Lunch Time:前編





 
 その日も朝から呼び出された。

 何時だったか、義希が言っていた海羽の誕生日。
 その当日が非番な時点で予測は出来たが、ハルカが通達に来たときには思わずに居られなかった。
 やっぱりな、と。
 チケットを渡すだけでなく、きちんと「何かあげなさい」と言う有理子からの圧力を感じながら、一際ゆっくりと丘を登る倫祐が人知れず溜め息を付く。

 自分はともかく、彼女達にとっては大事なイベント事なのであろうその当日に。出向いてみたところで何も返すことなど出来ないのだから。
 無駄足になるのは一向に構わないが、あちらには迷惑になりそうで酷く申し訳がない。

 いつもの如くそんな憂鬱を背中張り付けたまま王座の間に辿り着くも、誰に気付かれる事もなく迎えられる。
 彼の心情はともかくとして、秀の姿が見えない室内には至って平和な空気が流れていた。いくら最近来ていないとは言え、今日この日に彼が居ないのも不思議に思えるが、何を隠そう、本日が奇跡的に水曜日だったことが理由の全てである。
 静かな中。とっくに読み終えたであろう朝刊が積まれた長テーブルで、算盤片手に書類を捌いていた有理子がついっと顔を上げては不敵に微笑んだ。
「ちゃんと来たわね?」
「来ねえと怖えからな。どっかの誰かが」
「そうよー?良くわかってるじゃない」
 歩み寄ってくる彼女から若干引き気味に、扉の前に立っていた倫祐が茶々を入れた沢也を見据える。彼はパソコンに視線を固定したまま深い溜め息を吐いた。
「諦めて座っとけ」
 諭されて、ついでに有理子に引っ張られ、どうにもならない事を理解した倫祐が大人しく席に着く。そこにハルカが降りてきて楽しそうに言った。
「今来るって」
 聞こえた訳でもないだろうに、息を付いた有理子がさっさと仕事に戻っていく。沙梨菜と義希が仕事だと言うことは知っていたが、会議なのか何なのか、蒼の姿も見えない。
 伝言終えたハルカはと言えば、先まで仕事をしていた為か、これからゆっくり眠るつもりでいるらしい。欠伸をしながらふにゃふにゃと沢也の膝の上へ移動した。
 猫だから余り気を使わないとはいえ、連日のスパイ活動は堪えるのだろう。数秒も経たぬうちに小さな寝息をたて始めた。
 寒がりなハルカに寝床にされた沢也は、ルビーからブランケットを取り出してハルカに巻き付ける。ついでに邪魔にならない位置まで退かしてみても、ハルカが起きる気配は無かった。
 そこに丁度、魔導課に繋がる扉から海羽が顔を出す。
「ごめんな、ハルカ…って、あれ?寝ちゃったのか?」
 彼がどんな声のかけ方をしたのかは分からないが、戸惑う海羽を有理子が呼ぶ。
 振り向いた海羽が倫祐の存在に気付いて硬直したのは言うまでもない。しかし倫祐本人はその仕草を特別なものとして認識していないようだ。それはきっと、彼の目に映る彼女が何時もそんな感じだからだろう。
「今日非番だって言うから。この前のチケット使って誕生日祝って貰いなさい?」
 にこやかな有理子の提案に、海羽は頷く事すら出来ずに汗を飛ばした。
「ほら、何かお願い事ないの?」
 追加の問いで、日々繰り返し考えていた様々な願いを思い起こそうとするも上手くいかず。しかし流石に喋らなければ気まずいと思った彼女は、出てこない言葉を無理矢理捻出した。
「えっと、その…あ、あのね?」
 海羽がしどろもどろに呟く間、その様子に和む有理子と、我関せずな沢也と、無理に言わせなくてもと思う倫祐との空気が微妙な感じで混ざりあう。それに気付かぬ彼女は、ポケットから取り出したチケットを手にポツリと小さな声を出した。
「お…お茶…」
 閃いたのか、それしか思い出せなかったのか、長考の末の答えなのかは分からないが、俯けていた顔をがばりと上げ。
「一緒にね、あの…お茶とか…その、飲んで欲しいかなって…」
 そう、必死で訴える海羽の細い声が静かな空間に響く。尻つぼみのそれが消え去ると、当たり前のように静寂だけが残された。
「や、やっぱり…その…だ…駄目、かな?」
「全くもう…」
 苦笑いで誤魔化そうとする海羽の声と、呆れたような有理子の声とが重なる。
 相変わらずわたわたする海羽の前まで歩み寄り、有理子はそっとその顔を覗き込んだ。
「そんなちゃっちい事言わないで、お昼でも一緒に食べてきたら?」
 優しげなその声を、その内容を、解析していた海羽が理解すると同時にすっとんきょうな声を上げる。
「へ?!でもっ…」
「別に良いでしょ?倫祐」
 有理子による唐突な振りに固まった彼は、返事をしあぐねておかしな方向に首を傾けた。
「何よ。嫌なわけ?」
「ゆ…有理子…。無理矢理は…」
「何でよ。何でも言うこと聞く券でしょ?」
「でも、そんな贅沢…」
「何処が贅沢なのか教えて欲しいくらいだわ」
 穏やかな押し問答は、いつの間にか間に入った倫祐が、海羽の両手に握られていた券を拐った事で途切れる。
 二人が彼を見上げると、ただただ瞬きだけが返された。
「…ほんとに…いいの?」
 驚いたような海羽の声が問い掛ける。倫祐は有理子に目配せした後、躊躇いがちに頷いた。
「わ…あ、…じゃあ、あの、その…ちょっと、き、着替えて…」
「はいはい。行ってらっしゃい?」
 有理子が空いた両手と視線を右往左往させる海羽の背を押すと、彼女はそのままの勢いで自室へと戻っていく。
 残された倫祐は暫く何かを言いたそうに有理子を眺めていたが、諦めてくるりと踵を返した。

