Lunch Time:後編






 謝罪がしたかったのだろうか。
 許してほしかったのだろうか。

 違う。

 ただ、後悔をしたくなかっただけ。
 これは僕の我が儘だ。



 どうしてその店を選んだのかと問われれば、他にも幾つか理由が上げられた。
 一つは、秀が難癖を付けたせいで店の人気が落ちてきていること。この繁華街で生き残るには人気を維持しなければならない。潰れてしまってからでは行くことも叶わなくなる。
 だからと言って、外食ばかりしていられる程時間に余裕もない。それは彼女にも、彼女の友人にも言えること。
 二つ目は、どんな状況でも彼となら大丈夫だと、そんな気がしたからだ。根拠の無い自信のように見えるかもしれないが、正直なところ、緊張で周りが見えなくなる事を彼女自身も予測していると言えるだろう。
 最後にもう一つ。単純に、この店の料理をゆっくり堪能したかったから。



 倫祐は水を飲むついでに、メニューと睨めっこする彼女の様子を盗み見る。
 食べたいものの目星が付いた彼とは違って、海羽はまだ迷いに迷っているようだ。枚数のあるメニューをペラペラと捲っては思案を続けている。
 別に急ぐ必要もないのだろうが、背中に注がれ続ける視線が嫌に痛く、倫祐は海羽の謝罪の意味を理解した。最初こそ自分に対する訝しげな目線だと思っていた彼も、時折耳に入る内緒話を聞いてしまっては納得せざるを得ない。
 成る程、随分と場を引っ掻き回した上での退店だったのか、とか。その上でロボットと噂されている自分を引き連れての再来店では疎ましがられるのも仕方がないのか、とか。ついでに以前はあれだけ人気で、必ず待ち時間があったと聞いていたこの店に、いくら時間が早いとは言え直ぐに入店出来たのもそのせいなのかもしれない。
 席に付いてみても客は疎らで、居るのは恐らく常連ばかりだろう。そちらからも頻りに鋭い眼差しが飛んでくる。
 言ってしまえば、彼自身は慣れてしまったのでなんともないと思っており、寧ろ現状把握の手段として重宝しているのだが。目の前に座る海羽が、それに耐えているのか、それともまだ気付いていないのか。
「決まった…?」
 と、顔色を窺っていた倫祐に海羽が訊ねる。首を傾けて答えた彼に、彼女はおろおろと言った。
「あの、迷ってて…」
 苦笑と共にメニューをテーブルに広げ、海羽は唸りながらも提案する。
「食べたいの色々有るんだけど、残しちゃうのは悪いから…あの、だから、その…半分こ、してくれないか…?」
 遠慮がちなそれに、倫祐はただ頷いて答えた。
「ほんと?えと、じゃああの、一つは倫祐が選んで?それで、えと、もう一つは僕が選んでもいい?」
 興奮気味に言う辺り、本気で色々食べてみたいのだろう。再度頷いては指先で自分の注文を伝え、倫祐はそっと灰皿を寄せた。海羽はその仕草を無意識に追い掛けながら、自分の注文を纏め上げる。
 彼がかなりゆっくりめに一本を吸い終えた頃。
 深呼吸と共に店員を振り向いた海羽は、やって来た不機嫌そうなウエイターに注文を告げた。
 出来るだけつっかえないようにと、整理した文章を時々噛みながらも、彼女はなんとか役目を終えて息を付く。レモンの入った水で喉を潤し、ゆっくりと肩の力を抜くと、自然に倫祐と目が合った。
 向き合って座っているのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、二人は揃って気まずそうに視線を流す。

