忘却の薬







 進展はその日の午後にあった。

 退勤直前の茂達からの連絡を受けた沢也が、一階のロビーまで降りてくる。まだ陽は落ちきっていないものの、吹き抜けの天井から注がれる光は少なく、白い大理石がうっすらと赤みがかって見えた。
 扉の前には手錠のかかった一人の男を連れた茂達と、ふんぞり返った秀が立っている。沢也が彼等の前まで辿り着くより前に、誇らしげな秀の声が響いた。
「私に怪しいチョコレートを持たせた男を、捕まえて来てさしあげましたよ」
 片手を広げて茂達と男を示しす彼を一瞥し、沢也は無感情に質問を投げ掛ける。
「どうしてこいつが犯人だと?」
「ですから、彼から受け取ったのですよ。例のチョコレートを」
「何故あのチョコレートが原因だと?」
「何故も何も、あれを食べたからああなったのでしょう?あなたは馬鹿ですか。それとも阿呆ですか」
 上から目線の嘲笑に呆れたような眼差しが返されるのにも構わず、秀は更に念をおした。
「私は知らずに使ったのですよ」
 自らの胸に手を当てて、”知らずに”を強調した彼の声が天井に抜けていく。
 無表情な沢也の代わりに茂達が眉をひそめた辺りで、秀がコツリと右足を横に出した。
「確かに彼のことを忘れて欲しいとは思っていましたが…まさかこんなことになるとはね。彼女には申し訳ないことをしました」
 男と茂達の前を行ったり来たりしながら、ゆっくりと、しつこいくらいの抑揚を付けて語り終えた彼を無視して、沢也が男に手を伸ばす。
「礼の一つも無しですか」
 皮肉を耳にしながらも、沢也は茂達から縄を受け取り、男に目配せした後でついでのように秀を振り向いた。
「申し訳ないと思っていらっしゃるのでしょう?でしたらそれは、全てが解決したときに、彼女から直接聞いてやって下さい」
「解決?まさか彼女が思い出すとでも?」
 冷めた声を鼻で笑い、馬鹿馬鹿しいとでも言いたげに腕を組んだ秀は、次に瞳だけを悲しげに歪ませて首を振る。
「思い出せずにいる彼女に、礼を言わせることなど出来ますまい。可愛そうに。何が起きたのかすら、満足に分かっていないのですから」
 演技染みたそれをただ眺めていた沢也は、なんの反応もないことに苛立った彼の口元がやっとの事で歪むのを見た。
「さあ、さっさとその男を締め上げろ。目障りだ!私は海羽さんの所に寄ってから…」
「今日はもう休みましたよ。まだ体調が優れないようで」
「……そうですか。ではまた明日、改めてお見舞に上がります」
 棒読みな忠告に嫌味のように言い捨てて、秀は再び薄笑いを浮かべて去っていく。
 茂達に見送りを託した沢也は、男を引き連れて地下牢へと足を向けた。
 道中蒼に携帯で連絡を入れながら、いつも通りの手順で手続きを終えて聴取室に落ち着く。
 通話を切った携帯を脇に置いて一息。それから正面に座る男を一瞥するでもなく、沢也は短く言った。
「さて。まずは何から聞こうか」
「あれは忘れる薬だ」
 喰い気味に言葉を発した男を横目に見据えると、更に先が紡がれる。
「忘れるんだ。ただそれだけだ」
 繰り返されただけの供述に、呆れのため息を吐いた沢也の手元に万年筆が現れた。彼は簡素なテーブルの端に置かれたメモ用紙をその先端でつつきながら、覇気もなく問いかける。
「それを見ず知らずの人間に飲ませて、お前に何の得がある?」
 当然の質問にも関わらず、男はあからさまに瞳を泳がせて裏返った声を出した。
「と…得…?た、ただのい、悪戯さ!困らせてやろうと、思って…」
「誰を?」
「…だ…誰って、それは…その…………あ…あの、あの男だ!俺を、つ、捕まえて…きた、あいつだよ!」
「その割には、簡単に捕まったみたいだな」
 は?と短く息を吐いた後、男は動作を停止する。対して沢也は先と同じ様にペン先を動かしながら、淡々と言葉を生み出した。
「事が起きたのは昨日の午後。発覚したのが今日の朝。それからまだ一日も経ってねえのに、お前はもうここにいる。本当に秀を困らせたいのなら、もう少し粘っても良かったんじゃないのか?」
 言葉尻に鋭い眼差しが男を捕らえる。ただの流し目に冷や汗が止まらずに、必死で頭を働かせる彼の口が半ば勝手に動いた。
「し…仕方がないだろう…奴は、貴族だ…貴族なんだぞ?金の力で何でもやる…そんなのに逆らってみろ?し…」
「逆らって、困らせようとした結果。こうして捕まったんじゃなかったのか?」
 トン、と。最後に小さな音を残して沢也の手が動きを止める。男は幾つかの黒い点が打たれたメモ用紙から目が離せぬまま静止した。
「事の顛末は大体分かっている。お前の雇い主がそもそも馬鹿だからな」
「や…雇い主…な、なんの話を…」
 震える男の問いを遮るように、沢也はメモ用紙と万年筆を彼の前まで滑らせる。
「製造方法」
 短い指示に目を丸くした男は、沢也の真顔が意地悪そうな笑みを浮かべる過程を口を開けて眺めていた。
「本当にお前が作ったのなら、書けるだろう?」
 それを聞いて生唾を呑み、無我夢中でペンを取った男の旋毛に向けて、沢也は静かに嘲笑を注ぐ。
「必死だな。そんなに犯人にして欲しいのか?」
 ピクリと男の身が揺れた。目に見えて震えながらも数分かけて全てを記し終えた彼は、怯えた瞳で沢也を見上げる。
「お前の弱味握ってる人間についても、これを調べあげた後でゆっくり聞かせてもらう」
「お…俺は何もっ…!」
 直ぐ様メモを受け取って立ち上がる彼の背中を男の叫びが追い掛けた。沢也は外に出る手前、半端に振り向き小さく笑う。
「何も知らない人間が、そんな怯えた顔するかよ」
 青ざめた男を外に居た看守に預け、沢也は技術課へと急いだ。


