ホワイトデー






 何もかもがぼやけて見えた。


「倫祐ー?用意してあるんでしょ?」
 王座の間に到着するなり、有理子から威圧的な笑顔を注がれた彼は、唯一出来る表情を僅かに傾けて応対する。
 その仕草に大層不服そうに眉根を寄せた有理子は、首を直して歩み寄ってくる倫祐に早足で近付き上着を掴んだ。
「ホワイトデーよ!ホワイトデー。まさか…忘れたとか、言わないわよね?」
「有理子さん、落ち着いてください」
「そう責めてやるな。そいつだって色々考えた末に手ぶらなんだろうから」
「…どうして分かるのよ?そんなこと」
 蒼に沢也と、立て続けに宥められた有理子が、ジト目で某エスパー擬きを振り向いては苛立ちを注ぐ。それを中和するように蒼の人差し指が回った。
「僕が見かけたんですよ。雑貨屋さんで」
 その間すっかり置物化した倫祐を三人が一斉に振り返る。
 瞬きで気まずさを紛らわせた彼は、有理子の鋭い視線から逃げるように蒼に助太刀を求めた。勿論目配せだけで。
 つられて有理子も振り向いたところで、表情を緩めた蒼がほわほわと解説を始める。
「行きも帰りもいらしたので、随分悩んでるなぁなんて微笑ましくなってしまいまして。つい沢也くんと情報共有を…」
「…もう。それなら何でもいいから買ってきたら良かったのに。あの子は元々無欲なんだし、何だって喜んでくれるわよ」
 上手いこと伝染した空気を溜め息に変え、口を尖らせた有理子が呆れたように倫祐を見上げた。
「で?どうするんだ?」
 沢也が話を先に進めると、倫祐は困ったように掻いた首をゆっくりと倒していく。
「打開案無し、と言ったところでしょうか?」
 蒼の通訳により、首肯と共に真っ直ぐになる倫祐の首を眺めながら、有理子が短い唸り声を上げた。
「意外と優柔不断なのね…」
「考え過ぎなだけじゃねえ?」
「因みにわたしの分は?」
 口を挟んだ沢也に肩を竦め、再度倫祐に直った有理子が掌を出す。白く、美しいそれを見据えたまま固まってしまった彼の心境を代弁したのはまたしても蒼だった。
「そこまで手が回らなかった感じですかね?」
「困った倫祐ね…」
「そう文句ばっか言ってねえで、そいつが納得しそうなアドバイスでも捻り出せよ」
「何に悩んでるのかも分からないのに、アドバイスのしようがないじゃない」
 溜め息の行き交う有理子と沢也を倫祐の視線が交互に追い掛ける。
「こう言うのはどうですか?」
 キュポン、と。聞き覚えのある音と共に蒼が言った。振り向いた三人に構わず、彼はマジックでキュピキュピ何かを書き綴る。
 そうして蒼が提示したのは、「何でもお願いききます(一回限り)」と書かれた紙。要は肩叩き券的なチケットのようだ。
「成る程…丸っと解決だな」
「四人分ね。有無は言わさないわよ?」
 沢也と有理子も納得して、直ぐに製作作業に取り掛かる。蒼が満足気に見守る中、紙をスキャンして厚紙にコピーしていく沢也の前に、いつの間にやら倫祐が立った。
「…何だ?」
 問うと、彼は指を二本立て。
「あと二枚」
 と、実に短く用件だけを伝える。
「クリスマスの分と…?」
「誕生日じゃないですか?」
「このめんどくさがりが…」
 有理子、蒼、沢也と続いた言葉の全てに頷いて、倫祐は申し訳なさそうに視線を反らした。
 言われた通りに六枚分、同じ紙に印刷されたそれをカッターで分断する。沢也がそれをまとめて倫祐に手渡すも、彼はそのまま有理子に流した。
「せめて自分で渡しなさい」
 半ばキレ気味に諭されて、それでも渋った倫祐を残りの二人が後押しする。
「心配するな。ここ数日、午前中は顔を出していない」
「渡すなら今のうちですよ?」
 だから呼ばれたのか、と密かに理解して。仕方なくと言った調子で券を引っ込めた倫祐は、うち一枚だけを有理子に渡した。


 その後、あれよあれよと言う間に魔導課に続く廊下へと押し出され、どうしたものかと首を掻く。
 沙梨菜は仕事、くれあは勿論自宅となれば、こうなるのは当然も当然なのだが。
 倫祐は手にした厚紙の束を見下ろしたまま、無意識に小さな溜め息を落とした。

