後継者



 事は順調に進んでいる。
 彼はそう思って止まなかった。


「では私の計画が破綻していると?そう仰有るのですか。あなたは」
「落ち着きなさい、秀」
 広すぎるリビングの中央で豪華な食卓を囲む三人の男達のうち、ガタリと身を乗り出した秀が目の前の二人を睨み付ける。実の父親の宥めをなんとか聞き入れたものの、納得いかなそうな彼の鼻から荒い息が噴出された。
 対して彼をそうさせた張本人は、至って冷静に言葉を並べていく。
「何も破綻とは言っていません。これ以上かかるなら、別の手も進めておくべきだと提案しているのです」
「同じようなものでしょう。私に難癖をつけていることに変わりはない」
「いいえ。より確実にして頂きたい…それだけです」
 食事に視線を落としたままだったその男は、やっとの事で顔を上げた。柔和ながらに鋭い眼差しを前に眉をひそめ、それでも秀は首肯する。
「いいでしょう。ではまた幾つか駒を進めます」
「ありがとう。秀君」
「いえ、なに。私も丁度、退屈していたものですから」
 乾いた笑いを鼻から出して、食事も半ばに席を立った彼は、綺麗なターンと共にナフキンを置いた。
「義兄上も、良い正月を」
 退出間際、短く挨拶した秀を二人が見送る。