 男の所持品から得た住民カードを頼りに素性を探る間、技術課とマジックアイテム課の総力を上げて薬のレシピを解読した結果を手に、沢也が王座の間に戻ったのが翌日の朝のこと。
 沢也は蒼の微笑に目配せだけして王座の間を縦断し、そのまま海羽が居る例の書庫へと足を向けた。
 昨日、秀に言った事は嘘ではなく、事実余り体調が良くないらしい彼女は今も、書庫のソファで休んでいる。
 ノックに小さな返事があったことで、沢也は静かに扉を引いた。
「体調は?」
「大分いいぞ。もう仕事も出来ると思う」
 入室するなりの問いかけに答えた海羽は、欠伸交じりにソファから起き上がる。沢也はその手前に置かれた2人がけのソファに座って肩を竦めた。
「幾つか確認したいことがあってな」
「うん、なんだ?」
「お前は秀にチョコレートをもらって食べたんだったな」
「うん。苺の生チョコレートだって言ってた」
「食べる前…或いは口に入れた時、違和感はなかったか?」
「うーん…なかったと思うんだけど…」
「チョコレートの味は覚えているか?」
「あ…じ…?」
 呟いて、意識だけがどこか遠くへ飛んでいってしまったかのように、彼女は硬直する。
「覚えていないみたいだな?」
「うん…」
「食べた後のことは?」
「気持ち悪く、なって…」
「ああ」
「目が…回って…」
「その間、秀は何か言わなかったか?」
「なに…か?」
「何でもいい。心配するような言葉とか。助けを呼ぶだとか」
「…………」
 再び固まってしまった海羽の意識を呼び戻すように、沢也はその顔の前で手をはためかせた。彼女はそれでも気にする様子もなく、正面を見据えるだけ。
「有理子が来たのは?」
「うん、覚えてる」
「つまり、チョコを口に入れてから、有理子が来るまでの記憶もないと」
「そう…なる、のかな?」
「チョコそのものに違和感は?」
「うん、なかったと思うんだけど…」
「そうか」
 沢也は呟き、立ち上がる。
 チョコレートからは確かに魔力を感じ取れなかったと、妖精達が当日の様子諸とも証言してくれた。全てが聞こえていた訳ではないようだが、海羽がチョコレートを口にした直後の言動からしても、秀自らチョコレートを発注したことは間違いない筈だ。
 それならば、魔力のある海羽にチョコレートがマジックアイテムであることを覚られぬよう細工がされていた、と考えるのが妥当だろう。
 頭の中で下された結論を口にしないまま、彼は短く彼女に向き直った。
「仕事、後で持ってきてやるからもう暫く寝てろ。何かあったらチャットで」
「うん、ありがとうな」
 微笑に微笑で答えて外に出た沢也は、そのまま右折して数十歩先にある王座の間へと繋がる扉を開く。その過程で手にしていた資料を捲った。二枚目の冒頭を読みながら入室した彼を見て、コーヒーを淹れていた有理子が急かすように問い掛ける。
「…分かったの?」
「効力はな」
 沢也は短く結論だけを答えて自分のデスクに向かっていった。すれ違い様に彼も作業に加わっていたのだと悟った有理子は、新しいカップに並々とコーヒーを注ぐ。沢也は彼女の手からそれを受け取って、一口味わっては先を話し始めた。
「薬は二つで一つ。海羽が飲んだものが忘れる作用を、秀が飲んだものが指定の作用を持つ。要は秀が強く忘れて欲しいと念じた物を、海羽が忘れてしまったと言うことになる」
 解説の合間に判子押しの作業を中断した蒼も、彼のデスクにやって来て浅く腰かける。
「人の記憶をピンポイントで消すなんてマネ、そうそう出来ることじゃねえ。その部分を魔法で無理矢理補った上、薬自体から魔力を感じさせないよう細工したとなれば、一人の力では到底難しい。他にも何人か絡んでいるだろう」
 独り言のような説明を聞き終えた有理子が、業を煮やしたように身を乗り出した。沢也はそれを片手で制してため息を吐く。
