君との距離


 いつも賑やかな通りの中でも、やけにざわつくその一画で。
「大丈夫すか?隊長…」
 犯人に抱き付いたまま地に伏すのは、小柄な帯斗に上から呆れた眼差しを注がれる義希である。
「ごめ………ぜ、ぜんりょくで………は、はしっ…たから、息が………」
「おいしいトコ持ってったなぁと思ったら、これですからね…」
「本当に、困った隊長さんだねぇ」
 息も絶え絶えに言い訳を呟く彼を尻目に、呻く犯人の腕を手錠で押さえた定一は、手際よく通りの通行制限解除の指示を飛ばした。
「全く、馬鹿は相変わらずみたいね」
 そんないつも通りな光景に飛び込んできた小言に、義希の心音が一時停止する。彼は数秒の間を置いてかばりと起き上がると、珍しく真顔で彼女を振り向いた。
 そして。
「良かった…」
「何……」
「無事で、良かった」
 有理子の疑問符を遮って呟いた義希は、そのままの勢いで彼女を抱き寄せる。いきなりの事に抵抗の余地も与えられなかった有理子は、義希の心音と周囲から飛んでくる口笛の音をやけに大きく感じながら、荒い息を吸い上げた。
「あのー…」
 叫びを上げかけた有理子の勢いを止めたのは、控え目な八雲の呼び掛けだ。
「大丈夫でしたか?八雲さん」
「ええ。私は」
 顔の赤みを誤魔化すように、盛大に義希を突き飛ばした有理子は、ズボンのホコリを払う八雲に駆け寄ってその顔を覗き込む。
 反動で尻餅を付いた義希は、離れていく有理子の様子を見てむーっと顔を歪ませた。
 酷い。突き飛ばすことないじゃんか、折角助けて…っていうか久々に会ったんに、いや、そもそもあの男誰だよ…………
 駆け足にそこまで考えた義希の脳に、またも珍しく適切な情報が降りてくる。
 カップル…”カップル”!?
 手配書には、通り魔に狙われたのはカップルばかりだと書かれていたわけで。それは、つまり…
「すみません、こんなことに巻き込んでしまって…」
「あなたも被害者でしょう。それよりも…」
 有理子の謝罪に肩を竦め、無意識のうちに不安を顔に滲ませる義希を振り向いた八雲は、未だ座り込んだままの彼に左手を差し出した。
「ありがとうございました。お陰で赴任早々、後味の悪い思いをせずに済みましたよ」
「あ、いや。これが仕事って言うか…へ?ふにん?」
 目を白黒させながらも八雲の手を取った義希は、困った笑顔の彼に腕を引かれて立ち上がる。
「何か誤解があるようですね」
 八雲がそう言って有理子を振り向くと、彼女の不機嫌顔が義希に向き直った。
「こちら、新しく民衆課に配属された八雲さん」
「改めて、初めまして。あなたが噂の近衛隊長さんですね?」
 紹介を受けて顔を合わせた二人は、繋いでいた手をそのまま握手に変える。義希は八雲によって上下に振られる右手を挙動不審な目付きで眺めつつ、次にパタリと首を倒した。
「噂の?」
 その動作にハッとした有理子が八雲の腕を引き、義希に鋭い睨みを飛ばす。
「してないしてない、あんたの噂なんてしてないから!」
「まあまあ、有理子さん」
 呆ける義希を他所に、慌てる有理子を宥めた八雲は一息置いて踵を返した。
「それでは、私は聴取の方に」
「あ、いえ、それはわたしが…!ほら義希!あんた、わたしの代わりに八雲さんに街案内してあげて?」
「え?」
 八雲を押し戻す有理子の突然の振りに、開けていた口からそのまま疑問符を吐き出した義希は、額を押さえる彼女の言葉で全てを悟る。
「今日中に回らないと、次の休みが何時被るか…」
「…分かった、案内したらいいんだな?」
 放っておけば、また今日のように二人で出歩く事になるのだろうから。珍しく素早い回転を見せた頭でそう判断し、激しく頷いた義希は、溜め息と再三の念押しにも何度も何度も首肯して、帯斗及び定一の後ろに続く有理子を見送った。
 そうしてホッと息を付く彼の背後、笑顔でその様子を見守っていた八雲は、義希が振り返ると同時に言い分ける。
「心配しないでください。私達はただの上司と部下の間柄ですから」
 キッパリと言い切る彼をポカンと眺め、時間差でハッとした義希は自らの鼻先を指差して間の抜けた声を出した。
「…えっと、オレ達のこと、知って…?」
「有名ですから」
「ああ、…え?そうなん?」
 腑に落ちない様子の義希を置いてきぼりにしたまま、八雲はハッキリとした口振りで話を繋ぐ。
「早いところ、仲直りして下さいね?」
「……そんなことまで…っ!?」
「有名人の辛いところですよ」
「ああ、うう…ってか、その…有理子、何か言って……」
 対照的に口ごもった台詞を吐き続ける義希を誘導するように足を進めながら、八雲はうんと一言。
「口では強がっていましたけど」
 そう前置きして振り向いた彼は、真剣な面持ちの義希がそれでもしっかり付いてきていることを確認すると、笑いを隠すように正面を向いてから続きを口にする。
「その話題を振った限りでは、余り機嫌が良いようには見えなかったですね」
「……そ、か…」
 笑いを含んだ相槌に、八雲は思わず再び義希を振り向いた。
「どうかしました?」
「いや、さ…」
 照れているのか、それとも困っているのか。曖昧にはにかんだ彼は、瞬く八雲から人の流れに視線を流す。
「気にもされてないかと思ってたから」
 ポツリと呟いた義希の、穏やかな横顔を捉えた八雲は、安心したように小さく息を吐き出した。