 彼は有理子に言伝て(と言っても外を指し示しただけだが)て、一足先に外に出る。
 街の入り口の少し手前にある、背が低いとも高いとも言えぬ広葉樹の下。視界は良好、城から続く道の全てが見渡せる、待ち合わせには持ってこいの場所だ。
 倫祐はその木に寄りかかり、煙草をくわえて小さく息を付く。
 逆に悪いことをしただろうか、とか。他にあげられるものがあったら良かったんだけど、とか。お金だけあげて別の人と行った方が良いんじゃないだろうか、とか。何よりも、おかしな噂が蔓延しているこの状態で、二人で下町を歩いたりして大丈夫なのだろうか、とか。
 有理子や海羽にも何か考えがあるのだろうと半分納得はしているものの、とにかく後悔ばかりが頭を占領するのだ。
 彼が延々とそんなことを考えているうちに、向こうから忙しない足音が響いてくる。パタパタと草原を駆けてくる彼女の足取りは、今にも転げそうな程危ういながら、それでもなんとか彼の前まで到着した。
「お…お、おまたせ…」
 息を切らせて中腰になった海羽の頭には、珍しくキャスケットが被せられている。ついでに何時もと全く違う服装や持ち物、微かに顔を上げた海羽の雰囲気を見て、倫祐の瞳がゆっくりと瞬いた。
 この後用事があるんだろう。と、解析の結果勝手な納得をした彼は、海羽の呼吸が落ち着くまでの間吸いかけの煙草を消費することにした。
 海羽もそれに気付いたようで、木陰に移動して息を整える。
 さわさわと木や草がざわめく以外は、街の喧騒が微かに聞こえるだけ。海羽は自分の呼吸音を妙に意識してしまい、通常の状態に戻すのにえらい苦労をしたわけだが。倫祐はそんなことなど気にしていない様子で、端から見れば悠長に煙草を吸い続けている。
 空には疎らに雲が浮かぶだけ。温かい陽射しが、まだ肌寒い空気をじわじわと暖めてくれていた。
「何処か行きたいところ、ある?」
 約5分後。海羽が口を開いたのをきっかけに、二人の時間は動き出す。