 このように、秀が義兄の提案を実行したことによって、正月早々事件が動いていく事になる。

 ゴシップ紙から始まり、強化剤絡みのあれこれも、全てはその「駒」を動かした結果、及び副作用なのだ。

「そもそもさ、強化剤って一体なんなの?」
 ハルカと沢也の報告会の合間、結が唐突な疑問を口にする。
 それそのものの仕組みについては解明されているが、知りたがる人間が居なかった為に今まで語らずに済ませていたのだ。何故なら仕組みなど知らずとも、効果が分かってさえいれば捜査や調査に支障はないのだから。
 沢也は一つ頷く片手間、椅子を回転させてハルカから結に向き直る。
「恐らくは偶然の産物だろうが、魔科学が産み出した代物だ」
 ぱちりと結の瞳が瞬いた。科学に明るくないであろう彼に合わせて、沢也は魔法寄りの解説をする。
「薬の力で体力を無理矢理魔力に変え、内側で力にする。…やってることは倫祐と同じだが、元々無い筈の魔力を体内で捏造する訳だからな。体に負荷がかかり、中毒症状も生むってこった」
「そう。だからこそ、人間以外の動物はその負荷に耐えられない個体が多いみたい。だから、先駆けての投与実験は発明した科学者自らが行ったって噂だよ」
 続くハルカの補足はまたも結に瞬きをさせた。彼はまるで目眩を振り払うような仕草の理由を、引き吊った声で口にする。
「国が設立する前に開発されてなくて良かったね…」
「ほんと、その通りだよ…」
「まぁ、今ならまだ規制があるからな。人体実験なんかやろうとすりゃあ、直ぐに誰かが気付くだろうし」
 だからこそ偶然開発が成功してしまった事実を呪うように、沢也は小さく息を吐いた。
 彼の心情を読んでは納得した結が、肩を竦めて話の軌道を戻す。
「話の腰を折って悪かったね。それで、あのいけ好かない貴族が何をしたから「強化剤事件」が起きたんだって?」
「そう思って調べを進めて貰ったんだが、事件の起爆剤となったあの二人と、秀の行動に直接の関係はなさそうだ。ただ…」
 直ぐ様話題に乗っかった沢也は、ハルカの頭を撫でながら細めた瞳を歪ませた。
「犬の飼い主の行動には、関係があるかもしれない」
 沈み気味の声色を聞きながらも、結の口からは不思議そうな唸り声が上がる。
「前々から思ってたんだけど、ハルカが調べてるにしては随分曖昧だよね」
「そりゃそうだ。こいつだって逐一秀の監視をしている訳じゃない。特に密室に入られちゃ手も足もだせないだろ?」
「うん?」
 ぱちくりと。結の瞳が瞬いた。今度は驚いたような、困惑の色を持って。
 それに気付いたハルカが、止まってしまった沢也の掌に頭を寄せるようにして首を傾ける。
「結は何か、僕のことを勘違いしてやいない?」
「ハルカなら、どんな場所だろうと裏の世界から覗き見出来るものだと思ってるんだけど…」
「成る程…それなら確かに便利だが…」
 今更になって露呈した見解の違いが苦笑を呼んだ。沢也は眼鏡を持ち上げながら不器用に笑顔を強めて見せる。
「ハルカが裏の世界から覗けるのは、海羽や倫祐、俺なんかみてえに、親しくて魔力のある人間の周りだけだ」
「そう。それ以外の人間…もっと言えば三人以外の周囲は、表側に戻ってこなきゃ見られないって事になる」
 そうだったんだ。と、結はふわふわ頷いた。納得を得られて安心したのか、ハルカが笑うように鼻を揺らす。
「親しい、と言うと語弊があるだろうから詳しく説明するとね?」
 うん、と結の相槌が挟まった後、彼は続けた。
「魔力の波長を合わせるのには時間を共有する必要があって、その所要時間は人それぞれ異なるらしいんだ。波長を合わせられるようになった人間の周りだけは様子が窺えて、同時に相手の呼び声にも答えることが出きるってわけ」
 言葉尻にくるりと回った尻尾が沢也を向く。結も感嘆に似た理解の声を漏らしながら彼を見上げた。
 因みに海羽とは出会って直ぐに。沢也とはこうして城に常駐するようになってから繋がり。倫祐は言わずもがなと言った感じか。