 そんなこんなで、二人はそのまま詳しい自己紹介も無しに話に花を咲かせつつ、目的であった監視塔への挨拶やらクレープの試食。更には雑貨屋での買いものに加えて、義希自身も倫祐に頼まれていたお使いの全てを終わらせる。

 そうしてすっかり日も暮れた現在、義希は買い物袋を両手に抱えた八雲を丘の手前まで送り届けた所だ。薄闇の向こうに消えていく彼に手を振り返し、情報の放出と吸収でエネルギーを使い果たした体をぐるりと方向転換する。
 既に春も過ぎようとしている季節的なもののせいもあってか、最初に浮かびかけたヤキモチはどこへやら、今まで出会った中の誰が相手になるよりも喋り倒した二人は、すっかり意気投合して携帯のアドレスまで交換したとかしないとか。
 有理子や沢也にそれを知られたら、さぞかし呆れられる事だろうと思いつつ、重くも軽い足取りで帰路に付く彼の頬を打ったのは、予報通りの大粒の雨だった。
「うっげ…降ってきちゃったか…」
 最初はパラパラと、しかし次第に強くなる雨足は、義希が走るスピードよりも早く土砂降りを連れてくる。
 家に辿り着く所か、駐屯所にも届かない位置で雨宿りを強いられた彼は、数分間そこで立ち往生していたものの、幸いにして雨粒で霞む視界の中に手を振る帯斗の姿を発見した。
 義希がぼんやりと佇んでいたキッチン雑貨店の軒先で合流したのは、定一も含む三人だ。
「今帰り?」
「やっと終わったんすよ。取り調べ」
「傘がないなら、駐屯所までいれてあげてもいいけど?」
 小首を傾げて二人の返答を聞いていた義希は、定一のヤル気ない笑顔に苦笑を返す。
「その代わりに何か手伝わなきゃいけない感じ?」
「その為にわざわざこの最低な視界の中、君を見つけた訳だからね」
「どうせ帰っても暇なんじゃないんすか?折角逮捕に貢献したんですから、最後まで付き合ってくださいよー」
 両脇をがっしりと固められ、ぐうの音も出なくなった義希は、仕方なくその話に乗っかって駐屯所に出向く事にした。