 何か話すべきなのだろうけれど、何を話してよいのかも分からない。その上彼の口は、他人に比べて固すぎるのだから、会話なんてそうそう成り立つものではない。
 だからこそ、直ぐに飽きてしまうだろうと、倫祐は申し訳なく思う傍ら高を括っていた。漏れるのは小さなため息だけで、何の言葉も出てこない。せめて邪魔にならないようにしなければ、と。歩を進めながらも、彼がそんなことを考え始めた頃。
 海羽は左側に佇む雑貨屋のショーウインドウを覗き込み、チラリと倫祐を振り向いて。
「寄っても良いかな…?」
 控え目にそう呟いた。
 倫祐はとりあえず頷いて、自分は外で待っていようと思ったのだが、彼女は入り口の戸を支えたまま彼を振り返る。
 一緒に入ったところで邪魔にしかならないんだろうけれど…こうなったら出来るだけ端に寄って待つ他ないか。そう考えて戸を支えた倫祐は、前を行く海羽の頭ごしに店内を見渡した。
 狭い店内に所狭しと並べられた品々はつい最近散々眺めたものばかり。カウンターに座る店主に対してはひたすら気まずい思いである。
 店の中程で立ち止まった海羽が上を見上げる様を隅の方で眺めてから、その後の視線の行く先を探す倫祐を彼女がチラリと振り向いた。
 天井近くまである高い棚の上の方は、彼女が背伸びをしたところで届かないのだろう。察して近付いた彼に、海羽は指先で品物を示して見せた。
「好きなんだけど、何時も買わせて貰えないから…」
 控え目な言い訳は、品物の内容に対するものではなく、その量に対するものだろう。抱えるほどもある大きなビニール袋にこれでもかと詰められているのは、赤とピンクの中間の色合いをした、丸くて艶やかなイチゴキャンディーだ。
 目の前にはお手頃サイズの小さな瓶詰めキャンディーも置いてあると言うのに、わざわざこれを選ぶ辺りをどう解釈したものかと。肩を竦めた倫祐は、下ろしたそれを持ったまま首を傾げて見せる。
 他には無いのか、と言いたいのだろう。数秒後にそう解釈した海羽は、辺りを見渡し首を振った。
 そうして直ぐ財布を出そうとする海羽を制し、にこやかに会計をしてくれた店主に頭を下げ、店を出た倫祐は扉を支えて彼女を待つ。
 あたふたと道に足を踏み出した海羽は、もう一件寄りたいところがあると言って、彼をキッチン雑貨店に連れていった。

