file9”犬”:前編



 一月も最後の週を迎えていた。

 冷たい空は澄み、淡い青が何処までも広がっている。所々に浮かぶ雲は今にも消えてしまいそうな程に薄く、酷く高い場所にあるように見えた。
 制服の上から分厚いコートを着込み、手袋をはめた手で槍を握る門番二人は、先日駆け回った町並みから上る小さな音に耳をすませる。
 トンテン、カンカン、時にギュィーンと響くのは未だ終わらぬ修繕工事の音だ。
 位置的に見ることは叶わないが、何となく遠くを見据える二人の背後。スーツに白衣を羽織っただけの寒そうな出で立ちの彼が来て、曖昧な挨拶を口にする。
 振り向いた二人は珍しそうに肩を竦めて、冗談とも取れる返答をした。
「お勤め御苦労様です」
「参謀。お出かけですか?」
「いや」
 白い息を吐き出しながら、脇に抱えていたファイルを掲げた沢也は、意地悪そうな笑顔を浮かべる。
「気になってるだろうと思って」

 そう言って彼が残していったのは勿論、先日の事件に関する報告書や調査書をまとめたものだ。
 正宗と茂達は、業務の合間にそれを眺めながら実状を飲み込んでいく。
 事件から5日が過ぎた今日も、聴取や調査は継続されているわけで、まだ全てが解決した訳では無さそうだが、ファイルを見ただけでも大体の事情は把握できた。


 壮絶な追い掛けっこをしていた二人の男が同業者だと分かったのは、騒動の最中に薬の売人を確保したからだそうだ。
 前日に茂達と倫祐が報告した「例の裏路地」を張っていたハルカが、その日の夜中に現れた人物を沢也に報告。夜勤だった小太郎にそのまま捜索させて、居所を掴んだ所であった。それが薬の売人だったのだ。
 経緯は勿論引き継ぎで聞いていたし、引き続き売人だったその人物を監視する隊員も配置していたのだが、それとは別に早番で出勤してきた倫祐が、「住民カード」の男を張っていた所で例の追い掛けっこが始まり、近場の駐屯地にたどり着いた…以上が全ての流れである。
 あとは門番の二人も居合わせた通り。
 強化剤を使用した二人の男も逮捕したし、売人も同じように証拠を揃えて逮捕となったのだが、それでもまだ疑問は残った。

 今ある一番の問題は、誰がポストに強化剤を入れたのかと言うこと。

 夜中に売人が置いた薬はハルカが回収していたし、そのあと直ぐに小太郎が小型のカメラを仕掛けている。
 従ってその後からは周囲の様子が常に録画されていたにも関わらず、不振な人物が映っていなかったのだ。
 しかし現に男はポストから強化剤を取り出し、飲んでいる。それもしっかりとカメラが捕らえていた。
 カメラに映らないと言うことは、透明バリア等の魔法やマジックアイテムを使用していたか、それとも別の何かがあるのか。
 それはそれとして、だ。
 ハルカが薬を回収した事に気付いた上で、新たな薬を投入した人物が居ると言うことは。どちらにせよあの場所を監視する人間が、近衛隊以外にも居たと言うことになる。
「何のための監視だったのかね?」
「ああして仲間割れが起きているくらいだ。理由は色々考えられるだろう。しかし今はまだ、それを考える時ではないのでは?」
「まぁ確かに。じゃあ後回しにして…取り調べの結果は?」
 問われた茂達は正宗に聴取書を手渡した。そこにはボスによる勢いのある文字と、理路整然と並んだ沢也の文字とで三人の男それぞれの供述を記してある。
 それは主に強化剤の売買に関する記述だった。
 三人の話によると、売人が2人の男に強化剤を流し、男達は自らも強化剤を使用しながら別の人間に分け与え、中毒者を増やす。追う側の男は多量に常用していたせいもあり、あの破壊力だ。逃げていた男も少量ではあるが日常的に薬を使用していた為、薬の効果が出るのが早かったらしい。
 詰まるところ、争っていた二人も薬に関する仕事をしていたと言う事になる。
 ついでに現在、強化剤には二種類のタイプがある事も判明した。
 一つは瞬間的に力を引き出すタイプで、今までの事件で散々見てきたものだ。因みに追われる側の男が門番達の前で飲んだのもこちらの方。
 もう一つは今回の二人が使用していた常用タイプ。用量によっては常に強い力を出せるが、常に中毒症状がある。
 最近では手に入りやすい後者で中毒者を広め、高額な前者で儲けを出すやり口が多いとのこと。
 追う側の男は常に多量の強化剤を服用しており、それが彼の半機械的な体を動かすのを手伝っていたようだ。薬が切れた今、暴れないよう魔法で押さえながら取り調べるしか術がなく、なかなか聴取が進んでいないようである。
 現にまだ「追い掛けっこ」になった経緯が語られておらず、その辺りが明白になるのは二人の薬が体から抜けきってからになるだろう。
「マジックアイテムの次はこれが横行する感じかね」
「間違いないだろう。前回より厄介な案件であることもな」
 返された調書を受け取った茂達は、隣で落ち着かなそうに体を揺らす正宗に手を伸ばした。
 正宗はその手に自分の槍を握らせて、テンポ良く屈伸運動を開始する。
「ノルマは?」
「10分で10周」
「了解」
「じゃ、いってくる」
 スタートついでにコートを放った正宗は、顔にかかったそれを徐に折り畳む茂達に小さく手をはためかせた。

