Stand Up






 
「子供が人質に取られている」
 民衆課にそんな通報が入ったのが数十分前。
 圓からの報告で詳細が割れたのがつい先程のこと。

 強化剤を飲んだ一人の男が、少女を盾に金銭を要求している。手には刃物。大通りのど真ん中。野次馬は捌けず、交渉もままならない。

 沢也は小さく息を吐き、腕時計を横目に見据えた。
 ライフル、弓。どちらも使えない事はない。しかし町中である以上、最善の策はどう考えても彼を使うことである。
「頼ったらいいじゃん」
「そうは言うがな…」
「頼られない方がショックかもよ?」
「…一理ある」
「でもまだ5分しか休んでないもんね」
「圓に引き伸ばすよう言ってあるが…そう簡単にはいかないだろうしな」
 結との会話はそこで途切れた。
 沢也が短い思案を経て決断すると同時、応接室の扉が開かれる。
「倫…」
 聞いていたのか、それとも元からそのつもりだったのか。いや、居てもたっても居られなくなったのかもしれない。
 出てきた彼は沢也に折り畳んだ紙を預けて、ふわりと外に飛び出した。
 音もなく去った倫祐が残した僅かな余韻が消えると、室内は更に静まり返る。沢也が紙を開いた音が妙に大きく聞こえる程に。
 倫祐らしい短すぎる手紙は、沢也の表情を変えるのに充分な内容を含んでいた。
 彼は新たな問題を調査する為、中空に向けて呼び掛ける。しかし返答はなく、数秒後に気が付いた。
 ハルカがまだ本島で調査中だと言うことに。
「焦ってるの?珍しいね」
「茶化すな」
「ごめん。でも、まずは事件を片付けちゃうのがいいと思うよ?その後の聴取なんて八雲に投げちゃえばいい」
「そうか…そうだな」
 沢也は溜め息を連発しながら机を漁り、探し当てたタバコを一本くわえる。
 火を付けて、煙を吐き。ゆっくりと眼を閉じた。
「大丈夫そうだね」
 研ぎ澄まされていく沢也の意識を感じ取りながら、結が小さく首を傾ける。沢也はそれに微笑を返してパソコンに手をかけた。