 二人がさしていた傘のうち、(けして口には出せなかったが)身長の関係もあって帯斗の方を間借りすることにした義希は、雨の煩さに負けて聞きたいことの全てを駐屯地まで持ち帰ることにする。脇の二人も同じように、特に喋ることも無く黙々と目的地に向けて移動するだけだ。
 いくら雨の中とは言え、流石に手持ちぶたさになったのだろうか。義希が手元で弄んでいたポケットルビーを見て、帯斗が微かに眉をしかめる。
「隊長、ルビー持ってんのに傘入れてないんすか?」
「うん、この前降られた時にさ」
「困った可愛い女の子にあげちゃったとか?」
 定一の指摘に固まった義希が僅かに首を振って否定すると、今度は反対側から回答が上がる。
「箱に入れられた小動物に差し出すことでナンパの手段にした、とかですか?」
「いやいや、そんな…」
「隊長はそんな回りくどいことしないでしょう」
「そうそう、ってか何?みんなん中でオレのイメージどうなっちゃってるん?」
 ツッコミもソコソコに問いただす隊長に、部下二人はきょとんとした眼差しを注ぎながら当たり前のように答えた。
「え。そりゃあもう凄腕のナンパ師だって聞いてますよ?」
「だねぇ。何でも1号と2号の名を賭けて争ったとか争わないとか」
「そんなアホなこと言い触らすのは…」
「第二近衛隊長、もといその部下だね」
「うぁぁあああ」
 傘がぶれるのも忘れて頭を抱える義希。容赦無く振り込む雨に、堪らず帯斗が話題を反らす。
「で、傘はどうしたんすか?」
「え?ああ、この前喫茶店に忘れて仕方なく新しいの買ったんだけど…」
「だけど?」
「今度はそのまま鑑定所に忘れてきた」
 義希がから笑いで言い切ると、彼の両隣で盛大な溜め息が漏れた。
「忘れますか?普通。しかも同じ日に二度も…」
「全く、困った隊長さんだねぇ…」
 呆れた二人の呟きが義希の顔面に苦笑を生んだ所で、三人は駐屯所へと続く路地に突入する。
 縦一列で到着し、定一が開いた扉の向こうに待っていたのは見慣れた部屋の風景と、一人の隊員の背中だ。
「お帰りなさい、遅かったですね?」
 入室する彼等を振り向き、穏やかな声を投げ掛けたのは、第一近衛隊員の圓(まどか)と言う、八雲に負けず劣らず細身体型の、そばかすと黒渕眼鏡が特長の青年だ。彼は所々濡れた三人を見て立ち上がると、奥から人数分のタオルを持って戻ってきた。
「さんきゅ。……ってか、圓だけなん?他は?」
「雨足が強いので、監視塔の方に見廻りに行きましたよ」
「また報告書ほっぽって?」
 中途半端に顔を拭いた義希の問い掛けに苦笑いを返す圓は、集まった視線の中で報告書の山と向かい合う。
「それより、どうだったんですか?通り魔の方は」
 右手にペンを、左手で眼鏡の淵を掴んだ圓の質問に、天井を見上げつつ答えるのは勿論帯斗と定一だ。
「通り魔なんかどーでもいーっすよ。いやあ、やっぱり美人さんでしたね、有理子さん」
「そうだねぇ。あんな子にお礼言われるんだったら、少しは頑張っちゃうかなあ」
「いっさんにしては前向きな発言ですね」
「それくらい綺麗なんですってば。俺、にっこり笑ってありがとうって言って貰っちゃったし…」
「へー、よかったなぁー?」
 顔を綻ばせる二人を見上げるのは、圓の丸くなった瞳と、じっとりした義希の瞳。いつの間にか回転式の事務椅子に後ろ向きに座る彼を見下ろして、帯斗がぷっと頬を膨らませる。
「隊長、あんな綺麗な人に好かれておきながら喧嘩するなんて有り得ませんよ。幻滅っす」
「んな、違う違う、喧嘩なんてしてないから!」
「でも険悪なムードだったよねー?」
 追い討ちをかけるかのように笑顔を傾かせる定一に、まさか「いつもあんな感じだから」と言うわけにもいかず、焦った義希は冷や汗に任せて早口に言い分けた。
「気のせい気のせい、だって、会いに行く予定とかあるし?」
「本当だろうな?」
 ぬっと、背後から現れた気配にヒッと小さな声まで漏らし、恐る恐る視線を後ろへと流した義希。彼の目に飛び込んできた黄金のつり目は、怒ったような呆れたような何とも表現し難い色を持っている。
「……小太郎、いつ帰ってきたん?」
 キャスターに力を加えてササーッと遠ざかりながらも震えた声で問い掛ける義希に、圓が控え目な解答を提示した。
「ずっといらっしゃいましたよ?その、仮眠室に…」
 それに対するリアクションはあからさまに、額に手を当てたまま後ろに倒した義希の頭は、すかさず小太郎によってぐいっと上に持ち上げられる。
「男に二言はねえよな?義希」
「ニゴンなんて知らないけど……」
 思わず目を逸らした義希は、わざとボケた訳でもないのにぶんぶんと揺さぶられながら無言の圧力を受ける羽目になった。
「いや、行くよ!行くってば!明日!だからそう睨むなってー!」
 耐える間も無く音を上げた彼に向けて、呆れか声援か微妙なトーンの拍手が贈られる。
「さっすが隊長ー!」
「ちょっとは見直したよ」
「良く分かりませんが、頑張って下さい…義希さん」
 隊員のエールを受けて義希を解放した小太郎は、そのまま彼等の報告の続きを促したのだった。
 義希も義希で、魂が抜けたような表情のままそれを頭に叩き込む。

