根比べ







 大気が混ざる。
 透明な隔たりの向こう側で。

 王座の間から眺めても良く分かるほどの風を横目に、蒼が小さく息を吐いた。
 空を混ぜながら城の裏手に着陸した飛竜には、何時ものメンバーにプラスして乙葉が乗っている。
 リーダーは相変わらず元アジトに腰を据えている為、今日のボディーガード役は門松と大地だ。
 王座を挟んで反対側にある窓でそれを確認した沢也は、下方で手を振る姉二人に適当に手を振り返し、溜め息を付いてから問い掛ける。
「どうする?」
「どうもこうも、こちらにはまだまだ時間がありますから」
 窓の向こうに手を振りながらそう言って、蒼はやっと沢也を振り向いた。
「きちんと説明して、協力して頂くのが良いかと」
「まあ確かに、その程度でごねるようには見えなかったが…」
 ネクタイを直して呟く沢也に、蒼のクスクス笑いが返される。
 迎えに出向いた有理子が乙葉と接触するのを横目に見据えつつ、沢也は手元の書類を捲った。
 現在海羽の異変を知るのは、城に出入りしているメンバーだけだ。勿論あのお喋りな門松には口外しないよう、姉二人及び大地は言いくるめてある。正直なところ、今後どうなるか分からぬこの状況で、どこまで話を広げるべきかを計りかねていると言ってもいい。
 秀以外の貴族達にまでこの噂が伝われば、それこそ面倒な事になりかねないからだ。どうにかして海羽を手に入れようと、また違う薬を盛られでもしたら堪らない。
 細心の注意を払うのは大前提としてだ。しかし体調が戻ってきている現状、海羽を扉の向こう側へ閉じ込めておく口実も見当たらず。更には海羽の性格からして、仕事や秀を放置して自分だけ休んでいる事など出来ないだろうから。
 全く別の仕事の書類を読みながら考えを纏めた沢也が、溜め息と共に椅子を引く。
 長テーブルにはまだ寝足りなさそうな義希と小太郎、沙梨菜がうとうととコーンスープを啜っていた。何を隠そう、まだ朝の6時を回っていないのだから当然と言えば当然だろうか。三人とも沢也と蒼の会話など耳に入っていないようで、更には焦点も合っていない。
 沢也がそんな三人に呆れた表情を注ぎ、開いたメールフォルダーの新着を片っ端から読み進める間に、大扉の向こうに動きがあった。
 足音を聞き付けた蒼が淹れたての紅茶を手に長テーブルに向かう途中、有理子が静かに扉を開く。
「お待ちしておりました」
「こんな早朝から揃って出迎えて頂けるとは思っていませんでした」
 蒼の声に合わせて顔を上げた面々を見て、乙葉が眼を丸くした。未だカップの中のコーンをもさもさしている三人を指差して、沢也が言う。
「寝起きみてえのも居るが、俺達は大体こんくらいから活動してる。今日はアレが来る前に、打ち合わせをしちまいてえんだ」
「着いて早々申し訳ないのですが、暫くお付き合い願えませんか?」
「気遣いは不要です。打ち合わせが終わったらそのまま仕事で構いませんし、元よりそのつもりで参りましたから」
 続く蒼のフォローをばっさり切り捨てて、小さく肩を竦める彼女を全員が驚いたような瞳で眺めた。その中でいち早く溜め息を吐いた沢也が、室内を示すため片手を広げる。
「分かった。今日は数人少ないが、今居るのが国の創設メンバーだ。公務に関わってんのと、ないのと居るが…まあ、身内みたいなもんだと思ってくれていい」
 早速始まった説明の後、有理子が乙葉に席を勧めてそれぞれの自己紹介タイムとなった。
 一人一人、順番に行われたそれは実に簡素に。数分が経過して一周回ったところで、沢也が補足する。
「他に隊長が一人、魔導師が一人、主婦が一人。他にも何人か会わせておきたいやつが居るから、それぞれ追って紹介する」
 乙葉は彼の言葉に首肯だけを返した。そこでやっと椅子を引いて、沢也は溜め息と肩竦めを同時に行い苦笑する。
「本当はこんなの後回しでも良かったんだが。お前が居ない間に困った事が起きてな」
 枕言葉に瞬いた乙葉は、現在不在の二人…海羽と倫祐の関係性や、秀についての話を質問もなく聞き終えた。勿論、例の薬についても。
 そして一番重要な、蒼との結婚が決まったとしても、発表やその他諸々が先伸ばしになる可能性が高いことも。
 沢也が話を締め括ると、彼女は表情を曇らせて小首を傾げる。
「承知しました。それで、その方達に対して、私はどう接したら良いのでしょうか?」
「何も知らないふりをして欲しい」