「現に椿なんかはまだ波長を合わせてる途中だしな」
「それはつまり、今遠くで椿がハルカを呼んでも聞こえないけど…」
「俺や倫祐、海羽が呼んだら届くってことになる」
 なかなか一緒に居られる時間が無いんだよね、とハルカが付け加えると、結はそれもそうだね、と頷いて見せた。
「だから僕は三人がターゲットの側に居ない限りは、猫として監視をしているって事になるかな?勿論不自然にならない程度には姿は隠すし、見つかったら逃げるけど。猫なら人間よりは見逃して貰える可能性が高いしね」
「貴族側はハルカが妖獣だなんて気付いていないからな」
 嘲笑うような沢也の補足を聞き付けて、結がまた唸りを上げる。
「それって、気付かれないよう注意しなきゃ駄目なんじゃない?もし近くに魔術師が居たら一発じゃん」
「だからこそハルカとこうして会話するのは、来客不在時のこの場所でだけなんだがな」
「そうだね。でも秀が来そうな時は、もう少し気を付けた方が良いかもよ?沢也」
 心配そうに口を尖らせた結は、間を持って先を促す沢也に呆れたような声で言った。
「最近無意識に僕やハルカと話してるから」
「こんなんでも疲れてるんだよ」
「そりゃ悪かったな」
 小さな二人のジト目をあしらうように呟いて、デスクに向き直った沢也はパソコンを前に苦笑する。
 今日の王座の間は端から見れば嫌に静かだ。沙梨菜も義希も仕事で城下町。海羽も秀と買い物に出掛けているし、有理子も財務課と民衆課を行き来している。何より蒼が出掛けているせいで、来客が無いのが一番の要因か。
 だからこその忠告だと悟ったのか、先程より小さな、溜め息のような声で沢也は続ける。
「正直秀なら、俺の独り言くらい精神病の類いで片付けるだろうと踏んでるが…」
 言葉の溝を小さなクリック音が埋めた。それによって開いた幾つかのメールから視線を戻しつつ、沢也は口端を持ち上げる。
「何処で誰が聞いてるか分からねえからな。忠告は有り難く聞いておく事にする」
 言い終えた彼が仕事に戻ってしまう前にと。苦笑した結は新たな疑問を背中に注いだ。
「秀への警戒はまぁそれとして。その兄の方は警戒しなくていいの?」
「余り警戒していると知られたくはないからな」
 実際今回の事に兄が絡んでいる事を、三人は知らずにいる。しかし恐らく兄の助言の賜物だろうとあたりは付けていた。
「やっぱり秀が使えないから養子を取ったのかな?」
 様々な邪推が静寂の中を行き交う中、唯一口を開いたハルカに沢也が答える。
「さあ。真意までは知らん」
「秀は未だに自分が跡を継ぐと思ってるんでしょ?」
「ああ。兄がそう言っていると豪語していたが…」
 曖昧に先を濁らせた沢也の口ぶりからしても、他の貴族や彼の家族の対応からしても、そして秀本人を毎日目の当たりにしているからこそ、三者は同様の見解を抱いていた。「それはまずないだろう」と。
「本当にお兄さんはそんな事言ってるのかな?妄想ってことはない?」
「裏で操るつもりなのかもよ?」
「いいや。海羽の件であいつが居なくなるのを見込んでるんだろう」
 淡々と、と言うよりは当然のような冷たさに、結とハルカがカチリと固まる。
「それは、つまり腹黒兄貴ってことでいい?」
「さあな。真意までは分からない」
 若干弱ったようなハルカの問いにも軽く答え、沢也は緩く笑みを浮かべた。
「まぁ、俺でもあいつの失敗は想像できるくらいだ。単純にそれだけなのかもしれないぞ?」
「そうだといいけど」
「同情か?」
「まさか。僕は無駄な争いが嫌いなだけだよ」
 そう言って、欠伸混じりに立ち上がったハルカがふらりと尻尾を揺らす。
「それじゃあ、少し海羽の様子覗き見してくるよ。結の期待に応えて、裏側からね」
 ふふふ、と妖しげな笑みを残して裏の世界に旅立ったハルカの背中を、残された二人は複雑な眼差しで見送った。