 帯斗と定一の報告はこうだった。

 自ら自供をはじめていることからして、一連の通り魔事件は確保した容疑者の犯行と見て間違いは無いだろう。彼はアイテムと強化剤の使用は認めているものの、その出所までは明らかにしておらず、前回の第三倉庫の犯人達と併せて今後も取り調べを進めていく方針だ。
 そもそも今日の一件は、通り魔は光のアイテムを使っているのではないか、と言う所まで解析を進めた矢先の出来事だったらしい。光を扱う代物が出てきた事で、いよいよ解決を急ぐ必要が出てきたと、尋問の合間に顔を出した沢也が溢していたそうだ。
 何でも、防御魔法の主体であるバリアは光の属性で、今回のアイテムは性能は悪くともしっかり形になっていると、詳しい分析前の段階で鑑定されたようだ。
 日頃からバリアを使用しているだけに、普段はバカで通っている義希でも、相手側の防御が固くなれば戦闘が厳しくなることは容易に想像ができるわけで。沢也が唸るのももっともな話なのである。
 そうして居合わせた面子で揃って唸りつつ、「これはこの先のことをキッチリ考えとかねえと。あとは、司法課の尋問に期待するしかねえか…」と、小太郎が適当にまとめた所でお開きになった。何故なら出払っていた隊員達が帰還し、小太郎の矛先がそちらに奪われたから。
 因みにその後、怒り心頭でそれぞれに”報告書制作命令”を下した小太郎は、先程まで別の仕事にかり出されていたため、今回の現場には駆け付けることが出来なかったそうだ。


 そうして報告書の作成までを手伝わされ、すっかり月が顔を出した頃やっとのことで駐屯所を後にした義希は、アパートへの帰り道で倫祐と鉢合わせる。
「倫祐!良かった、会えて。遅くなったけど、これ…」
 のんびりと歩いていたように見えたが、恐らくそんなに暇ではないであろう彼にまとわりついた義希は、駆け足口調で早々に用件を切り出した。が、品物を手の中に呼び出した所でふと思い出す。
「あ、皿は家なんだった」
 そう、買い出しの品と一緒に、昨日肉じゃがが入っていた丼も、家に着いたら一緒に返すつもりでいたのに。
 そうして頭を掻く義希の手から、何も云わずに買い物袋を受け取った倫祐は、開いた手にそのまま大きな皿を乗せる。
「へ?また貰っちゃっていいん?」
 ヨダレ混じりにまじまじと、渡された唐揚げと大根おろしのタワーを見詰める義希に、倫祐はやはり黙って頷いて見せた。
「助かったぁ、まだメシ買ってなかったんだわ。ってか、倫祐は何?どこ行くん?」
 ホッと息を吐く彼を見届けた所で進行を再開する倫祐を、振り向き気味に義希の声が追いかける。
「また仕事?」
 続けて問われて立ち止まった彼は、首だけ振り向いてまた頷いた。
「そか」
 唐揚げ片手に傘を持ち直した義希は、遠ざかる背中を更に呼び止める。
「なぁ倫祐。オレ、明日城に行く事にしたんだ」
 強い語気にも関わらず、倫祐はもう振り向かなかった。
「良かったら……」
 一緒に行かないか?その言葉は口から出ずに義希の胸の中に落ちる。
 雨に煙る視界の中だからだろうか、ビニール傘に覆い隠された倫祐の背中は、あっと言う間に見えなくなってしまった。