 沢也の即答に、乙葉の肩が小さく上下した。力を抜いたような、入れたような、同意したような。そんな独特の仕草を認識しながら、沢也は話を先に進める。
「知らないままで居るのと、知らないふりをするのとでは対応が変わる…それは分かるだろう?」
 何となしに同意を求めると、彼女は直ぐに頷いて答えた。
「今回の場合は後者である方が都合がいい。ただそれだけだ」
「分かりました。また疑問が出たら質問させて頂きます」
 あっさりと話を終わらせた乙葉に注目が集まる。多少なりと動揺したのか、彼女は瞳を僅かに泳がせて内情を口にした。
「現状、これ以上の事を聞いたところで理解は困難でしょうから。女王についてもそこまで急いでいませんし。寧ろそんな状況でも式を挙げるなどと言われたら、逆に人間性を疑いたくなります」
「話が早くて助かる。いきなりこんな話して悪かったな」
「いえ、後から言われるよりは混乱も少なく済んだでしょう」
 沢也の感謝と謝罪を素直に聞き入れて、乙葉は出された紅茶に手を伸ばす。
 全員が全員僅かながらホッとしたのも束の間、溜め息を付いた沢也の口から義希に向けて質問がもたらされた。
「倫はどうだ?」
「ん?いや、何とも無さそうにしてるけど。それが逆に心配って言うか…」
 不意な振りに肩を跳ねさせながら、答えた彼は俯いて表情を曇らせる。
「だって、大丈夫なわけないじゃん。なんとかなんないのか?海羽も心配だけど、倫祐も…」
「分かってる。だが、こればっかりはな…」
 いつもの冷静な沢也の声が、珍しく中途半端に途切れた。自然と集まる視線を受け入れず、書類に眼を落とした彼は、まるで説明書を読むようにして続きを語る。
「人間の記憶なんて、元々曖昧なもんだ。覚えているようで、しっかりとは覚えていなかったり。覚えていないようでいて、何かの拍子に思い出したり」
 うーん、と。何ヵ所かから唸り声が上がった。それが収まるのを待って沢也は言う。
「一つだけ言えるのは。倫祐の記憶だけがすっぽり抜け落ちてるってことは、海羽の過去そのものが酷く不安定になってるってことだ。海羽が今平常心を保ててんのは…昔のことに触れずに居るからだろう」
 静かに話を聞き終えた面々は、脳内で海羽と倫祐にどれだけの接点があったかを思い起こしていた。
 乙葉が一人その情景を眺めていると、また沢也の口が開く。
「例えばどんなに些細なことでも、倫に関係している事に触れてしまえば…」
「思い出すか?」
「それだけならいいんだがな」
 反射的に立ち上がった義希に曖昧な笑みを注ぎ、沢也は小さく溜め息を付いた。
「どんな事が起爆材料になるかは分からないが、倫に関する事に触れてさえ居れば、そのうちに思い出す可能性は高い。だからと言って、無理に刺激を与えるような事をすれば、最悪精神が崩壊するだろう」
 結論を聞いたメンバーが揃って静まり返る。その中には確かに苛立ちのようなものも混ざっていた。
 そんな空気を察したのか、小さく挙手をした乙葉が発言する。
「壊れてしまったものを元に戻すのは大変です。壊さないよう治す他ないと、私も思います」
 ある種客観的な意見を受けて、更には来たばかりの彼女に気を使わせてしまった事実に気付き、それぞれが気まずそうに目配せをした。
 乙葉はふわりと笑みを浮かべ、蒼と沢也の中間に向けて続く言葉を放つ。
「ここに来てまで、あの山のような惨状を見たくはありませんから」
「乙葉ちゃん…」
 有理子が思わず名を呼ぶと、彼女は皮肉を引っ込めて沢也に向き直った。
「出来る限り協力します。私はどのようにすれば?」
「まずは問題の貴族と顔を会わせない事。まあ、そう長くは持たんだろうが」
 皮肉など聞かなかったかのように、沢也は無表情で先を繋げる。
「数日でいい。環境に慣れるまでは、関わらないに越したことはない」
「分かりました。まずは部屋で出来ることから教わることにします」
「あれが帰ったら、ゆっくり一緒に過ごしましょう?仕事のこと以外にも話したいことは色々あるし」
 おかしな空気を追い払うように、無理に明るい声を出した有理子が、沢也の目配せを受けて席を立った。
「じゃ、あと宜しく。簡単なもんなら質問はチャットで」
「了解。行きましょう、乙葉ちゃん」
 とりあえず顔合わせはこれでお仕舞い、と。一つ手を叩いて区切りを付けた有理子に手を引かれ、乙葉は今日から自室となる部屋へと案内されていく。移動がてら会釈をした彼女に向けて、方々から短い挨拶が飛び交った。


