breakdown








 それはまるで、真っ直ぐな道を無意識に進んでいる時の感覚に似ていると、彼は思う。
 安定した歩行が続けば意識が「歩く」事から削がれ、勝手に別の場所へと移動して行く。まるで、歩行をオートに切り替えたかのように。


 右足と左足が交互に動く。
 例え深い自覚がなくとも、歩く為にはそうする他ないのだから。
 正面を向いた瞳が映し出すのは訝しげな顔ばかり。何時もと変わらぬ日常だ。
 そう。何も変わらない。変わってなどいない。
 だから何も問題ない。心配する必要なんて何処にもない。
 みんなは何時ものように、笑って過ごしてくれたらそれでいいのに。
 彼は考える。
 歩きながら、前を見据えたまま、何の感情も表に出さずに。
 未だ噂が絶えぬせいで、先を歩く人々は揃って彼を避けていった。
「感情がないらしいよ?」
「壊れても直ぐに直るとか」
「油で動くの?…え、煙?」
「気に入らなければ直ぐに殺すんだって」
「近付くと危なくない?」
「なんであんな兵器を野放しにしてるんだ?」
「そう思うなら文句言えよ」
「言ったさ。民衆課伝に苦情を出した」
「今のところ被害はないからって?」
「そう。被害があってからじゃ遅いだろうに」
「機械に警備をさせるとか…」
「関わらないようにしなきゃ」
「目を合わせるな」
「見ちゃいけません」
「ロボットが道の真ん中歩くなよ…」
 街を歩けば、やたらと声が耳に入ってくる。以前は自然と遮断できていたそれは、ストレートに頭に侵入して記憶として蓄積されていった。
 倫祐は視線の合間をすり抜けながら、民衆課や沢也にそんなに迷惑をかけているのか、と。今更ながらに思い直し、音もなく裏路地に入った。
 それでも声は止まらない。
 何処に居ても不思議と聞こえてくるそれは、慣れたと思っていた物とは少し違うように感じた。
 恐らく…自分が変わってしまったせいで。
 参ったな。
 彼は短く考えて、また歩を進める。
 こうなってしまったからと言って、自分には何も出来ることがないのだ。少なからず自分にも関係がある事なのに、他人任せになってしまっている申し訳ない現状。
 せめて心配をかけないように、迷惑にならないように、仕事だけでも頑張らなければ。
 薄暗い路地で考えを再確認した倫祐は、通りの見える場所に来たところでおかしな気配を察知する。
 ここ数年、訝しげな視線を無数に受けてきた彼ではあるが、それとは微妙に趣が異なった。
 念のため、もう一つ奥の路地に入って様子を見る。
 中央通りから南通りに通じる入り組んだ道を歩いてみるも、一定以上近付く事もなく付いてくるだけで変化はない。
 ただ一つ。何処かに追い込まれているような感覚はあったが、その先は南通りに抜けるだけの普通の路地だ。
 倫祐がそのまま通りに出ると、気配ははたと消え失せる。
 暫く考えてみたが、殺意もない気配を執拗に追う意味を見出だせず、彼はまた歩みを進めた。
 数分すると、今度は前方から知った気配を感じる。
 何時もならば避けていただろうが、今となってはそれも無意味だ。倫祐は無意識の躊躇いを、周囲から注がれる噂話に掻き消され、遅れた歩調を取り戻す。
 それに連れて明るい会話が聞こえてきた。