 何時ものように下を向いた海羽は、脳内シミュレーションに尽く失敗して頭を真っ白にしていた。
 さっきのケーキのように、聞きたいことは山程ある筈なのに。いざ話そうと思うと、質問を仕舞っていた箱ごと何処かへ飛んでいってしまうようだ。
 つまりは、ああしてケーキの話を出来たのは、彼女にしてみれば奇跡に近いのかもしれない。
 そうして予想通り、現状でいっぱいいっぱいになる海羽の正面で視線を横に流した倫祐は、煙草に火を付けて短く煙を吐く。
 店の空気が相変わらずであることを無意識に確認したり、俯いたままコップの中身を凝視する海羽を横目に見据えたり。
 何時ものように最小限の動きだけで全ての観察をし尽くして、ついでに煙草の火元も根本まで到達した辺りで、彼は自分なりの一つの答えに辿り着いた。
 やっぱりつまらないだろうな…これ。と、頭の中だけで呟いて、どうしたものかと首を掻く。
 短くなりすぎた煙草を灰皿に押し付けつつ、テーブルの上を見渡したが目ぼしいものは何もない。
 オルゴール調のBGMは誰もが知っているクラシックのアレンジで、落ち着いた店内をお洒落な雰囲気で満たしていた。恐らく本物であろう植物が並ぶテラスに人影は無く、大きな窓からは心地よい程に日光が注がれる。
 時が流れる度に、隅っこに置かれた小さな花瓶と、二人の前のグラスの凹凸が、丸形の木製テーブルの上に屈折させた光を様々な形で映し出した。
 半ば思考を止めた倫祐と、目まぐるしく思考を巡らせながらも声が出せない海羽との間に、ウエイターが運んできた紅茶を乗せる。
 ガラスのポットは新たな光の色を生み出したが、二人の口から言葉は出てこない。代わりに揃って小さく頭を下げる彼等に、ウエイターも気まずそうに肩を跳ねさせた。
 既に飲み頃だろう紅茶を透明なカップに注ぐと、テーブルの周囲が優しい香りで満たされる。
 海羽がまずストレートで味を楽しむ間に、付属されてきた角砂糖を包みから出しては二つもカップに放り込んだ倫祐は、続けてミルクも流し込んだ。
 お砂糖が包まれてるの可愛いけど、倫祐みたいに甘党な人は大変だな…と密かな感想を抱いた海羽は、俯き気味に小さく笑う。
 対して、紅茶に解されたようなその表情に安心した倫祐は、一口飲んでから砂糖の包みに手を付けた。
 彼がなんとなしに始めたのは、夏頃にリーダーの娘、渚を相手にした時に好評だったものである。勿論大人の海羽にもそれが通用するとは思っていないが、手持ち無沙汰と言うやつか。これだけ紅茶の香りが充満する中で煙草を吸いまくるのも、何だか気が引けるのだ。
 海羽は倫祐の手が生み出す小さな小さな折り鶴を、紅茶を手にしたままじっと見据える。
 折り方を覚えるように、指先の動き一つ一つを追い掛ける彼女の瞳は瞬きの間すら惜しむほどに。
 その様子は周りで見ていた数人が、海羽が鶴の作り方も知らないお嬢様か何かかと疑う程であった。
 珍しく指先に集中していた倫祐が顔を上げると、未だ固まったままの海羽の姿が目に入る。尻尾を持ってくるりと回せば、彼女の瞳が瞬いた。
 それを見て思わず周囲と同じ感想を抱いた彼は、鶴にもう一つ細工を施す。
 ぽろんと置かれたのは脚が生えた鶴。見ようによってはなんだか可笑しく、全く別の生き物にも見えた。
「ふふ…」
 海羽が小さく吹き出すと、倫祐は一つ瞬いて紅茶に手を伸ばす。彼女は指先で小さな小さな折り鶴…のような何かをつついて、そっと持ち上げた。
「凄いな…練習したらこんなに小さいのも作れるようになるのか?」
 問い掛けに、倫祐も首を傾けて答える。海羽はそれを否定とも肯定とも疑問とも受け取って、なんとなく言い訳に走った。
「僕、鶴って苦手で…箱ならいくらでも作れるんだけどな…」
