか「チョコレートと一緒に配りますか」だとか、勝手な事を言ってはシュークリームを容認する始末。
 困った海羽は取り合えずポケットルビーを借りてシュークリームを収納し、小出しに配布することにした。
 しかしやはり量が量なので、出来れば早めに手を打ちたいところである。

 そうして訪れた昼下がり。

「こんにちは」
「おや、この間はどうも」
「あ、はい、あの…こちらこそ」
 近衛隊の駐屯地の扉をノックした海羽を、ぼんやりした定一の欠伸が迎えた。彼は彼女が用件を切り出す前に喫煙室を指し示す。
「ほら、本隊長ならそっちに…」
「…え?えっと…」
 顔を赤くするでもなく、不思議そうに首を傾けた海羽を見て、定一の眠そうな表情が僅かに固くなった。
 海羽は彼の微妙な変化よりも、報告書を書き連ねていた帯斗や諸澄の視線の方が気になったようで、慌てて本題を手の上に呼ぶ。
「シュークリーム、作りすぎちゃったんで…皆さんに食べてもらいたくて…」
「わぁ!いいんすか?」
「らっきー。ごちんなります」
 声が途切れるや否や、帯斗と諸澄が息ピッタリのコンビネーションで巨大な箱を受け取った。
 早速テーブルに運び込んではワイワイ始める若者を横目に、定一が困ったように問いかける。
「それは有り難いけど…その為だけに来たのかい?」
「へ?あ、はい…」
「義希くんには会わなくても?」
「はい、宜しくいっておいて頂けると…」
「じゃ、よろしくされとこっかな」
 軽快な声は上から注がれた。振り向いた海羽は、すぐそばで手を振る彼を見て胸を撫で下ろす。
「義希。おかえりなさい?」
「ただいま…それはそうとなんでまたココに?」
「秀さんがね、ココならシュークリームを消費してくれるんじゃないかって…」
「ああ…あの人が…まあ、その通りかもな」
 珍しく秀の考えを邪推した義希が、煙の浮かぶ喫煙室を横目に見据えた。海羽はそれに気付く事もなく、ポケットルビーからもう一つの箱を呼ぶ。
「小太郎達の分も預けちゃっていいかな?」
「うん、夕方会うから渡しとくよ」
 笑顔で請け負うと、海羽は昔のように寂しそうに微笑んで場所を空けた。
「それじゃあ…あ、また作りすぎちゃったら持ってきても…」
「大歓迎」
「うっす」
 部屋の奥から注がれた声に、彼女はぺこりと頭を下げる。
「ありがとうございます」
 そうしてまた、昔と同じ笑顔を残して町に消えていった。
 その背中を見送ってから、ゆっくりと扉を閉めた義希が傍らの定一に問いかける。
「…流石に、気付いちゃった?」
「…あれだけあからさまだったからねえ」
「…ごめん…」
「君が謝る意味が分からないよ」
「そっか…そうだよな…」
 賑やかになった室内に小さく響く二人の会話は、他の誰に気付かれることもなく途切れた。
 その間を埋めるようにして空気が動く。扉の開閉で金具の鳴く音が小さく響いたが、足音もなく隣室から出てきた彼を義希が呼んだ。
「倫祐…」
 遅い昼休憩を取っていた倫祐は、ただただ時間通りに出てきては灰皿の清掃をするばかり。
 義希はむぐぐと動かした口をそのままに、歩を進めてテーブルからシュークリームを掴み取る。
「ほら、倫祐。シュークリーム。食べたか?」
 問い掛けに、倫祐は一度だけ瞬きをした。肯定か否定かも分からなかったが、義希は更に言葉を繋げる。
「海羽がさ、作りすぎちゃってて」
「名店のシュークリーム並の美味しさ…いえ、それ以上かもしれません!」
「ほんと、美味しいっす!」
「何個でも食えそうだな…」
「甘党のおっさんにはたまらない一品だね」
 義希の意図を後押しするように続いた声は、何時の間にやらシュークリームにかじりついた定一の呟きで途切れた。
 義希は首だけみんなを振り向いて笑顔を竦め、また彼に向き直りシュークリームを差し出す。
「な?倫祐も食いなよ」
 促しに、彼は微かに躊躇ったように見えた。それでも対岸からの圧力に負けたように、義希の手からそっとシュークリームを受け取る。
 ホッとした義希が手を下ろすと、部屋の動きも元の気楽さに戻った。
「また届けてくんないかなー」
「ああ、じゃあ頼んどくよ」
「まじっすか!?」
「今、ほんと何て言うか…城がシュークリーム祭り状態だから。消費してくれたら、海羽も助かると思うし」
 諸澄のぼやきと、帯斗の驚きを拾った義希が、集まった疑問の眼差しに困ったように頬を掻く。
「気付いたら作ってるんだってさ。本人も別のもん作ろうとするんだけど、出来上がったらシュークリームらしい」
「ナニソレ…」
「ホラーっすね…」
 帯斗と諸澄の言葉と、急激に落ちた室内のテンションにハッとして、義希はぶんぶんと手を振り乱した。
「いやいや、きっと何か納得いかない部分があって、無意識にアレしちゃってるとかじゃん…?」
「職人魂ですね…!分かります…!」
 圓がうまくまとめ上げると、他の三人も納得したように間食を再開する。その様子を、呆然と眺めるのはシュークリームを持ったままの彼だ。
「…倫祐?」
 呼び掛けると、視線だけが動く。しかしそれはすぐに手の中のシュークリームに固定された。
「早く食べないと無くなるぞー?」
「君も甘党なら食べとくべきだと思うなぁ」
 諸澄と定一の声が連なる。
 倫祐は何かを言いかけて、思い直したように手を持ち上げた。
 ごくりと、固唾を飲む音が連なる。しかし彼等の期待とは裏腹に、倫祐は外に続く扉に手をかけた。
 滑る勢いで体勢を崩す数名を他所に、退出しながらシュークリームを頬張る彼を義希が追い掛ける。
 外は今日も快晴で、空の光が路地の影を色濃く映していた。
「おいしい…?」
 扉が閉まりきるなり問う義希に、倫祐は背を向けたまま首肯する。
「だよな」
 ははっと笑って、進行を再開する彼に追い付いて、義希はその背中を軽く叩いた。
「おめでと、倫祐」
 隣に来た彼を横目に見据え、倫祐は残りのシュークリームを半分だけ口に入れる。
「パーティー、やりたかったなぁ…ちゃんと準備してたんに」
 その間にも残念そうに項垂れる義希の独り言を聞いて、倫祐の首がかくりと傾いた。
「あれ?もしかして忘れてる?」
 反応を受けて固まった義希は、ポケットから携帯を取り出してカレンダーを表示する。
「ほら。今日、お前の誕生日」
 ぱちりと、倫祐の瞳が瞬いた。
 本当に忘れていたのだと悟った義希は、笑みを強めて倫祐の背をぱしぱし叩く。
「せめて晩飯奢るから。沙梨菜もくれあも来るってさ」
 公務から抜け出せないメンバーも、それぞれ何かを用意している筈だ。義希はそれを脳内での独り言に止め、目の前で了承しない倫祐を操縦しにかかる。
「お返しはそれぞれの誕生日に。それが決まりなんだって」
 唐突な呟きに振り向いた彼は、義希が悪戯に笑うのを見て沢也の顔を思い出した。
「オレ、またあれが食いたいなぁ…豚の角煮」
 誰の入れ知恵かばれているとも知らず、ふわふわ歩く義希を横目に、残りのシュークリームを消費する。
 倫祐は次第に不安げに見上げてくる彼に、時間差で頷いて答えた。
「よし、決まりだな!じゃ、また仕事終わったら駐屯地で」
 晴れ晴れした笑顔でそう言って、義希はまた駐屯地へと戻っていく。
 倫祐は半端に振り向き彼を見送ると、大通りに出て隅を歩き、直ぐ傍の路地に足を踏み入れた。
 数歩先で足を止め、自分の爪先を眺めるように下を向く。
 すると唐突に、指輪から紙袋が飛び出した。自分の考えていることを指輪に提示されたような気になって、小さく息を吐く。
 彼は紙袋をしまい直して、代わりにポケットから取り出した煙草をくわえた。
 ライターに火を灯す。赤が仄かに周囲を照らした。
 ライターを仕舞い、火の付いた煙草を吸い込めば小さな赤が蘇る。
 深く吸い上げた息を煙と共に放出すると、ため息のような音が響いた。
 暗い路地裏から空に昇る白は、直ぐに行方知れずとなって闇に紛れて消えてしまう。
 それと同じように。歩行を再開した倫祐もまた、路地の闇に紛れるようにして前に進む。

