相棒 一月に破壊された橋に面する暴風壁。 折角だからと、大掛かりなリニューアルを組み込んだ事で随分時間は取られたが、どうにかこうにか完成間近に迫っていた。 白い布が掛けられたその内側で、屈み込んでは作業に没頭する人物に軽い呼び声が掛かる。 「おい、チビっこ」 「チビ言うな!」 脊髄反射で振り向いた帯斗は、何時ものように文句をスルーした諸澄が隣に座る様子を目で追い掛けた。 手摺となる彫刻のような煉瓦に風化防止の薬品を塗り込んでいた彼は、マスクを引き下げ短く問う。 「あっちは?」 「終わったから雑談に来た」 言いながらも余っていたハケを手にした諸澄に、帯斗はポケットから新しいマスクを取り出し手渡した。 諸澄はそれを適当に装着しながらぼんやりと言う。 「なあ、お前。あの人、どうしてるか知ってんの?」 「あの人…?」 「ほら、煙草屋の売り子してた…」 ぶっ、と。勢い良く吹き出した帯斗は、取り落としそうになったハケを持ち直して隣を振り向いた。 「ほんっ…ズミはどうしてそう唐突なんだよ!」 「焦っちゃって。若いねぇ…」 「同い歳だろ!」 ニヤニヤ笑いにキッチリつっこんで、帯斗は深い溜め息を洩らす。そうして息が落ち着いた所で改めて答えた。 「…知らないよ。本島に行ったってのは分かってるけど。どの街かまでは知らない」 「そか」 「…何で?」 「ん?いや。バレンタインだったろ?」 「…それを言うかよ…」 あっけらかんとした答えに項垂れる帯斗に、呆れたような諸澄の声が返す。 「またまた。期待してただろうが」 「まさか。住所も教えてないのに」 「隊宛に来てたりして」 「…ないよ」 「あ、確認したんだ?」 冷めた否定を笑うように吹き出した諸澄に対し、帯斗の右腕がわなわなと持ち上がった。 「怒るな怒るな」 どうどう、と宥めすかして一息ついた諸澄は、今度こそきちんと仕事に向き直る。そこに今度はお返しとばかりに帯斗の茶々が入った。 「ズミの方は、どうなんだよ?」 「ん?」 「彼女とか」 「さぁーなぁー?」 口笛でも吹き兼ねない調子の彼に、安心したような、悲観するような、複雑な溜め息が注がれる。 「その誤魔化し方だと、からっきしって感じ?」 「まぁ正直?そう言う状況じゃないって感じ?」 ペタペタと。固い石が風に負けぬようしっかりと補強しながら、諸澄は皮肉のように言い放った。 「お互い、まずは自分を固めないとな…」 「そうこうしてるうちに婚期逃しそう…」 「なぁ?あーあ…どっかの可愛い女の子が慰めてくれたりしないもんかー」 やる気無い愚痴は空に昇る事もなく。二人の間に妙な形で不時着したように思えた。 それから数日が経過して。 余り良いとは言えないが、悪いとも言いきれない微妙な天候の空の下。 「暴風壁が完成したらしいぞ」 「ああ。なんとなく聞いたよ。何でも随分綺麗になったとかで」 「新たなデートスポットになりそうだと、早くも評判のようだ」 「それはまた…帯斗と諸澄に対する盛大な皮肉になりそうだなぁ」 真っ白な城を背に二人の顔を思い浮かべた門番達が、その苦労を想像しては苦笑する。 茂達の抜かり無い調査報告のようなメモの通り、先日完成した暴風壁と言う名の展望台は、この微妙な天気の中でも大変盛況らしい。 「まぁ、それはそれとして。ねえ茂達」 「例の事件の事か?」 「正解」 「ならば話は早い」 目配せだけで会話を終わらせた二人は、何もない空を見上げて小さな息を上げる。 彼等はそれから淡々と業務を終わらせて、私服に着替える事なく真っ直ぐに王座の間に立ち寄った。 短い陽はとうに落ち、薄暗かったその場所で二人を迎え入れた沢也は、そのついでに明かりを付ける。そろそろ夕食時だと言うのに、その部屋だけは異様に静かだ。 「事件の事か?」 突然の訪問にも関わらず、早速本題を言い当てた上司に苦笑した正宗が、では遠慮なくとばかりに首肯する。 