 空は青く、雲も疎らに散るだけの穏やかなものだと言うのに。


 それに反して城下町は騒然としていた。
 メインストリートの終着点、城へと向かう丘の入り口に程近いその場所で、緊迫した問答は続けられている。
「いいから早く金を持って来いよ!このガキ殺されたら困るだろう?」
「ですから少し待って下さい。今用意を…」
「お願いします、助けて下さい…娘が、何をしたと言うんですか…!」
「ごちゃごちゃうるせえ!四の五の言わずに動ごきゃいいんだよ!」
 狂ったように叫ぶ男に羽交い締めにされた少女が、声を出すことも出来ずに息を吸い上げた。まだ4つか5つくらいであろう彼女は、宙に足を浮かせたまま苦しそうに涙を浮かべている。
 集まった近衛隊メンバーのうち、圓が交渉役、義希と定一が人質を奪還する為隙をうかがい、帯斗と他のメンバーは野次馬の整理と警戒に当たっていた。
 男の片腕は常に少女を抱えており、逆の手に握られたナイフは時折彼女の首元を離れたが、突撃出来る程の余裕は見られない。
 道のど真ん中でそれを始めた男を、苛立たしげな町人達がぐるりと一周取り囲んでいた。
 野次を飛ばすものあり、心配で目が離せないものあり。場所が場所だけに、人は次から次へと集まってきて払うのは無理に等しい。何故なら路地が四方に伸びているのだから。
「こりゃあ、狙撃するしかないんじゃない?」
「いや、でも…」
「銭くんなら外さないでしょう」
「来るまで待ってくれるかな?」
「問題はそこだねぇ。参謀はまだかかるのかな?」
 定一のぼやきに、義希はチラリと携帯を見やる。滴り落ちた冷や汗がデイスプレイで跳ねた。
 義希にはあの少女にも、母親にも見覚えがある。何を隠そう、倫祐が風船を取ってあげた、あの少女なのだから。
「お願いします…その子はまだ5年も生きていないんです…」
「ならほら、そこのにーちゃんに金を出すように言えよ!無能な母親だなぁ?」
「それなら僕が代わりますから、その子は離してあげてください」
 母親の悲痛な叫びを聞き続けていた圓が、唐突に提案して前に出た。男は乾いた笑いを吐き捨ててナイフを圓に向ける。
「勇敢なこったなぁ!だが、生憎男を抱える趣味はねえ……」
 一瞬の出来事だった。
 空から降りてきた黒が、男の首筋を叩いて言葉を奪う。同時に途切れたであろう意識に合わせて、彼の体は傾いていった。
 力の抜けた腕から少女がこぼれ落ちる。地に到達するよりも早く、彼女はきちんと抱き留められた。
 場が静まり返る。遅れてやってきたドサリと言う音が、義希の時を動かした。
「倫祐…!お前…」
 大丈夫なのか?その言葉は倫祐の腕の中で呆然としていた少女の動きに遮られる。
 驚いたような、安心したような。そんな瞳で倫祐を見上げた彼女が口を開きかけたところで、呼び声がかかった。
 名を呼ばれた少女は、あのときと同じようにして母親に浚われていく。
「ほら、何をしているの…ああ、無事で良かった…」
「でも、お母さん…」
「危ないの!これ以上、怖い目にあいたくないでしょう…?お母さんの言うこと、聞いて頂戴…」
 大切に大切に。抱き締められた少女と、母親の怯えた背中と。目の前で煙草をくわえる倫祐の、使われていない右手の白と。歓声が上がるでもなく、ひそひそ話が始まる周囲の雑音と。未だ斑に、赤黒く染まったままの彼のジャケットと。
 全てを数秒で認識して、瞳を歪めた義希の口から叫びが漏れる。
「危なくなんか…」
 裏返ったその声は、母親に届く前に遮られた。
「倫祐…」
 肩を叩いた彼は、義希が見据えていた方角とは全く逆を向いている。何処と無く緊迫したその空気に引かれて振り向くと、悲鳴に似た波が道の向こうから押し寄せて来た。
 人垣が割れる。
 路地に逃げたうちの数人が、道の真ん中を練り歩く集団が通り過ぎた後で恐る恐る顔を覗かせた。
 残った近衛隊員を威圧で退かして騒ぎの中心に辿り着いた彼等は、状況を把握するなり顔色を変える。
「失敗しやがったな…この馬鹿」
 定一に厳重に縛り上げられる男を見下して、先頭の男が唾を吐いた。彼は続けて身構える義希と倫祐ににやにや笑いを注ぐ。
「俺達、もう後がなくってさぁ…」
「こそこそする必要も無いかと思ってぇ。ほら、此処で暴れられたら困るだろう?ねぇ、近衛隊のみなさーん?」
 後続の男が高々に言うと、続けて笑いが巻き起こった。
 居合わせた町人達は、その異様さに怯えて足がすくんでしまっている。逃げ出すにも彼等が睨みつけるようにして見渡している為、上手く動くことも出来ないようだ。