 それから数日は、至って平和に時が流れる。
 秀も海羽に会えないと分かると、一時間程ごねはするがきちんと帰宅するし、他に目立った事件も起きていないからだ。
 海羽に関しては記憶以外は回復方向に向かっており、倫祐に関しては義希や小太郎に様子を見ておくよう頼んである。
 蒼も沢也も今のうちにと、残業を減らせる程度には落ち着いた毎日だ。


 居着いたばかりであるはずの乙葉も、次々仕事を覚えては二人や有理子の負担を減らしていた。
 最初は民衆課の書類整理の手伝いを、次に財務課の簿記の手伝い、更にはメイドさんの仕事をも難なくこなす彼女の働きぶりに、驚きを通り越して和みと尊敬の眼差しを注ぐようになった有理子は、今日も今日とて乙葉の部屋を訪れる。
 ここ数日二人きりで仕事に打ち込んで来たが、そろそろ息を抜いてもよい頃だろうと方々に声をかけておいた。かく言う有理子も他のメンバーの現状を知りたかった訳で、その全てを簡潔に説明するうちに、部屋の戸がノックされる。
「あの、お茶が入ったので…良かったら…」
 顔を覗かせては控え目に申し出る彼女をぐいっと入室させ、有理子はむにむにと頬を寄せた。
「この子が海羽よ。可愛いでしょー?」
「あの、よ、宜しくお願いします」
 有理子共々ペコリとお辞儀した海羽に、乙葉も同じ様に頭を下げる。
「乙葉と申します。こちらこそ宜しくお願い致します」
「沙梨菜も、宜しくしてくれたら嬉しいです…」
 続けて入室した沙梨菜が固い笑顔で言うのを見て、更に後ろからくれあが頬をつついた。
「あらあら。緊張してるの?」
「だってぇ…」
「それはこちらも同じです。まさかお知り合いになれるとは思っても居ませんでしたから」
 やりとりを微笑ましげに眺めながら、乙葉はすっと右手を差し出す。
「いつも聞かせて頂いてます。教え子も、良くあなたの真似をして踊っていました」
「ほんと…?う、嬉しいです…!」
 輝かせた瞳を乙葉に注いだまま、沙梨菜はぎゅっとその手を握った。
 二人が熱い握手を交わすその後ろで、有理子が残る初対面の二人を紹介する。
「それで、こっちがくれあ。それから一実ちゃん」
「はじめまして」
「宜しくお願い致します」
 沙梨菜に笑顔を残してくれあと向き合った乙葉は、丁寧にお辞儀をして頭を上げた。
「彼女は小太郎の奥さんであり、幼馴染みであり、唯一無二の理解者兼飼い主であり…」
「切り離せない存在、と言う訳ですね」
 有理子の解説に頷いて、乙葉は中腰で一実の顔を覗き込む。
「本当、瞳の色があの方と同じですね」
「もう名前と顔を覚えたの?」
「一番最初に紹介された方々でしたから」
 くれあの驚きの声に肩を竦める彼女を振り向き、有理子が扉に手をかけた。
「じゃあ、行きましょうか?」
「どちらに、でしょう」
 丸くした眼を瞬かせた乙葉が連行されたのは、廊下に出て数歩先にある斜め向かいの部屋である。
「近い外出でごめんね」
「いえ、それはそうと…」
 どなたの部屋なのですか?その問いはノックの音に遮られた。
 返答の後、開かれた扉の向こうに居た人物を見て、乙葉が納得の声を上げる。
「ああ…」
「どうも、初日以来ですね」
「お部屋、こちらだったのですね。宜しくお願い致します」
 到着したその日に部屋に挨拶に来た椿を見て、乙葉が驚いたと言う話は三人とも有理子から聞いていた。
 姉が居ると知っていても、実際これほど似ているとなればやはり驚くものなのだと再認識したのがつい先日のこと。
「みなさんもお久しぶりですね。どうぞ、お待ちしてましたよ」
 そんな彼女達の回想になど気付く訳もなく、椿は5人を室内に招き入れる。
「午前中はここで雑談がてら、お仕事を。午後からはまた新しい事をやってもらうから、出来るだけ寛いどいてね?」
 入室前に有理子がぐっと拳を握り締めると、乙葉はふっと微笑んで確かに首肯した。


