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 乙葉の来訪から数日が過ぎたその日。
 さて、今日も平和に仕事を片付けるぞとでも言わんばかりに大きく伸びをしていた沢也が、聞こえてきた足音にピタリと硬直する。まだ職員が出揃ったばかりの早朝から、この独特な音を聞くのも久しぶりだ。
 沢也が携帯に海羽の番号を呼び出し、ワンコール鳴らして切ったと同時にバタンと扉が開かれる。
「お久しぶりです、海羽さん!」
 まるで結婚式場に乗り込んできた間男のように、両手を前に突き出したまま叫ぶ彼は、室内に彼女の姿がないのを認めて舌打ちした。
 久しぶり、等と宣っているが、彼は昨日も午後からやってきては散々場を荒らしたばかりである。
「彼女は何処だ?まさかまた出張等と勝手なことは言わないだろうな?」
「あの、お待たせしました…」
 書類の束を手に魔導課から顔を出した海羽を見るなり、秀は素早く態度と表情を変えた。
「ああ、海羽さん。今日もとっておきの苺スイーツをお持ちしましたよ?さあ、あちらでお茶にしましょう」
「いえ、今日も書類の整理をしたいので…」
「……そうですか。では、仕方がない。こちらで始めましょう」
 魔導課へ引き返させようとする秀の手から逃れた海羽は、長テーブルの隅を陣取り書類を重ねる。秀は肩を竦めた後、彼女の隣に付いた。

 沢也を含めた三人しか居なかった王座の間も、時が経つに連れて人が増えてくる。
 有理子と蒼がそれぞれの自室から顔を出し、八雲や亮が出勤してきては集荷にきた門松と郵便のやり取りをしたり、海羽の給事に秀がくっついて行ったり、朝食を終えた義希と沙梨菜が出ていったりと。
 小一時間の後、慌ただしい時間が過ぎて人の出入りも落ち着いてきた頃。
 八雲と亮は民衆課、義希と沙梨菜は下町で仕事となれば、王座の間に残るのはいつものメンバーだけである。
 その中でこれから退出しようと腰を上げた蒼に、海羽の横から秀の声がかかった。
「今日は聖さんがお見えになるそうですね?」
「はい。あと数分もすればいらっしゃるのではないでしょうか?」
「会議はどちらで?」
「下の会議室です」
「では後程ご挨拶に伺いましょう。ねぇ?海羽さん」
 問われた彼女は微かに顔を上げて首肯だけすると、また書類に視線を落とす。蒼はその様子を見届けて、静かに部屋を出ていった。
 扉が閉まる音の後、一瞬だけ響いた時計の音も直ぐに秀のお喋りに掻き消されて聞こえなくなる。BGMと言うよりは雑音と騒音の間に位置するそれを聞きながら、沢也と有理子は無理矢理仕事と向き合った。
 話声だけでも大分気が散る迷惑さだと言うのに、度々横からちょっかいを出される海羽のストレス度数が心配で仕方がない。
 途中、二人が揃って聖に差し出す為の茶菓子を制作しに厨房に出向いたが、撹拌して冷やして固めるだけのババロアにそう時間がかかる訳もなく、有理子と沢也にとっての休憩時間は直ぐに終了してしまう。
 そうして密かな溜め息が連鎖してから数十分が経過した、本日20回目となる「休憩」の言葉が秀の口から飛び出した頃。
 不意に割り込んだ機械的な音に、お茶の勧誘に夢中だった秀の顔が上がる。
 音を遮断した沢也はその場で携帯を耳に当てた。
「どうした?」
 静かになるかと思われた空間に、秀の雑談が躊躇なく垂れ流される。それが気に食わなかったのか、それとも電話の内容が悪かったのか、沢也の顔が少しだけ歪んだ。
「そうか。今行く」
 返答するなり通信を切って、足早に退出する彼を三人が見送る。
 大方急な来客であろうとあたりを付けた有理子が書面に目線を戻すと、図ったように彼女の携帯も音を立てた。
「すみません、ちょっと失礼」
 一応秀に断るふりをして海羽に目配せし、彼女は自室に戻って通話を繋げる。
 二人は彼女の会話の始めだけを微かに耳にした後、静かになった王座の間に残された。
 数秒もたたぬうちに秀がまた先の話を繋げたが、海羽は気にせずペンを走らせる。時折相槌を混ぜながら上の空で聞いていたそれに、突如手を叩く音が混じった。
「ああ、そうだ。こんな物を頂いたんですよ」
 驚いて顔を上げた海羽にそう告げて、秀はジャケットの外ポケットから取り出した小さな包みを開け広げる。
「口を開けて下さい?」
「…何ですか?」
