祝日







 この国には建国記念日と言うものがない。
 何故なら国が再建された経緯のせいで、正式に建国されたのが何時なのかはっきりしないから。

 その代わりとして。

「おめでとう、蒼くん」
「おめでとー蒼ー!ハピバビバ☆祝日ー!」
 蒼の誕生日である4月17日が、国民の祝日として制定されていた。
 勿論この日だけでなく、日曜以外にも月に一度以上は祝日が設定されているのだが、この日はとりわけ「祝日感」が大きい事で知られている。
「ありがとうございます。とは言え、僕達に休みは無いんですけどね…」
「祝日でも完全に犯罪が無くなる訳じゃないしなぁ…」
「殆んどお店閉まっちゃうし、貴族も仕事しないから此処には来ないし、各自好きにお祭りするだけだから、実際凄く平和なんだけどね…」
 王座の間に集まった面々のうち、蒼、義希、有理子が順にぼやくと、自然とため息が連鎖した。
「だが今日ばかりはどうなることやら」
 唯一自分の席に座っていた沢也が椅子を回転させながら呟くのに、口を尖らせた有理子が食ってかかる。
「何でわざわざ今日なの?」
「五月蝿いのが絶対に来ないから」
「…どう言うこと?」
 回答した沢也に絡み付いては朗らかに問い返す沙梨菜に、義希も同意したように頷いた。沢也は沙梨菜を脇に追いやりながら単調に解説する。
「元々貴族ではないあの女が此処に出入りするのを貴族に見られたら、瞬く間に噂が広まって面倒な事になるから」
 納得したのかしていないのか、微妙な表情で固まった三人を他所に、彼は話を先に進めた。
「ってことで、あっちの意向次第で直ぐにでも婚約させる」
「そんな…でも…」
「その話し合いの為に今日を選んだと言う訳です」
 有理子の反論を遮ったのは蒼の人差し指だ。彼に強めの笑顔を注がれては有理子も口を閉ざす他ない。
「まぁ、婚約するだけだ。籍を入れるのは仕事やら諸々考慮して…」
「なんかロマンがなーい」
「ね。事務的って言うか…蒼くんはそれでいいの?」
 諦めきれなかった有理子が沙梨菜のブーたれに便乗して問うと、蒼は短い間を持ってくすりと笑う。
「良いと思いますよ?」
「嘘ー?蒼ちゃんならもっと、こう…気のきいたプロポーズとかしそうなのに!」
「あちらが望まれればそうしなくもないですけどね」
 誤魔化すように肩を竦め、ふわりと自分のデスクへ戻り行く彼を沙梨菜の声が追いかけた。
「それって、どう言う…」
「いいからお前は近衛隊のヘルプ」
「えー?気になるよう」
「後程きちんとお話ししますから」
 沢也にサイドテールをひっ捕まれて尚食い下がる彼女を、困ったように蒼が宥めると、丁度二人の出勤時間10分前となった。
「じゃあ、じゃあ、帰ったらちゃんと聞かせてね?」
「心配すんなって、いざとなったら有理子経由オレづてに聞いたらいいんだしさ」
 そんな会話をしながら急ぎ気味に出ていく二人を、残りの三人が見送る。
 例に漏れず静かになった王座の間は、城内に他の職員が居ないのも手伝って酷く寒々しく思えた。
「準備は?」
「大丈夫。お茶とランチは今海羽が」
「分かった。時間までに財務課の雑用片付けちまってくれ」
「了解」
 沢也との短い確認作業を終えた有理子は、一時間ほど自室に戻って書類を捌く。
 特別な祝日の今日。職員は勿論、いつもの門番二人も揃って休暇を取っている為、城のセキュリティーは完全に機械任せになっている。
 仲間内9人を含めた数人しか顔パスが利かないそのシステムを、もたつかずに弄れるのは沢也だけだ。従って約束の時間数分前に、彼が城門まで迎えに出る手筈となっている。
 沢也も蒼も、時間までは確実に事務仕事。海羽も給事以外は魔導科に籠るつもりだろう。
 有理子の出番は、蒼と彼女の話が終わった後にやってくる。分かっていながらそわそわしてしまうのは、緊張している証拠だ。
 自覚を隅に追いやって、半端に残った栄養ドリンクを飲み干した有理子は、目の前の仕事をやつけるべく腕を捲る。


 そんな彼女の心配などお見通しな蒼は、隣の沢也が生き生きと仕事をする様子を横目に、のんびり書類と向き合っていた。