 乙葉が「王族」に嫌悪感を持っている事を知るのは、城の中では蒼と沢也だけだ。
 乙葉自身もそれを感じ取ったようで、椿に対しては出来るだけ普通に接しているように見える。
 いつも静かなフロアに人が流れて行ったのを見送った沢也が、いつもの位置で一人小さく息を吐いた。
 ポーカーフェイスが上手いとは言えないが、空気が読めない訳ではなく。だからといって、蒼への態度を改めることはなく。さて、どう解釈すべきかと仕事の片手間考察する彼を、部屋の対角線上から八雲が呼んだ。
「やはり部屋の景観上、その隣にデスクを並べるのは如何なものかと…」
「元々この状態だぞ?何を今更。それよりこの距離で同じ仕事をしなきゃならん方が余程問題だ」
 家具のカタログ片手に真面目な顔で進言する彼に、呆れた沢也の答えが返される。それを受けてまた唸り始めた八雲の向かいで、亮もまた真面目な顔で提案した。
「模型の汽車でも走らせますか?」
「お前は真面目なつもりなんだろうが、それは孝さんが面白がって出す案と同じだからな」
「おもちゃの汽車が走る王座の間…話題にはなりそうですね」
「お前も悪乗りするな。横が駄目ならその辺にでも置けばいいだろ?とにかく早く決めて注文しちまえよ」
 大々的に逸れた話を元に戻して促すも、八雲はまだ決めるつもりはないようだ。メジャーを取り出しにじりにじりと席を立つ。
「しかし大臣のデスクより大きかったりしたら気が引けますので、まずはサイズを計らないと…」
「空白部分を含めて160x70。単位はセンチ」
 沢也が直ぐ様提示したデスクサイズを聞いて、感心した二人がそれぞれに感想を呟いた。
「頑張れば寝られますね」
「ではそれより小さめの…色は揃えたいですね…」
 まるで初めて自分の机を買って貰う子供のようだと、頭の中で溜め息を付く沢也の手元で携帯が鳴る。
「あと数分で来るぞ」
「またですか」
「飽きませんね…」
 茂達からの報告を読んでの忠告を聞いて、亮と八雲は揃って大扉を振り向いた。
 蒼は会議中、義希と沙梨菜は仕事。今日の矛先はこの場に居る三人だけである。
 彼等はいつもの足音が聞こえてくるなり、俯き気味に仕事と向き合った。そうすることで、出来る限り面倒な皮肉を聞き流すのだ。
「海羽さん!今日も参りましたよ!」
 迷惑甚だしい勢いで開かれた扉が、虚しさを伴い不機嫌そうに揺れる。
 室内の様子を確認するなり顔をしかめた秀は、断りもなく入室しては沢也の元へと足を進めた。
 彼がこうして毎日出向いてくると言うことは、父親と兄からのお咎めがまだされていない証拠でもある。つまりはまだ様子見の段階。あわよくば、あのセキュリティーの先に足を踏み込もうとしているのだろうとの推察も出来た。