 わざわざ渡しに出向く程のものだろうか。
 かと言ってわざわざ出てきて貰うのも気が引ける。
 そもそも渡したところで、どうなるわけでも無いだろうに。

 何故って。
 自分に叶えられる願いなど、たかが知れているから。
 無欲だと言う彼女が、自分に望むことなど何もありはしないだろう。
 それでも三枚ものチケットを渡そうと決めたのは自分だ。

 苦肉の策とはこの事か。
 全ては選べなかった自分のせい。
 彼女が喜びそうなものが、どれだけ考えても分からなかったのだから。

 身に付ける物は論外。
 食べ物も、秀との一件を思うと憚れた。
 他でもない自分が渡すのだ。どんなに相手が好きなものだとしても、食べる気が起きなければ、それはもう捨てるしかない。
 しかし捨てるにも手間がかかる。
 …だからこそ。

 頭の中で呟いて、彼はまたチケットを見据えた。
 これ以上簡単に捨てられる物は、無いだろう。と。

 だが。
 それでも気を使ってしまいそうなのが彼女と言う人である。
 貰ったからには使わなければと変に気負わず、放置してくれればいいのだけど。
 勿論返還を先のばしにするのは申し訳ないが、きちんと返す事が出来るようになるまでは致し方ないだろう。…それが何時になるかは別として。
 それも踏まえると、やはり直接渡すよりも誰か別の人に託しておくのが最善だと思う。

 そうして振り出しに戻った思考を適当に追い払い、倫祐は正面の扉を見据えた。
 このまま戻ればまた面倒だし。延々悩んでいても仕方がない。
 サッと渡して、サッと帰ればそれでお仕舞いだ。

 数歩足を進めただけで、魔導課の入り口が直ぐ目の前に来た。
 このまま戸の隙間に挟んで帰っても差し支えないような気もしたが、後で有理子にバレればまた面倒なことになる。
 何とか踏みとどまって、やっとの事でノックをすると、中から短く海羽の返答があった。
 がさごそと紙が動く音がして、その数秒後に扉が開かれる。
 顔を出した海羽の目線が徐々に持ち上がり、目が合った辺りですっかり硬直した。
「り…」
 何とか言葉に出来たのは一文字だけ。恐らくは認識の為のものだろうと訳もなく解釈した倫祐が瞬きを返すと、彼女はやっと時間を取り戻した。
 わたわたと動く手元と目線に、気付かれないかとチケットをひらひらさせてみるも、身を引いた海羽は室内を指し示す。
「あ…あの、えと…ち、ちち散らかってるけど…」
 言ったまま側の書類を片付け始める彼女の動きは落ち着くこともなく、更には彼を振り向く事もなかった。それは海羽が赤くなった顔を隠そうと必死になっているだけなのだが、倫祐にそれが伝わることはない。同時に、倫祐が直ぐに帰るつもりでいることに、海羽が気付く余裕もない。
「あ、椅子…はい…」
 発掘したそれを差し出された倫祐は、数秒後に受け取って腰を下ろした。
 本当なら声をかけて品物を渡し、サラリと終わりにすればいいところを、声のかけ方が分からぬ彼は、断り方すら分からずに黙って従うのが常である。
「あの、お茶…飲む?」
 続く海羽の言葉に首を振ろうにも、彼女はこちらを見ていない。ついでに既にティーポットにお湯を注いでいるのだから、ここで断るのも何だか失礼な気がした。
 一方無意識に引き留めようとする海羽は、緊張の余り自分が何をしているのかいまいち把握していない。それを証拠に、砂糖のポットを二つもトレーに並べては抽出待ちの紅茶を運ぶ。
 倫祐は海羽が間違いに気付いて窓際のキャビネットに戻る様から目を離し、書類と書籍で溢れる部屋を見渡した。
 中央が妙に開けた室内は、壁際に向けて物が積まれるように置かれている。内容は多岐に渡るが、当然魔法関連の物が多く、各所に様々な陣が見て取れた。
 入り口を入って左手にデスクが、逆側には本棚が二つ、正面にキャビネット、少しずれて小さな窓が。丸い作業スペースは丁度その前になるか。
 その更に奥の壁。今は魔法で隠されているようだが、上階に繋がる扉があるらしい。しかし本や書類が積み重なって見えるだけで、どれだけこの部屋に入り浸っていようとも、事実を知らない限りはそれを疑うことはないだろう。
 そう話には聞いていたが、実際に入るのは始めてな彼にとって。目の前の光景は不思議なものに見えていた。
 どんな原理なんだろう、とか。あの辺りの書類や本を動かしたらどうなるのだろうか、とか。外から見るとどうなっているのだろう、とか。
 ある意味現状から遠ざかろうとする倫祐の思考を呼び戻したのは、控え目な海羽の呼び声だった。
 振り向いた倫祐が紅茶を受け取ると、海羽は安心したように息を吐く。
 扉を背にして座る彼を通り過ぎた彼女は、デスクから椅子を引き抜いて、くるりと半端な方向に回した。
 座りながら用件を聞くのを忘れている事に気付き、慌てた海羽は顔を上げる。
 その目に映るように。
 倫祐は黙ってチケットを差し出した。
 ハッとした海羽が受け取って、その正体を確かめるまでの間を待たず、彼は静かに席を立つ。しかし手の中に紅茶が残っていることに気付いて固まった。
「え…これ…」
 そこに落ちた海羽の声は細かったが、驚いたような色を含む。まだ熱い紅茶に口を付けていた倫祐は、顔を持ち上げた海羽がどんな表情をしているか、確認するのを躊躇った。
「貰っちゃって…いいのか?」
 再度手元に目線を落とした彼女が戸惑いながら問い掛ける。倫祐は上から海羽の旋毛を眺めつつ、彼女の困った顔を想像で補った。
 同時に頷いてみるも、見られていなかった事に気付いて紅茶を啜り、海羽がこちらを向いたのを見計らってもう一度首肯する。
 そんな彼の肯定に、動揺を隠しきれなくなった海羽が肘でデスクの上の紅茶を溢した。
「わ…あの…あ…えっと…でも…」
 広がる紅茶の澄んだ色と。変わらぬ倫祐の無表情とを交互に見据え、手元のチケットを上へと逃がしながらも布巾を探す彼女の慌てぶりは凄まじく、今にも回りの紙類を巻き込みそうな勢いである。
 危機を覚えた倫祐が、キャビネットから持ち出した布巾でデスクを拭き始めた。
 突然真横に来た彼に、海羽の困惑が膨らむのも当然で。
 水没こそ免れたものの、脇にあった本の塔が空きスペースを埋め尽くす。そうして騒音を伴う雪崩が収まっても、海羽が落ち着く様子はなかった。
 困った倫祐は、空いていた右手を彼女の頭に乗せる。
 何故と問われれば答えようもないが、ただ、「落ち着け」と声をかけるかのように。
 そんな彼の意図を理解した訳でもないだろうに、海羽の動きが止まった。
 部屋の惨状を、最後に手の中にある三枚の紙を見下ろして。
 深く息を吐いた海羽は、不意打ちのように倫祐を見上げる。
「…ありがと」
 何に対しての礼なのか。問うにも不粋で、しかしその術も満足に持ち合わせていない彼は、微笑む彼女にただ頷いて紅茶を手に取った。
 倫祐が生暖かい布巾と、散らかった部屋と、残った紅茶を綺麗に片付けて帰路に付いたのは、結局それから十数分も後のことだったそうだ。