「生チョコレートですよ、イチゴミルク味の。なんでも試作品だそうで…是非とも感想が聞きたいと」
 彼の手に摘ままれた四角いそれは、確かにチョコレートのようだった。それでも不審そうに口を閉ざしたままの海羽に、秀の威圧的な声がかかる。
「菓子作りに通じ、尚且つイチゴ好きのあなた様なら、適役だと思いまして」
「…分かりました」
 観念して了承した海羽は、口を開ける前に手を差し出して秀からチョコレートを受け取った。
 立方体を半分に切ったような、何の変鉄もないピンク色を口に入れる。仄かなイチゴの香りは酷く甘く、偽物のような印象を受けた。
 おしいく無くはないけれど、と小首を傾げた時。隣の秀が同じ形のチョコレートを口に運ぶ。
 と、甘さと共に更なる違和感が広がった。
 自分の口の中のものは勿論、彼の口の中でもチョコレートが溶けていく…そんな不思議な感覚が押し寄せる。同時に頭の中に衝撃が走り、目の前がぐるぐると回り始めた。
 吐き出そうにも、既に溶けてしまっていてどうにもならず。無我夢中でポケットの中から携帯を探し当て、一つのボタンを長押しした。
 椅子から崩れ落ち、踞る海羽の頭上から声が降り注ぐ。
「苦しいのですか?」
 にやにやと、笑いながら囁くような。
「大丈夫です。忘れさせてあげますよ」
 優しく毒のある言葉が。
「この私が、責任を持って。全て…」
 溶けていく。
 溶けていく。
 チョコレートと同じように。
「海羽!」
 扉を開きながら叫んだ有理子が、部屋の様子を確認するなり目の色を変えた。急いで駆け寄ってくる彼女を薄笑いで見詰めていた秀は、彼女の到着間際に座り込む海羽の顔をゆっくりと覗き込む。
「ごめんなさい。ちょっと、立ち眩みが…」
 海羽は有理子の声に、掌に反応してすがり付いた。有理子は彼女を抱き締めるようにして支える。
「大丈夫…だい、じょう…」
 最後にそう呟いて、海羽は意識を失った。
 室内に静寂と緊張が満ちる。海羽を揺すって反応を待つ有理子の重い空気と、薄笑いを浮かべる秀の放つ軽い空気が不協和音を奏でていた。
「一体全体どうしたと言うのでしょう」
 困惑の最中、悠長に首を傾げる秀を見上げ、有理子が声を絞り出す。
「あなた…何を…」
「私を疑うのですか?失敬な」
「何があった?」
 何時の間に帰還したのか。急に話に割り込んだ沢也を振り向き、秀は困ったように肩を竦めて見せた。
「何も。ただお茶を楽しんでいただけなのですが…」
 立ち上がる彼と交代で海羽の隣に屈んだ沢也は、しかめた顔をそのままに海羽を抱え上げる。
「どちらへ?」
「診察します」
「あなたが?いかがわしい」
「言ってる場合ですか?意識もないのに…」
「有理子」
 訝しげに眉を歪めた秀に食いかかる彼女を制し、沢也は淡々と提案した。
「結果は追って報告します。会議室に連絡を入れますので、聖さんと一緒にお待ちください」
「私もそちらに付いていたいのですがね?」
 返答よりも早くに通話を繋げた沢也が、数回の問答の後簡潔に告げる。
「聖さんから。「是非こちらに来るように」と」
「致し方がありませんね」
 有無を言わさぬそれを嘲笑し、彼はゆっくりと会議室に降りていった。
 沢也は海羽を背負い直し、有理子の手を借りて書庫へと急ぐ。
 彼は彼女を書庫のソファーに寝かせた後、有理子に場を預けて一旦王座の間へと戻った。緊急時と言えどもあの場所を空にしておく訳にはいかない。恐らく亮や八雲を呼び寄せているのだろう。
 有理子が沢也の言い付け通りに呼吸や脈、体温等を確認していると、海羽の口から小さな声が漏れた。
「…海羽!」
 呼び掛けると、ゆっくりながらも目が開き、心配そうに顔を覗き込む有理子に焦点が合う。
「…有理子…」
「あなた、大丈夫なの?一体何が…」
 必死の問い掛けにぼんやりした眼差しが泳いだ。まるで記憶を探るようにして動いていたそれが、何時しか天井の一点に固定される。その間に沢也が入室して有理子の後ろに付いた。
「秀さんから、チョコレートを貰って…」
 ポツリと呟き、次に有理子を振り向いた海羽は、思い出し思い出し口する。
「試作品だって、感想が欲しいって言われて、食べた…んだけど…」
 最後には頭を押さえて唸る彼女に、沢也が自分の携帯を提示した。そのディスプレイには「緊急連絡」の文字がハッキリと踊っている。
「覚えてるか?」
「うん…うん、急に頭が痛くなって…目眩がして…怖くて、押したんだ」