 現に秀が頻りに海羽に会いたいだの、見舞いに行きたいだのと騒ぐくせに、此処に呼べと言い出さないのはそのせいだろう。
 あちらの家でどこまで話が進んでいるかは分からないが、これで失敗すれば彼が居なくなる確率は格段に上がるはずだ。
 帰ると喚きながらも終らない秀の話を左から右に聞き流しつつ、半ば哀れみの眼差しを注いでいた沢也の視界に赤が映り込む。有理子が補充の為、茶器を持って出てきたのだ。
 トレーの上には人数分のティーカップが乗せられており、秀はそれを訝しげに見据えている。
 ここ数日、彼がわざわざ昼食時や夕食時を選んで訪れていたのは、食器の数から「海羽が本当にあの扉の奥にいるのか」を確認するためだったのだろうが。
 沢也は秀の様子を見て溜め息を漏らす。と、彼が振り向き薄笑みを浮かべた。
「最近、出入りが多くはありませんか?」
「海羽の看病がありますから」
「それにしてはカップが多い。何を隠しているのです?」
 瞳が楽しげに歪む。まるで相手の弱点を見つけて喜ぶ子供のように。
 夕食も昼食も、あの先に運ばれるのは三食だった。秀も椿の存在は知っているし、単純に椿と海羽、それから有理子の分だと最初こそ思っただろう。
 しかし今まで有理子があちらで食事を取った例はなく、普通に考えたら怪しまれてもおかしくはない。
 今日の事にしてみても、どこまで分かって発言しているのか…この男の力量から言って怪しいところである。
 どうあしらってやるのが正しいか、沢也が短く思案していると、亮の方から呆れた声が上がった。
「あなたにお話しする義務は無いでしょう」
「あなたは黙っていて頂けませんか?」
 直ぐ様反応しては口元を引きつらせる彼に、今度は携帯を手にした八雲から声がかかる。
「お車が到着したそうです」
「…この私を追い返そうと言うのですか?庶民の分際で」
「呼べと仰有ったのはあなた様でしょう」
「煩い!状況を見て報告する事もできんのかと言っただけだろう」
「なら、直ぐに帰った方が宜しいかと」
 再熱した亮と秀の言い合いを止めたのは沢也だった。振り向いた二人に、彼は真顔でこう続ける。
「そろそろ会議が終わります。海羽も連れずに出ていくところを誰かに見られでもしたら、困ったことになるのでは?」
 敵は元より、味方にまで振られたのか、だの失敗したのでは、だのと噂されては面倒な筈だ。そんな沢也の憶測は的中していたのだろう、秀の顔色が複雑な色に変わった。
 短い沈黙の後、彼は鼻息と共にスーツを直して踵を返す。
「そんな顔をして居られるのも今のうちだ」
「ご忠告どうも」
 捨て台詞を適当に受け流して、去っていく秀を見送った沢也の口から盛大な溜め息が落ちた。