 南通りの八百屋の前で、海羽が野菜とにらめっこをしている。
 奥から空の段ボールを携え出てきた店員が、それを脇に置いて彼女に声をかけた。
「こんにちは!今日は何をお探しですか?」
 声からして笑顔だろう、八百屋の青年の爽やかな挨拶が青空に昇る。
「えと…今月ちょっとお城が金欠気味で…」
「それなら安く入ったキャベツ、お勧めですよ!」
「わ。本当だ…」
 さっと示された綺麗な若草色のキャベツ達は、どれも大振りながら安値の札が付いていた。
 驚きの声と共に目を丸くする海羽に、青年は人懐っこい笑みを強めて解説を続ける。
「今年は沢山取れたみたいでね?冷所で雪の下に寝かせて置いたものだから、甘くて美味しいですよ」
「そっか…雪の下に…」
 雪の下に。
 響きが終わるか終わらないかのうち、何かを考えるように。呟きも半端に固まってしまった海羽の手に触れて、青年は心配そうに小首を傾げた。明るい茶の短髪が微かに揺れる。
「…どうしました?」
「あ、いえ…じゃあ、これと…あとは…」
 ハッとして指でキャベツを示した海羽は、短く思案して注文を繋げた。
「ニンジンとジャガイモと玉ねぎを」
「ポトフですか?」
「凄い、正解です」
「そりゃいいですね。ご相伴に預かりたいくらいだ」
 言いながら伝票を切り、配達の約束を取り付けて、彼は彼女に手を伸ばす。海羽がその手から伝票を受け取る手前、青年が息を吸い上げた。
「今度、何処かに遊びに行きませんか?」
「え?」
 唐突な誘いに面食らった海羽が瞬きを繰り返すと、青年は慌てて言い訳る。
「いえ、あの、実は来週まるまる非番でして…良かったらお茶でもと…」
「あの、その…僕でいいんですか?」
「はい!お暇でしたら、是非…」
 勢い余って握ってしまった手に伝票を握らせて、青年は赤くした頬を掻いた。
 海羽は、ついでのように電話番号が記されたそれをポケットに仕舞い、浅く短く頭を下げる。
「分かりました。また連絡します」
「!本当ですか?良かった、楽しみにしてますね」
 愉しげな笑い声が響く。
 街道に、空気中に、彼の頭の中に。
 倫祐は、いつものように無表情で八百屋の前を通り過ぎる。
 右足と左足を交互に前に出して。



 夕刻。
 今日はメイドさん達が揃ってロビーの月一大清掃に駆り出されている為、厨房は酷く静かだ。
 居残りメンバーや希望者の夕食も、こういった日は海羽が一人で請け負う事になっている。その手伝いとして有理子と乙葉も厨房に出向いていた。
 そうして三人で夕食の支度をしていると、海羽が思い出したように有理子に問いかける。
「あのな、この日って…少し出掛けてもいいかな?」
 入り口付近にかけられたカレンダーのうち一マスを指して、小麦粉を抱え直す彼女に有理子の瞬きが注がれた。
「いいけど、どうしたの?何か大きな買い物でもするのかしら」
「ううん。八百屋の店員さんにね、お茶に誘われたから…」
 よっこいしょ、と。大きな袋を台に乗せて、カップで掬った粉を計量する海羽の表情は嬉しそうでも困ったようでもない。しかし嫌ではないのだろうと言うことは見てとれた。
 有理子は間を不思議に思った海羽が顔を上げると同時に小首を傾げる。
「八百屋の?」
「うん」
「仲が良いって噂の?」
「へ?噂のなのか?」
「くれあに聞いたのよ。お花見の日に」
「そっか…お花見の…」
 そう呟くなり次第に考え込むように固まってしまった海羽を見て、有理子はピクリと肩を揺らした。沢也の言葉が脳裏を過り、慌てて話を元に戻す。
「えと……二人で行くの?」
「?うん、多分な」
「そう。でもね、あなた、それがどう言う意味か分かってる?」
「どう言う…?」
 海羽が首を傾けると、タイミング悪くポトフの鍋が蒸気を上げた。
 中断された会話をそのままに味を見た彼女は、ミルを手に取り振り掛ける。しかし。
「あれ、胡椒が切れてる…ちょっと探してくるな?」
 回しても回しても出てこないそれを置き去りに、海羽は戸棚に乗せられていた空ビンを持って倉庫に駆けて行った。
 残された二人は粉の足りないパン生地をネバネバしながら、その背中を見送って瞬きを繰り返す。
「あれも症状の一つでしょうか?」
「ごめんね、あれは元からなのよ。ちょっと鈍いところがあって…」
 適当に手からタネを振り落とした有理子が、秤に乗ったままの小麦粉を救出して運んできた。その間に思い立ったのか、渋い顔を振り向かせて彼女は呟く。
「だけど、どうなのかしら…」
 それぞれの生地に粉をふりかけ、もう一度捏ねながら天井を見上げる有理子の口から、独り言のような疑問が溢れた。
「好きな人のことを忘れてしまったってことは…恋と言う感情そのものも、覚えていないのかしら…?」
「それとも、また別の人を好きになるか…」
 半端に切った言葉を同じく天井に上げた乙葉が、有理子の動揺を察したかのように首を回す。
「聞いてきましょうか?」
「え?」
「沢也くんでしょう?」
「こんな数日でそこまでバレちゃうとは、恐れ入りました」
 どちらかと言えば心配そうな、しかし鋭いフォローにたじたじになりながら、有理子は降参したように言った。
「お願いできる?」
「お任せください」
 快諾して肩を竦め、乙葉は手早く纏めたパン生地を置いて手を洗い。海羽が戻るよりも早くに王座の間へと出向いて行った。