 一方その頃。
 紆余曲折を経て王座の間に戻った沢也がパソコンのメールを開いて息を付く。多量の未読メールの中から見付けたそれは、技術課の仁平からのものだ。
「何か分かりましたか?」
 インスタントのコーヒーを淹れた蒼が沢也の横まで足を運んでくる。まだ熱いくらいのカップを受け取りながら、沢也は短く頷いた。
「後で直接確認しにいく」
「では休憩がてら、先にこちらの報告結果…と言うか持ち上がった見解を」
 小次郎や孝にコンタクトを取っていた蒼の申し出に、沢也は顔を上げることで了承する。蒼は沢也のデスクに半端に腰掛けて、紅茶に息を吹き掛けながら話を切り出した。
「薬の取り引き現場を監視していた勢力について。幾つか候補が上げられました」
「一つ目は秀の部下だな」
「はい。しかし小次郎くんの見解では、売人に近衛隊の動きを報告しなかった点が引っ掛かると」
「一理ある。あの売人がどんな立場にあったのかで推測は変わるだろう」
「取り調べ次第ですね。あとは、同じ秀さんの部下でも、管轄が違うと言った場合も考えられると孝さんが」
「例えば海羽の監視係がたまたま近衛隊の活動を目撃していたと」
「有り得ない話ではないと思うんですよね」
「確かに。で、秀の部下以外では?」
「秀さんの動きを見張る人物の、部下でしょうか?」
「つまり、黒幕の?」
「はい。ただそうなると、わざわざ売人のフォローをするかどうかと言うお話にもなってきてしまいますが」
「居ても可笑しくはないが、確かに尻拭いするには不自然な立場だろうな」
「そうなると、やはり最後の候補が一番自然でしょうかね」
 言い終えて、やっと紅茶に口を付ける蒼を振り向き沢也が呟く。
「同業者」
「ご名答」
 にっこり笑って肯定した彼に肩を竦め、沢也はゆっくりと席を立った。
「秀と敵対する貴族が何らかの理由で監視、フォローしていた可能性もある。念のためそっちの動きも追い掛けとけよ」
「了解です。本島のみなさんにお願いしておきます」
 いつの間にやら空になったコーヒーカップを見据えながら、蒼は彼の背中に答えを返す。
 ティーカップを持ったまま沢也が残していったカップに触れると、寒さの中でもまだ暖かかった。