「分かってる。海羽の記憶が戻るか戻らないか、だろ?問題は、記憶を消す部分の構造。そこを作ったのは、恐らくあいつではない」
 言いながらパソコンのメールを開いた彼は、門松からの報告を読んで一人頷いた。
「諜報部の調べで、あの男が魔術師だと分かった。聴取してみても記憶に関する知識に明るくは無さそうだったし、薬の製作方法もその部分はかなり曖昧に書かれている」
「つまり…分からないってこと?」
 落胆にも似た有理子の問いかけに顔を上げ、沢也は慰めとも取れる説明を始める。
「今、咲夜と技術課の鑑識、それからマジックアイテム課の奴等が逆算している。ある程度の仕組みは割れるだろうが、正確な精度までは不透明だ。結局は時間の経過が解決してくれるのを祈るしかねえ」
 言葉が途切れると同時、有理子は厳しい表情を俯かせた。それを追ってため息を吐く沢也に、彼女もまたため息で答える。
「分かってるわ。気が急ってるのは、わたしだけじゃないものね…」
 苦笑と共に肩を竦めた有理子に曖昧に微笑んで、沢也はパソコンに向き直った。
 続けて開いたメールは義希からのもので、あの日の朝、秀と同時に倫祐が訪れた理由が報告されている。
 要約すると、恐らくは秀の部下から接触があり、こちらに向かうよう促されたのだろうとの事。つまりは全て、あの男のシナリオ通りだったと言うわけだ。
「正直、あいつがそこまで馬鹿だとは思わなかった」
 沢也の譫言にも似た呟きを聞いた有理子の瞳が二度瞬く。
「どう言う意味よ…?」
「奴等が欲しいのは海羽の「力」だろ?」
「そんなの最初から分かってたことじゃない」
「だから、奴等にはある「機密書類」を敢えて流してあったんだがな」
 ピタリと、有理子の動きが止まった。沢也はその顔を見上げてため息のように言う。
「海羽の魔力について」
「え?」
「精神的にダメージを負うと、魔力が消えてしまう可能性を誇張して」
 驚きと納得とを同時に表情に出した彼女は、頬杖を付く沢也の仕草と声を追い掛けた。
「だから今まであいつ等は、付き纏う以上の事をしてこなかった。これは秀の父親や義兄の指示だろう。勿論、秀にもあの資料は読ませた筈だ。でなけりゃ勝手な事をしでかして、全てを駄目にしかねない」
「じゃあ、何で今になって…」
「自分の力を誇示したくなった…理由としてはその辺りが妥当だろうな」
 呆れたような沢也の憶測を聞いて、有理子は苛立ちと嫌悪を空気に滲ませる。今にも暴れだしそうな彼女を抑えるかのように、沢也は無言でやり取りを見据え続ける彼を目だけで見上げた。
「もしもの事なんて考えちゃいねえ。後からどうにでもなると思ってる単なる馬鹿。だからこそ、何しでかすか分からなくて厄介だっつーのに」
「それを見抜けず飼い続けた親御さんにも、責任を取って頂かないといけませんね」
 有理子以上に黒いオーラを纏う蒼の笑顔が、不思議と場を落ち着かせる。有理子が二人を交互に見据えて息を付くと、朝の慌ただしい空気が王座の間にも入ってきたように思えた。
「あれだけ手の込んだ薬品使ってんだ。何時からかは分からねえが、前々からそのつもりで居たと考えるべきだろう」
「とっくに無理だと分かっていながら認めずに居たわけですね。流石プライドの塊、とでも言いましょうか?」
「だからって、こんな方法…」
 日常に後ろ髪を引かれたまま呟く有理子に、下から沢也の嘲笑が注がれる。
「唯一の救いは、あいつの憶測が尽く外れている事だな」
「彼を忘れたからと言って、彼女があの方に傾くとは到底思えませんからね」
「それは…確かに」
 納得を首肯に籠めた有理子が携帯に導かれて日常に戻った。沢也と蒼はそれを見送って、自身の仕事と向き直る。