 ゆらりと揺れるのは時の流れを圧縮したようなマーブル色。
 一瞬だけそれに染まる世界の後に見えるのは、王座の間よりもずっとずっと静かな世界。

 誰も居ない裏の世界に辿り着いたハルカは、海羽の気配を探すために瞳を閉じた。すると電話が繋がったかのように、相手の声が僅かに聞こえてくる。
 何の話をしているか、その内容まで聞き取れない程細やかな物ではあるが、居場所を特定するには充分だ。
 声を辿って城下町に降りて行く。時が止まっているようにも見える景色に風が訪れて、密かな心配を杞憂に変えてくれた。
 ゆっくり歩いたのは体感で十分ほど。しかし表の世界ではほんの数分。彼にその自覚は無いが、それが本当なのだから仕方がない。
 辿り着いたのは一件のカフェのようだ。声はその軒先から聞こえているように思う。
 オープンカフェでも無いのにそこで何をしているのか。それは実際に覗いてみれば分かる。
 ハルカは表に居る海羽と、裏に居る自分との時間を共有する為の魔法を唱えた。
 呟きの後、爪先でそっと触れた空間に円形の渦が出来て行く。それは次第に磨りガラスのような、しかしそれよりは鮮明に表の世界を映し出す鏡となった。
 予想通り、海羽と秀がカフェの軒先で押し問答している様子が見える。理由は彼女達の脇に並ぶ人々を見れば明らかだった。