 陽も落ちた夕食時。
 珍しく着飾った有理子が、白ワインのボトル片手に肩を竦める。
「と、言うわけで。何とかお返しさせられたわ」
「そっか。ここんとこぼんやりしてるように見えたのは気のせいじゃなかったんだな」
 正面に座る義希が肉の刺さったフォーク片手に苦笑すると、有理子の顔が納得いかなそうに歪んだ。
「あいつが何考えてるのか…あんたにも分かるの?」
「うんにゃ。沢也や蒼はある意味特殊だから分かるんじゃん?ほら。毎度接待とか会議とかしてるわけだし」
「わたしもその手伝いしてるつもりなんだけど…やっぱ手伝いしてるくらいじゃダメなのね…」
 グラスを透明なマスカット色で満たしながら項垂れた彼女は、ボトルからグラスに持ち変えてそれを揺らす。
 二人は現在、ホワイトデーの一貫として少々お高めのレストランでディナー中だ。久々の外食、しかも二人きりとあらば多少なりと緊張するのは仕方がないことだろう。
 ふわふわと漂う言い訳を頭の中だけで止めて、彼女は短く息を吐いた。
「でも良かった。ちゃんと渡せたみたいだったし」
「そうだな。海羽も喜んでただろ?」
 何の臆面もなく、ついでに緊張感すらなく同意する義希は、いつの間にやら平らげた肉の皿を脇に寄せ、中央のパンにかぶり付く。
 有理子は幸せそうなその顔に何とも言えぬ表情を返した。
「あの子は別に、お返しが欲しいだなんて思ってなかったんだろうけど」
「いいじゃん。それで繋がりが出来たんなら」
「そうね。この場合、単純に喜んでいいのよね?」
 納得しながらも歯切れ悪く、視線を流して呟く彼女の顔を覗き込み。
「色々考えちゃうのも分かるけど。今はオレとの時間を大事にして欲しいかなぁって」
 口を尖らせ促す義希に、僅かながら赤くなった有理子の口から溜め息が注がれた。
「あんたみたいにそうやって、みんながみんな素直に言えれば苦労なんてしないのにね…」
「じゃあまずは有理子に素直になって貰おうか?」
「それが出来ればこんなに悩んでないの」
 もう、と小さく身を乗り出しては肩を揺らし。しかし思い直したのか、ワインを見詰めながら彼女は言う。
「でも、お酒美味しいし。料理も美味しいし。来られて良かったわ。…ありがとう」
「どういたしまして」
 照れ隠しにそっぽを向いてしまった有理子に対し、義希はいつものように真っ直ぐで満足そうな笑顔を返した。