 箱と聞いて、良くお年寄りが折っている物体を思い浮かべた倫祐は、コーラスで老人に大人気だった海羽の身の上を思い出して納得する。
 そうして彼が小さな箱を折り始めたところに、まずピザがやって来た。トマトソースにモッツァレラチーズ、バジルが乗った典型的なマルゲリータだ。
 付属のカッターに手を伸ばした海羽にそれを譲り、倫祐は取り皿を並べて行く。
 花瓶の前に鶴と箱を並べ、各々取り分けては口に運ぶ間にも、メインであるパスタが二種類持ち込まれた。
 海羽が頼んだのはトマトソースにキノコとベーコンがふんだんに使われた一品で、上には半熟卵が乗せられている。倫祐の方は大振りの海老やアサリ、イカなどが入ったペペロンチーノ。上に乗せられた水菜がさっぱりした印象を与えていた。
 テーブルになんとか収まったそれ等をそれぞれ半分に分けて、三つの味をゆったりと噛み締める。
 二人の表情は当然対極に位置するものがあったが、和やかな空気だけは不思議と一致していた。
 普段はもてなす側の海羽が、食べながらも調理法や食材などを推理する間、倫祐ものんびりペースで食事を進める。
 旅をしていた頃の事を思い返しても、食事ペースはそんなに遅い方ではなかった彼の様子を前に、もしかしてペースを合わせてくれてるのではないか、とか。それともお腹すいてなかったのかな?とか。要らぬ心配をしては内心ドキドキする海羽と。
 今は味わって食べているけれど、良く周りに合わせて焦って食べているのを見た事があるから、せめて食事だけでも…と考える倫祐と。
 静かな食事はゆっくりと、言わずとも「美味しいです」と言わんばかりのオーラを出しながら、数十分後に終了した。
 それからすぐに、食器を下げて貰うついでに紅茶を追加で頼み直すと、デザートと一緒に運ばれてくる。
 苺のタルトと、苺のシャルロットケーキと。並んだ品々の輝きに負けぬほど輝く眼差しを注いでいた海羽の前に、倫祐が半分に切ったケーキを差し出した。
「いいの?」
 本日何度目になるか、驚きと喜びとが入り交じったような問いに、倫祐が頷いて答えるだけのやり取りが交わされる。
「じゃあ、あの、こっちも切るね?」
 そう言って、海羽も何とかタルトを切り分けては交換が終了した。
 フォークに苺とタルト生地、カスタードクリームを一緒に乗せて大口を開ける。
「おいしい…」
 味わうなり幸せそうにそう言った海羽は、やはり幸せそうにふんわりと微笑んだ。
 すぐ目の前でそれを目視した倫祐は、苺の偉大さに脳内で密かにひれ伏したりとか。きちんと過ぎるほど笑う彼女を見て単純に安心したりだとか。同時に、自分の感情が揺れ動くのを察知して人知れず戸惑ったりだとか。
 その間にも、海羽の表情は目まぐるしく動く。これって、何の素材だろうな?とか、パイ生地がさくさくしておいしいとか。普段の彼女からは想像も出来ない程わくわくを振り撒く台詞が独り言にならぬよう、倫祐はとにかく首を動かした。
 海羽が興奮するのも良くわかるくらいにケーキはどちらも美味しく、あっと言う間に口の中に収まってしまう。
 海羽の方もお腹一杯と言いながら、お皿はきっちり空である。
「みんなにも買って帰ろうかな…あ、でも見付かると大変なんだった…」
 紅茶を飲みながらふわふわと続く独り言が、不意にきちんと倫祐へと向けられた。
「倫祐、あの、今日このあとって…」
 名指しの問いに首を横に振ると、海羽の首がパタリと倒される。
「ほんと?じゃあ、後で持ってきて貰ってもいいかな?大丈夫になったらハルカに伝言頼むから…」
 控え目な願い事を快諾し、砂糖を入れずに紅茶を啜った倫祐に。
「良かった…ありがとう…」
 海羽はまた微笑んで、ふにゃりと肩の力を抜いた。