 訴えに頷いて、有理子と場所を代わった沢也は軽く診察を始めた。
「頭痛は?」
「今は平気」
「他におかしなところは?」
 海羽は短く考えると、掌に力を集中させる。淡い光が溢れて魔力に問題がない事を知らせると同時に、体の調子も教えてくれた。
 おかしなところは、ない。だから首を振って答えたが、不思議と違和感が残る。海羽がぼやけた頭でそう考える間にも、有理子が心配そうに呟いた。
「疲れが出たのかしら?」
「…いや、違うだろう。偶然にしては出来すぎている」
 一人厳しい表情のまま立ち上がった沢也は、有理子に鍵を預けて海羽と向き直る。
「暫く気を付けておけ。今日は此処から出るなよ?」
「分かった」
「お前も、出るときは…」
「椿ちゃんね?分かった」
 念押しに頷いて、有理子は沢也に書類を持ってきてくれるよう依頼した。
 それから二人は秀が帰るまで書庫に籠って仕事をしたり、念の為沙梨菜の部屋に寝泊まりしたりしたが、何事もなく一日が終了する。


 翌日


 たまたま水曜日だと言う事で、朝食を終えた何時ものメンバーが王座の間に集まっていた。遅番の小太郎と倫祐、くれあを除く6人である。
 仕事が本始動する前にと、昨日あった事を確認がてら、簡単な報告会が開かれた。
 海羽の体調や魔法の力に問題が無いこと。
 帰宅するまでの秀の様子が若干ながら浮き足だっていたこと。
 会議中の秀と聖の会話から、なんとなしに違和感を覚えたこと。
 あの時かかってきた有理子への電話が、時間稼ぎのようなクレームだったこと。
 沢也を呼び出した来客とやらも、それと同じ類いのものだったことから、恐らく秀に雇われた人物であろうと言うこと。
 更にもう一つ。沢也が上階から様子を見ていた妖精達の証言を伝えようとした辺りで、場に変化が訪れる。
 みんながみんな、顔を見合わせる間もなく大扉を振り向いた。
 聞こえてくる足音は紛れもなく秀の物だ。
 程無くして開かれた扉の向こうには、予想に違わぬ人物が立っている。
「秀さん…」
「具合は如何かと思いまして。心配で心配で、定例会をサボって来てしまいました」
 恭しくそう言って、海羽にニヤニヤ笑いを注いだ秀は、開いたままの扉を振り向き話しかけた。
「貴方もこちらに用があるのでしょう?」
 秀が場所を開けると共に、静かに入室したのは倫祐だ。不測の事態に動揺する面々を他所に、秀は部屋の手前にいた海羽の側まで足を進めては倫祐に向き直る。
「さあ、どうぞ。ご挨拶を」
 広げられた片手は明らかに倫祐を示したように思えた。誰もが違和感の中で秀を振り向くと、その手前で海羽が彼等を見据えている。自然と全員の視線を受けた海羽が、周囲を一周見渡してから前に出る。
「あの…」
 何時ものように挙動不審気味に、扉の前に佇む倫祐に声をかけた彼女は、次の瞬間ぺこりと頭を下げた。
「は、はじめまして…僕、魔導課の海羽と申します」
 言葉の余韻が室内に浸透する。
 今、何と言ったのだろうかと。その場に居合わせた彼等の脳内で低速な解析が行われた。
 それが追い付いて誰かが小さな疑問の声を漏らしたのを最後に、場はすっかり硬直する。
 礼から直って倫祐を見据える海羽の瞳が、いつものように不規則に瞬いていた。次第に静まり返った空気を察知したのか、彼女の首が左右に動く。
 その様子を前に動いた秀の口元を見て、何が起きたのか、彼の目的が何だったのかを把握した数名を他所に、まず有理子が海羽に取りついた。
「海羽…?あなた、何を……」
「…え?僕、なにか…変なこと…」
 キョトンとした表情で有理子を見上げた彼女は、他のみんなの反応を見て困惑の表情を浮かべる。
「えと、挨拶って言うから…あ、もしかしてみんなは知り合いなのか?」
「ちょっと、こっち…」
 取り敢えず保護しようと、書庫に続く扉へと海羽を引っ張っていく有理子を全員で見送った直後、秀の口から笑い声が漏れた。
「おやおや。どうしたと言うのでしょう」
 その延長線上に乗せた声が僅かに上擦る。
「昨日のショックで忘れてしまったのでしょうか。しかし何故でしょう?他は皆さん覚えていらっしゃるようなのに…おかしいですね」
 ゆっくりと語りつつ、速足に歩いて倫祐の前に立った秀の靴がカツリと鈍く音を立てた。
「貴方だけ、忘れられるなんて」
 嘲笑うような声が広い部屋に響く。
