乙葉を女王として迎え入れる為の書類は整った。
 後は正式決定に向けての準備を進めるだけだ。

 勿論仕事方面での適応力も見なければならないが、それ以外にもう1つ。諜報部の一部と、面接官である左弥や大地、加えて蒼と沢也、孝しか知らない事実が存在する。
 試験期間中の身辺調査の結果、直ぐに幾つかの問題が浮き彫りになった。それを孝に確認すると、肯定と同時に解決法も提案される。要は彼も元々そのつもりだったと言うことだろう。
 しかし乙葉本人には知らせていないようで、出来れば内密に進めて欲しいとのこと。蒼はそれを承諾し、会議の合間を縫って事を為す。


 夜も更けた頃。
 沢也に機械操作と監視を任せ、彼は地下牢から一人の男を呼び起こして聴取室に入った。
 元から予定を知らされていた彼は、寝ぼけ眼を擦るでもなく入室しては奥の席に着く。
「夜分遅くにすみません」
「いえ。こちらは昼間も寝る他にやることがありませんから」
 身を縮めて頭を下げるのは、強化剤事件で城下街を「逃げ回っていた」あの男だ。
「追い掛けていた男」と「犬の飼い主」は既にリリスに移送して引き続き調べているが、彼だけは貴族に関する話を聞き出す為…それと彼の安全の為に、まだ「口を割らないから」との名目で城に残している。
 今までも沢也が「強化剤」「偽造カード」「秀」等に関する情報を流して貰って本島の調査に役立てて居たが、彼の立場からしてそこまで有力な情報は提供できないのだろう。未だどれも解決していない。
 ならば何故こうして蒼自ら彼の元を訪れたかと言うと。
「そう萎縮なさらないでください。いつも通りに話して頂けると助かります」
「…では、お言葉に甘えて」
「あなたが犯罪を働かなければならなくなった、その経緯を全てお聞かせ願いますか?」
 蒼の言葉に、男はしっかりと頷いた。彼が貴族に借金をして追い詰められた事は先の聴取で分かっているが、今日聞きに来たのはそこではない。
 彼とその貴族の関係性の全てを整理する為に、蒼はそこに座っているのだ。
 男は牢獄で整理した話を頭の中に呼び起こし、その初めとなる一文を慎重に口にする。
「弱味を握って追い詰める…それが小山内の手口なんだ」
 小山内。彼を借金地獄に仕立て上げた金貸しの大元であり、最近橡や雛乃を吸収した貴族の名前だ。
 蒼は俯く彼に頷いて話を促す。
「俺の場合は家族を人質に取られたようなもんだ。村八分で済めばいいが…最悪追い出されたり、下手すりゃ命も危うい。……何でそんなこと知ってるのかと思うかもしれないが…俺の親がな。見たんだよ。昔…」
 男はそこで固唾を飲んだ。そして更に目を伏せて声を震わせる。
「小山内に追い詰められた家族の、最期を」
 恐れているのはその「最期」に関する記憶だろう。震える手を押さえ付けた彼が、蒼の脳内の憶測を追い掛けるように言い分けた。
「俺はまだガキだったから、覚えちゃいないけどよ…親父もお袋も、今でも夢にも見るって。良く聞かされた」
 数秒の後、男が意を決したように口を開くのを待ち、蒼は首を横に振って省略を促す。彼はあからさまに息を付いて肩の力を抜いた。
「それが…あの事件がきっかけで、村は小山内に目を掛けられるようになった」
 息を整えた男は話す。今度は机の中央に声を落とすように。
「援助が貰えるとか、困った時に助けてくれるとか、そう言うんじゃない。単に、金を貸してくれるようになっただけだ。………最初はな。期限も利子も、良心的な物だったから。村をでかくするのに利用したりもしてたらしいんだが。…そのうち契約書を勝手に書き換えられたり、何時の間にか利子が上がっていたりとかして、何人かが村から消えた」
 汚い手口、とは。つまりそう言う事だろう。事実が外部に漏れぬよう工作するのも手慣れている筈だ。
「それからは勿論誰も利用しなくなったさ。だけどそれだけじゃ済まされなかった」
 実際に何をされたか言わなかったが、利用せざるを得なくなるよう、脅しや嫌がらせが続いたのだろう。
 頭に流れた回想を首を振って追い払い、男はまた話を繋げた。