 淹れたての紅茶が良い具合に冷めたのを見計らい、そっと手にする。息を吹き掛け口をつけると、爽やかな香りが広がった。
「随分余裕そうだな?」
 振り向かないままちょっかいをかけてくる沢也に、蒼も紅茶を見下ろしたまま反応する。
「そうですね。彼女に関しては特別警戒すべき点も無さそうですし」
「やっぱ止めておきます、とか言われたらどうするつもりだ?」
「まずないでしょうが…そうなったらそうなったで、またつまらない見合いを繰り返すだけですよ」
 にこにこと。いつも通りのようでいてどこか気のない彼の声を、横目に振り向いた沢也が意外そうに訊ねた。
「乗り気じゃねえのか?」
「そんなことはありません」
「それにしては必死さが足りねえと思ってな」
「そうかもしれませんね」
 蒼が曖昧に微笑んだ辺りで海羽が入室し、二人の会話は途切れる。
 その後暫くは魔法陣の考察やら返信書類の仕分け、返答の文面等を三人で考えながら、片手間に昼食のメニューを再確認した。
 そうするうちにあっと言う間に時間が迫り、飛竜の影が城の裏側に落ちた事で沢也が下へと降りていく。
 見送った蒼と海羽は、散らかしたものを片付けてはそれぞれのデスクに戻った。

 乙葉が王座の間に辿り着いたのは、それから15分後のこと。
 全ては時間通り。
 沢也に案内されて来た彼女は、前回と同じソファーに身を落ち着けて、勧められるままローテーブルに置かれた紅茶を手に取った。
「二次試験は退屈でしたか?」
 正面に座った蒼が短く問うと、乙葉は不機嫌そうに小さく頭を傾ける。
「もっと専門的な事をやらされるものと思っていましたから」
「すみません。あれは厳密に言うと貴族対策なので。仕事に関してはこれから見させて頂きますね」
 蒼は簡単に言い訳ると共に、テーブルの上のフィナンシェを振り分ける。乙葉は礼と共にそれを受けて、手にしたままの紅茶を口にした。
 普段の生活習慣や様々なマナー等を見るついでに、その期間を利用して素性を調べるのが二次試験の主な目的だ。リリスの試験官から届いた採点表にバツの字が見当たらなかった事、先日の佐弥の面接結果からしても、合格には申し分ないとの通知はすでに出されている。
 あとは蒼が言うように、仕事面の確認が必要になるのだが…
「その前に確認しなければならないことが、幾つか」
 蒼の隣に立った沢也が淡々と話を始めると、彼女は茶菓子を置いて彼に直った。
「勤務態度、及び仕事内容に問題がないと判断された場合、正式に結婚する事を国民に公表、後に大々的に式を挙げる事になりますが…」
「承知の上です」
「分かりました。では貴族対策の為。今、この場で婚約して頂きます」
 言いながら書類と青インクをテーブルに乗せる彼に、驚いた風でもなく乙葉から疑問の眼差しが注がれる。
 沢也はインクの蓋を開けることなく直立し、彼女を見下ろす形で話を続けた。
「失礼を承知でお話ししますと。俺達は貴族共が貴女を認めるとは、考えていません」
「同意します。彼等は貴族崩れの小汚ない小娘等、直ぐに潰しにかかるでしょう」
 それでも納得出来ないのは、こうする他にも方法があるのではないかと…乙葉の瞳は暗に語っている。沢也は頷き、話を進めた。
「孝さんの力を借りるのは簡単です。しかしそれは最終手段としたい。何故ならそれも諸刃の剣に成りうるからです」
「…と、言いますと?」
「貴族達の中でも、孝さんの力は絶大です。大抵の貴族は彼の前で強気に出ることはないでしょう。孝さんの推薦で貴女が選ばれたことを公表しさえすれば、黙らせる事は可能だ。しかし奴等は、俺達城の人間と、彼が懇意にしている事を知っています。政略結婚だと難癖を付けられ、潰されるのは避けたい」
 長文を聞き入れて頷いた彼女は、しかし小首を傾げて反論する。
「貴族が私の素性を調べないとでも?」
「調べたとして、貴女が今も孝さんと繋がっていることを、そう簡単に知り得るでしょうか」
 乙葉と孝が貴族として繋がっていたのは、彼女がまだ子供の頃の話だ。その後直ぐに国に名前が無くなった事を考えても、情報収集は難しいだろう。