 朝食を終えた頃、心配だとやって来た秀を追い返す事に成功したのが12時前後。
 全く進まなかった仕事を脇に置いて、沢也が海羽に仕事を運んだのがその直後の事。

 更に数時間後、追加で運び込まれた書類の山のついでに付いてきた夕食を口に運びながら、海羽は部屋の主に眉を下げて見せた。
「なんだかごめんな?急に居座っちゃって…」
 部屋の中央に置かれた丸テーブルで、書類に囲まれ頭を傾ける彼女を振り向き、椿がふわりと笑顔を見せる。
「いいえ。私は寧ろ…」
 言いかけた言葉を押し込んで、ベッドに広げた書類を集めた彼女は、不思議そうに瞳を瞬かせる海羽に曖昧に肩を竦めて誤魔化した。
「いえ。また何があるとも分かりませんから。私に気を使わずゆっくりなさって下さいね」
 誰かと一緒に居られるのは嬉しいなどと、口にして良い状況ではないのだから。胸の内側で響いた本音を顔に出さぬまま、椿は海羽の向かいに腰かける。
 そんな彼女の様子を見て思い付いたのか、海羽は不意にこんな問いを投げ掛けた。
「椿は今でも空とお話し出来るのか?」
「はい。いつも話し相手になって頂いてるんですよ?」
「そっか…」
 そう頷いたきり、先の椿と同じ様に硬直してしまった海羽は、数秒後にハッとして言い訳を口にする。
「ごめんな?何か、良かったなんて言っていいのか…分からなくなって…」
 何とも言えぬ表情を俯かせた海羽を見て、椿はふっと笑顔を強めた。
 あの子もあなたと一緒で、優しいのね。と、心の内側で空が笑う。
「大丈夫ですよ」
 瞬きで間を繋ぎながら、海羽は目の前の椿が控え目に首を振り、そしてしっかりと頷くのを見た。
 椿は顔を上げ、蒼と同じ柔らかな笑顔を傾かせる。
「私達は今、幸せですから」
 感情の籠った言葉を受けて、海羽も思わず顔を綻ばせた。
「そうか。それなら、良かった…」
 今度はしっかりそう言って、ニンジンが刺さったままのフォークを持ち上げる。
 椿はふわふわと食事を始める彼女を前に、密かにため息を漏らした。