「だから何人かを村から逃がして、新しい村をこさえて、徐々に移住していた矢先…この国が出来上がって…」
「戸籍が作られた」
 頑なに顔を上げなかった彼が、蒼の発言にピタリと固まり僅かに視線を持ち上げる。そこにいつもの笑顔があることだけを確認し、男は躊躇いがちに頷いた。
「そうなっては何処まで逃げられるか分からない。一度でも住民カードが奪われれば、それでもうお仕舞いだ。移住先がバレちまえば、それこそ後がなくなる…だから」
 渇いた喉から息を吸い上げた彼の前、蒼は用意してきた麦茶をルビーから取り出し滑らせる。男はそれに一礼してグラスを掴んだ。
「残った住人の全ては古い村を棄て、新しい村とも、縁を切った。後は町を点々としながら、こそこそ逃げ回るしかない。あの男に捕まらないように…」
 区切りの良いところまでしっかり話してから、彼はやっと麦茶に口を付ける。蒼はやはり黙って男の仕草を見守った。
「生活が回らなくなったのが、二ヶ月前かな」
 グラスの中身を飲み干した彼が話を再開したのが数秒後。蒼は追加を注ぎながら微かに頷く。
「親父がな、倒れたんだ。俺も働いてはみたけれど、度重なる引っ越しと転職のせいでなかなか給料が上がらなくて」
 ヤケ酒でもするように再び麦茶を煽った男は、空いたグラスを静かに置いてまた俯いた。
「そんな時だよ。あの男に捕まったのは」
 グラスに映し出された男の顔が歪んでる。それは顔を上げて実像を確認しても変わらなかった。
「最初は知らずに手を出した。薬を買わなきゃならなくて、金貸しに金を借りたのが始まりだったと思う。そこからはもう、ずるずるとさ。底無し沼に足を突っ込んだようなものだった」
 言葉尻を掠れさせ、頭を抱えた彼の口から後悔が溢れ出す。
「気を付けていたつもりだった。だけど、甘かった。あいつらの守備範囲は異様に広くて、それこそ国中に伸びている。………他の奴等も捕まったんだろうか?例の家族のように…追い詰められてしまったんだろうか…?俺は運が良かっただけだ…あんたらに捕まって…こうして保護して貰って…」
 ガタガタと震えたまま、それでも現状を確認しようと体勢を直した男に注がれたのは、最初と変わらぬ蒼の微笑。変わらないようでいて、何処と無く悲しげなその表情に、彼はすがるように拝み倒した。
「なあ?俺に出来ることは?もう、何もないのか?何でも話すから…頼むよ、みんなを…助けてやってくれないか?」
 机上に両手を付いて頭を下げる男の前に、一枚の写真が提示される。
「この方をご存知ですか?」
「……こいつが、何か…?」
 問い掛けを聞いた男の表情が固くなる。驚愕と、焦りと。続けて恐怖と怒りが追い付いてきたような、そんな顔だった。
 蒼は男の想像を遮断するように答えを紡ぐ。
「彼女は近日中に女王候補として、この城に入る予定です」
 見開かれた男の瞳が正面から蒼を捕らえる。何が起きているのか分からないと言いたげな雰囲気からして、彼は彼女を良く知っているのだろう。
 だからこそ男の答えを聞かぬまま、蒼は続く質問を口にした。
「彼女は何処までご存知なのですか?」
「何も知るものか…!だって、そうだろう?言えるわけがないじゃないか…」
 最初の勢いを失って、情けない声を途切れさせる。そうして座り直した男は、自らの顔を両手で覆った。
「俺の、家族が…村の皆が、あいつの…両親を…」
 殺した。いや、殺したも同然だと聞いている。しかしそれは事実、村人達のせいではない。客観的に見ることしか出来ない蒼にもそれだけはハッキリと言うことが出来た。
 男の様子からして、彼女は…乙葉はその事実ですら知らずに居るのかもしれない。事前調査で話を聞いた他の村人達も同じような話し方をしたらしく、つまりは村人達は全員、彼女に「何も話をしていない」と言うことになるか。
 無理もないだろう。
 それが良かったのか、悪かったのかは、部外者の自分には分からないけれど。
 蒼はそう結論付けて、項垂れる男の頭上に次の質問を投げ掛けた。