 それから半刻が過ぎた近衛隊の駐屯地。

 引き継ぎを終えてから数時間、一度目のパトロールを終えて報告書を書き綴る銭の向かいで、轟がひくつかせた耳をくるりと回転させる。
 騒がしさと共に入室したのは、口から耳にかけてこれでもかとピアスを飾り付けた小柄な少年だ。
 彼は追い掛けてくる小太郎を煩わしそうに眺めた後、舌打ちついでに悪態を付く。
「んでそんなことしなきゃなんねーんだよ」
「なんでなんでなんでなんで…お前はナンデ大魔王かっつの!今日何回目だしその台詞!」
「知らねえ。いちいち数えてねーしー」
「だぁぁあ!正確な数字なんて聞いてねぇ!それ止めろって話をしとんじゃおんどりゃぁああぁあ!」
 巻き起こった癇癪を豪快に笑い飛ばし、席を立った轟が仁王立ちで二人を見下ろした。
「早速やっとるなぁ?」
「やっとるなぁ?じゃねえし!何とかしやがれこの糞ガキ!」
「やだなー、小太郎隊長だって相当の悪ガキだったって聞いてますよー?」
「何処の誰から聞きやがったし!」
 続けて割り込んだ銭の茶々までもをしっかりと捌いてから、小太郎は当然のように退出しようとする少年を呼び止める。
「コラ!待ちやがれ!言われたことをちゃんと…」
「定時なんで上がりまー」
「ふざけんなぁぁあぁああ」
 確かに今日は早番に顔を出したために早出、しかも初日だからと退勤時間も早めに設定してあったが。
 ガクリと項垂れては膝をついた小太郎の頭上で、轟が楽しげに腕を組んだ。
「まだまだ時間がかかりそうだな!」
「まだまだで済みますかねー?」
「はは、まぁ仕方がなかろう。今は平和だからな!」
「物騒な思考回路ですね、轟さんー」
「しかし、事件があれば自然と距離が縮まるだろう?」
「子供同士ですからねー」
「お?なかなかに毒がある発言だな、それは」
 あはは、と。色こそ違えど完全に他人事なその会話を聞き付けて、小太郎がわなわなと拳を震わせる。
「テメエ等好き勝手いいやがって!いつか痛い目見てもしらねえからな!」
「お?早速ギブアップとは、隊長として如何なものか?」
「もう少し自ら痛い目見てから言って下さいよー、隊長ー」
 にやにやにこにこ、怖いくらいの圧力に押されるまま後退した小太郎は、諦めと重圧からがくりとその場に座り込んだ。


 それから更に半刻が過ぎた王座の間。

 咲夜と共にマジックアイテム課に籠っていた沢也が、彼女を海羽の部屋に押し込んで戻ってくる。
 出迎えた蒼は書類を整え、コーヒーをカップに注いでは沢也のデスクに置いた。
 沢也は頷くように礼をして、椅子に付くなりそれを啜る。
「進展はありましたか?」
 蒼の声を耳の端で捉えた彼は、曇った眼鏡を外した後に肩を竦めて見せた。それから短く息を整えて説明にかかる。
「例の魔術師の足取りを追って、もう一人…薬の製作に携わったであろう男を確保した。小次郎が直々に取り調べて、結果を送ってくれたよ」
「有り難い限りですね。その方も魔術師だったんですか?」
「いいや。科学者に近い精神科医。まあ、俺と同じヤブ医者だ」
「成る程。その方が「忘れる」部分を担当されたんですね?」
「ああ。製作方法も手に入ったんで、半分はきっちり解読できた。だがな、元々あの秀の下に、そんな優秀な技術者が付いて居るとは思えない。それが俺と咲夜、仁平が始めに抱いた疑問だった」
「それほど複雑な薬だと推察された訳ですね」
「そう。だが、もしそうでなかったら…。今回はそれを踏まえて調べを進めてきた」
 沢也が資料を開くのを前に、蒼はただ頷いて先を促した。
「結論から言うと、あれは魔力のある者にしかきかないアイテムだ。つまり、魔力を通して精神に作用する代物だってこと」
「魔力…ですか?」
「ぶっちゃけ魔力の無い人間用の薬を作るより、1000倍は楽にできる」
 疑問符への率直な解答は、当然蒼の眼を丸くさせた。沢也はそれを見越して先の説明を続ける。
「元々魔力は精神に依存してるもんだから、それだけ繋がりも大きいってことになる。例えば毛細血管よりも動脈に針が入れやすいように…対象に魔力があればあるほど、繊細な作業は必要なくなる」
 つまりは海羽だからこそ成功した。そんな皮肉な一例である。
 沢也は蒼が俯くのを横目に資料を捲った。
「単純な話、マジックアイテムで秀と海羽の精神を繋げ、薬と魔力で暗示をかけることにより、一部の記憶を「封印」する。それなら脳を混乱させるだけの簡単な仕組みで製作できる」
 最後のページを示されて、蒼は彼から資料を受け取り図解を頭に取り込んでいく。
「成る程、然して詳しくない僕でも多少は理解できる程度の代物である可能性が高いと…」
「作りがお粗末なものなら、そのうち本人も違和感を覚えるようになる筈だ。それが蓄積されて徐々に思い出してくれることを、祈るしかねえな」
 蒼から返却された書類を受け取りながら、沢也は皮肉に微笑んだ。