 その翌日も、やはり雨だった。



 梅雨だから仕方がないとは言え、先週までは晴れ間が覗いていたせいもあって、蔓延る憂鬱にも拍車がかかると言うもの。
 加えてこれと言った切欠こそあったものの、未だに踏ん切りが付かないまま約束をしてしまったがために、朝から妙に胃が痛む。
 空になった大皿を洗いながらそんなことをうだうだと考えつつ、無意味に唸りを繰り返す義希は、もやもやした気分のまま出勤し、いつもより短いその日の業務をなんとか乗り切ることに成功した訳だが。
 そのままうやむやにしてしまおうかと、タイムカードを切って駐屯地を出た瞬間、見計らったかのように沙梨菜に待ち伏せされていてはもうどうにもならない。
 心の中で項垂れてはみるものの、一度は彼女とも約束しているわけで、言いくるめられてその足で、二人はのろのろと城へ向かうことになった。
「でもさ、義希。どうしてそんなに嫌がるの?」
 不服そうな義希を覗き込むようにして問う沙梨菜もまた、不服そうに口を尖らせる。義希はその表情を見てうーんと一つ唸ると、頬を掻きつつボソリと呟いた。
「いや、何て言うか…オレ、拗ねてるのかも」
「へ?」
「有理子が冷たいから、拗ねてるのかも」
 丸くした目を瞬かせ、二度頷いた沙梨菜は義希の思考を促すように相槌を打つ。
「うんうん、なるほど」
「でも、オレはそれでも、どうしていいか分かんないんだ」
「そんなの簡単だよ!話せばいいんだよ」
「そうなんだよな、簡単なことのはずなんだ」
 義希は生真面目に首肯して沙梨菜を振り向いた。その瞬間、にぱっと笑顔を浮かべた彼女は当たり前のように口にする。
「大丈夫だよう。有理子だって、きっと待ってるよ?」
 それを聞いて、昨日のくれあや八雲との会話に確信を強めた義希は、安心したように笑顔になった。沙梨菜はそんな彼に頷いて、ピョコピョコ跳ねながら道の先を指し示す。
「じゃ、義希?行く前にテイクアウト出来る美味しいお店に連れてって♪」
「いやいや、この街ならオレより沙梨菜のが長いんだし、詳しいんじゃないん?」
「沙梨菜は何だかんだ、海羽ちゃんの料理が一番好きだから」
「ああ、帰って食ってるからアレなんか」
「そゆこと」
「わーった、んじゃあそこかな」
 くるくる回る沙梨菜の背を押して進行方向を決めた義希は、本来の目的も忘れかける勢いで食料の事を考え始めた。


 そうして二人は大量のケバブをポケットルビーに忍ばせて、意気揚々と昼下がりの王座の間の扉を潜る。


「沢也ちゃーん」
 ばたーんと、開いた両開きの扉が出す音にも負けぬほどの声量で名を呼ぶ彼女を見て、呼ばれた本人は隠しもせずに盛大なため息を付いた。
「ひ、久しぶり〜」
 そんな様子すら懐かしいと思いつつ、気まずさ全開で中途半端に挨拶を飛ばす義希を他所に会話は続行される。
「みんな、またお昼食べてないんでしょ?ケバブ買ってきたから食べて食べて?」
「わあ、ありがとうございます」
 中央の長テーブルに置かれた差し入れを見てにっこり微笑んだ蒼は、その足で有理子の部屋まで歩み寄り扉をノックした。
 数秒後に顔を出した有理子は、部屋に充満する匂いを嗅いで表情を緩める。
「わー良い匂いー♪ビール飲みたいー!」
「いっぱいあるし、夜まで取っとけば?」
 能面のように張り付けた笑顔で提案した義希の、あまりにも酷いよそよそしさに、回りの空気が一瞬だけ固まった。
「……へ?オレ何か変なこと言った…?」
「顔ガッチガチだよ?義希ぃ」
「えっうっそ、そんな筈はっ」
「っていうか!あんたちょっとこっち」
 ハッとしてペタペタと顔を触る義希を見て、有理子はそのほっぺたに向けて手を伸ばすと、無情にも引っ付かんで引きずり始める。
「いてっ!痛いって有理子…?何々なん…?」
「お前、経費削減で今日から家なし」
「ふあ?!」
「有理子さんと同室でお願いしますね。義希くん」
 呆れ顔の沢也と笑顔の蒼にそう言い渡され、変な声を上げた義希は数秒間フリーズした後、なんとか状況を把握したようだ。
「まじで?!」
「いいからこっち来る!模様替えくらい手伝いなさいよ!」
「へ?わま、分かった、分かったから離してイテテテ…」
 驚きと喜びと戸惑いと、様々な感情を表情と仕草だけで表現する彼を、有理子は問答無用で部屋に押し込む。
 パタリと閉まった扉に浴びせられた三つのため息は、そのまま小さな会話に繋がった。
「それにしても、良くオッケーしたね?有理子」
「まぁな。っつーか、凹むくらいなら最初からそーしとけっつーの」
「彼女の場合、義希くんが素直過ぎる分、素直になれないんですよね。きっと」
「そーゆーもの?」
「そーいうもの、だと思いますよ?」
 輝かせた瞳を傾かせる沙梨菜に倣って、返答する蒼の首も同じ方向に倒される。
「じゃあね、じゃあね、沙梨菜がもっと素直じゃなくなれば沢也ちゃんも…」
「ねーよ」
 そんな二人を背中で見守っていた沢也が先回りでぶったぎると、沙梨菜の首が元に戻ると同時に微かに俯いた。
「ぶー。でも良いんだぁ。最近沢也ちゃん格好いいし♪」
「そうなんですか?」
「うんー。ぶちギレて寡黙になるんだけどその横顔がもう…」
「おい、そいつ摘まみ出せ。キーキー声で気が狂う」
「むー。じゃあちょおっとレコーディングのリハ行ってくる。だからちゃんと食べてね?沢也ちゃん」
 蒼のフォローも待たずにそう言って、沙梨菜はそそくさと出口に向かう。その際見せた心配そうな表情に頷いて、蒼はテーブルに盛られたケバブを二つ手に取った。