 20を越える男達の手には一様に武器が握られており、中には飛び道具を持つ者もある。
 先の脅し文句から言って、今度はこの街を人質に国から金を巻き上げるつもりなのだろうが…さて、どうしたものか。
 グズグズしていれば直ぐにでも犠牲が出そうな、緊迫した空気の中。不意に慌ただしい足音と耳慣れた声が聞こえてきた事で、義希の意識がそちらに逸れた。
「海羽さん、いけません。危険です」
「下がっていてください」
 慌てたような秀の声と、独特な足音が路地から響いてくる。対して海羽の声は上から降ってきた。
 義希達がそれを認識するよりも早く、男達の足元に光が満ちる。魔法陣を描いたそれは、ドーム状に硬化して彼等の全てを包み込んだ。
「外からは入れるから、戦える人は…」
 海羽の進言が終わらぬうちに、倫祐がバリアの中に飛び込んで行く。背後の定一がそれを追うのを横目に認め、義希は周囲を見渡した。
「帯斗、避難誘導…」
「任せてください!」
 ガッツポーズで答えた彼に町人を。圓と、遅れてやってきた諸澄に最初の男を託し、義希も先行した二人に続く。
 外からも窺える通り、バリアをすり抜けた先の光景は正に乱闘と言った具合だ。陣に沿って周回しながら倫祐をサポートする定一と、陣の中心で早くも数人を沈めた倫祐と。
 取り敢えず入ったはいいが、何処から手を付けるべきか悩んでいると、背後でバリアの光が滲んだ。
「攻撃魔法は加減が難しいから…補助しか出来ないけど」
「充分」
「百人力だねぇ」
 陣に入った海羽が新たに発動したバリアの内側で、定一がニヤリと口元を歪める。彼は斬りかかってきた二人が突如現れた透明な壁に驚いている隙に、ふわりと彼等の背後に回った。板状の海羽のバリアを横から抜けて、敵と接触した面に手を付いて跳躍する…そんな難しい動きを自然にこなした定一の両手が、男二人の首裏のツボを突く。
「いっそ寝かせちゃうってのは…?」
「ごめん、お薬持ってきてないんだ…」
「そっか。魔法じゃなくて睡眠薬なんか」
 パタリと倒れた二人を見て提案した義希に、海羽が申し訳なさそうに小首を傾げた。
 その間にも四方から斬り付けられる倫祐が、剣やらナイフやら銃弾やらを弾く音が頻りに響いている。
 定一の投げたチャクラムが木製の弓を分断し、ついでにナイフの軌道に侵入しては進行を阻んだ。その隙に剣の柄を一人の首に叩き込んだ倫祐が、傾く男を足場に中空に出る。
 あの長身で、あの長い剣を持っていながら、瞬きする間に敵の武器を落とす彼の動きは実に鮮やかだった。
 痺れた手を押さえる男の首に一撃、合間に僅かに動かした剣で銃弾を弾き、そのまま向かいの男の斬撃を受け、相手の力を利用して投げ飛ばす。
 義希がバリアで囲った銃の男を定一が沈め、無作為にナイフを投げ飛ばす男は海羽の蔦が拘束した。
「海羽、あれ片付いたら寝てるのまとめてぎゅっとしちゃって?」
 一息付いて振り向いた義希の声に答えはない。彼女がじっと見据える先は捉えたもがく男ではなく、流れるように敵を倒す倫祐だった。
 何時バリアが必要になるか、目で追い掛けて待機していると言うよりは、その動きに魅せられているようにも見えて、義希は密かに奥歯を噛み締める。
「えーと、海羽ちゃん、だっけ?ほら、あのおにーさん体勢苦しそうだからそろそろ下ろしたげて?」
 そんな定一の声が飛んできて、ハッとした二人が見上げた先ではぐったりした男が不思議な体勢で吊るされていた。
「ご…ごめんなさい、つい…」
「いやあ、分かるよ。見事な手捌きだもんねぇ」
 海羽が慌てて蔦を収納し、定一が駆け寄って来た頃には事態はすっかり終息する。
「凄い…もう片付いちゃった。バリア、割られなくて良かった…」
「いっさんが注意してくれてたからな」
「まぁ、それくらいはさせて貰わなきゃ悪いかなぁと…」
 海羽の安堵と、義希の激励と、定一の欠伸とが連なった後、当然のように秀の声が聞こえてきた。
 その間にも倫祐の手によって男達が縛られていく。
「あとはやっとくから、君は行きなよ」
「来てくれてまじ助かった!あんがとな」
 両肩をそれぞれに叩かれた海羽は、二人に頭を下げてバリアの外に出た。
 その後中の人間を諸澄、圓が運んできたリヤカーに押し込めるまでバリアを保っていた海羽は、文句たらたらな秀を連れて橋の方へと去っていく。
 21人の男たちは気絶したまま城の牢屋に運ばれて、技術課とマジックアイテム課、それから沢也の手によって鎮静剤が投与され、念のため特別な錠がはめられた。