 そうして乙葉が聞いてきた沢也の見解も交えつつ話し合ったところ、念のため有理子もこっそり付いていくと言う条件付きで送り出す事になる。
 何故なら当日が水曜日なせいで断らせるのに正当な理由もなく、無理に止めた方が不自然だとの意見が有力だったから。
 恋心云々に付いては、今はまだ相手側からの好意が透けて見える程度なので、特別重要視されなかったのだ。

 それでも心配で心配で仕方のない有理子は、「何かあったときの為に」と目深に帽子を被って、更には沢也の伊達眼鏡まで借りて。当日二人が落ち合ったオープンカフェまで付いて行っては、一人ひっそりとコーヒーを啜る。
 噂の八百屋の青年はくれあの報告通り好青年で、こんな事情がなくともなんとなく心配になってしまう程度には、海羽も楽しげに笑っていた。
 会話は途切れる事もなく、野菜の話から料理の話、時に天候や政治の話も交えながら、最後には身の上話や仕事場で起きた面白い話等に流れていく。
 有理子は背中越しにそれを聞きながら、複雑な気持ちになった。
 確かに倫祐とは、こんな風に会話をすることも叶わない。例え思い出したとしても、お互い隣に居るだけで精一杯に見えた。
 だけど、それでも海羽には倫祐が必要だ。彼女がどれだけの思いを抱えていたか、有理子も身に染みて分かっているのだから。
 倫祐とお昼を食べに出掛けたあの日、帰ってきた海羽の嬉しそうな顔は、今でもよく覚えている。楽しかった、と笑顔で報告してくれて、思わずこちらまで嬉しくなったくらいだ。
 今海羽は、それと同じくらい笑えているだろうか?
 内心否定しながらも思い立って、密かに振り向き確認しようとした有理子の目に黒い影が映る。路地の影に隠れるようにして佇んでいた彼が、彼女の視線に気付いて足を動かした。
 有理子は慌てて席を立って彼を追い掛ける。
 恐らく気配で察したのだろう。路地の途中で立ち止まっていた彼が、ゆっくりと有理子を振り向いた。
「…倫祐」
 呼び掛けに、彼は首を傾けて答える。どうしたんだ、と言われているような気がして、それでも言い訳を止められずに有理子は身を乗り出した。
「あれは、違うのよ…海羽は、ただ…」
「知ってる」
 言葉を遮った久々に聞いた響きに、有理子は思わず硬直する。そうしているうちに、理解した内容にハッとして手を伸ばした。
「知ってるって…なに、を…?」
 問いかけも、掌も、当たり前のように空を切る。
「倫祐!」
 踵を返した彼を追い掛けた声は、辛うじて届いたようだ。
 倫祐は体半分振り向いて、しっかりと有理子の瞳に答える。
「大丈夫」
「え?」
「これで、もう…」
 何も心配ないから。
 続く言葉は囁くように。しかし有理子には、確かにそう聞こえたように思えた。
 この良い日和にも薄暗い裏路地の奥、闇に隠れて見えなくなるまで倫祐の背中を見据えていた彼女は、背後で海羽達が移動するのに気が付いて路地を出る。