「参謀にしては下手な嘘だなぁと」 「元々俺が考えたもんじゃないし、完璧に隠すつもりもないからな」 簡単に弁解しながらデスクの上の書類を纏めた沢也は、やっと彼等と向き合って不器用な笑顔を浮かべた。 「気付いたのなら話してやらんこともない。ただ、身内だろうがなんだろうが勝手に口外しないこと」 「元より承知しております」 茂達が直ぐ様答えると、沢也は二人に待機を命じて蒼を呼びに行き、彼を残して表に出る。 正宗は沢也の背中に続きながら、中断された話をほじくり返した。 「参謀が考えた嘘ではないのなら、一体どなたが…?」 「本人」 「本人って、まさか…」 「あっちにとっても、その方が都合が良かったからな」 「互いに利害関係が一致しての虚偽だと?」 最後に鋭く問い掛けた茂達を振り向いて、沢也は意地悪な微笑を傾ける。 「そんな大それたもんにしてくれるな。敵を騙すにはまず味方からって言うだろ?」 「敵、ですか」 「大方分かってるんじゃないか?」 丸投げされた二人が思考に浸る間にも、エントランスまで下った沢也は南棟へと足を踏み入れた。 「他にも気付いた方が居るのでは?」 「居るだろうが、聞きに来たのはお前らが最初だ」 行き先を悟った茂達の問いにそう答え、地下へと進む彼の背中が薄闇に飲まれる。 門番をしているだけに、下町から輸送されてくる罪人を請け負って何度か訪れたことがあるその場所は、この時間帯でも昼と変わらぬ空気を纏っていた。 いつもの通りに手続きを済ませ、看守が開いた二枚の鉄格子を潜る。途中、一人の囚人が居る牢の前に立った沢也が、二人を振り向き短く言う。 「どのみち会うつもりだったんだろうから。あとは直接」 「お気遣い、ありがとうございます」 茂達が了承と感謝を同時に示すと、牢から出された囚人が取調室に連れられて行った。三人は看守に礼を言って囚人と共に部屋に収まる。 沢也は二人に席を譲り、自らは扉の前に立った。 「どうも、久しぶり」 挨拶がてら正宗が囚人の前に腰掛け、その隣に茂達が付く。二人を見比べては視線を投げてきた囚人に対し、沢也が簡潔に経緯を話した。 「お前がでっち上げた嘘に気付いたそうだ」 「報告書読んで違和感を感じてね」 正宗の補足を聞いて顔を伏せたのは、先日の「強化剤事件」で逃げ回っていた男である。 微かに肩を震わせる彼に気付いた正宗が、直ぐ様小首を傾げて言い分けた。 「女に貢ぐためだけにしては、切羽詰まって見えたからさ」 「相手の方の気迫からしても、少々不自然です」 茂達までもが同意するように言うのを聞いて、男は沢也に視線を送る。それにはただ頷きだけが返された。 「貴族に借金がある」 再び俯き、小さなテーブルに向けて呟かれた言葉に門番達の感嘆が漏れる。その間に移動してきた沢也が、テーブルの脇に立って肩を竦めた。 「随分悪どい手法で背負わされたもんらしくてな。喋った事がバレると厄介なんだと」 「だから捜査に全面協力する代わりに、助けて貰うことになった」 「こっちもこっちで、その貴族については内々に調べておきたくてな」 「対貴族用の特例措置ですか」 無感情に問い掛けてくる茂達に苦笑を注ぎ、茶化すように沢也は言う。 「余り大々的に報告書作っちまうと、取り繕えないだろ?」 「成る程。納得しました」 報告書を偽る理由も、隊員にまできっちり隠し通す必要が無い理由も。無言でそう伝えた茂達を見た正宗は、次に沢也が口を開く前に挙手をした。 「その先はまだ聞かないでおきますよ。まあ、茂達は知りたがるかもだけど?」 「お前がそう言うのなら聞かずにおこう」 揉めることなく終了した話し合いに苦笑した沢也は、了承と共に扉の前に戻る。 そうして再び男と門番達が向き合うと、先よりは穏やかな空気が流れた。 「思い返せば、あんたらが何故あんなに必死だったのか、不思議なくらいなんだが」 薬のせいでぼんやりとしか覚えていないのだろうが、気迫が伝わっていた事に気恥ずかしくなった正宗は思わず苦笑する。 「お節介して悪かったね。ちょっと昔の自分と重ねちゃっただけさ。深い意味はない」 言い訳に「そうか」と頷き、安心したように笑う男に向けて茂達が呟いた。 