 テイクアウトの注文も済み、追加の紅茶も無くなって、お腹が落ち着いてきた頃を見計らい、二人は静かに席を立つ。
 随分と長居してしまったように感じるが、実際は一時間も座っていなかったその席を、出来るだけ綺麗な状態にして会計へと向かった。
 倫祐はここでも海羽の動きを制止して、何処からともなくお金を取り出す。海羽はポケットルビーから直接出てくるのだと理解していながら、その不思議な光景に目を瞬かせた。
 財布持ってないのかな…?とか持たない主義なのかな…?とか。彼女がふわふわ考えている間にも、会計を済ませた倫祐がケーキをルビーに仕舞い込む。
 さて後は帰るだけだ。
 しかしここで何かを言うべきか、それとも黙って去るべきか。
 答えが出せずに居る海羽に、ウエイターの方から声がかかった。
「またいらしてください」
 にこやかに、自然と口にされたその言葉を聞いて。
「はい。ご馳走さまでした」
 海羽はきちんと頭を下げると、ふわりと笑って店を後にした。

 暫く大通りに沿って進み、人の流れがゆっくりなところへ来るなり海羽呟く。
「もうこんな時間なんだな…」
 倫祐が携帯に表示された時間をこっそり覗くと、デジタル数字が十一時半を示していた。
 路肩に寄りがてら城を指差す彼に、海羽はわたわたと人差し指を伸ばす。
「えっと…もう一ヶ所だけ…」
 城とは逆方向に向けられたそれに、倫祐は瞬きの後小さく頷いた。
「へ、平気?疲れてない?」
 下から見上げて様子を窺うも、何ともなさそうにまた頷きを返された海羽は、真意を探すことを止めて素直に喜ぶ事にする。
「ありがとう…じゃあ、あの、噴水広場に…」
 もう殆ど見えていると言っていい目的地は、昼時が近いこともあって賑わいを見せていた。
 数拍置いて進行方向の流れに乗った二人は、天に上がる小さな水飛沫を眺めながら歩を進める。
 通り過ぎる人々の中にはパトロール中の近衛隊の姿もあったが、人混みの中でハッキリ判別できるのは倫祐だけなので、特に反応もなく通り過ぎて行った。そしてそれは他の街人達も同じ。
 近衛隊のジャケットを着ていなくとも、噂の対象として認識されている彼が指を差される事はあったが、その斜め後ろを歩く海羽の存在に気付く者は少なかった。
 海羽当人も彼の歩調を崩さぬよう…つまりは転んだり躓いたりしないように気を付ける事で精一杯なのか、相変わらず噂話を気に止める様子もない。
 内心肝を冷やしていた倫祐は、その事実を認識して一先ず安心する。
 一方海羽は足先に集中していた意識を、僅かながら前方に持っていって目的のものを探した。
 沙梨菜や有理子から話に聞いていた、黄色いワゴンの…
「あった…」
 呟きに振り向いて、彼女の示した先を見据えた倫祐が、心なしか訝しげな眼差しを彼女に向け返す。
 海羽はそれに気付いているのか居ないのか、パタパタと列の最後尾を目指して行った。
 美味しいと有名なクレープ屋の話は、倫祐も義希や圓に聞いてはいるが。
 じっとりとした眼差しを振り向いた海羽は、その黒色に「まだ食べるのか?」と問われているような気になって慌てて言い訳する。
「だ、だって…甘いものは別バラって言うだろ?」
 それを聞いた倫祐は、悪戯に微笑む代わりに首を傾げて見せた。海羽もその意図を理解したのだろう。
「た、確かにもう別バラも埋めた後だけど…でも…」
 言い訳に言い訳を重ねて、しかしそれでも食べたいんだもんとは開き直って言えぬまま顔を赤くした。
 そこで順番がやってきて、ワゴンの中から注文を聞かれる。
「あ、あの…苺ババロアスペシャルを…あと…」
 予め決めていたものを頼んだ海羽が倫祐に視線を流すと、彼は店先にぶらさがった広告の一つを迷い無く指差した。
 海羽の目と、店員の目が丸くなる。
「こちら、相当大きいですが…」
 遠慮がちに問うてくる店員に頷いた倫祐は、無表情のまま二枚の札を呼び出す。
 店員は了承して会計を済ませ、手早くクレープ生地を焼いていった。
 目の前で行われるその行程を、海羽は背伸び気味に。倫祐は猫背の俯き気味に凝視する。
 一枚目。苺のババロアに生クリーム、パイ生地にバニラアイス、最後に苺を山と乗せて出来上がり。
 二枚目。角切りシフォンケーキ、生クリーム、カスタードクリーム、ナッツ、バニラアイス、プリン、苺、パイ生地、苺アイス、最後にまた苺とナッツ、プラス細長いクッキー…。
 渡されたクレープ片手に倫祐を見上げた海羽は、彼が受け取った巨大なクレープのような何かをぽかんと見据える。
 後続の客達も同じような目でそれを眺める中、彼はふわりと列を離れて噴水に向かって行った。
 海羽はそれを早足に追い掛けて、噴水の縁に座っては早速クッキーを引き抜いた倫祐にわたわたと訊ねる。
「倫祐の別バラの方がどうなってるんだ?何処に入って何処に消えるんだ?」
 問われた彼は、黙々とクッキーでクリームとアイスを掬いながらも首を傾げ見せた。対して彼女はクレープ両手にむぬぬ、と小さく唸る。
「なんかずるい…」
 納得いかなそうにそう言いつつも、彼の隣…と言っても間には鞄が幾つか置けそうな程スペースがあるのだが…に座った海羽の表情は穏やかだ。
 それは相変わらず甘いものに目がない彼の様子に和んだからなのだが、倫祐は苺効果と信じて止まない。
 そんな噛み合っていそうで何時までも噛み合わない二人は、噴水を背にひたすらクレープを消費する。
「倫祐、ほんとに行きたいとこ、無いのか?」
 途中、苺の魅惑から抜け出た海羽が唐突に問い掛けた。巨大なクレープの天辺を荒らしていた倫祐は、振り向きがてら首を倒す。
「だって、僕ばっかり我が儘言ってるから…あの…」
 本当に良いのだろうか、とでも言いたげな海羽の俯き気味な瞳の前に。
「誕生日」
 返ってきたチケットをひらりと翻し、倫祐は短く呟いた。
 顔を上げるなり、幻のように指輪の中へと吸い込まれていくそれを瞬きで見送った海羽は、瞳を揺らがせポツリと言う。
「そう、だけど…」
 先を言い兼ねて、しかしそのままにしておくのもどうだろうかと悩みかけた彼女の隣。
 スプーン代わりにしていたクッキーがリタイア為、直接壁から崩しにかかった彼が顔を上げた途端。
「倫祐、鼻に付いたぞ?」
 零れた笑いがもやもやを吹き飛ばす。
 指摘に頷く代わりに鼻先を拭った倫祐は、楽しげな海羽の横顔からゆっくりと目を反らした。
 空は青く、通り過ぎる人々も穏やかに。やっと暖かくなってきた風が酷く心地よくて、思わず欠伸が出ていきそうだ。
 ふわりと天を仰いだ海羽は、春めいた街の様子を確かめるついでにそっと倫祐の仕草を窺う。