 それほど急ぎ気味に退出した沢也が向かう先は、先程メールを寄越した仁平の元だ。
 彼には取り引き現場に設置してあった監視カメラの映像解析を頼んであり、今回で実に三回目の見直しとなる。
 これで不自然な点が見付からなければ、今度こそ「人避けバリア」の可能性を考えなくてはならないだけに。気が早って落ち着かない沢也の手元が、歩きながら白衣のポケットへと伸びた。
 城内の廊下は全て禁煙であるにも関わらず、タバコを取り出しくわえた彼は、火を灯さぬまま速足に技術課へと向かう。
 途中鳴った携帯に対応し、ついでに書類を取り出しては数枚読み終えたところで階段を上りきり、沢也はタバコ共々顔を上げた。するとガラスの向こうで手を振る仁平と、灰皿とライターを準備する職員達が揃って一つのパソコンを囲んでいた。
「ささささささ沢也さん…!どうぞ、こ、こちらへです…はい。ご覧ください…こちらの…ああ、これ、これですよ」
 入室するなり待っていられないと言った具合に話始めた仁平は、画面の中央を指差してにこにこと口元を緩めている。
 沢也は指定された席に付き、差し出された全てを受け入れ煙を吐き出すと、眼鏡を押し上げディスプレイに顔を寄せた。
「はははははは犯人は、こいつです!」
 どやぁ…と効果音でも付きそうな口調で言う仁平が、何度かキーボードを叩くに従い映像が動く。
 動いては巻き戻り、また動いては巻き戻るを繰り返し見るうちに、仁平の意図が見えてきた。
「確かに、こいつみたいだな」
 怪しい人物こそ映らぬポストの上。乗っかった犬がくわえた何かを確かにポストに落としている。
 映像の中でそれを繰り返す生き物を見据えていた一同が、沢也の言葉を聞くなり一斉に彼を振り向いた。
「ど…どどどどどどどうされますか?何か罠的なものでも製作…」
「いや。もう少し映像を鮮明にして画像を送ってくれ」
 代表して意向を聞いた仁平に簡潔な指示を出し、席を離れた沢也は細く長く煙を吐く。
 その背中を呆然と眺める技術課の面々に、彼は曖昧な答えを示した。
「その辺を彷徨いてるとは、限らないからな」


 そうして言い知れぬ焦りから取り敢えず開放された沢也は、新たな不安を見事に近衛隊へと丸投げする。


 沢也からの丸投げを更にじゃんけんで丸投げられた一部の近衛隊員は、指令と同時に配布された手配書を見詰めてはため息を落としていた。
「また犬かぁ…」
「今回は前回と違って飼い主も分かってないからねぇ」
「特徴も糞もこれじゃあな…」
 帯斗、定一と続いた最後に呟いた諸澄の言葉通り、画質の悪い映像を綺麗にしてみました感満載な写真だけでは捜索もままならない。これと言った特徴は豚のように丸まった尻尾だけなのだ。
「急かされてないだけましっすけど、見付かる気がしないっすよ」
「でもまぁ、探す他ないだろうなぁ」
 帯斗の愚痴の後、メインストリートに響いたのは轟の笑い声である。豪快で気持ちのいいながらも意味不明な爆笑を押し退けて、諸澄が苛立ちをぶつけにかかった。
「てか何で轟が朝番にいんだよ!」
「たまには陽の光を浴びないと吸血鬼化してしまうからな!」
「それ、完全に破壊された街並み補修しまくる体勢すね…?」
 小脇に抱えられた工具や材料を示す帯斗に頷きながらも、轟はさらりと話題を元の軌道に戻す。
「しかし犬に麻薬を運ばせるとは。困った人間も居たものだ」
 珍しくまともな見解に帯斗が思わず頷くと、諸澄の背中から黒い渦が湧き出した。
「確かに犬は賢いけど、そう言う使い方する奴は胸くそ悪い」
「それなら文句を言わずに探しだしてやらなきゃねぇ」
「煩い!言われなくても探してやるっつーの!」
 定一に促され、勢いのまま叫んだ諸澄は、次の瞬間ポンと肩を叩く彼を不思議そうに見据える。
「じゃ、あとはお若い二人に任せて」
「え?」
「オレら年長者は街の補修作業に勤しませて貰うぞ!」
「ちょ…」
 ポカンとする二人を置き去りに、そそくさと並んで歩いていく対照的な背中。我に返った帯斗と諸澄は、僅かばかりの反抗を試みた。
「いっさんのバカー!なまけものー!」
「この建築脳筋野郎がぁぁ!」
 絶叫に返されるのは気のない手の動きだけ。ぐったりと肩を垂れては顔を見合わせて、二人は仕方なく犬の捜索に取り掛かる事にした。