 しまった、折角だからケバブも一緒に持ってくるんだった。
 そんなことを考えながら部屋の戸を閉めて義希を解放した有理子は、ふらふらと部屋の中央付近に歩いていく彼の背中を見据える。
 まだ片付け途中の室内をキョロキョロと見渡しながら、上着を脱ぐ義希の後ろで有理子が不意に足を止めた。
「ふーん、成る程ね…」
 低く含みのある声色に振り向いた義希は、何かを拾い上げる彼女を不思議そうに見詰めながらジャケットを椅子の背にかける。
「外で女の子追っかけてたってわけ?」
 そう問い掛ける有理子の手元でピッと翻ったのは、長方形をしたエンジ色のカードだ。義希に向けられた側に書いてあるのは数字の羅列、つまるところ電話番号である。
「それは…」
「言い訳なんて、聞きたくないし、仕方がないことくらいは…」
「いや、有理子…」
「忙しくて大して話もできてないんだから、当然よね」
「もしかして」
 憤りと焦りと、不安が混じった捲し立てを遮るように肩を掴み、目を逸らす有理子と無理矢理視線を合わせた義希は、緩んだ頬を隠しきれずに思ったままを口走った。
「ヤキモチ焼いてくれてるん?」
「な、何よその顔っ!」
「いはいいはい、おひつけっへ」
 両頬を左右に引っ張られ、涙目になりながらも有理子の手からカードを浚った義希がそれを裏返すと、必然的に有理子の攻撃の手も止まる。
「これ、良く見てみ?」
「焼き鳥…」
「そ。焼き鳥屋の割り引き券。つまりこれは焼き鳥屋のおばちゃんの電話番号。今度の祭りでおっちゃんが屋台出すから手伝って欲しいって、打ち合わせようにさ」
「…なら、なんでよ」
 一息に事情を説明し終えた義希に、有理子の腑に落ちない瞳が問い詰めた。
「なんで、避けてたの?」
「なぁ、有理子…」
 被せるように名を呼んで、躊躇いを振り切るかのように勢いを付けた義希は、戸惑う有理子に胸の内を絞り出す。
「オレ、お前の傍に居ても良いのか?」
「…何をそんなに気にしてるの?」
 ため息交じりにそう問い返した有理子は、両手を下ろして義希を見上げた。それを受けた彼は狼狽えて瞳を泳がせていたが、大きく縦に首を振って決意を示す。
「そうだな。一個目は、海羽のことかな」
 瞬きで続きを促す有理子に、義希は小さな間を置いて控え目に繋げた。
「オレがここにいたら、あいつは有理子を頼って来れないんじゃないかって」
「…あんだが居なくても、一緒よ」
 揺らぐ瞳に真っ直ぐに答えた有理子は、次に床に向けて理由を呟いていく。
「あの子は自分の事で回りが苦しむのを嫌がるから。そうやって気を使って、逆に気を使わせて。もっと負担かけるくらいなら…普段通り振る舞ってあげた方がマシ」
「そっか…海羽らしいな」
「…他には…?」
 苦笑を浮かべる義希が逃げないようにするためか、有理子は間髪いれずにそう尋ねた。彼は彼でそれに気付いているのかいないのか、ゆっくりと頷くことで間を埋める。
「オレ、空気読めないだろ?」
「そうね。その上馬鹿だし」
「そう、悔しいけどほんと、そうなんだよな。だから…」
 自らを嘲笑いながら息を付き、天井に上げていた視線を再び有理子に戻した義希は、微妙な笑顔で言い切った。
「だから、分からないんだよ」
 何の事かと首を傾げかけた有理子は、伸びてきた義希の手に驚いて口をつぐむ。