「良かったですね」 何時もと違う、色のある声を見上げた男と正宗は、彼の口元が僅かに綻ぶ様を見据える。 「誰も殺さずに済んで」 続く言葉も心の底から。 頷く過程で俯いた男は、深い息を吐いてから徐に顔を上げる。 「あんたらがそんなに話の分かる奴だとは思わなかった。薬のせいもあったんだろうけど…人が信じられなくなってたから」 それはテーブルに向けて放たれた為、まるで独り言のようだったが、次の瞬間には確かに、男は門番達と視線を合わせた。 「だからこそ、ありがとう…助かったよ」 そう言って申し訳なさそうに微笑む彼の借金相手は「小山内」と言う貴族だ。雛乃共々橡を受け入れた例の男である。 小山内は借金を理由に男を使って、強化剤に関与している貴族…つまりは秀の動向を窺っていた。それがバレたことで男の命が狙われている…寧ろこちらが嘘の報告書を製作した本当の理由だ。 逃げながら強化剤の補充を行うのは難しく、だからと言って相手に強化剤の保管場所を知られる訳にもいかない。何故ならその時の彼は、相手が何処まで知っていて自分を追い掛けているのかを知らなかったから。 そんな時、不正取引相手である犬の飼い主に「薬の隠し場所を教えてくれたら、強化剤を持ってきてやる」と言われたのだそうだ。 男はすがる思いで飼い主に頼ったが、飼い主は男がどう足掻こうと無駄だと言う事を分かっていたのだろう。全てを横取りするつもりだったと供述した。 幸い男が保管していた薬に飼い主が手を付けた形跡はなく、他への被害も確認されていない。 男を追っていた男も正気を取り戻しつつあるが、やはり金属との繋ぎ目等、体の痛みを訴えている。それに関しては技術課とマジックアイテム課を始め、沢也や海羽、リーダーや小次郎達本島の人間の力も借りて、強化剤を使用せずとも大丈夫な体になるよう対応しているところだ。 そのついで程度の聴取の中で。半機械的な男からの供述も得た。しかしそもそも末端である彼等が大元の人間の素性を知る訳もなく、秀はもとより小山内についても、繋ぎ役の上司から聞かされた程度の情報しか持っていなかったのだが。 以上ことを正宗が聞かずに済ませたのは正直なところ正解だと、沢也は思った。何故なら事件の主犯と分かっていて、頻繁に顔を会わせなければならないのは精神衛生上良くないだろうから。 しかしながら、ここ最近秀の来襲頻度は落ちている。この事件が関係しているのか、はたまたまだ別の何かが起きるのか。 沢也が三人の雑談に耳を傾けたまま思考から抜け出すのと同時、正宗がそっと席を立った。 「それじゃあ、次に会うのは移送の時かな」 「まだ暫くは世話になるけどな」 「軽症でも薬物中毒に変わりはないのです。養生なさってください」 「心配ない。充分ゆっくりさせてもらってるから」 念押しに肩を竦めた男は、沢也が呼んだ看守に連れられ牢に戻る。三人はそれを見届けて、ゆっくり地上に戻っていった。 そうして城で取り調べを進める一方、近衛隊では売人を含めた四人から薬を買った人物の捜索を行っている。 すっかり日も暮れた駐屯地では、僅かばかりの残業の前に出来合いの弁当を開く圓と、簡単な報告書の製作を終えた諸澄の姿があった。交代までまだ時間があるせいか他に人影は無く、静かな中に小さな声が落ちる。 両手の平を顔の前で合わせ。 すっと目を閉じ、短く唱える。 目の前でなんとなしに行われたその所作が、酷く綺麗だと思った。 思わずじっと眺めてしまったせいで、振り向いた視線に慌ててそっぽを向く。そんな彼の仕草に不思議そうな眼差しが張り付いた。 「何かおかしかったですか?」 「別に…」 問い掛けた圓は、バツが悪そうな諸澄の横顔を見て勝手な解釈を終える。 「このお弁当凄く美味しいんです。少し食べますか?」 「いや…今、あんま食欲ないし」 「風邪ですか?」 「違う。単に食べることに納得いかないだけで…」 合間合間に間を開けながら、二人が交わした会話の最後は諸澄の懺悔へと変化して行った。 