 こちらも通路は狭かったが、雰囲気的に可愛らしい感じよりもスタイリッシュさが勝っていた為、先の場所よりも倫祐が浮いて見えない。同時に両店共に、たまたま滞在客が無かったので、思ったより気兼ねなく見て回ることが出来た。
 店内を一周して、変わった形のふるいやら大型のパウンドケーキ型やら、カップケーキの入れ物やら、ずらりと並ぶ包丁など、一通り眺めた倫祐が、棚の前で踞る海羽を見付ける。どうやら料理本のコーナーらしいその一角の、低い台の上に一冊を開いて見入っているようだ。
 驚かせないようにそっと、本に自分の影を重ねていく。徐々に暗くなっていく事に気付いた海羽が顔を上げると、きょろきょろと視線が泳いだ。
「あ、あのね…」
 ふわりと立ち上がり、意を決したような声を出した彼女に、倫祐は瞬きで答える。ただ、それは俯く海羽には見えなかったのだが、会話の進行には問題ないのでまあ良しとしよう。
 その数秒後、やっと顔を上げると共に本を開いて見せた彼女は、妙に必死で問い掛けた。
「あの、どのケーキが好き?」
 パチリ、と。再度瞬いた倫祐と、瞬きもしないで彼を見据える海羽との視線が交差する。
 その短い間に、きっとどれを作るかで迷っているのだろうと、見当違いな見解で納得した倫祐は、本を受け取りページを捲った。
 流れる写真を眺めながら、彼は彼女がどう言う趣旨で作るつもりなのかを考える。来客用か、自分用か、はたまた誰かに頼まれたのか。…聞けば直ぐなのに、推察で済ませようとするのが彼の悪いところだ。
 海羽も海羽で、緊張の余り意図を伝えていない事に気付いておらず、頭の中を占領する期待を表に出さぬようにするので精一杯である。
 倫祐が甘いものが好きだと言うのは最早周知の事実だが、その中でも彼がどれを好むのかを、海羽はずっと知りたかったのだ。
 さて。噛み合わぬ思惑はどの方向に進むのかと言えば。
 流石に測りかねた倫祐が困り果てて首を傾けた事で、海羽が続く言葉を探す。
「あの、えと、洋菓子が好きか…それとも和菓子?」
 しどろもどろなそれを、倫祐は脳内で解析した。本を見下ろしながら、自分の好みでいいから指定してくれと言う意味だと解釈し、彼は文字を指し示す。
「洋菓子…?じゃあ、あの、この中なら、どれが好き?」
 同じく本を見下ろして訊ねてくる彼女に小さく肩を竦めて、倫祐は目当てを探し始めた。
 もしかしたら本当に作ることになるのだろうから、余り複雑でなく、大きすぎず、アレンジのききやすい…そう考えて、自ずと行き着いたのは彼が本当に好きなもの。
「シュークリーム…?」
 動きの止まった本を覗き込み、写真を目の当たりにした海羽が聞いた。倫祐は首肯と共に本を返却する。
 食い入るようにそれを眺めていた彼女は、無意識のうちにそれを受け取り口の中で言葉を繰り返した。
 ぶつぶつと溢れ落ちるそれがレシピの暗記だと疑わない倫祐と、忘れないように何度もシュークリームと呟く海羽と。
 互いに俯いたまま向き合っていた二人は、ハッとした海羽の顔が上がったことで動きを再開する。
「あの、ホイップクリームとカスタードクリーム、どっちが好き?」
 小声ながらも勢いのある問いに、倫祐は考えるまでもなく答えを示した。
「カスタード」
 短くも、久々に聞いた響きに海羽が硬直する。暫くの間、その声を記憶する為の静かな時間が流れた。
 倫祐がその間に戸惑ってひたすら瞬きをしていると、ふわりと海羽の視線が持ち上がる。
「あの…イチゴ、入れてもいいかな?」
 キラキラと輝く彼女の瞳を正面から受けてしまっては、断る理由も無いだろう。当たり前のように頷いた彼を見て、海羽はふにゃりと表情を緩めた。
「ほんと?じゃあね、あの、作ったら、その…」
 嬉しそうでいて困ったような仕草が深呼吸に変化する。長く吸い込んだ息を吐いた後。
「食べて、くれる?」
 そう言って首を傾けた海羽に、倫祐は間を持って頷いた。
「ほんと?」
 途端、跳ねる勢いで問い返してくる彼女にまた頷くと、海羽は俯き静かに呟く。
「頑張って作るね」
 その時海羽がどんな顔をしていたか、倫祐には見えなかった。