 自ら違和感に気付き、違和感が放置出来ない程に増え、徐々に疑問を抱き、それを解消しようとして初めて先が見えてくる。
 そこに辿り着くまでは、どんなに時間がかかろうとも見守るしか術がない。
 もしかしたら明日かもしれない。
 もしかしたら、10年後かもしれない。
 だけどそう遠くはない筈だ。と、沢也は考える。そして恐らく他の仲間たちも。

 しかし、残念ながらそれまで大人しくしていてくれる程、都合良くはいかないもので。


「今日こそあちらに通して頂きます」
 翌日の早朝からやって来た秀が、王座の前に仁王立ちしては自信満々に宣言した。
 はぁ、とか、へぇ、とか気のない相槌を打つ蒼や沢也に構わず、彼は更に演説を続ける。
「少し調べさせて頂きました。何でも、ここ数週間のうちに今まで無かった発注が増えているとか」
 ぴらっと。秀のジャケットから一枚の紙が引っ張り出される。A4サイズのそれは裏も表も倫祐の手紙ばりに白かったが、彼は構うどころか堂々と提示して見せた。
「金を出したら直ぐに口を割りましたよ?口止め料もやっていないとは、あなた方は本当に無能ですね」
「別に、そこまで必死に隠すようなもんでもないからな」
 呆れの余り思わず呟いてしまった沢也は、顔をしかめた秀に作った笑顔で問い掛ける。
「それで?俺達が一体何を隠していると?」
「……そんなもの、君自身の胸にでも聞いておきたまえ」
 そんな少ない調査で分かるわけも無いかと、当たり前過ぎる事に妙に納得してしまった自分に呆れつつ、沢也は深い溜め息を吐いた。
 しかし秀は沢也の憂鬱になどまるで気付く様子もなく、片手を広げてふんぞり返る。
「さあ、早いところ観念して扉を開くがいい。何が出てくるか、見物だな!」
「何が出てくると思っているのか分かりませんが、あなたが諸手を上げて喜ぶようなものではありませんよ」
 面倒と予測していた時期とが重なったせいもあり、沢也は議論をすっ飛ばして席を立った。
「どうせ罪人でも隠しているとお思いなのでしょう?こちらの弱味を握ったと、喜び勇んで報告したのでしょうが…残念でしたね」
 歩きながらそう話しては扉を開こうとした彼であったが、それは扉の向こう側から阻止される。
「沢也」
 不意に開いた扉の先から腕を捕まれ引き込まれ、困ったように頭を掻いた沢也を海羽が下から見上げた。
「まだ知らせることないだろ?僕、もう大丈夫だから」
「いや、何時かはバレる事だし…」
「駄目。だって、まだ来て日も浅いのに…慣れないうちから貴族に色々言われるなんて、可愛そうだろ?」
 必死に訴えかけてくる海羽の、輝かしい眼差しと距離感に押され気味の沢也の左側から、乙葉が控え目に顔を出す。
「あの、私なら…」
「絶対、決まってからの方がいい」
 言葉を遮ってまで強く言い切った彼女を見て、乙葉も困惑した様子で部屋の中に助けを求めた。
「海羽…」
「秀さんは僕が何とかするよ。充分休ませて貰ったし、もうあの人が持ってきたものは食べないようにするから。な…?」
 出てきた有理子をも説得する勢いの海羽は、三人を順に見据えては「大丈夫」だとアピールする。
「こうなったら、聞かないのよね…」
 有理子が思わず呟くと、彼女はすかさず頷いた。
 沢也がどうにもならんと悟ったのが数秒後。
「分かった」
 短く了承してやると、海羽は安心したように息を吐いて、乙葉に肩を竦めて見せた。