別に話す必要などないと頭の隅で思いながら、それでも止めることが出来ずに語られる彼の言葉を、圓は黙って聞いている。 「だから最近は、食べることを迷うようになった。おかげで味が分からない」 と、ため息で話を終わらせた諸澄は、圓の顔を見られずに書類の山を見やった。 「食べたらいいと思いますよ」 不意に呟かれた一言に振り向くと、圓の真顔がそこにある。 「それが生きると言うことだと思います。勿論、強制はしませんが」 目を見開く諸澄にそう続けた彼は、言い訳を弁当の上に落とした。 「僕は諸澄さんが言うような事まで考えたことなかったです」 言いながら、箸で卵焼きを持ち上げて。 「でも、そうやって聞いてみて、きちんと考えると…やっぱり…」 言葉を押し込むように、口の中に入れたそれを咀嚼する彼の表情が穏やかに緩んでいく。 「だからこそ、美味しく食べたいです。それと同時に感謝します。この料理に関わったもの、全てに」 「感謝…か…」 圓につられたのか、ふっと固く笑みを浮かべた諸澄は断りもなく手を伸ばす。指先でつまみ上げた卵焼きは、ふわふわながらに崩れる事なく彼の口に収まった。 「はは…旨いな…やっぱ…」 溶けるように頬を緩ませ、呟いた諸澄の目尻に涙が浮かぶ。 それを流さぬよう天井を見上げた彼の手元。圓は弁当の蓋に選りすぐったおかずとおにぎりを滑らせた。 その日から、圓と諸澄はペアで行動するようになる。 三日後の昼前、まだ誰もパトロールから戻っていない状態の駐屯地にて。 「ズミ、圓さんとペア組むことにしたんすか?」 姿を見つけるなり、驚いた様子で問い掛けてくる帯斗に、いつも以上に眠そうな定一の欠伸が返される。大方此処数日疑問に思っていたのだろうと勝手に解釈して、彼は答えた。 「いいんじゃない?お互い刺激になるだろうし」 「…そんなどうでも良さそうに言わないでほしいっす…」 複雑そうな呟きには様々な色が含まれていたが、全てを無視して定一は問う。 「君はどうするんだい?」 「…え?」 「また僕とのんびりやるかい?それとも諸澄くんみたいに、新たな相棒を探してみるかな?」 責め立てるようでもなく、しかし答えずにはいられないような雰囲気に。 「俺は…」 言葉を詰まらせた帯斗は、焦る気持ちを押さえ付けて正直な気持ちを吐き出した。 「ちょっと、色々起こりすぎて疲れちゃったんで…暫くゆっくりしたいっすね」 「そうかい。なら…」 どっこいしょ、と。事務椅子から立ち上がった定一は、間接的な指名をした彼に向けて笑顔を傾ける。 「うどんでも食べに行こうか?」 「うっす」 柔らかい声に、帯斗から安堵の笑みが零れた。 二人がいつも以上にのんびりとうどんを啜る丁度その頃。 定期的に訪れる人物の前に野菜ジュースを置きながら、沢也が短く話を切り出す。 「最近どうだ?」 「やっぱり楽しいな!若いのを見るのは」 いつものように必要以上の大声で答えた轟は、コップの中身を豪快に飲み干して天井を仰いだ。 「入って良かった。正に俺がやりたかった仕事って感じだ」 「そうか。それは良かった」 明るい回答に素直に肩を竦めた沢也は、入り口付近のソファに座る彼から距離を取るようにしてデスクに舞い戻る。一方轟は沢也が席に付くのを待って本題を切り出した。 「あいつ等、もう大丈夫そうだぞ?」 「そうか?まだ不安は残るだろう」 「ああ、それはそうだが。俺の手からは離れた」 満足気に言う彼に頷いて、沢也はまた席を立つ。 「だから次は、第二かと思ってな。何か居ないのか?活きが良いの」 「魚みてえに言ってくれるな」 話を読んでいたのか。手にしていた書類をヒラヒラやりながら、沢也は先に解説した。 「未だ就職先が見付かってねえ元ハンターの中から、何人かを選出したもんだ」 「ほう…」 まだ手元に届いてもいないのに、興味深気に瞳をキラキラさせた轟は、待ちきれ無いのか体を目一杯捻らせる。 沢也が数十秒後に数枚の紙を渡してやると、彼は食い入る勢いでそれを眺めた。 