 だからこそ、彼はいつまでも気付かない。
 そのシュークリームが自分の為に作られようとしていることに。


 その後本を元に戻し、泡立て器とマグカップを購入して店を出た二人は、大通りを橋方面に進んでいた。
 午前中と言えど、王都の繁華街に置ける人の流れは多い。小さな彼女が誤って流されてしまわぬようにと、半ば無意識的に道の中心側に移動した倫祐の、斜め後ろに海羽が続く。彼女はキャスケットの鍔を逆向きに直して、そっと彼の横顔を見上げた。すると直ぐに視線が流れてくる。焦った海羽は顔が赤くなるのを自覚して、慌て下を向いた。
「あの…あの、ね?」
 語尾に気を付けて前置いて、彼女はしどろもどろにこう続ける。
「えと、食べたいもの…ある?」
 パチリと、倫祐の瞳が瞬いた。
 本当に一緒に昼食を取るつもりなのだろうか、と言う端から見ればおかしな疑問から、食べたいものまでを頭の中で検索し終えて。彼は徐に首を振る。
「じゃあ…えと、パスタ…でも…いいか、な?ケーキも置いてあったから…あの…」
 纏まっていながら纏まっていない海羽の提案に、倫祐は首肯で答えて小首を傾げた。それが場所を尋ねるための仕草だと直ぐに気付いた海羽は、指先と口頭で大体の位置を示す。
 海羽の言葉に躊躇いがちに頷いた彼は、ゆっくりと進行方向に向き直った。海羽は、その動きをやはりゆっくりと追いかける。周囲に流れる空気の流れを耳の端で感じ取りながら、彼女の視線は次第に一点に固定された。
 倫祐が着る上着は黒く、艶のない光沢を持つ。触れたらどんな風だろうかと、斜め上の思考が頭を過るのにも構わず。海羽は、恐る恐る指先を伸ばした。
 いけない、と。頭の隅で何かが呟く。大丈夫だと、また別の所から呟きが聞こえた。
「あれ?珍しいなー。どしたん?」
 突然聞こえたよく知る声に、海羽の肩がビクリと跳ねる。そのオーバーリアクションをにこにこと眺める義希は、どうやら向かいから歩いてきたようで、捕まえた倫祐の頭に伸ばした手を乗せた所だった。
「なになに、もしかしてデート?」
「で…っ?」
「あ。そんなすぐ首振らなくても…」
 海羽が上擦った声を上げたのと同時、倫祐が素早く否定する。義希は苦笑いを海羽に向けて、本当の所を聞きにかかった。
「あの…ちょっと、その…お昼、食べに…」
「なるほどなるほど、ランチデートかぁ」
「で…で…?」
 単語を口にする事すら出来ずに顔から火を吹く海羽を、不思議そうな倫祐の眼差しが捕らえる。義希はそれを待っていたかのように、ずいっと海羽の腕を掴んだ。
「はぐれたら大変だからな!ちゃんと掴んどけよ?」
 満足そうに頷いて、義希はひらひらと手を翻す。それを見送ることすらままならず、握らされた倫祐の腕を見据える海羽と。困ったような無表情で義希を見送り、直ぐ隣で固まってしまった海羽を見下ろす倫祐と。
 五秒ほど過ぎて。
 後方から近付いてくる通行人に押されるように歩行を開始した倫祐は、海羽の手が離れていくのを予測して前方に向き直る。対して海羽は放さぬようにと、慌てて服を握り締めた。
 お互いが体勢を崩して傾く様子を通りすがりの人々が認める中。二人は何事も無かったかのように、しかし確実に取り乱しながら、目的地に向けて進行を再開した。

 指先に貼り付く感覚を忘れてしまわないように、それと間違っても転んでしまわないように、全神経を二つに集中させる海羽を他所に、倫祐はぼんやりと街道を先導する。
 彼女の説明通りであれば、つい数ヵ月前まで流行っていた店で間違いない筈だ。義希が何時も並んでいてなかなか入れないと、ぼやいていたのを覚えている。頭の中でそう考えながら、そこから切り離されたかのように熱を放つ左腕を、僅かに意識してしまう自分に参る。
 くすぐったく、むず痒い。しかし周囲の視線が集まっている事も無視できず、申し訳なく思う倫祐の心情は、誰に知られる事もなく、彼の中だけで渦を描いていた。
 そうするうちに到着した店の軒先で足を止め、隣の海羽を振り向くと、彼女は店の入り口を見据えたままぼんやりと佇み続ける。倫祐がその内情を測り兼ねて、しかし尋ねることも出来ずに居ると、海羽の口元から小さな声が漏れた。
「…ここ、前に…あの人と来たことがあるんだ」
 言葉と共に、指先の力が強くなる。
「だけど、ちっとも食べないまま出てきちゃったから…ずっと、気になってたんだ」
 そう言って俯いた彼女を見下ろして、倫祐は短く考えた。急用でも出来て、半端にしたまま出てきてしまったのだろうと。
 だからこそ、彼は続く彼女の言葉に首を傾げることになる。
「だから、きっと、良い顔されないと思うんだ…。ごめん、ね?」
 苦しいのを無理矢理直したような。そんな笑顔を浮かべた彼女は、それでも頷いてくれた倫祐に感謝して、そっと入り口に手をかけた。





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