 取り敢えずと。歩きながら始めた話し合いは、街を一周する間中続くほど難航する。
 なんとか纏まった指針は、「犬に強化剤を持たせた人間が絶対に居るのだから、犬は飼い主の元に居ると考えるのが妥当だ」と言うこと。
 そうなると、その飼い主がどこに居るかを考えなくてはならない。
 しかし結局手懸かりはなく、しらみ潰しに犬と言う犬を見て回る他無いのであった。
 事件の性質上、聴き込みするにも手数は使えず、ペットショップや動物病院に口止めしながらの捜査となる。
 他にも事件関連の仕事は残っていて、時折すれ違う義希やその他隊員達には緊張が付きまとっていたし、一人壊れた駐屯地を任された圓も、入れ替わり立ち代わりやって来る隊員達の報告を纏めるのでてんやわんやのようだ。
 そんなわけで、周りに頼れぬ二人は町中の動物関連施設を二日かけて廻り、ついでに公園やらカフェやらでぼんやりと張ってみたりもしたが、正直成果が得られる予感さえしない。

 三日目の朝から食事のついでに合流した19歳コンビは、寒空の下で鼻を赤くしたままコーヒーに口を付ける。自然と漏れたため息と。自然と流れた視線の先に居るふさふさ尻尾の子犬と。慌ただしく駆けていく義希の背中と。
「お前さぁ」
「んー?」
 諸澄の不意な問い掛けに、帯斗はぼやっとした疑問符を返した。二人の目線は全く違う方向を向いたまま、会話だけが続けられる。
「動物って飼ったことあるか?」
「動物?」
「そ。動物。ないだろ?」
「ああ、ない」
「だと思った」
 急に何だと口を尖らせる帯斗を他所に、諸澄は散歩中の犬を眺めながらあっけらかんと提案した。
「飼ってみろよ」
「え?あー、うん。そうだなぁ…」
 帯斗も帯斗で思うところがあるのだろう。曖昧ながらに前向きな返答を返す。
「ちゃんと最後まで世話しろよ?」
「世話って、どーすんの?」
「アホか。んなこと自分で調べろよ。城の資料館でも借りてさ。ってかそもそも何飼う気だよ?」
「何って言われても…特には」
「なんだよそれ」
「良く分かんないんだよ。動物とか、接点無かったし」
 生き物に触れることで何かを分かろうとしているのだろう彼の、曖昧さの理由を理解した諸澄は呆れたように息を吐いた。
「何だって良いだろ?犬でも猫でも魚でも」
「そうは言うけど…じゃあズミが選んでくれよ」
「ばーか。それじゃあ何の意味もないだろ?」
「そうかなぁ…」
「そうだっつの」
 諸澄がいまいち自分の意図を良くわかっていなさそうな帯斗に不服そうな顔を向けるも、彼は未だぼんやりとコーヒーを啜るばかり。諸澄は仕方なく話を別方向へと持っていく。
「まあそれはそれとして。最近犬の話ばっかしてて聞きそびれてたが…あっちはどうなんだ?」
「あっちって?」
「ロボット隊長」
「ああ…」
「半分だけ機械な人間が居たんだろ?しかもめっちゃ強い。それなんじゃね?あいつも」
「確かに…この前顔から血が出てたから、もしかしたらそれかもだけど。義希さんに信じるって言っちゃったし…」
「身内に強化剤使ってる人間が居るかもなんて、考えたくないしねぇ?」
 不意に割り込んできた欠伸を、ゆっくりと振り向いた二人の口から時間差で驚きが漏れた。
「いっさん…!」
「んだよ…びっくりさせるな!」
「君達が朝から浮かない顔してるからでしょ」
 リアクションに何処か満足そうに微笑んで、中腰から立ち直った定一は諸澄に白い封筒を渡す。
「…なんだよ」
「技術課の鑑識班から。薬が入ってた茶封筒に付いてた唾液なんかを色々調べた結果だよ。強化剤の抽出とか忙しいみたいでねぇ。時間かかってごめんってさ」
 定一の解説の間、専門用語やカタカナ、訳のわからない数字とアルファベットの羅列を読みといていた諸澄頭から湯気が昇った。それを見て新たな書類を帯斗に渡した定一は、やはり満足気に先を続ける。
「犬種はダックスフント。僅かながら残された毛に草や土の成分が付着していた。八雲くんが場所の目星を付けてくれたから、行ってみたらいい」
 帯斗が持つ書類を諸澄が覗き混むのを見届けて、定一はひらりと踵を返した。
「いっさんは…」
「僕はサボり組。君達にもいい加減自立してもらわなきゃ困るからねぇ」
 呼び止めた帯斗に素早く切り返し、ふわふわと手を振る定一は、のんびりとしながらもあっと言う間に橋のある方角へと消えていく。
 その背中を見送って、残った朝食をブツクサ平らげた二人は、言われた通り地図の印を追い掛けることにした。