 いくら誕生日とは言え、チケット一枚でこんなに甘えてしまって良いのだろうか?贅沢じゃないと、有理子には言われたけれど…これが贅沢じゃないなら、何が贅沢なんだろう?
 ただ、一緒に居て、少しでも同じ時間を過ごせればそれだけで幸せなのに。こんなに近いところに、こんなに長い間…二人だけで一緒に居たことなんて、あの頃だってそんなに無かったのに。

 ぐるぐるとそう考えては顔を赤くした海羽は、それを隠すためにクレープを口元まで持ち上げた。
 ついでにかじった部分に潜んでいたババロアが、柔らかな甘さと酸味を口一杯に広げていく。
 美味しいのと、幸せなのとで勝手に緩んでいく顔をどうすることも出来ず、微笑んだ海羽はまた、チラリと隣を盗み見た。
 まぐまぐと。器用に決壊を防ぎながら、生地とクリームとを口の中に入れた倫祐は、視線に気付いて海羽を振り向く。
 苺でも欲しいのかと、彼が首を傾けたところにピロピロと小さな機械音が響いた。
「あ…」
 然して五月蝿い訳ではなかったが、海羽は慌てて携帯を取り出し音を止める。届いたのは沢也からのメールで、本文には簡潔に「秀が来た」とだけ記されていた。
「…帰らないとな」
 海羽は倫祐に携帯の画面を見せて肩を竦める。今にでもやって来るのではないかと、彼女の瞳に怯えた色が戻っていた。
「ありがとうな?」
 頷きかけた倫祐は、不意に零れた感謝の言葉に首を傾ける。
 それは他意のない、単純な疑問として。「何が?」とでも言いたげな瞬きに、海羽は用意の無かった続きを付け足した。
「た、楽しかったから。あの、ほんとに…」
 しどろもどろに口にする彼女に、倫祐は頷けずに身を固める。
 彼にはその実感が無かったから。自分ばかりがそう思っているものだと思っているから。それは彼女の言葉を聞いた今も、変わらない。
 社交辞令だと解釈した彼が肩を竦める前に、海羽の首がパタリと傾いた。
「だから、ありがとう…」
 しみじみとそう口にして、また微笑んで。
 照れ隠しにそのまま踵を返した彼女のサロペットが、ぐいっと後ろに引っ張られる。
 驚いて振り向くと、肩紐を掴んだ倫祐がポツリと呟いた。
「付けるから」
「え?」
 先程よりもあからさまに首を傾けた海羽に、彼は彼女の手に握られたままのクレープを指し示す。続けて倫祐は道行く群衆を示して首を倒した。
「あ、そっか…そうだな…」
 確かにこの人出と、暖かさで今にも溶け出しそうなアイスの入ったクレープとの相性は最悪だろう。
 納得した海羽は座り直して急ぎ目にクレープを片付けることにした。
 あむあむと頬を膨らませながら食べる様子はハムスターのように。
「あ」
 いつしか勢い余って鼻にクリームをつけた海羽は、何を言われた訳でも無いのに恥ずかしそうに顔を俯けた。
 そうする間にも、巨大なクレープの尻尾を口からはみ出させていた倫祐が、ふと思い出しては空を仰ぐ。
 そう言えば、この後何か用事がある筈では…。と。それが自分の勝手な解釈であるにも関わらず、勝手に決めつけていた彼の脳内で緊急会議が開かれた。
 しかしどのみち秀が来ているのであれば、その用事も無くなってしまうのだろうとの答えに行き着いた事で、それは早々に終了する事となる。
 未だクレープと戦う海羽の横顔を横目に、火の付いていない煙草をくわえた倫祐は、見えない煙をふうっと吐き出した。







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