 彼等の目が醒め、診断し、ある程度薬が抜けない限りは捜査もままならない。
 従って事件の全貌については、追々調査していくとして。


 その翌日。
 手の調子を確かめる為…また、手紙の内容を確認する為に倫祐を呼び寄せた。
 相変わらず首の動きだけで回答を終えた彼はいつもと変わった様子もなく、傍らで見守る結にもその心情を読むことが出来ない程には落ち着いているようだ。
 体調も傷口も問題ないとの答え。手紙の内容に関しては、王座の間で大っぴらに確認できる状況に無かったため、居合わせた有理子と八雲、それから亮にその場を頼んで書庫へ移動しようと言う話になる。
 すると、計ったかのように秀が顔を出し、背後の海羽を王座の間に通した。魔導課から出てきた2人は、倫祐の姿を見つけるなり趣の異なる微笑を浮かべる。
「あの、昨日は…えっと」
 挨拶もままならずに前に出た海羽が、愛想笑いに似た微笑と握った両手を持ち上げては倫祐に言った。
「本当に強いんですね。びっくりしました」
 何処か興奮したようなそれに、彼は当然返答しない。普段ならそれで済むはずの空気が微妙に変化する。
 ほくそ笑む秀を呆れた目で見据え、困惑する海羽に助け船を出したのは沢也だった。
「口下手なんだ」
「あ、そっか…あの、すみません…」
 ぺこりと頭を下げ、また元に直り。今度はしっかりと倫祐を見上げた海羽が、その瞬間動きを止める。
 今度は彼女以外の全員が困惑する番だった。
 彼の顔を、いや。その先にある何かを見据えるようにして、呆然とする彼女の横から有理子が呼びかける。
「…海羽?」
「え?あ、う…ご、ごめんなさい…何だか…凄く…」
 凄く、なんだろう。言葉を切った海羽本人にも先が分からぬ台詞が、部屋の空気を再び変化させた。
 ピクリと身を揺らした秀が前に出るより早く、倫祐が踵を返す。書庫に続く扉を開く彼を追いかけることも出来ぬまま、海羽はオロオロと手を動かした。
「う…怒らせちゃったかな…」
「そんなことないわよ」
「でも…」
「心配ない、少し急ぎの用なんだ。また今度ゆっくり話せばいい」
 書類を掲げて踵を返しながらの沢也のフォローに、海羽はやっと納得して肩を上下させる。
「そっか…引き留めちゃって悪かったな…」
 寂し気な笑顔で呟いて、彼女は背後の秀を振り返る。沢也はそれに曖昧な笑みを返して倫祐の後を追った。


 見張りが付いている。
 殺気はない。
 気配がした後、海羽の居る場所に追い込まれる確率が高い。

 倫祐の手紙に記されていたのはこれが全てだ。
 沢也が倫祐に確認したのは「追跡しなかった理由」「相手が単独か否か」「姿は見たか」「主な遭遇場所」「頻度」「秀も同席している確率」等である。
 答えはどれも簡潔に「殺気がなかったから」「単独、全て同一人物」「見てない」「裏路地(地図にマーキング)」「ここ最近で5回ほど」「0%」と、口答、記述を交えて明確に伝えられた。
 一息付いた沢也は、最後に最大の疑問を提示する。
「何故報告しようと思った?」
 本当に不思議そうに問い掛けてくる沢也を前に、倫祐は瞬きの後目線を逸らして呟いた。
「普通と違ったから」
「つまり、お前が自分で探るよりもこちらで捜査した方が良さそうだと考えている…間違いないか?」
 しっかりと見解を提示すると、彼は小さく首肯する。沢也はそれを確かめて、しかし短く唸りを上げた。
「確かに、あっちの調査対象であろうお前が変な動きをするよりも確実だろうが…お前なら気取られずに探ることくらい訳ないんじゃないのか?」
 いつもならそうするだろう。沢也の瞳はそう語りながらも、心配そうな色を滲ませていた。
 倫祐は困ったように首を掻き、また誤魔化すように視線を流す。
「殺気があれば」
「無いとやりにくいのか?」
 単純な疑問としての問い返しに、倫祐は目を逸らしたまま言いにくそうに呟いた。
「視線が多過ぎる」
 何処か申し訳なさそうな声色に、沢也の目が細くなる。
「町の奴等か…」
 呟くと、倫祐は僅かに首を前に倒した。肯定を受けた沢也が眉間にシワを作って溜め息を付くと、倫祐は彼に向き直りポツリと口にする。
「悪い」
「いや、面倒だと思った訳じゃない。ただ、相手の正体に思うところがあっただけだ」
 言い訳に微量首を傾けた倫祐は、沢也が仕切り直しに漏らした溜め息を追い掛けて窓を見た。
 外は明るく、屋上から落ちる影とのコントラストが酷く眩しい。
「他には何かないか?」
 沢也が短く問いかけた事で、彼の視線が戻ってくる。
「困ったこと」
 補足すると、倫祐は首を横に振った。
「そうか。また報告してえから、近いうちに顔出してくれ」
 頼むように命じた沢也に頷いて、煙草を消した倫祐はゆっくりと仕事へ戻っていく。