 その日から、海羽は扉の外側で生活するようになる。
 相変わらず寝泊まりは椿や乙葉の部屋だったが、それ以外は至って普通の日常を送っていた。
 乙葉の到着と、自分の事件が被ったことを気にしているのだろう。蒼が小さくそう呟いたのを聞いて、沢也は大いに納得した。
 秀をはじめとした貴族達が居なくなると、有理子や海羽が乙葉を連れて顔を出す。早く事が片付けば一緒に夕食を食べたり、民衆課の残業組と仕事をさせたり、外を散歩してみたりと、それなりに城の生活を満喫しているようにも見えた。
 予想していた以上に仕事の手際も問題なく、このままいけば正式に女王として居付く事になるだろう。
 みんながみんな、それを望んでいるような。そんな空気が王座の間に漂い始めていた。
 沢也は有理子と海羽に連れられて庭に出向く彼女を見送って、手元の書類に殺した溜め息を落とす。
 そしてこんな空気の中、未だろくに口も聞いていない当人を横目に、改めて息を吐いた。
「お前は話さなくていいのか?」
 単調に問うと、微笑を浮かべたまま仕事をしていた彼の顔が上がる。呆れたような沢也の瞳に、蒼は顔色一つ変えることなく返答した。
「あちらが望まぬ限りは、このままで」
「本当に利害関係だけで結婚するつもりかよ」
「あなたでも、そう言うのは許せませんか?」
 おかしそうに笑いながら、その勢いに釣られることなく溜め息をついた沢也に、今度は真面目に答えを返す。
「彼女の人柄には惹かれていますよ。だから僕の方は、無理に話さずともそのうちに」
 変わらぬ笑顔を見据えながら、しかしそれが冗談ではないと察した沢也は、それでも不信そうに問いを重ねた。
「そう言えば、俺が何も言えなくなると見越しての嘘じゃねえよな?」
「まさか。僕もそこまで非道じゃありません。あなたや有理子さんにまで、要らぬ嘘は付きたくないです」
 困ったように言い分けて、同時にふっと俯いた蒼の口からポツリと本音がこぼれ落ちる。
「と、言うか…つけないですよ」
 人間ですから。
 言葉にならなかった呟きを読み解いて、沢也はふうと息を付いた。
 ここ最近寡黙なのは、恐らく色々考えているからだ。昔見た、彼が本性を出す前の症状と良く似ている。
 それだけ一杯一杯なのだろう。
 海羽のことも。倫祐のことも。有理子のことも。乙葉のことも。
「…悪かった」
「いいえ」
 酷く真面目に放たれた沢也の声に、蒼はいつもの笑顔で答えた。
 そうしてまた、仕事に戻る。
 その姿は、まるで無心に手を動かしているように見えた。
 そう望むなら何も言うまい。沢也は短く考えて、自分も仕事に意識を戻す。

 今はただ、堪えることしかできないのだからと。
 全てをそれで納得させて。






cp83 [忘却の薬]topcp85 [breakdown]