「海羽さん。こちらですよ、さあ」
「あの…秀さん…」
 時間帯的に昼時から外れてはいたが、人気店なのだろう。道の端に出来た行列を整理する店員が困り顔で秀を見据えた。
 何故なら彼が行列を無視して入店しようとしているから。
 勿論首を振って列の最後尾を指し示した海羽だったが、秀は意に介さず彼女の腕を取る。
「問題ありません。私を誰だとお思いですか」
 誇らしげに言うや否や、出方を窺っていた店員を振り向き、彼は一言。
「ここはこの私を待たせるような失敬な店なのか?」
「しかし…」
「私を怒らせればどうなるか、分からないわけでは…」
「すみません、ちゃんと並びます」
 割り込んで遮った海羽は、気まずさで思わず顔を伏せる。秀はそんな彼女の両肩を掴んで揺すり、苛立たしげに呼び掛けた。
「海羽さん」
 強い声に、それでも海羽はきちんと顔を上げて返答する。悪あがきだとしても、彼の言いなりにばかりなっていては、いつかのように…また、店に被害が出るかもしれないから。
「駄目です。きちんと並ばないのなら帰ります」
「そう我が儘を仰らずに。ささ、参りましょう」
「我が儘なのは…」
「ならばこれでいいだろう?」
 反論も聞かぬうちにターゲットを変えた秀が叩き付けたのは、あろうことか札束だった。その場に居合わせた人々の目が点になるのにも気付かずに、彼はフンと鼻を鳴らす。
「まだ文句が?」
 問われた男性店員は、諦めたように頭を下げて札束を拾い。
 そのまま秀に差し返した。
「分かりました。しかしこちらは受け取れません」
「まだ恥をかかせるつもりか?一度出したものを引っ込ませるなど、この私に出来るものか」
 良く通る声が道行く人までもを振り向かせる。誰もが身を縮めて行く末を見守る中、周囲を一瞥した秀は不機嫌に、嫌味ったらしく言い放った。
「要らぬならそこの愚民どもにくれてやれ。それより早く案内したまえ。彼女の足が疲れてしまう」
 全てを敵に回した事にも、やはり気付いていないのだろう。固まった店員を追い越して店の中へと進む秀は、海羽が付いてこない事に気付いて目を見開いた。
「なにをなさっているのです。そんな所に突っ立って」
「すみません。やっぱり帰ります」
「何を仰る」
 答えを待たずに行動に出た海羽は、腕を捕まれ引き戻される。そして耳元にぽつりと。
「この私に魔法を使わなかったところは評価しましょう。しかしこれ以上は…ねえ、海羽さん」
 脅しのように携帯を見せ付けられ、同時に自分の父の名をちらつかせる彼に、海羽は何も言えなくなった。
 正直なところ、毎日こうしているだけで、無理矢理結婚させられる事が無いだけでも、相当の手回しがされているのだろう。それが分かってしまうからこそ、これ以上迷惑はかけたくない。彼が家に連絡しただけで、何かしらの妨害が城にいる皆に向かうのだから。
 だからと言って、ここに居る人達に迷惑をかけるのかと。そこまで考えた時には、腕を強く引かれて席に着かされていた。
 真っ白になっていた目の前にメニューと水が置かれる。
 周囲の視線が痛い。
 早く注文を…と、メニューに手を伸ばす。
「この店で一番高価なコース料理を二つ」
 しかしメニューは開く前に秀によって回収された。
 店員は頭を下げ、ひきつった笑顔を残して去って行く。パスタやピザが売りのカフェの、しかもランチでコース料理等本当にあるのだろうかと、巡った考えは秀から繰り出される自慢話に遮られた。
 息を付く間もなく、何時ものように、新しいものから馴染みの物までを一通り聞き終える前に料理が出てくる。その間口を挟む事なく座っていた海羽は、料理を待つ他の客や店員達の空気を感じ取り、早く食べてしまおうとフォークを手に取った。
 しかし彼女が前菜のサラダを引き寄せたのを制して、秀が不機嫌そうに呟く。
「まだ話は終わっていませんよ?そんなに空腹ですか」
「はい。ごめんなさい」
 実際の所そうでもなかったが、頷いた海羽は彼の溜め息を待たずにレタスを持ち上げた。
 仕方なく海羽に続いた秀は、メインであるパスタが運ばれてきた事にも顔をしかめる。恐らく高級料理店のように、食べ終わったら次を出すのが当たり前だと思っているのだろうが、下町のカフェで、しかもこの状態でそれを望むのは流石に行きすぎであろう。
 しかし郷に入れば郷に従えと言う言葉は、秀の辞書にはない。
 麺を一口だけ口に運んだ後、フォークを置いてはナフキンで丁寧に口を拭った。
「なんだこれは。平民はこんなもので喜ぶのか?」
 ギシリ、と。何かが音を立てる。それは店内の空気であり、海羽の胸中でもあり、秀が席を立つ音でもあった。
 立て続けに店を批判する台詞を並べる秀の声を遮って、未だフォークを離さぬ海羽は進言する。
「僕には美味しいです」
「ああ、海羽さん。こんな店にまで気を使う必要はありませんよ。あなたは本当にお優しい…」
「本当のことを言っているだけです」
 店が静まり返った。
 秀はその中に小さな鼻息を落として海羽を引っ張る。
「それ以上食べる必要はありません。早く出て高級レストランにいきましょう」
「でも、まだ残って…」
「それが何か?豚の餌にでもしたらいい」
 無理矢理立たされて、反論も酷い言葉でズバリと切り捨てられて、息を吸い込んだ海羽の口から震える声が溢れた。
「そんな言い方…」
「金を払ったのに文句を言われる筋合いはありません。さあ参りましょう」
 手からフォークを拐われながら、海羽はこうしてテーブルに上るまでに、この料理が辿った経緯を思い起こす。彼女自身も普段料理に携わるからこそ、こんな風に殆ど手付かずで残された現状を見るのは心苦しいものがあった。
 それ以上に、全ての事に申し訳がなくて。
「ならここは僕が払います」
 だからまだ食べていきますと、行動で示そうとする海羽に秀の笑顔が降りてくる。
「あなたは私に恥をかかせるおつもりですか?少々落ち着いてください」
「もういいです」
 割り込んだのは店員の声だった。
 彼は秀がテーブルに置いた代金を手に深々と頭を下げる。
「どうぞお帰りください」
 言われて直ぐに踵を返した秀の背中。
「ごめんなさい…」
 海羽は小さく呟いて、足早に彼を追い掛けた。