 その翌日の深夜。


 顰めっ面で書類を漁る沢也の頭に舞い降りたハルカが、驚く彼を伝ってデスクに降りた。
「海羽を監視してた奴等とは、ちょっと違うみたいだ」
 騒ぎに振り向いた蒼がくすくす笑うのを手で払い、溜め息で落ち着いた沢也は欠伸を浮かべるハルカに先を促す。
「いつもの奴等は無駄にスーツを着てたり、海羽しか見てなかったけど。今度の奴は普段着で、倫祐を監視してたり、海羽の動向を窺ったり、街をフラフラしてたりね。常に張り付いてるってわけじゃないんだ」
 ハルカは蒼が持ってきたミルクの皿を前足で押さえ、何口か舐めてから更に先を繋いだ。
「あとはなんでか、八百屋の店員と話をしているのを見たよ」
 ついでのような一言に、沢也がピクリと反応する。
「…内容は?」
「そこ食い付くんだ?なんだったかな…他愛のない会話だったから…」
 意外そうに身を跳ねさせて、ハルカは虚空に目を泳がせた。
「でも、確かにあの八百屋の辺りも頻繁にウロウロしてたかな…」
 暫く考えた後、会話を思い出す事を諦めては呟かれた結論を聞いて、沢也は蒼を振り向き顔を見合わせる。
「何かあったの?」
「秀の動き、有理子から聞いた話。それから今回の手紙と、お前の報告を聞いて納得した」
 ハルカの瞬きに頷きと前置きを返した沢也が、ペンを回して答えを口にした。
「その監視役は、秀の兄が出した使いだろう」
 ピクリと動いたハルカの耳が、彼が小さな疑問を抱いた事を示す。
「どう言うこと?秀が雇った新しい監視の可能性は?」
「その可能性は限りなく低い。海羽は元からその八百屋と繋がりがあった。そいつが海羽に好意を抱いたのが何時かは分からないが…」
「え。そんな話しあったの?」
「ああ。くれあが二人の会話を聞いたらしいし、その後八百屋から海羽に誘いが来たから間違いはない」
「誘いって?まさかお茶の?」
「ああ。有理子を監視に付けて会わせたが、そこに倫も居合わせたんだと。有理子は偶然だと思ったそうだが、実際は何者かにつけられてその場所に出たと」
「それって…まさか…」
「そう。海羽が記憶を無くしてからの話」
 情報を共有し終えると、ハルカは萎れるようにして俯いてしまった。倫祐の内情を想像したであろう彼が落ち着くのを待って、沢也は憶測の先を繋げる。
「秀の兄が、海羽と八百屋を繋げ、八百屋ごと自分の物にすることで海羽を手に入れようとしているとしたら?」
「…そんなことって」
「金に物を言わせりゃ無理なことはない。秀より可能性も高いしな」
 嫌だと言おうが、金や権力で脅して養子にしてしまえばそれでおしまい。貴族と言うのは基本的にそんな輩である。
 ハルカが否定できずに唸ったところに沢也の溜め息が落ちた。
「ついでに倫を潰しちまおうと、あの二人がつるんでる場所に誘導していた。そう考えれば辻褄は合う」
 実際今のところ、他に倫祐に執着している勢力はない。この短期間で倫祐と海羽、二人の実情を綿密に調べあげるのは不可能だろうし、貴族が貴重な情報を他人に売り渡す可能性も低い。
 つまりは、常に海羽に張り付いている秀から情報を引き出せる立場の者が、秀の預かり知らぬところで動いていると考えるのが妥当だろう。
「秀が薬を盛ったこと、本来なら本家が許す筈がない。どう考えてもリスクしかないからだ。だが、裏で兄がそんな計画を立ち上げていたとするならば。秀の行動がファインプレイにも成りうる」