「と、言うことは…彼女は村の娘として育ったのですか?」
「…そうだ。あいつの、懇意にしていた貴族が拾ってきた子供として、高齢の学長が育てたらしい。もう、ずいぶん前に亡くなったけどな…」
「亡くなってからはどうされていたのですか?」
「学長の従姉妹が後を継いで…今はその娘が学長をやっていると聞いている。彼女がその家を出て一人で暮らし始めたのも、学長が亡くなってからだ」
 こちらも他の証言と相違ない。乙葉は孝の家を出て5年後…15歳で独り立ちした事になる。
「彼女が村に移ってから、小山内さんとは一度も?」
「小山内が村にきた事は一度だってないと聞いている。死体を確認しに来たのも執事で…そいつも写真を一枚だけ撮っただけで、大した確認はしなかったと」
 幾らしつこいとは言え、所詮貴族だ。汚れ仕事を進んで行うことはまずないだろうし、国に名前が無くなって数年しか経っていなかった当時の様子からしても、末端の仕事を自ら確認しに行くほど暇ではなかっただろう。
 蒼が脳内の報告書と話を照らし合わせる間に、頭を抱えた男の口から嗚咽に似た声が漏れた。
「だから今まで生きて来られたのに…どうして、今になって…」
 悔しげなその声からは、彼女を守りきれなかった事、不穏が村人全体に広がるかもしれないと言う懸念、その両方が滲み出る。
「彼女は知らないのですね。小山内さんと村人に、今も繋がりがあると言うことを」
 蒼の声に顔を上げた男は、しっかりと目を見て肯定した。それにきちんと了解を示し、蒼は話を先に進める。
「あなたは、小山内さんが何処まで村人を把握していると思いますか?」
「そうだな…一度でも金を借りた事がある奴は、名前の記録が残っているだろう。あとは、最後まで古い村に残っていた奴は…住民カードに記録が残るから…」
「そこは問題ありません。こちらで書き換えておきましたから」
「…え?」
「それから、新しい村の住人の出身地や転居記録も、問題がありそうな部分は全て。最初からそうであったように、偽造させて頂きました。勿論当事者には全て説明済みです。情報が漏れぬよう徹底して、なんとか伝達を終えたのが昨日の事になります」
 唐突に始まった解説に、男は口をパクパクさせるばかり。蒼は彼の困惑を敢えて無視して笑顔を強めた。
「あとは実際に借金をされた方と、あなたのご両親ですね」
「そっ…そこまで迷惑は…」
「前者は後々手を回します。後者に関しては…明日、こちらに到着される予定です」
 慌てて立ち上がろうとした男の動きは、続く蒼の言葉に遮られる。
「…え?」
「面会の為ですよ。あなたが頑なに口を割らないので、仕方なく来ていただくことにしたんです」
 顔面で硬直と驚愕を同時に表した彼に対し、蒼は変わらぬ笑顔を傾かせた。
「うちには優秀な医師が居ますから。ついでに病状も診ていただきましょう。その後は、暫くリリスの施設で暮らして頂く事になります。あなたの罪状が決まるまでは、生きていて頂かないと困りますからね」
 言いながら立ち上がり、気が抜けてストンと腰を下ろした男を上から覗きこみ。
「あなたも。まだ万全とは言えないそうですから。しっかり体から薬を抜いてくださいね」
 頼むように呟いた蒼は、泣き出しそうな男を連れて聴取室を出た。



 翌日の朝早く。
 処変わって大自然の広がる山間の麓。

 青空に幼い声が響く。
「乙葉姉ちゃん、王女様になるの?」
 山裾に広がる林の中を数人の少年少女と二人の大人が散策していた。そのうちの一人が目を丸くして問い掛けてくるのに、乙葉は静かに回答する。
「まだ決まった訳ではありません。それから今は授業中です。先生とお呼びください」
 麦わら帽子にジャージ姿で薬草を摘む彼女の言葉に、教え子である少年はむぐぐと口をつぐませた。
「なお、正式な発表があるまで、または私がこの村に強制送還されるまでは、その事を口外してはいけません」
「それって、この薬草の名前覚えるのとどっちが大事?」
「どっちも大事に決まってるでしょう!ちゃんとしなさいよね、男子ぃ」