 背中で彼女達の気配を追っていた彼もまた、それを切欠に意識を別のところへと飛ばした。
 足が勝手に歩く。
 同時に頭が、何も考えなくなった。
 ただ周囲の音だけがよく聞こえる。
「良い天気だこと」
「明日も晴れるといいね」
「ああ、なんて日だ。財布を忘れるだなんて」
「ねえ、お母さん。あれ買ってよぅ」
「駄目ですよ。わがままばかり言っていると、あのロボットが…」
「うわ、こんないい日に最悪なものを見た」
「知ってる?あの店美味しいんだってさ」
「展望台行こうよ。イルカが見えるかもしれないんだって」
「ひっ…どうしてこんなところを」
「安いよ安いよー!卵が安いよー、大特価だよー」
「ちょっと鑑定所寄らなきゃなんないんだよねー」
「あ、見てよあれ。今噂のさ…」
「おーい、これ発注間違えただろ?」
「梅雨になる前に資材を確保しないと」
「ねえねえ、いい加減休憩しないー?足が棒なんだけど」
「ばぁさんや、飯はまだかね」
「こら、目を合わせちゃ駄目よ?」
「あはは、ロボットだってー!すっげーや!」
「次何処だっけ?」
「今日のお昼は何を食べましょうか?」
「あ、ほらあれ…」

「……」


「………」



「……………」



「バリン」


 ガラスが割れる音がする。


 自分が何をしていたのかを思い出したのは、砕けたグラスを目にした数秒後の事だった。
 自分の部屋。小さな台所。泡だらけの手。水が流れている。
 倫祐は小さく息を付き、久々に目にした景色をぼんやりと見渡しては、指輪からビニール袋を取り出した。
 そうしてシンクに散らばった透明の欠片を拾い集めるうちに、また別の所に意識が飛んでいく。
 少し前から無駄に周りの声が耳に聞こえていたのは、無意識的に意識が飛んでいかないようにする為だったのだと悟ったのは、指先がガラスに刻まれた時だった。
 痛みはない。同時に、血も流れなかった。
 傷口はハッキリ見えている。
 これなら大丈夫な訳だと、頭の中で声がした。
 彼はそれに頷いて片付け作業に戻る。
 キラキラと輝く硝子の粒子は美しく、しかし何時しか水に飲まれて見分けが付かなくなった。


 光っているのは空だった。
 しかし自分は暗く淀んだ場所にいた。
 だけど大丈夫だ。
 俺には感情がないから。
 誰にも気付かれずに済む。
 誰にも心配をかけずに済む。



 指先に冷たい感触が伝わった。
 気付けば駐屯地の入り口であるドアのノブに触れている。
 そのまま開いた先で見えた時計は、丁度出勤時間の5分前を示していた。
 何時ものようにタイムカードに伸ばした彼の腕を、後ろから義希が掴み上げる。
「倫祐…!おま、どうした?それどっから…」
 慌てたような声が響いた。振り向けば、居合わせた隊員達も驚いた顔で彼を見ている。
 倫祐は瞬いて義希を見下ろし、小さく首を傾げて応えた。
「血まみれだぞ?ほら!ここ…」
 示された箇所に倫祐の目線が行く。座っていた帯斗と諸澄が順に立ち上がり、綺麗なタオルと雑巾を持ち出した。
「痛くないんすか?」
「床汚すなよめんどくせえなぁ…」
 義希が帯斗からタオルを受け取り、諸澄が足元に滴る血を拭う。
 義希がそっと傷口に当てた白いタオルは、みるみるうちに赤く染まっていった。
 それでも反応を示さない本人は、義希の仕草をただただ不思議そうに眺めている。
「…倫祐…?」
 流石に違和感を覚えた義希の問い掛けに、彼はまた首を傾けた。
「あれー?故障っすかー?」
「……やめろよ」
 途中、入室した隊員の茶々を咄嗟に制した義希は、ハッとして左手を立て謝罪する。その間倫祐が彼の右手を掴み、何かを確認するように回転させた。
 上を向いた面には血が付着している。それを確認した倫祐は、諸澄の持つ雑巾や床の色も順に見渡し始めた。
「お前から出てるんだ。何したんだ?」
 義希が倫祐の手を持ち上げて傷口を示す。彼はそれを見て一度だけ瞬きをすると、また呆然としたように固まってしまった。
 みんながみんな、不思議なものでも見るかのように倫祐を眺める。
 倫祐もまた、不思議なものでも見るかのように、自分の掌を見据えていた。
 義希はその空気に耐えかねて倫祐の腕を引く。
「沢也んとこ行こう」
 彼がそう言ったと同時、全員の携帯が一斉に音を立てた。
「指令だ」
「噂の大臣様からっすね」
 メールを読んだ隊員達が口々に呟きながら立ち上がる様子を見て、義希は困惑する。
「隊長…」
「オレは…」
 帯斗の呼び掛けに首を振りかけた彼の肩に、倫祐の左手が軽く乗せられた。振り向いた義希ときちんと目を合わせ、彼は言う。
「大丈夫」
「でも!」
 食い下がる義希の手からタオルを受け取って、傷口に被せた倫祐はただ小さく頷いた。
 有無を言わせぬ雰囲気に、肩の力を抜いた義希は、震える声で了承する。
「…分かった。沢也に、メールしとくから」
 赤く染まった部分を指差して、泣き出しそうな顔で見上げた彼の眼光が貫くように倫祐を捉えた。
「ちゃんと行けよ?倫祐!」
 懇願にも似た命令に躊躇いがちに頷いた彼は、駆けていく義希を見送りながら新しいタオルを探しにかかる。
 背中でその気配を感じながら外に出た義希を待っていたのは、ぼんやりと空を仰ぐ定一の背中だった。
「…何か、あったのかい?」
 隣に並んだ辺りで静かに問う彼に、義希は上手く答えることも出来ずに。
「君は隠し事が苦手だね」
「ごめん、いっさん…」
 溢れ出す涙を必死に拭う彼の背を軽く叩きながら、定一は殊更小さく頷いた。
「分かってるつもりだ。僕も好奇心はしまっておくから、君は涙をしまいなよ」
 囁くような促しを受け、義希は乱れた息を吸い上げて深呼吸する。ついでに両腕で目を擦って空を見上げた。
 憎たらしい程綺麗な青が、辺りを明るく照らし出す。義希はその光の当たる場所に向けて、携帯片手に急ぎ気味に足を進めた。