 昨日、書庫で眠る彼女を見たときには特に感じられなかった事実が、近くに来ただけで強く感じられる。
 あんな薬を飲んでいながら、大丈夫なわけが無いのだ。
 それはみんなが分かっていること。そう、彼女以外の全員が。

 海羽が半分残った食事にラップをかけるのを見届けて、椿はベッドを綺麗に片付ける。
「お疲れでしょう?今日はこれくらいにしてお休み下さい」
「でも…」
「お仕事でしたらまだ猶予がありますから。あなたが体調を崩してしまう方がよっぽど問題です」
 さあさあ、と背中を押されてベッドに座らされた海羽は、有無を言わせぬ気遣いを有り難く受けることにしたようだ。その証拠に気が抜けたのか、ふわりと欠伸がこぼれ落ちる。
「分かった。ありがとな」
「お休みなさい」
「うん、お休み…」
 むにゃむにゃと、既に半分眠ったような海羽が布団の中に収まった。
 数分も立たずに眠ってしまった彼女の髪を整えながら、椿がぽつりと話しかける。
「力が縮小してしまっているのですね…」
 返答は、彼女の内側から。
「当然…ですか?」
 憤りが胸の内に溢れた。椿は苦しげに瞳を歪ませて海羽の手を握る。
「そうですね。そう、ですよね…」
 一番大切な人のことを、忘れてしまうなんて。
 忘れてしまった事にも気付けないなんて。
 どれだけ辛いことなのだろう。
 計りかねて首を振った椿は、自分が出来るせめてもの手伝いを実行に移した。

 翌日、椿に整理された書類を、のんびり起きてきた海羽が無理なく片付けている頃。
 秀を追い返した沢也が、義希を遣いに出して倫祐を呼び寄せる。
 数分後にやって来た彼は、何時もの如く無表情で沢也の前に立った。隣に立つ義希の方が、余程ショックを隠しきれない様子である。
 沢也は二人の対照的な様子を見比べて眼鏡を持ち上げると、溜め息の後話を切り出した。
「結論から言うと。海羽は、やはりお前の事を覚えていないようだ」
 義希の瞳が歪むのと、倫祐が頷いたのがほぼ同時。
「全ては秀が持ち込んだマジックアイテムのせい。治療法、解除方法は分かっていない」
 次第に俯き、倫祐の様子を横目に窺う義希が言葉を選びかねて口をパクパクさせる。
「辛いと思うが、無理矢理思い出させるにはリスクが大きい。今は徐々に戻る事を期待するしか…」
 そこで、倫祐はまた首肯した。分かっているから大丈夫だとでも言わんばかりに。
「悪い」
 沢也が思わず呟くと、倫祐は何度か首を振って答える。お前のせいじゃないとか、謝る理由はないとか、そんな意味だろうか。
 表面上は何時もと変わらぬ彼の様子にとりあえず安心しながら、沢也は浅く息を付いた。
「そっち、変わった事は?」
 問うと、倫祐は首を横に振る。その仕草を見た沢也は、一瞬だけ義希に目配せを送った。
「そうか。無理のない程度に、また顔を出してくれ」
 そう締め括り問答から解放すると、倫祐は頷きの後静かに退出する。