 暖かくなってきているとは言え、まだ夜は冷える。

 義希が首に巻き付けた赤いマフラーを、たまたま見付けて見送った小太郎の背後から影が忍び寄り、こそりと問い掛けた。
「小太郎隊長ー。羨ましいんですか?」
 大袈裟過ぎるほど跳ねては振り返り、声の主である銭を下から見上げ、彼はむすっとふんぞり返る。
「ばぁか。そんなんじゃねえし。おれ様だって、昼間娘と三人でイチャイチャしてきたし」
「でも、羨ましいんでしょうー?」
 慌てぶりと、先のじとっとした眼差しから推測する銭の指摘を否定しきれずに、小太郎はむぐぐ、と言葉を詰まらせた。
 対して銭はマイペースに、義希と有理子が去っていった方向をぽやぽやと見据える。
「良いですよね。付き合いたての空気っていうんですか?何だか新鮮でー」
「どうせおれんとこは長年付れ添った夫婦だっつーの!ってかそうじゃなくて!」
 道の隅で繰り広げられるコントはまだ終わりそうにない。何故なら両手を天に払った小太郎とは対照的に、銭に引く気が無さそうだから。
 口元だけをゆるゆると笑わせて、片方しか見えない眼差しで小太郎を振り向いた彼は、ずいっと身を乗り出して小首を傾げる。
「ホワイトデーのお返し、喜んで貰えなかったんですか?」
「いいや。外してねぇ…筈だけど」
「出費が意外に大きかった?」
「そりゃまあ、いつもの事だし?」
「お子さんのお相手でお疲れですね?」
「んな事で、疲れるかよ!このおれ様が!」
「ホワイトデーくらいはゆっくりしたかった?」
「そんなん他の奴等も似たり寄ったりだろ?」
「高級ディナーが食べたかった?」
「だから、別に羨ましくなんか…」
「じゃあ、数日後のお呼びだしが不安ですか?」
「誰があの眼鏡ごときにビビるかよ!」
 途中から進行方向を向いていた小太郎が、最後の質問を機に銭を向いた。その瞬間、ぷにっと音がしそうな勢いで彼の頬が凹む。
 悪戯の主である銭は、悪びれずに白手袋をした手を引っ込めた。
「あははは、小太郎さんは面白いですねー」
「おれ様で遊ぶな!」
 唖然とする小太郎を置いて先を行く彼を、騒がしい癇癪が追い掛ける。

 その雄叫びを微かに耳の端で捉えながら。城の窓からぼんやりと町を見下ろしていた人物が、何の前触れもなく歩を進めては少し先にある扉を開いた。
 少しの隙間から体を滑り込ませた長身の持ち主に、部屋の奥から声がかけられる。
「終わったのか?」
「…はい、何とか…」
 ホワイトデー☆スペシャルラジオと称された生放送の収録から帰宅した蒼は、笑顔ながらもぐったりと肩を竦めて見せた。
 数が数だけに全てにお返しするわけにはいかない為に、リーダーの伝でバリアタワー側にあるスタジオまで出向いては、突発企画を遂行してきたのである。
 元より高所恐怖症の彼が、門松操る飛竜に乗って旅立ったのが倫祐が帰宅して直ぐのこと。放送が終わったのが、かれこれ二時間は前になるか。
 沢也は長テーブルに身を預けた彼にヘッドホンを提示して、悪戯に笑って見せた。
「まぁ、聞いてたんだがな」
「そう言う顔、してますからね」
「疲労困憊だな」
「当然です」
 リアルタイムの電話質問コーナーやら、短期間で寄せられたとは思えぬ程のハガキの数々は、当然と言わんばかりに色恋話だらけなのだから。いつものくだらぬ会議とは別の意味で体力と精神力を削られた彼の背中に、沢也は小さく溜め息を注ぐ。
「今日は早めに休めよ」
「こう言う日は、逆に眠れないものですよ?」
「まぁ、否定はしないが」
 力ない返答に肩を竦めた沢也は、短い間の中でに義希と有理子の帰宅時間を予測しては問い掛けた。
「要望は?」
「要望…ですか?」
「一人になりたいとか」
 パラリ、と書類が音を立てる。
「愚痴を聞いてほしいとか」
 続く声を聞きながら、蒼はクスリと笑みを漏らした。
「珍しく優しいんですね?」
 理由は想像できますけど。と、続きを口の中で呟いた彼は、暫し思案して人差し指を回す。
「では、ロイヤルミルクティーを」
「また面倒なもんを…」
 リクエストに文句を言いながらも起立した沢也は、了承の合図もなく厨房へと向かって行った。
「不味くても知らねえからな?」
 退出間際にそう言って、苦笑する彼を蒼の微笑が見届ける。