 義希からの電話を受けた沢也が、全てを聞き終えて小さく息を吐く。
 王座の間には彼の他に誰もいない。蒼も有理子も階下で会議中。乙葉が椿の部屋から出てくることは無いだろうし、海羽は秀と城下町に出掛けてからそう時間も経っていない。
 沢也は全てを一旦放り投げて天井を仰いだ。そして長く細い息を上げる。
 隣で感情を読み取った結が複雑そうに笑顔を歪めるのを見て、彼は曖昧に肩を竦めて誤魔化した。
 そのまま黙々と救急箱やら水やらを準備していると、数分後に音もなく大扉が開かれる。
 沢也はやはり黙って倫祐を手招きし、長テーブルの中央付近で傷の手当てを始めた。
 右掌の小指側、縦に綺麗に入った切り込みは意外と深く、出血が酷かったであろうことが窺える。
 その証拠に、傷口を押さえていたタオルだけでなく、倫祐の上着やボトムスまでもが血に濡れていた。
「お前には、これがどう見えてるんだ?」
 手早く処理を施しながら、沢也は素朴な疑問を口にする。すると倫祐は俯き気味に小さく言った。
「ごめん」
「謝る必要はない。ただ、教えてくれないか?」
 静かに問いかけを続ける沢也に、倫祐は煙草を取り出して首を傾ける。沢也が許可のため首肯すると、彼は片手で煙草をくわえて焦り気味に火をつけた。
 深く深く、吸い込んだ煙を天井に昇らせる。上を見上げたその瞳は、何時もと変わらぬ無表情だった。
 沢也は消毒の後、麻酔もなく傷口の縫合を始める。縫いながら、倫祐が落ち着いたのを横目に見届けて回答を促した。
「血は、見えないんだろう?」
 問うと、彼は躊躇いがちに首を倒す。前に傾いたそれを見て、沢也は続けて口を開いた。
「なら…」
「コード」
 ポツリと、倫祐は答える。
 思わず固まった沢也の指先に向けて、彼はしっかりと言い直した。
「コードが見えた」
 単調な呟きが場に落ちる。それは沢也の表情を簡単に奪っていった。
「…倫」
「今は、うっすら」
 呼び掛けに答えるように。
「血も、コードも」
 途切れ途切れに言い分けた倫祐は、煙草の煙を横へと流す。
 沢也は細くゆっくりと吐き出された煙を目で追ってから、傷口に向き直り無理に苦笑した。
「俺の言葉は信じられないか?」
「分からない」
 目を伏せて即答した倫祐は、もう一度煙草を呑んだ後、やっと沢也に目線を合わせる。
「俺が俺を信じられないから」
 真正面から答えを聞いた沢也は、短く硬直して考えを纏め上げた。
 人の言葉を信じるには、まず自分の記憶を信じなければならない。もし本当に彼がロボットだったなら、記憶なんて簡単に捏造できてしまう。自分を信じられないとは、そう言う事だ。
 自分は大丈夫だと、彼は信じて止まなかった。周りにそう答えていた事からしても、それは本心だったのだろう。しかしその矢先、何かの切欠で一度でも疑いを持ってしまったのならば、どう立て直していいか分からなくなってくる。
 倫祐は今、そんな状況下に居るのだろう。
「それなら簡単だ」
 沢也は笑う。今度は無理もなく、何時ものように不器用に。
 倫祐は彼を見据えて一つ瞬いた。