 会話に割り込んだ少女の物言いに苦笑しつつ、乙葉の隣から妙齢の女性が助け船を出す。
「そうだよ。理由はどうあれ、あともう数日しか一緒に居らんないんだから。しっかり教わっておかなきゃ、後で後悔するよ?」
 事実を口に出された少年少女達は、一斉に萎れて俯いてしまった。元気過ぎるのも困りものだが、これはこれでやり難い。
「ほら、みなさん。授業に集中して下さい。この辺りの薬草だけでもきちんと覚えておきましょう。あと、今日は算数の宿題も出しますから、覚悟しておいて下さいね」
「えー!姉ちゃんの鬼ぃ!」
 各所から上がるブーイングを笑い、新たな薬草を探す彼女の瞳が東側の山へと向けられる。
 殆どの木が伐採され、地滑り等で無惨な姿に成り果てたその場所は、国によってある程度整備されたものの、深い傷跡を残していた。
「酷いもんだよ。周りに村の無い地域で良かったさ」
「そう言う問題でしょうか?」
「あんたは納得してないんだったね。だから志願したんだろう?」
 同僚でもあり、小さな学校を取りまとめる立場でもある彼女の問い掛けに、乙葉は黙って首肯する。
「そう気負わないでいいんだよ?確かにこの村にも影響はあったけど、こうして普通に生活できてるんだし」
「そうかもしれませんが…」
「可愛そうなのは山の方さ。好き勝手荒らされて、文句も言えないんだから…」
 一度壊してしまったものを、元に戻すのは大変な事だ。それを分かっていながらこうなってしまったのは、怠慢ではないのだろうか?彼女の中からその考えが消えることはなく、今も静かに増殖を続けている。
 行き場の無くなった動物が村の作物を荒らしに来たり、風向きが変わって幾つかの畑の調子が悪かったり。他にも大小様々ながら、山や村にも目に見えた変化があった。調査に来た国の人間から、先日補償と今後のケアについての話はされたが、乙葉はそれだけで許せるほど軽い事態とは考えていない。しかし村の人々は特別苦言も漏らさぬままに、国の提案を飲んだのだ。
「幸い、王様は自然との共存を推奨してる。それが崩されないうちは、見守っていくしかないね」
「本当にそれだけでいいんですか?」
 真剣な質問を正面から受けた女性は、息を吐くと共に肩を竦めた。
「何でもかんでも上手くいくと思わない方がいい。もしそうなら、世の中はもっと平和だし、人間だって一人一人が相当優秀で目立った非もないだろうよ」
 優しく諭されたことで肩の力が抜けたのか、頷いた乙葉は背後の村を振り返る。
 そこはオペラとリリスの中間地点から北に進んだ先にある、小さな畑と幾つかの建物と、川から伸ばした用水路だけで構成された小さな村だった。
 地図にも満足に載せてもらえない程度の集落だが、そこに住む人達には大切な場所なのだ。
「後任の人もね、一応来てくれる事になったよ」
「本当ですか?」
 わざわざこの小さな村まで引っ越して来てくれるのかと、思わず目を丸くした乙葉に、学長はにっこり笑って首肯する。
「取り敢えず、あんたの身が落ち着くまでね」
「そうですか…」
「ちょっとは安心してくれたかな?」
「はい。前々から考えていたとは言え、突然動き出してしまいましたから…」
「気にする事はないよ。まぁ、寂しくはなるけどね」
 明るく呟いて歩を進める彼女の背中に、乙葉は静かに決意を語った。
「みなさんにも迷惑をおかけしたのです。頑張って女王の座をむしり取ってみせます」
「そんなあんた、雑草じゃないんだから…」
 表現に苦笑して、学長は「楽しみにしてるよ」と親指を立てる。
 乙葉は首にかけたタオルをぎゅっと握り締め、口の中だけで誓いを立てた。
「必ず、良い国にしてみせます…」
 誰にも聞こえずとも、その思いは恐らく伝わっているだろう。
 彼女をよく知る彼等になら。



 乙葉がそうして残る一週間を過ごす間。
 王座の間では彼女を迎え入れる為に必要な対応の最終確認を行っていた。
 一番気を付けなければならないのは、小山内に乙葉の存在を気付かせない事。そう、せめて正式に入籍するまでは。