 今日は風が強い。
 茂達にペンを返しながら、倫祐は脳内で呟いた。
 青空に浮かぶ雲の流れは早く、次々と別の白が押し寄せて来る。木々も頻りに枝を揺らし、時に葉を舞い上がらせた。
 視界に入ってくる全てを無意識に観察しながら丘を下る。と、その中に鮮やかな赤が見えた。
 丘の終着点にある大きな木の中央付近に、ゆらゆらと揺れる赤い風船。
 木の下では小さな女の子が泣いている。
 街の方から飛ばされたそれを、追いかけてここに辿り着いたのだろう。しかしあの木を登るのは大人でも少々難しい。
 倫祐がすぐ側まで来ても、少女は変わらず俯いたまま涙を流している。
 彼は彼女に気配を悟られぬよう気を付けながら、高く跳躍して風船に手を伸ばした。
 幸い、少し上にずらしただけで風船はあっさりと降りてくる。手にしたそれは風に煽られて斜めに傾いたが、特に汚れたり破損した様子も見られない。重石となる星形のチャームも艶やかさを保っていた。
 倫祐はゆっくりと少女に近付いて、彼女の視界に星が映り込むように風船を下ろす。
 泣き声が止んだ。数秒後に少女の顔が上がる。
「あ…」
「こら!なにやってるの…!」
 嬉しそうに顔を綻ばせた少女の言葉が、街の入り口から飛んできた声に遮られた。
 切羽詰まったそれを振り向くと、少女の母親らしい女性が怯えた形相で駆けてくる。
「お母さん!あのね…」
「ほら、早く行くわよ…」
「え?」
 風船を受け取る前に母親に報告しようとした少女は、その母親に抱えられてその場を離れて行った。勿論、かっ拐うように返却された風船も一緒に。
 猛獣から逃げるようにして去る母親の腕の中、混乱した少女が後ろを振り向こうともがいている。
 倫祐はそれを見ることなく背を向けて、木の後ろがわに回って城の方を振り向いた。
 一点に固定された視線は、彼が煙草に火を付けて、煙を一息吐き出しても動くことはなく。
「うぁ…気付いてたんか」
 草むらから立ち上がった義希が、困ったように頭を掻いて苦笑した。倫祐は小さく頷いて、義希が近付いてくるのを待つ。
「なんか、その…大丈夫か?」
 瞳を泳がせ問い掛ける彼に、倫祐は首を傾けて答えた。補足に困った義希は唸った後に頬を掻く。
「色々と、さ」
 曖昧すぎるそれでも、義希の表情からなんとなく読み取った倫祐が上下に顔を動かした。
「そうか?本当に?」
 訝しげ、と言うよりは不安そうな顔で覗き込んでくる彼に、倫祐はいつものように首肯を返して空を仰ぐ。
「なんかあったらすぐに言えって。沢也もそう言ってたから」
 続けて必死に諭してくる義希の腰にぶら下がる時計を指差すと、彼の顔色が青に変わった。
「あ。やべ!」
 先に休憩に入った義希は、そろそろ戻らなければならないわけで。慌てて回れ右して足踏みし、ぶんぶんと右手を振り乱す。
「あんがとな、また後で、上がりんときに!」
 そう言って後ろ向きに走るも、倫祐の返事は当たり前にない。何となく頷いたような、傾いたような彼の頭をもどかしそうに眺めてから、義希はその場を後にする。
「……倫祐に気を使わせてる場合かよ…オレ!」
 こんな時なのに、しっかり人の休憩時間まで把握して…。本当に何にも無かったみたいに振る舞って。
 だけど、無理だ。
 心配するなと言う方がおかしい。
 例えお節介だとしても。
「ちゃんと、見てないと…」
 不安で不安で仕方がない。
「出来るだけ一緒に居ないと…」
 理由は分かってる。

 だってオレも…
 同じ思いをしたことがあるから。

 ぐっと、胸の奥底から痛みが沸き上がる。堪らず立ち止まり、深呼吸と共に掌を持ち上げた。
 握って、開いて。また握って…
「辛くないわけないじゃんか」
 開いた掌には何も乗っていなかった。当たり前の事に酷く落胆したけれど、彼はしっかりと前を向く。
 そしてまた走り出す。前に、前に。






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