「それに、例え過去に接点があった確証を持てたとしても、彼の推薦である証拠までは得られない筈です。出入りの激しい孝さんの家の周辺を、逐一観察していた人間が居たのなら別ですがね」
 成る程確かに。幾ら貴族達に金があるとは言え、見つかる危険を犯してまで基本無害な孝の家を見張る必要性は無いだろう。どちらかと言えば秀のように、城を見張る人間を派遣する貴族の方が多いであろうことは簡単に推察出来た。
「この点については孝さんとも意見が一致しています。その上でこの契約に同意頂けるのであれば、正式な判定が出るまで…貴女の身柄はこちらで保護しましょう」
「保護…ですか」
「敵が物騒な輩を雇わぬとも限りませんから」
 率直な理由を受けて唸った乙葉は、苦笑にも似た表情で困惑を示す。
「確かに私に武術の心得は有りませんが…」
「少々過剰に感じるかもしれませんが、暫くの間、辛抱しては頂けませんか?」
 単調な話し合いに口を挟んだ蒼を一瞥し、小さく息を吐いた乙葉は周囲を見渡して短く訊ねた。
「分かりました。しかし、あなた方は大丈夫なのですか?」
「こう見えて、きちんと鍛練は積んでおりますから」
 蒼の回答に軽い相槌だけを返した乙葉は、契約書を手に取って文面に目を走らせる。
 先の沢也の説明のような、簡単な制約に同意を求める為のものだったが、彼女はきっちり全てに目を通してからペンを取る。
 そしてゆっくりとサインをしながら、沈黙を埋めるように彼女は聞いた。
「普段、あなた方は何のお仕事を?」
「俺は主に事務処理」
「僕は貴族のお相手を」
「私が女王になったら、何を?」
 貫くような眼差しで問われた蒼は、いつものように首を傾けて笑顔を強める。
「何をされたいんですか?」
「…それは私にできる仕事等限られていると、暗に仰っているのですか?」
「いえ、単にどんなお仕事に興味があるのかと思いまして…」
 急激に変化した口調に対して彼が宥めるように言い訳ると、丁度そこに有理子が入室して小さな間が出来た。
 沢也が目線を送ったことで、有理子が動き出すと同時に乙葉が再び口を開く。
「勿論、国政に携わりたいと思っております」
「そうでなきゃ困るだろ」
「沢也くん…」
 サインと捺印の施された書類をテーブルから拐いながら、沢也が不意に何時もの調子でため息を吐いた。当然きょとんとする乙葉に、蒼が慌てて弁解する。
「すみません、猫被りに疲れたようで…」
「此処までくりゃもういいだろ?どうせそのうちバレる」
「それはそうですが…」
 契約書をヒラヒラさせながら悪びれもなく言う彼に、蒼の困った笑顔が向いた。沢也は構わず乙葉に長文を注ぐ。
「ここに書いてある通り、重要書類の内容は勿論口外されちゃ困るが、それより更に上位の機密書類なんかは、俺等しか扱っていない。お前がそれを扱えるようになるのは、正式にこっち側に来てからだ」
「分かりやすいご解説、ありがとうございます」
 肩を竦めて紅茶を手にした彼女に、正面から蒼のフォローが入った。
「口は悪いですが、心根は優しい方ですので」
「ご心配無く。その方が私も話がしやすくて助かります。ですから貴方も、猫を被る必要はありません」
 視線を俯けたままそんなことを呟く彼女の隣に到着していた有理子が、向かいの沢也に目配せする。彼は頷くでもなく乙葉に返した。
「こいつは元からこんなんだ。まぁ、腹ん中は割りと黒いけどな」
「否定はしませんが、今言うことですか?それ」
「先に言っといた方がいいだろう」
 すっかり通常営業に戻った二人のやり取りを前に、乙葉は面食らった表情で瞬きを繰り返す。その横から有理子が遠巻きな耳打ちをした。
「ごめんなさいね。何だか気が抜けたみたいで…」
「いつもこうなんですか?」
「えっと…まぁ…」
 苦笑ながらに肯定すると、彼女はため息を吐き出すようにして肩の力を抜く。
「もっと偉そうにされるものと構えていましたので、私の方も気が抜けました」
「そう。それなら良かった。幻滅されちゃったかと思ったわ」
 と、安心して笑みを浮かべる有理子を指して、沢也が簡単な紹介を始めた。