 彼は恐らく、自分が本当にロボットだなんて思っていない。一時的に混乱しているだけなら。
「俺を信じろ」
 ため息のようにそう言って、沢也は横に視線を流す。
「勿論、俺じゃなくてもいい。義希でも、蒼でも。小太郎だって構わない。お前が信じたいと思った言葉だけを信じたらいい」
 手を動かしながらもう一度ため息を付いて。沢也は俯いた先に言葉を落とした。
「何が本当でも、何が嘘でもいい」
 そうして顔を上げて倫祐に向き直った彼は、意地悪な笑みを伴い断言する。
「お前はロボットではない」
 ぶつかった視線は揺らぐことはない。それでも沢也は満足そうに肩を竦めた。
「そんな技術、機械馬鹿の仁平でも持ってねえよ」
 嘲笑染みた呟きが倫祐の手に注がれる。そろそろ縫い終わるかと言うその一針で、彼の手が微かに震えた。
「痛むか?」
 問うと、倫祐は驚いたように自分の手を見据えている。とは言え無表情なので、何処まで痛いのかまでは分からない。
 沢也が最後の仕上げを丁寧に施すと、彼は指先を小さく動かしては短く言った。
「…悪い」
 こんなつもりではなかったと、そう言ったように聞こえた沢也は、器具を置いて倫祐と向き直る。
 ショックでない筈がない。
 それはそう、自分でもどうにもできない程。
 忘れていた痛みすら思い出す程に。
「馬鹿」
 謝るのはこっちの方だとでも言おうものなら、倫祐はきっと反論するだろうから。沢也はそれを押し込めて鼻で笑って見せた。
「人に気を使ってる場合かよ」
 軽い口調に顔を上げた倫祐は、それでも不服そうな眼差しを注いでくる。立ち上がった沢也は頑固な彼の頭に手を置いて命令した。
「取りあえず、暫くは安静だ」
 せめて糸と傷口が馴染むまでは動かさずに居て欲しいのだが、こうなった倫祐がこの状況で大人しくしているとも思えない。現に瞳を細めて圧力をかけてくるのだから困り者だ。
「心配しなくても、ヤバくなったらこきつかってやるよ」
 だから応接室で休んでろ、と指先で指示すると、彼は渋々頷いて腰を上げる。
「そう急がずとも…借りの返却なら何時でも構わないのに。…って感じ?」
 苦笑した沢也の内心を代弁した結が、心配そうに小首を傾げた。沢也はそれに頷いて状況確認に移る。
「急がずとも…構わないんだがな…」
 圓からの報告メールを読んだ彼は、曇らせた表情をそのまま応接室に注いだ。
「そうは問屋が下ろさない、って感じみたいだね?」
「残念ながら、そのようだ」
 呟きながらもメールの返信に出た沢也は、出来るだけ時間を稼ぐために頭を働かせる。
 傷口の事もそうだが。出来るならもう少し、休む時間が必要だと思ったから。
 混乱が少しでも解ければ、彼はまた動き出す。
 無理をしてでも。
 自分が出来ることを探して。
「だけど、今はそれでもいいんじゃないかな?」
「それで気が晴れるなら、な」
 沢也は珍しく沈んだ調子で呟いて、ため息と共にメールを送信した。








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