 倫祐を見上げる形で笑みを浮かべていた秀が、背後で口を開きかけた義希を制するように振り向き、楽しげに言った。
「結局はその程度の存在だったと言うことでしょう」
 勝ち誇った表情で一同を見渡した彼は、一息付いて踵を返す。
「大したことが無さそうで安心致しました。今からでも定例会に向かうとします」
 無駄に靴を鳴らして歩く秀が、やり取りを目で追い掛けていた倫祐とすれ違った。
「どうぞお大事に」
 まるで笑いを堪えているかのようなその声に、反応する者は居ない。
 静かな中にひたすら響く足音が不快で仕方がなかった。
 秀が退出した数秒後。扉が閉まるや否や、廊下からは押し殺したような笑い声が響いてくる。
 それを綺麗に無視した沢也は、困惑するメンバーを蒼に託して有理子の後を追い掛けた。
 急ぎ足に部屋を横断し、扉に手をかける。息を殺してそれを開くと直ぐに有理子の声が聞こえてきた。

 海羽を壁際に立たせ、肩を揺らしながら有理子が問い掛ける。
「海羽、ほら。思い出させる?」
「え?えっと…有理子…?」
「まさか、本当に忘れた訳じゃ…」
 焦るのも無理はない。当の沢也も恐らくは焦っている。しかし先に有理子が慌ててくれた事で、逆に冷静になれた気がした。
「…沢也…」
 間に割り込んだ彼を有理子が呼ぶ。沢也はそれを流して海羽を振り向いた。
「俺達は少し、あいつと話したい事がある。暫く椿と仕事をしていてくれないか?」
「うん…分かった。だけど、あの人は…誰なんだ?」
 びくりと、有理子の身が揺れる。沢也は一つ息を吐いて苦笑混じりに答えた。
「近衛隊、本隊の隊長だ」
「隊長…さん…?」
「そう。倫祐って言うんだ。無口だが、すげえ強い奴でな…」
「そうなのか?いつの間に面接したんだ?」
「この間街でスカウトした」
「そっか、じゃあ知らないわけだ」
 無邪気な海羽の様子からして、冗談を言っているようには見えない。そもそも彼女はそんな冗談を言うような性格ではないのだから、本当に「忘れてしまった」のだと考える他ないのだ。
「じゃあ、また今度挨拶しなきゃな」
「いいや。さっきので充分だろ。お前のことは、こっちからも説明しておく」
「そっか…うん、分かった」
「仕事は有理子に届けさせる。念のため、まだ暫くはこっちに籠ってくれ」
 頷いては椿の部屋へ向かう海羽を確認し、沢也は何か言いたそうな有理子を王座の間へ連れていく。
「沢也…あんた…」
「お前が言いたいことは分かる」
 直ぐ様浴びせられた抗議を遮って、彼は小さくため息を付いた。
「だが、どんな容態かも分からねえのに、無理に刺激してくれるな」
「っ…だって…」
 今にも泣き出しそうな彼女の肩を叩き、沢也は足早にデスクへと向かう。
「…悪い。ちゃんと調べるから。それまで待て」
 彼が移動する間。有理子の元へと向かいながら、義希が震える声で言った。
「あいつのせいなんだろ…?」
「十中八九。妖精達が断片的に秀の声を聞き取っていたんだ。肝心なところは小さすぎて聞き取れなかったらしいが…「…してあげますよ」とか「全て」とか」
「だったら…!」
「残念ながら、此処には監視カメラが付いてねえ。きちんとした証拠もないのに騒いでみろ?状況は悪くなる一方だ」
 淡々とした解説はいつも通りの沢也のもので、しかし表情は無いに等しい。
「前日に結を夜更かしさせたのがまずかったな…あいつが起きてりゃ、もっと早く手が打てたんだが」
 全ての熱を冷たさに奪われたかのように、黙りこくった義希を通り越して、沢也は呼び掛ける。
「倫」
 呼ばれた彼は、いつもと同じく目線だけで答えた。釣られて振り向いた面々の心配そうな眼差しにも目配せを送る。
「悪いが…暫く堪えてくれ」
 詳細が何も分かっていない今、それしか言えない事は誰もが理解できた。それは恐らく倫祐自身も同じなのだろう。ただ一つ首肯して踵を返した。
 いつもと変わらぬ、無表情のまま。
「倫祐…」
 義希の呼び掛けに半端に振り向きまた頷いて、彼は静かに外に出る。
 嫌な沈黙が部屋に充満した。それを散らすようにして沢也がハッキリと指示を出す。
「義希。倫の事、頼んだぞ?」
「…分かった」
 義希はその場に居た全員に固く頷き、駆け足で倫祐を追い掛けた。







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