「だからお咎めもなくうろついてるってこと…?」
「そう。確実に失敗したと見なされない限りは」
 失敗しても秀のせい、成功すれば万々歳。薬の事はイレギュラーだったにしろ、何とも言えぬ腹黒さを感じた。
 沢也が傍らに佇む蒼に目配せを送ると、不意に彼の背後の扉が開かれる。
「それなら尚更、彼は彼女を諦めるべきじゃない」
 風と共に訪れたのは烏羽の声だった。背後には魔法で扉を開いたであろう桃と、俯き気味の翡翠も控えている。
「納得いかないそうでな」
 突然の割り込みに瞬いた沢也に、烏羽が翡翠と桃を前に押し出して肩を竦めた。
「無理に思い出させたらだめなのは分かってる。だけど、あの態度は見過ごせない」
「倫祐さんを見た海羽さんが、あのまま何かに気付いたのなら…いえ、その前にあの忌々しい男が止めに入ったかもしれません。ですが、それよりも早く踵を返す必要がありますでしょうか?顔を会わせるのも辛いと言うことですの?そんなへたれた行為を見てみぬふりなど出来ません…」
 二人の熱い訴えに、誰の行為かを悟ったハルカが猫なりの苦笑いを漏らす。
「酷い言われようだね…」
「まあ、気持ちは分からんでもない。あいつの考えは読みにくいからな」
 肩を竦めてフォローする沢也に三つの訝しげな眼差しが向いた。その中で烏羽がいち早く言葉を発する。
「では、あなたはどう考える?」
「残念ながら俺にも明確な理由までは分からない。だがお前等と違って、追求する程の事ではないと踏んでいる」
 顔を見合わせた妖精達を見て、さてどう説明するべきかと沢也が頭を働かせるよりも前に、烏羽の瞳が彼を捉えた。
「知りたくはないか?」
「ん?」
「彼の心情を」
 続けて短く呟いた烏羽が首を回す。沢也はその仕草だけで彼の意図を悟った。
「翡翠か…」
 頷いた当人は「物に残った記憶」を読む個性がある。確かに、現状倫祐の内情を知っておいても損はないだろうが…と、短く思案する沢也の顔を烏羽が覗き込んだ。
「後ろめたいのは分かるが。そうも言っていられまい」
「分かった。だが、本人の承諾を取る。どのみち拒否はしないだろう」
 出された条件に硬直した妖精達を他所に、目配せを受けたハルカが裏の世界に消えていく。
 沢也と蒼がコーヒーや紅茶、ハチミツジュースを用意する間、そわそわを隠せぬまま待機していた妖精達が、数分を経て戻ってきたハルカを凝視した。
「頼むって」
「やっぱりな」
「倫祐くんらしいですね」
 回答を受けて当然のように苦笑した二人を、下から呆然と見据えていた三人に、ハルカがふわりと尻尾を揺らして補足する。
「それで君達が安心できるなら構わない、って意味だよ」
 実際にそう言った訳じゃないけどね。更に小声で付け足したハルカが、沢也伝に渡されたメモを翡翠に託す。
 それは監視の事が記された、あの短い手紙だった。
 妖精の部屋から透視していた翡翠が、先程そのメモを指定したのである。
 目の前に置かれた紙を見下ろして、誰に合図するでもなく、翡翠は恐る恐る右手を伸ばした。

 指先が触れる。
 目を瞑ると、指を水に浸したような感触が訪れた。
 次第に体全体が水に呑まれ、同時に記憶が流れ込んでくる。
 この感覚は何度体験しても苦手だと思いながら。
 波に逆らうように意識を固定して、真っ直ぐに向かい合う。