 今日は何が起きるのだろう。

 そう思って生活した一日が、何事もなく終了しようとしていた。
 夜の闇は深く、明かりの付いていない廊下を一人で歩くのは少し心細い。
 久しぶりの自室に辿り着いた彼女は、あと二時間程の今日を諦めきれずに、手懸かりを探してみることにした。
 窓から注がれるのは二つの月と星の光。彼女はそれを頼りにテーブルまで足を進める。
 そこに手帳を乗せて、5月のカレンダーを開いた。見覚えの無い星を指先で撫でて、部屋の隅にある細長い本棚に歩みを進める。
 魔術書や地図、小説や医学書の並ぶその前で立ち止まり、見上げた先で気になったのは、お菓子のレシピ本だった。
 数冊あるうちの一冊を手に取った海羽は、なんとなしに頁を捲る。すると、当然のようにシュークリームのページが開かれた。
「あ…」
 理由は直ぐに理解する。付箋が付いていたからだ。

 だけど思い出す事が出来ない。
 何時、付けたんだろう。

 慌てて他の本も開くと、どの本にも。シュークリームのページにだけ、付箋が付けられていた。
 何時も自分が使っている、白い猫型の付箋紙だ。

 瞳が揺らぐ。
 思い出そうと、必死で頭を働かせようとする自分がいた。


 だけど、数秒もしないうちにまた頭が痛くなる。
 目の前がくらくらして、すがる思いでベッドに辿り着いた。

 考えようとすればする程、意識が遠退いていく。


 そうして僕は、夢が消えた世界に落ちた。


 あとはただ、泥のように眠るだけ。






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