「馬鹿だな…海羽は」
 裏側から二人を見ていたハルカの声が静かな中に落ちる。それは表から響いてくる喧騒に比べると酷く大きく聞こえた。
 きっと彼女は後悔していたのだろう。何時かの「何もしなかった」自分に。だからこその今回の行動が「自分の為」だと気付かされた。
 彼女は今、そう考えている筈だ。結でなくとも、その表情を見れば分かる。
 確かにあそこで海羽がごねれば、被害は大きくなったかもしれない。だからと言って何もしなくても、結果は今と然程変わらないのだから。
「君が悪いんじゃないよ。君のせいじゃない」
 だから自分を責めるのは止しなよ、と。
 気休めにしかならないであろう言葉を頭の中で響かせながら、ハルカは城に到着するまで二人の足取りを追い掛けた。



 一方こちらは木々の立ち並ぶ深い森の中。
「お呼び立てして申し訳ありません」
「いえ。外出もたまの息抜きですから」
 丁寧な一礼に同じように返し、家主に続く蒼は脱いだコートを傍らの執事に託した。
 広い屋敷は昔と変わらず、絵画や生け花は愚か、窓枠の隅まで手入れが行き届いるのだろう、酷く輝いて見える。
 それは勿論、彼がいつも歩く城の廊下も同じだが、しかしそれとはまた違った洗礼さを、来る度に覚える蒼であった。
 家主である孝が所有する全ての建物を含めてしまえば、その面積は城のそれを軽く上回るであろう。そのうちの一つ、別邸のようでいて特別な雰囲気を持つ小さな屋敷の、一番奥の部屋に案内される。落ち着いた色合いのソファーに身を沈めた蒼の前には、静かに紅茶とスコーンが並べられた。
「夏芽くんにも話すつもりでいるのですがね」
 執事の退室を待って、孝は早速話を始める。枕詞に頷いた蒼に、勿体ぶったような彼の微笑が向いた。
「そろそろ隠居を考えているんですよ」
 穏やかな声に含まれる全ての色を悟り、蒼は微笑を微妙に変える。孝はそこに理解を見出だして先を繋げた。
「勿論、生きているうちはフォローさせて頂くつもりでおりますが、いつくたばるかも分かりません。今のうちに引き継ぎだけでも済ませて安心したいのです」
 家業も、国に纏わる極秘事項もとなると、かなりの時間が必要になる。蒼は当然同意の首肯を返した。
「それで、後続を養子に託したいのですが…念のためあなた様にも見て頂きたいと思いまして…」
 そう言って、孝は傍らの卓上ベルを鳴らす。数秒後に入室するなり律儀に礼をした人物は、孝の後ろに付いてまた頭を下げた。
「お初にお目にかかります」
「亮と言います。15の時家に入り、今は35歳です」
 孝の紹介に合わせて、蒼も席を立つ。同じく自己紹介してお辞儀をすると、真面目な顔のまま礼を返された。
 孝は生涯独り身を決め込んでいるのだろう、その歳になっても伴侶はなく、当然子供も居ないと聞いている。だからこその養子だとは理解していたが、今の今までその存在を知らずに居た。それはきっと自分だけではなく、殆どの貴族がそうなのだろうと、蒼はなんとなしに推察する。
 そうして蒼が席に付き直しても、亮は孝の後ろに控えたままじっと視線を預けていた。その瞳は柔和な孝のものとは違い、どちらかと言えば鋭く、強い印象を覚える。
「日頃直属の部下として、商談や会合等で各地を転々としておりましたが。私の引退を機に、腰を据えて貰うつもりです」
 口を開かぬ亮の代わり、孝が続く説明を始めた。成る程、これがこの二人のスタンスかと納得した蒼は、孝と向き合い紅茶を手にする。
「とは言え、こう見えてアクティブな子ですから。なかなか一ヶ所に留まってはくれないのでしょうけど」
「努力します」
 冗談混じりの受け答えに何となく安心した蒼の表情を見抜いてか、孝はするりと話を進めた。
「現状、私の横に付けておくよりも、あなた様方の側に置いて頂けたらその方が勉強になると踏んでいるのです。ご迷惑でなければ暫く通わせて頂けませんか?」
「こちらは大歓迎ですが…例えばどのようなお仕事を?」
「事務から接客、雑用までなんでもやらせてやって下さい」
「善処します」
 多少の驚きをそのまま肩竦めにして、蒼は二人に強めた笑顔を注ぐ。
「では、お言葉に甘えて。日程は後程大臣と相談して送らせて頂きます」
 孝の事だ。色々と思惑はあるのだろうが、そこを問い質す必要は無いだろう。答えは自ずと後から付いてくる。
 そうして早々に了承した蒼に、亮もまた驚いたような瞬きを浴びせた。そんな二人を面白そうに眺めていた孝は、亮と目配せをして蒼に直る。
「それではまた後日」
 亮はそれだけ言うとまた頭を下げ、静かに退出した。
 起立して見送った蒼が、扉が閉まって席に付くなり孝は念を押す。
「私の身内と言うことは抜きにして、遠慮せずしっかりと調査してやって下さい。それが互いの為です」
「了解しました。抜かりなくやらせて頂きます」
 言いながら今後の予定を頭の中に詰めていく蒼が、そっと紅茶を口にする間。
「貴族に向けた発表も近々予定しておりますが、然程影響はないと見ています。それよりも、本日はもう一つ…大事なお話しが」
「はい。なんでしょう?」
 デスクに立って戻った孝は、蒼の前に立派な装丁のされた薄い本を差し出した。
 それはここ暫く蒼の目に嫌と言うほど映された物と同じ。
「私からの推薦です」
「それはまた、興味深いですね」
 見合い写真。白地に銀の模様が走る布張りのそれを手に取って、蒼は孝に確認した後中を改める。
 合成写真ばかりを目にしていた蒼からすれば、それは純粋に美しく感じた。
 ショコラブラウンの長い髪に、飾らない清楚な服に身を包んだ、少し不機嫌そうな女性の姿がそこにある。
 蒼は表情を変えずに顔を上げ、目の前の孝に説明を求めた。
「古い友人の一人娘です。現在は小さな村で幼子相手に教師をしております。それ故学も有り、忙しさにも貧しさにも慣れている。共に仕事をして行くには差し支えないでしょう」
 そこで一旦紅茶を飲み、息を整えた孝は、困ったように言い分ける。
「しかしあなた様には、先に謝っておかなければならないかもしれません」
「と、言いますと?」
「彼女は貴族や王族に偏見を持っていますので。失礼な発言があるかもしれません」
「偏見、ですか」
「彼女の産まれも貴族なのですよ」
 蒼が偏見と言う言葉に反応してしまったのも、最早仕方がない事だろう。事情を知らぬ孝は、彼の変化に気付きながらも先を続けた。
「しかし没落しましてね。幼い頃に両親が無理心中を…」
 写真の後に差し出された書類を見ると、24歳と記されている。自分と然して歳の変わらぬ彼女が幼い頃となると、情勢の不安定さも要因の一つと考えて間違いはない。王族に悪い感情を抱くのも当然だ。
「私がもう少し早くに気付ければ二人も助かったのでしょうけれど…結果として彼女だけが生き残りました。手助けが間に合わなかった罪悪感から、私は幼い彼女を預かることに決めたのです」
 当時の孝がどれほどの地位に居たのかは、分からない。しかし彼にとってそんなことは関係ないのだろう。ただ、後悔の念だけが見て取れた。
「しかし元々の性格か、彼女は自ら此処を出て、街で暮らすようになりました。私は少々援助をしたくらいで、何もしてあげられなかったものですから…たまの頼みくらいは聞いてあげたいと思いまして」
「孝さんの紹介です。余り心配はしていません」
 人柄も、経緯も。全てを受け入れた上で、しかし蒼は不思議そうに呟く。
「ですが、何故僕を…」
「彼女たっての希望なのです」
 孝にしては強い声が、蒼の疑問を遮った。
「後は直接お確かめ下さればと」
「分かりました。それでは、お預かりしていきます」
 言葉通りに受け取って、早々に引き下がる蒼を、孝は心配そうに見据える。
「大丈夫ですよ。普段から書類審査に通る候補者などいないのですから」
 この話はこれでおしまい、と。
 蒼はそう言いたげに書類と写真をルビーに仕舞い、残りの時間を穏やかな雑談に当てたのだった。




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