「そいつは財務課長だったり、こいつの補佐してたり、俺の補佐してたり…まあ、雑用として使ってやってくれ」
「あんたに言われるのはムカつくけど…えっと、乙葉さんだったわよね?わたし、有理子って言います。好きにこきつかってくれて構わないから、何かあったら直ぐに言って?」
「ありがとうございます。ではむず痒いので、さん付けは止して頂けますか?」
「じゃあ、乙葉ちゃん?」
「呼び捨てでも構いませんが」
「皆の手前、そう言うわけにもなぁ…」
「仮にも女王候補だからな。ま、俺は有り難くそうさせて貰うが」
 沢也が蒼の隣に座りながら呟くと、乙葉も紅茶と一緒にずれて有理子に場所を空ける。有理子が有り難くそれに従うと、蒼から二人にも紅茶と茶菓子が配られた。
 沢也は全員の動きが落ち着くのも待たずに話を本題に戻す。
「で、住居についてなんだが。この城の一室を使ってもらう事になる」
「それはつまり、暫く此処から出られないと?」
「悪いがそうなる」
 彼の即答を受けて、乙葉は考えるようにして紅茶に目線を落とした。
「準備もあるだろう、直ぐにとは言わない。今日なら誰にも見付からずに出られるしな」
「では、一週間ほど時間を頂けますか?」
 ハッキリと提示された期間にスケジュールを照らし合わせ、彼は数秒で首肯を返す。
「分かった。こっちの都合で悪いが、嫌がっても迎えは出させて貰う」
「構いません」
 トントン拍子に進む打ち合わせは、その後一週間に置ける乙葉のスケジュールや居場所の聞き出し、迎えの際の指定位置の確認までもが滞りなく終了した。
 数分後に一段落したところで有理子が提案する。
「今日は何処も休みだし、お昼は食べて行ってね?」
「助かります」
「なら出来るまで城の中でも散策して来い。静かで逆に不気味かもしれねえが…」
「では、お言葉に甘えて」
 空にしたティーカップをソーサーに戻し、起立する乙葉を見て蒼が言う。
「有理子さん、お願い出来ますか?」
「うん」
 名指しされて渋るのもおかしいかと、直ぐに了承した有理子は乙葉を連れて廊下に出た。
 大扉が閉まるのを待って紅茶を手にした沢也が、一口飲んでは問い掛ける。
「良かったのか?」
「何がですか?」
「一緒に行かないで」
 含みのある言い方に、笑みを強めて肩を竦めた蒼は、誤魔化すように答えを返した。
「女性同士の方が話も弾むでしょうから」
「しかし、あんだけあからさまだと…」
 蒼に対する態度だけが妙に刺々しいと言うか、冷たいと言うか。思った以上にストレートに滲み出ていた感情を思い出し、沢也は苦笑する。
「心配してくれるんですか?」
「お前の、と言うよりは…仕事環境のな」
 にやにや笑いを一蹴して書類を集め始めた沢也に、蒼は紅茶を消費してから曖昧に言った。
「良くなるよう善処しますが、至らなかったら申し訳ありません、とだけ」
「それは仕方ねえだろうが…お前の方はどうなんだ?」
 主語のない問い。それでも内容は分かっているだろうに、わざと小首を傾げて見せる蒼にため息を浴びせ、沢也はしっかりと言い直す。
「あいつの志を気に入ったのは分かるが、あいつそのものの事は?」
「さあ…」
「さあって、お前な…」
 沢也の呆れた声が響くも、蒼は当たり前のように言い分けた。
「まだ何も知りませんから」
「そりゃそうだろうが」
「大丈夫ですよ。もし正式に決定しても、きちんと納得できます」
 紅茶のポットが空になったのを確認し、茶菓子に蓋をする彼の横顔を覗き込み、沢也は悪戯な笑みを浮かべる。
「信じるぞ?その言葉」
「頭痛薬、要りますか?」
「止めろ。一緒にすんな」
 仕返しにハイハイと片手を振って、沢也はデスクに舞い戻った。
 蒼はティーセットと茶菓子をルビーに収納し、次にソファーセットを別のルビーに。最後にいつもの長テーブルを出現させながら、譫言のように口にする。
「僕が心配なのは、彼女の方ですよ」
 小さな声に、書類を確認していた沢也の顔が上がった。蒼は何時もの笑顔を振り向かせては理由を語る。
「幾ら国の為とは言え、嫌いな人間と縁を結ぶだなんて…沢也くんだって、しないでしょう?」
「まあな…」