 候補は5つ程。
 民衆課と技術課で管理している土地の生息植物や地質の資料などから捻出された場所は方角もそれぞれに、雑居ビルが建っていたり石畳が敷き詰められていたり、余り犬と関係の無さそうな場所もあったが順に当たっていく。
 三つ目の印は小さな公園だった。
「…すげえな…」
「ピンポイントで此処の土くれが付いてたって事だもんな…?」
「まあ、土が付いてたってことは一度は通った場所だって事でもあるからおかしくはないが…いや、やっぱおかしいだろ!」
 自分達の聴き込みやら何やらは一体何だったのかと思うと、諸手を挙げて喜ぶことが出来ない二人の愚痴は続く。
「確率ってなんだろうなぁズミぃ…」
「なんか悔しいが見付かったもんは仕方ねえ…」
「いや、仕方ねえってか寧ろ喜ばしいことなんじゃん?」
「ああ、そうだった。そうだったか」
 草葉の影から様子を窺うと、目的の犬は飼い主と一緒にフリスビーをしているが、良く良く観察するとどうやら何かの訓練をしているようにも見えた。
「ズミ…!」
「話を聞きにいくだけだ」
 帯斗が不意に歩を進めた彼を止めるも、さらりと手を払われる。
 仕方なく遠巻きに見守る帯斗の心配を他所に、諸澄はズカズカと犬の飼い主に近寄っては何やら話し掛けた。
 位置的に会話を聞くことは叶わなかったが、相手が怪訝そうにしていることくらいは見てとれる。無意識に構えたまま様子を窺う帯斗の耳に、次第に大きくなりはじめた二人の声が届いた。
「大事なら、もっとちゃんと世話してやれよ!」
「してるだろうが。こうして教育し、遊んでやってる」
「それならなんでこんなに汚れて…ガリガリなんだ!」
 諸澄の絶叫を聞いて、帯斗はハッとする。人気のない公園の日影に居る犬の姿は、何処か力なく、小さく感じた。
 それでも痩せていると思えなかったのは、犬の機敏な動きと、小柄で痩せた飼い主のせいかもしれない。
 しかしながら論点がずれている上に、被疑者と喧嘩などはじめては流石にまずいだろう。
 帯斗が仲裁に入ろうと足を伸ばした丁度その時、飼い主の命を受けた犬が暴れ始めた。
 大人しく座っていた時とは打って変わって狂暴な眼差しを見せた犬を、諸澄が上から見据える。
「お前…どうしてそんなになってまで…」
「ちゃんとやれば餌をやる。きっちり追い払ってくれよ?」
 今にも泣き出しそうな諸澄の耳に入った言葉が、彼の腕を動かした。飼い主の胸ぐらを掴んで監視カメラの画像を押し付けた諸澄は、犬に足を噛まれながらも勢いで問いただす。
「この犬だよな?こいつに運ばせたんだろ?さっきのフリスビーと同じように!」
「…早く追い払え!」
「答えろ!このクソ野郎が!」
 諸澄の気迫に負けたのか、小柄な男はぶるぶると震える掌を逆の手で押さえ込んだ。しかし震えは収まらず、ポケットと言うポケットをひっくり返して何かを探し始める。
 しかし何も出てこなかった。
 代わりに男の口から笑いが溢れ出る。
 狂ったように高笑いを響かせる男を掴んだまま、睨みをきかせる諸澄の、今度は腕に犬が飛び付いた。流石に力が抜けてしまったところに流れてきた男の腕が、彼の頬に当り体勢を崩させる。
「帯斗!」
 諸澄は血にまみれながらも、もがいて逃げ仰せた飼い主を指し示した。
「でも…」
「うるせえ!こっちは任せろ!」
 痛みは酷い筈なのに、抱えるようにして犬を宥める彼の気持ちに負けた帯斗は、言われた通り男を追うことにする。