「オレは何処まで踏み込んでいいんだ?」
「何処までって…」
「お前との距離を、何処まで縮めて大丈夫なのか…ってこと」
「な…」
 何を言って……そう続くはずの言葉を遮ったのは義希による突然の行動だった。それは突然とは言っても、彼が毎度のように仕掛けてくる攻撃のようなものであって、予想が出来ないわけではないのに、今回も避けることが出来ずに。すっぽりと義希の腕の中に収まった有理子は、耳元で続けられる問い掛けで更に硬直する。
「これだと近い?」
「そう言う…物理的な問題なわけ?」
「もひほん、そへだけひゃないお」
 返答に困った有理子は、先程と同じ要領で義希の抱き付き攻撃からなんとか抜け出した。
 赤くなった頬を擦りながら、それだけじゃないけど、と言い直した義希は、大きく肩を竦めて困ったように笑う。
「でもな、近付けば近付くほど構ってもらいたくなる。オレ、馬鹿みたいに寂しがり屋なんだよ」
「構ってちゃん」
「まぁ、そんなとこ」
 眉をしかめてポツリと溢す有理子と、落胆したように肯定する義希と。どちらからともなく向き合った二人は、曖昧な笑みを交わす。
「でも、お前が忙しいのはよく分かってるつもりだから。そこんとこの距離感が掴めなくて…ちょっと、会い難かった」
「馬鹿ね。だからって、離れてれば平気ってことでもないんでしょ?」
「うん。お前の言うとおり、何の解決にもならなかった」
 撫でていたほっぺたをそのまま掻いて、観念したような笑顔を浮かべた義希は、それをそのままコロリと人懐っこいものに変えた。
「でも、離れてみてようやく分かったよ」
 キョトンとする有理子の、組んだままの腕を引いて。
「有理子との、距離感が」
 懲りること無く抱き寄せた義希に、呆れと焦りの混じった有理子の声が抗議する。
「全然分かってないじゃない…!」
「あはは、いやいや、これでいいんじゃね?」
 もがく彼女をしっかりと抱き止めて、ふーっと一息まで付いた彼は、その耳元に小さな声を落とした。
「遊びに行きたいとか、そんな我が儘言わないから」
 ピタリと固まった有理子の両肩に手を置いて、顔を上げた義希は屈託の無い笑みを傾ける。
「これから一日にちょっとだけでも良いから…構って?」
「構うって言ったって…」
「こーやって、くっついて居られるだけで、オレは満足」
 そう言って再度肩に頭をのせる義希に向けて、有理子の口から何とも言い難いため息が吐き出された。
「能天気でいいわね…あんたは」
「もしかして、照れてる?」
「……馬鹿」
 引っ付かんだ髪を横に引かれ、無理矢理首を倒された状態で笑う義希は、然も嬉しそうに納得の独り言を溢す。
「なるほどな。つまりその態度は…照れ隠しと取って良いわけだ」
 ドガス。コメカミに落ちた鈍い音を置いて背を向ける有理子を、なんとか痛みから立ち直った義希が唸りながらも追いかける。
「いって…殴ることないじゃんかよう…」
 当たり前の小言はスルーされ、未だに痛む箇所にウメボシまで食らいながらも、義希はその後、言われるがまま模様替え作業に打ち込んだのだった。


 斯くして。

 二人の今更な共同生活が、この日幕を開けた。




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