「ですから、本当にこれで良かったのかと…お節介ながら思う訳です」
 それなら何故言及しないのか。それは彼が彼女の見合いを請けた時点で、出来なくなったも同然なのだろう。
 それが彼女の意思なのだと、理解した上で受け入れたのだから。
 逆に彼女は、彼が断れない事を見抜いた上で見合いを申し出たのではないだろうか。…いや、断るような人間だったなら、この国を見限ってすらいたかもしれない。
 彼女からしてみれば、これは彼が至らなかったからこそ完成した構図だと言えるのだから。
「確かに、お前が言えた義理じゃねえな」
 短い考察の後呟くと、蒼は理解して頂き光栄ですとでも言わんばかりに笑顔を強め、口の前に人差し指を立てた。
「なので、この話はオフレコでお願いします」
「了解」
 元より恋愛ではなく見合いなのだから。互いの利害関係が一致したからと言うだけで、手を組む企業と同じようなものだ。
 沢也は蒼の心境を勝手に解釈しては納得し、別の仕事の書類を引き寄せる。
 自分が幾ら気を揉もうと、何処ぞの心配性が騒ぎ立てようと、二人の気持ちを変えることなど出来ないのだから。


 乙葉は有理子による城内観光ツアーを終えて、海羽の作った昼食を食べた後。送迎の飛竜が到着するまでの間、自分の部屋になると言う一室を確認する。
 蒼の部屋の正面に位置するそこは、当然例の特別なセキュリティーシステムの内側だ。
 城門と同じく、沢也によって一時的にロックを切られた通路に、入って直ぐ見ることが出来る右側の扉がそれである。
 他と同じ、普通のベッドや家具が置かれた何の変鉄もない場所だったが、乙葉は逆に安心したように息を吐いた。
「荷物は纏めておいてくれれば、迎えに行った時にこれで一緒に運ぶから」
「ポケットルビーですか。既に懐かしい代物です」
 乙葉は有理子の手の上に乗せられたそれを眩しそうに眺め、次に窓際まで歩を進めて窓を開く。
「余り景色は良くないけど」
 城の正面から見えないよう、まるで隠されたようなその一角から見えるのは、丁度海羽の部屋がある突き出た部分と、その間となる空白のスペースだけ。屋上がある為、空を見るにはかなり首を右に回さなければならない。
「この下は使っていないのですか?」
 乙葉は窓の下、日陰になっている地面を指し示す。有理子は彼女の隣に並んで確認がてら首肯した。
「他も拝見しましたが、庭が殺風景ですね」
「何しろ人手が足りなくて…」
 率直な感想に率直な理由を示した有理子に、乙葉は納得したような、それでいて嬉しそうな笑みを浮かべる。
「正式に女王になった暁には、私が改革しても構いませんか?」
「え?」
 唐突な進言に、思わず固まった有理子の頭に政治の言葉が過った。恐らく勘づいたのだろう、小さく吹き出して乙葉は補足する。
「庭のことです。趣味なものですから」
「成る程、それは有り難い…あ、わたしにも手伝わせてね?」
「勿論。宜しくお願いします」
 そう言って深々と頭を下げる彼女に、有理子も丁寧なお辞儀を返した。
「正式な決定、楽しみにしてるわ」
 そう。自分が少し話しただけで打ち解ける事が出来たくらい、気さくで気遣いの出来る良い子なのだ。
 だから、彼女の中にある嫌悪感さえ無くなれば…なにも問題ない。
 有理子は心の底からの言葉の内側から湧き出る心配事を押し殺し、乙葉を外へと送り出す。
 城の裏手、門松操る飛竜に彼女を預けた頃には、三時を少し過ぎていた。
「リーダー。しっかり護衛、頼むわね」
「任せとけって。きちんと送り届けて来るから」
 雑談の暇もなく、久々に顔を会わせた彼に全てを託し、有理子は大きく手を靡かせる。上方では王座の間の窓が開けられて、他の三人が彼女を見送っていた。
 乙葉は浮遊感に臆する様子もなく、更には誰かに支えられるような事もなく、ヒラヒラと手を振り返す。そうして何事もなく去っていく彼女が最後に残していったのは、別れの言葉でも微笑でもなく、蒼に対する鋭い視線だった。





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