 同じ小柄でも足の速さが違うのか、随分遅れて出発した筈の帯斗は直ぐ様男に追い付けた。捕まえようと思えば直ぐに捕まえられたが、今取り押さえた所で逮捕できるとは限らない。公務執行妨害で引っ張れたとしても、あの不鮮明な写真と犬本体だけでは事件の証拠として弱すぎる。
 それにどうにも行き先が気になって、彼は一定の距離を保って男の背中に付いていくことにした。
 ただ単に諸澄に気迫負けしただけだとは思えない。男の挙動不審さが、数日前の事件の男達とダブって見えるのだ。
 ふらふらと、覚束ない足取りで男が向かう先は一軒の民家のようである。とは言っても正面玄関からではなく、裏の勝手口から侵入する辺り、男の持ち物かどうかは怪しいところだ。
 帯斗は入り口で律儀に礼をしてから、男を追跡していく。家の裏庭を抜けて、突き当たりの物置を足場に塀を登り、隣のビルの裏側に着地した。
 塀の上から見た限りでは、どうやら表から入ることが出来ない場所らしい。追い付いて、悠長に現場を確認する帯斗を振り向くこともなく、男は呆然と目の前のゴミ箱を覗き込んでいた。
「ない!」
 驚愕の声が響く。頭をゴミ箱に突っ込んでまで事実を確認する彼を、棒立ちの帯斗が呆れたように見守った。
「何でないんだ!?」
「悪いねぇ。捕まえた君の同僚くんの供述と聴き込みで、先にこの場所だけ突き止めさせて貰ったんだよ」
 すっとんきょうな男の声の後、突然上から降ってきたのはのんびりした説明と黒い影。
「いっさん…!」
「ご苦労様、帯斗くん。君なら追い込んでくれると思ったよ」
 呼ばれた彼は、二階の窓からよっこいせとふらふら降り立っては欠伸を漏らす。
 頭を撫でられながらも逃げようとする犯人の動きに反応する帯斗は、横から出てきたもう一人の人影を見て思わず硬直した。
「いやぁ、さっすが帯斗ー!監視カメラに映る前に捕まえられたし。これで技術課の負担一個減ったな」
「義希くんが聴き込み頑張ったおかげだよ」
「またまたー。いっさんもパイプ役あんがとな」
 と、明るく楽しく終了した逮捕の瞬間を目の当たりにして、混乱と苛立ちに苛まれた帯斗の叫びが上がる。
「なんすか!なんなんすか!俺等だけ仲間外れにしてー!」
「悪い悪い、技術課忙しいからイヤフォンのメンテしてられる余裕ないらしくてさ、あちこちしてたらそっちまで情報回せなかったんだわ」
「圓くんも喋ってる暇無さそうだったしね」
「報告書もゴテゴテでな…如何せん駐屯地が直らないと落ち着かないからって、そっちにも人員持ってかれてたし」
「パトロール強化もしてたし」
「暴風壁も北通りもまだ直らないし」
「その間建物の住人やら商人やらに保証とかなんとかで民衆課も…」
「分かったっす!分かったっすから…それよりズミは?ズミを助けに…」
「んだよバカ帯斗」
 長々と続く言い訳を遮った帯斗の心配は、塀の上に顔を出した諸澄が自ら消火した。
 のったりと塀に座った彼の腕にはしっかりと大人しくなった犬が抱えられていたが。
「また派手にやったねぇ…」
 あちらこちらに歯形を付けた諸澄の、血塗れな姿を見た定一が呆れたように言った後。
「これくらい、何時もの事だろ?」
 ため息のような諸澄の返答は、義希と帯斗の悲鳴に掻き消された。






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