 沢也が直ぐ向かいにある厨房に入り、何処からともなくミルクパンを探しあて、冷蔵庫から取り出したミルクと生クリームを火にかけて、棚から茶葉を取り出した辺りで物音がした。
 目線だけでその正体を確認した彼は、物も言わずにコンロと向かい合う。
「…」
「…」
「沢也ちゃん?」
「何だ?」
 そろりと入室した彼女の声色で、スルーも無駄だと覚った沢也はため息のように返答した。
 返事を聞いた沙梨菜は彼にピッタリ身を寄せて膨れ気味に問い掛ける。
「沙梨菜には?ないの?」
「何が」
「もー!ホワイトデーだよぅ!ホワイトデーー!」
 あの状態でもこれか…と、蒼を侮っていた自分に溜め息を浴びせる。
 そんな彼の態度を不安そうに眺めていた彼女は、唐突に振り向いた眼差しの冷たさを喜び勇んで迎え入れた。しかし。
「無い」
 簡潔に告げられた事実に、溶けるようにして笑顔を萎ませた沙梨菜の口がへにゃりと開く。
「そんなぁぁあぁあ…。あ!じゃあね、じゃあね…」
「どうせ倫と同じもん寄越せとでも言うんだろ?」
 言われる前に推察を口にした沢也の横顔に、顔面全体を丸くした沙梨菜が歓喜の叫びを浴びせた。
「流石沢也ちゃん!話が早いー♪」
「誰がやると言った?」
 沢也はふつふつともしてこない牛乳の表面を更に冷めさせる勢いで呟く。沙梨菜もその白を覗き込みながら口を尖らせた。
「えー?くれないのー?」
「そんな恐ろしいもん、そうやすやすと渡すとでも思ったか?」
「…それもそうだね」
「ああ、そうだ」
 急激に正気に戻ったかのように、真顔から冷静な回答を漏らした沙梨菜に沢也の頷きが返される。しかしながら話はそこで終わらなかった。
「じゃあ、何ならくれる?」
 パヤパヤと訊ねてくる彼女を、じっとりとした沢也の目が振り返る。
「何をやっても喜ぶからな…お前は」
「それはつまり、何もくれないってこと?」
「だから最初からそう言ってんだろ?」
「やだぁあぁ!頂戴頂戴頂戴頂戴ー?」
「うっぜぇえぇえぇ…」
「何でもいいよぅ?ほんとに何でもいいからぁー!」
 ブンブンと両手の拳を上下にシェイクしては駄々をこねる彼女に、沢也は深く長ーーーいため息を注いだ。
 そして徐に、右手の拳を持ち上げる。
 彼には度々肘で小突かれたり、チョップされたり、髪を引っ張られりする沙梨菜ではあるが、グーでもパーでも殴られた記憶はない。
 その拳をくれるのか、と鼻息も荒く瞳を輝かせる彼女の前に、ゆっくりと沢也の手が伸びてくる。
「ふぎゅっ…」
 ピシッと鳴ったのは沙梨菜の鼻。鳴らせたのは勿論沢也の指先だ。
「二度とその口きけないようにして「やろう」か?」
「いえ、もう十分ご褒美は頂きましたので」
 鼻を擦りながらそう言って、作業台にあった牛乳と生クリームをミルクパンに継ぎ足した沙梨菜は、にへらと笑って彼を見る。
 その意図を理解した沢也は、ため息と共に残りの牛乳を投入。五つのカップを用意しながら、白が泡立つのを待つことにした。





cp72 [適任者]topcp74 [女子会]