 倫祐の記憶と。彼があの時抱いていた想いと。

 それはとても、断片的なものだった。
 それはとても、淡々としたものだった。
 それはとても、強い意思だった。



「分かっていたことなのに」

「俺には無理だと」



「愉しそうに笑っていたから」

「このまま忘れてさえいれば」



「彼と一緒に居れば」

「彼女は幸せになれる」



 それは自分を納得させるかのように。
 まるで事実を並べ連ねて、証拠として提示するかのように。
 彼はそれに納得しながら、その裏側で別の感情を圧し殺していた。



「本当は忘れて欲しくなんかない」



 強く流れたその声は、一瞬にして別の想いに掻き消される。


「幸せでいてほしい」



 その為には忘れていてくれたほうが都合が良いから、と。また説得するような言葉が響いた。
 しかし反発は止まらない。




「また逃げるのか?」

「傷付いて欲しくない」

「忘れなければ」

「傷付けるのが怖いのか?」

「離れなければ」

「傍に居すぎた」

「本当は傷付きたくないだけだろう?」




 自問自答が続く。
 彼女の為なのか、自分が楽になるための逃避なのか。
 それは、ただ記憶を覗いているだけの彼にも分からなかった。
 記憶の持ち主である彼の中でも答えは出ずに。
 しかし、それとは関係のないところから、また強い感情が押し寄せる。


「このままで居るわけにはいかない」


 それは、折れてしまった自分の心を立て直す言葉。
 全てが押し込められていく。それくらい無理矢理に流れが変えられた。


「立ち上がらないと」


「せめて、自分の足で立っていないと」


 それは彼の周りに居る全ての人への想いなのだと。
 伝わりすぎた感謝の念が、翡翠の意識を現実へと引き戻す。


「返すものを、探すために」


 それを最後に、記憶はふつりと途切れた。


 真っ白な世界が歪んでいく。


 その過程ではたりと、涙が落ちた。
 あの流れの中に居るのが余りにも苦しすぎたから。
 それほど強烈なジレンマがそこにあったことを、それを伝えるのが自分の役目だと分かっている筈なのに、上手く口が開かない。
 自分の口から言葉が出ていかないのはいつもの事だ。だからこそ、余計に彼に共鳴してしまう気持ちが、音もなく瞳から溢れ出る。
「翡翠…」
「馬鹿だよ」
 桃の心配そうな声に、思わずこぼれ落ちた悪態を殺すことも出来ずに彼は続けた。
「あの人は、ネガティブで、鈍感で、物凄い馬鹿だ」
 悔しそうに、苦しそうに。全てを押し込めるようなその声を聞いて、烏羽からフォローが入る。
「しかし、海羽が彼を好いた理由はよく分かった。そんな顔だな…」
 涙を受け止めた眼鏡をはずし、服で拭う翡翠の顔がみるみるうちに俯いていった。
 彼はそのまま見てきた事を語る。
 今度は皮肉もなく、思ったままを言葉にした。
 すると、すっかり黙りこんでしまった烏羽と桃の向こう側で、沢也が珍しく暖かい笑顔を見せる。
「ブレないな…あいつは」
「僕達が難しく考えてしまっているだけで、倫祐くんの思考回路はいつも変わらずシンプルなんですね」
 蒼もまた、複雑な笑顔を柔らかく変化させた。
 二人の間で瞳を細めたハルカが、呆れたように尻尾を揺らす。
「あいつの中ではどんな時でも周りの人間が優先される。自分のことは何時だって後回しだ」
「それで周りの人間が…君達が傷付く事が分かっていても?」
「だからこそ無理にでも立ち上がった」
 烏羽の声に翡翠が反応した。直接声を聞いてきた彼が言うのだ。その見解に間違いはないだろう。
「忘れてしまうのですか?……諦めて、しまうのですか?」
 桃が辛そうに声を絞り出した。泣き出しそうなそれを聞いて、ハルカは彼女を明るく慰める。
「平気だよ。そう簡単に忘れられる想いなら、とっくの昔に消えてる筈だから」
「海羽もまた、それと同じ」
 沢也の口端が自然と持ち上がった。妖精三人の掌がぎゅっと丸くなる。
 固く頷いた彼等を安心したように笑い、蒼は翡翠の前から手紙を回収した。
「また心配になったら何時でも来てください。僕達も、その方が…」
 ぶれませんから。
 言葉尻に小さくそう言ったような気がして、烏羽は小さく微笑んだ。






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