「一応、仮面談は済んでいる。気になるのがいれば今のうちに…」 「決めた!」 話が終わらぬうちに書類の一部を示した轟の、大きな声と決断の早さに驚きながら。 「了解」 「楽しみにしてるぜ」 快諾した沢也は、満面の笑みに楽しげな笑顔を返した。 ウキウキと帰っていく轟を見送った後、十数分後。 数日かけて諜報部に裏を取らせた人物を王座の間に招き入れる。 聞いていた通り、あの情勢の最中から各地を渡り歩いていたらしい亮と言う男の実力はかなりのもので、人脈や交渉術、ちょっとした武術にも長けた真面目な人物だと、評判も上々のようだ。 孝は左弥や夏芽、沢也や結にも会わせて判断を下すつもりらしいが、今のところ誰が会っても同じ答えを返すだろう。 「ちょっと真面目過ぎるかな」 「それが良くもあり、悪くもあるんだろうが…」 面会を終えての結の呟きを沢也が拾うと、王座を挟んで向こう側から蒼が話に乗ってきた。 「人脈をよい方向に使えると言う意味では最高のメリットですが」 「この道を渡り歩いていくには少々厄介かもな」 思慮深く、観察眼に優れているので早々問題にはならないだろうが、一般の貴族相手と此処を訪れる貴族相手では勝手が違ってくる。しかしながら最近は会合やパーティーの主催も実践で学んでおり、亮が孝の家を継ぐとの正式な発表があってからは、唯一秀が出席している例の会合も取り仕切るようになったらしい。 「幸い、口よりも目で殺すタイプみたいだから、そう心配はしてないけど」 「もう少し柔軟に考えられりゃあな…」 「パーティーの進行を見て不安になったと、孝さんが仰ってましたからね」 結の声は聞こえないながらも、上手く話に入ってくる蒼の苦笑を本の間から覗き見ながら。 「欲しいのはユーモア?」 「それともう一つ」 呟いた結の一言に頷き、通訳した沢也に蒼の人差し指が向く。 「城内、及び王都での人脈ですね?」 それが分かっていた故に、着いて早々亮が配属された先は民衆課であった。 勿論王座の間でも何処でも良かったのだが、スケジュール的な関係と、もう一つの理由から、初日はそちらが選ばれたのだ。 有理子に案内されて民衆課の扉を潜った亮は、知った顔を見付けて納得の頷きを見せる。 過去に商談で見掛けた彼も、元は貴族と肩を並べて仕事をしていたのだ。 「八雲さんは何故民衆課に?」 あとは彼に、と言われて引き継がれるや否や、亮はサラリと問いかける。それが身内が貴族を辞めたからだと言う理由とは別に有ることを悟り、八雲は直ぐに頷いた。 「事務以外に出来そうな仕事が無かったもので」 「事務ならば、大臣の隣ががら空きではないですか」 当然のように不思議そうな顔をした亮の眼差しは、冗談を言っているようには見えない。たじろいだ八雲は苦笑して片手を振り乱す。 「それはまだ、なんと言うか…恐れ多いですよ」 「ああ…それで遠慮されたんですか?」 「と、言うか…そんな話になったことすらありません」 言い訳に返ってきた鋭い眼光が先を求めているように見えたのだろう。肩を竦めた八雲がまた口を開いた。 「此処に来てまだ一年も経っていませんし。こちらにいる皆さんも、そう言った事は考えたこと無いんじゃないですかね?」 ふむ、と一息付いた亮は、室内を見渡した後、天井を仰ぐ。 「そんなに難しい方でしょうか?」 「そう言う訳では…」 「では、もし打診されたら…?」 否定を流すかのような問いかけに、八雲は思わず考える為の間を開けた。その間も亮は真っ直ぐに彼を見据えている。 「それはもう、謹んでお受けしますよ」 「それなら良かった」 答えに安心したように微笑んだ彼に、今度は八雲が真面目腐って問い掛けた。 「…何か聞いたんですか?」 「?何をですか?」 きょとん、と首を傾げて問い返してくる亮の瞳を覗き見て。 「相変わらず読めないお方です。あなたは」 「単なる私見ですよ。深い意味はありませんから」 困ったように呟く八雲に、亮は裏表の無い答えを返した。 翌日の早朝。 