 同時に、入籍する前に全ての問題を解決しなければならない。結婚より前に小山内を潰してしまえればそれが一番良いのだが、流石にそう上手くはいかない。だからせめて、乙葉の知人に迷惑がかからぬよう最低限の手を回す必要があった。
 深夜。
 相変わらず残業中な二人が同時に書類を捲る。沢也は読み終えた報告書を放りながら、インクの蓋を閉める蒼の横顔にため息を浴びせた。
「言わなくて良いのか?」
「言ったらいけないと言われているではないですか。孝さんに」
 乙葉に関する極秘事項が記された書面が、長テーブルに付く二人の間に落ちる。
 沢也は短く思案して、蒼の微笑を横目に観察した。
「どう考える?」
「単純な話ですよ」
 彼が何を言いたいか分かっていたのだろう。蒼は一人頷いて顔だけを振り向かせた。
「彼女は良しとしないのでしょう。たった1つの村だけが、特別扱いされることを」
 だから孝は口止めしたのだと。沢也は納得しながら納得出来ずに小さく息を吐く。
「同じようにして苦しんでいる方が、今も沢山いるかもしれない。それなのに自分の身勝手が自分の周りの人間だけを助けてしまった。それはきっと、安堵と苦悩が同時に押し寄せる結果にしかならないのではないですか?」
「それを無くすために自ら乗り込んで来てんだ。慣れてくれなきゃ困るだろ。何時まで子供扱いするつもりでいるんだ?」
 孝もお前も。付け足されたそれに肩を竦め、蒼は書類に視線を流した。
「彼女は知らないそうですよ。小山内さんと村の確執を」
「本当かよ…」
「どうでしょうね。頭は良さそうでしたし…」
「勘も鋭そうだったしな」
 見解に同意した蒼は、細長くため息を付く沢也の様子を一瞬だけ確認し、また手元に言葉を落とす。
「仮に彼女が知らないふりをしているのなら、それこそ最後まで知らせずに済まさなければ、彼女も困惑するのではないですか?」
「そうかもな…だが、本当にそれでいいのか?」
 頭の後ろで腕を組み、体を伸ばす片手間に問う沢也に。蒼は短く間を置いて笑顔を竦めた。
「分かりません」
 沢也は何とも言えぬその表情から、読み取れた事をそのまま口にする。
「まだ何も知らないから」
「正解です。なので、きちんと理解するまでは孝さんの意見を尊重するつもりです」
「それまでに小山内をぶっ潰しちまえばそれで良しとか考えてんだろ?お前は」
「流石沢也くん。理解して頂けて嬉しいです」
「まあ…どのみち潰すつもりではいたからな…順番が早まっただけか」
 元に直りながら頭を掻き、やれやれと言った調子に書類を並べた沢也が、幾つもの問題を前に眉をひそめた。
「だが、秀んトコも平行して計画するとなると、厳しいぞ?」
「そんな無謀なことはしませんよ。小山内さんにはじわじわと苦しんで頂くつもりです」
 同じく書類を並べながら、視線だけを俯けて笑顔を強める蒼の口調が僅かに儚くなる。
「随分手を広げていらっしゃるようですから。今回のように、少しずつ。孝さんのお力をお借りしながら…」
「気付かれないように、ゆっくりと首を絞めにかかるのか。恐ろしい話だ」
 からかうようにそう言って、悪戯に口端を持ち上げた沢也の顔から不意に表情が消えた。
 彼は手にした万年筆を回しながら、正面の壁に向けて言葉を投げ掛ける。
「…乙葉には言わずに?」
「勿論です」
「雛乃に未練は?」
「あると思いますか?」
「…いや」
 含みのある返しを受けて、沢也は蒼を振り向きまじまじと顔を見据えた。見飽きたと言っても差し支えないくらい、変わらぬ微笑からは何も読み取ることが出来ない。
「何処まで本気なのかと思って」
「さあ…どうでしょうね」
 観察を諦めて率直に言葉にしてみるも、適当に誤魔化される。
 沢也は自室に帰ろうとする蒼の背中にため息を注いだ。
「本当…相変わらず掴めねぇ奴」
 呟きに肩を竦め、蒼はひらひらと手を翻す。沢也は適当に手を振り返して、纏まった書類を指輪の中に納めた。





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