「なーんて言われてしまったんで、気になって気になって仕方がなくなったのですが…」 耐え兼ねた八雲が王座の間を訪れては眉を下げる。 彼を迎えて全てを聞いた二人のうち、有理子がクスクスと笑い声を漏らした。 「八雲さん、結構気にしぃなんですね」 「お前に言われたくねえだろ。八雲も」 「うるさいわね。ってかあんたが気にしなさすぎなんでしょ!」 彼女がもう一人である沢也の茶々に口を尖らせるのを微笑ましく見据えながら、八雲は話の軌道を元に戻す。 「それで、本当のところは…」 「お前にその気があるなら、直ぐにでも移動させてやるよ」 率直な解答を耳にして、必要も無いのにじっくり解読してしまった彼の口からすっとんきょうな声が出た。 「へ?」 「いい加減仕事も覚えただろ?」 「はい、覚えました。覚えましたが…」 淡々とした質問にも狼狽える八雲を笑い、沢也は更に問い掛ける。 「常にこんだけの山があるんだ。ドMには丁度いい仕事だと思わないか?」 デスク周りに積まれに積まれた書類を見渡す途中、視界に入った有理子も沢也と同じように笑っていた。 その悪戯っ子顔負けな表情に負けたように。 「分かりました。喜んでやらせて頂きます」 八雲はそっと肩を竦めて見せた。 そうして平和な朝は過ぎる。 昼食前の駐屯地でもそれは同じ。 「…猫?」 圓の膝に収まる白い物体を見て諸澄が呟く。彼の前には弁当屋の弁当が広げられつつあるのに、圓の前にはまだ書類があるばかり。普段ならもう昼食に手を付けてもおかしくはない頃なのに。 諸澄が白猫と圓とを訝しげに眺めていると、顔を上げた圓がくいっと眼鏡を持ち上げた。 「正確には妖獣と言って、妖精と獣の間に位置する生物だそうですよ」 「ふーん…」 何処かで見た顔だが何処だったかと考えつつ、半分聞き流した解説にも聞き覚えがあるように思いつつ。もふもふしたくてウズウズしていた諸澄は、ぼんやりと水を口に運ぶ。 「倫祐さんの相棒さんです」 ぶっ。続く圓の補足に吹き出しかけた彼は、理不尽ながらに抗議の眼差しを持ち上げた。 「多分、お昼食べに来たんだと思いますよ?今日はお弁当の日ですから」 しかし抗議は気付かれる事もなく流されて、代わりに知らない情報を聞かされた諸澄がおかしな声を上げる。 「弁当の日?」 「週に一回、お願いしてるんですよ。会費制で。諸澄さんもどうですか?絶品ですよ」 にこにこウキウキと話す圓が飯の用意をしない理由は分かったが。一体誰に…と言いかけたところで扉が開いた。 顔を出したのは重箱を持った倫祐である。 ポカンと口を開けては呆然とする諸澄を置いて、ワイワイと進められる昼食の準備。テーブルに広げられた箱の中身は圓とハルカ、それからもう一人の参加者からのリクエスト品だ。 茄子の生姜焼き、春雨サラダ、和風ハンバーグにゆかりご飯…更には味噌汁まで。 立ち込めた湯気と香りに驚愕しながら、なんとなく苛立った諸澄の口からポツリと声が零れ落ちる。 「海老フライ」 唐突な発言に三人が振り向いた。彼等による数回の瞬きを経て、諸澄は続ける。 「あの時かっさらって行ったあれだよ。あれ。返せよな。いい加減」 呆れたように、不機嫌そうに、気だるそうに促す諸澄は、何の話かと顔を見合わせる圓とハルカを横目に倫祐と向き合った。 倫祐は箸を並べながら暫し思案して、頷きと共に彼を見る。 「勿論、タルタルソースでな」 不敵な笑みにも、倫祐は再び頷くだけ。しかし頷かれた本人は驚いた表情のまま固まった。 それに気付いた圓が問い掛ける。 「どうしました?」 「…いや」 誤魔化しながら、諸澄は考えた。 顔は無表情そのものだったけど。それでも確かに、空気が笑ったような気がした。 帯斗が言ったこと 轟が言ったこと 何となく理解できたように思えて、複雑な気持ちで彼を見据える。 そんな諸澄の膝の上。 そろそろと移動してきたハルカが、くるくる回って場所を探し、やれやれと言った調子で身を落ち着けた。 cp70 [後継者]← top→ cp72 [適任者] |