file8”同僚"後編




 男はただ走っていた。
 必死に必死に走っていた。
 走ることだけが唯一の取り柄だった。
 走ることしかできなかった。
 だからこそ失敗して。だからこそ、逃げたのだ。
 そして今も逃げ続けている。しかしそれももう終わり。


 辿り着いたのは昨日と同じ、島の南側にある裏路地だ。
 男は背後に近衛隊が迫っていないことを確認し、使われていない郵便受けを漁る。
 中にあった茶封筒を震える手で破き、出てきたカプセルを握り締めたところに声がかかった。
「なるほどね。ここは受け取り場所ってわけか」
 長い槍を背中側に回して呟くのは、遅れて追い付いた正宗だ。男はビクリと身を揺らし、急いで口元に手を持っていく。
「ちょい待ち、そんなもの飲んでどうする気?」
 慌てた正宗が跳躍し、槍の柄で男の肘を突いた。体勢を崩した二人の後ろを茂達が走り抜け、男を羽交い締めにする。
 幸い、カプセルはまだ男の手の中だ。
「離せ!お前らなんかにあいつが止められるわけないだろ?」
 後ろから茂達に、前からは正宗に取り上げられそうになるそれを振り乱しながら、男は必死で抵抗する。
「やってみなけりゃ分からないじゃないか」
「分かるさ!お前らは知らないだけだ。あいつはバカみたいに強い…怪物と同じなんだよ!」
「だからと言って、その方法はあからさまに悪手です」
「知るか!オレがやるしかないんだ…やるしか!」
 話すうちに目の色を変えた彼は執念で二人の腕を掻い潜り、あっと言う間に強化剤を口に放り込んだ。唖然とする正宗と、歯噛みする茂達とを睨み付け、男はぶるぶると身を震わせる。
 直ぐに手錠をかけようと身を捻った正宗の頭上を男の手が横切った。力任せに振り回されたそれにより、押さえ込む茂達ごと回転して壁に激突する。
 男は足で壁を蹴ることで反動を作り、倒れ込みながらも茂達の片腕を外すことに成功した。
 正宗は逃がすまいと伸ばしかけた腕を咄嗟に引き、男から茂達を引き離す。その瞬間、先程まで茂達の頭があった場所を通過した男の拳が、見事に壁を陥没させた。
 けたたましい音と共に、石造りの壁にヒビが走っていく。
 その馬鹿力が薬の作用だと言う事は直ぐに理解した。こうも早く効果が出るものかと驚いたのも束の間、構えた二人を置いて男は一目散に駆けていく。
 あちらこちらに体をぶつけながらも、瞬く間に見えなくなった男の立っていたその場所に残されたのは、茶封筒だけだった。
 行き先に当たりを付けた茂達は、まずこの場を押さえてしまおうと考えるついでにそれを拾い上げる。
 破かれた封筒から出てきたのは説明書のようだった。初期の副作用として爆発的に力が得られるが、体のバランスが取れない事などが記されている。
 彼がそれを読む間、正宗は通信機に短い報告を入れた。
「ごめんなさい見失いました。強化剤を飲んで…恐らくそちらに向かっています」
「え…強化剤を…まじっすか?!」
「制止できずに申し訳ありません」
「いやいやいや、聞こえてたよ。お前らのせいじゃないって」
 帯斗の悲鳴に茂達が謝ると、義希が何となくでも聞こえていたやり取りを持ち出してフォローする。
「二人とも近場の班と交代してこっちに来なよ。元々そう言う目的なんだからさ」
 続く定一の進言に有り難く乗っかって、正宗と茂達は直ぐにその場を離れ、通信機越しに引き継ぎを行った。
 それが一通り終わった頃には、男が「現場」に到着し、倫祐ともう一人の男の間に入った知らせが届く。
「でも、何で強化剤なんて…そんなことしなくても俺達が来たって言うのに。信用されてないんすかね?」
 通信機から聞こえた帯斗の愚痴に、正宗は走りながら短く唸り首を捻った。
「っていうか単に。あの二人、知り合いなんじゃない?」
「その通り」
 簡潔に肯定したのは沢也の声である。恐らく今まで調査に集中していたであろう彼に、促しの声が連なった。
「参謀…どういうことだい?」
「ただの壮大なケンカってことはないっすよね?」
 定一の後に帯斗の震えた棒読みが訊ねる。その間も通信機からは耳障りな破壊音が響いていた。
 沢也は会話に出てこない義希が戦闘に加わった事を察しながら、帯斗の邪推に答えを返す。
「勿論違う。あいつらは仕事仲間だ。追われる側が失敗し、追う側が抹消を担った」
「随分と大胆な方法で抹殺しにきたねぇ…」
「見てんだろ?」
「ああ…まぁ…」
 沢也の問い掛けに言葉を濁した定一は、目の前で繰り広げられる破壊活動を苦笑いで見据えた。
「中毒者に冷静な判断なんて、できやしねえんだよ」
 元からそれを見越していたであろう彼の口振りに、定一は密かに肩を竦める。


 定一が見ていた通り、十数分前から続いている戦闘は、彼等がそうして話す間もしっかりと継続されていた。


 正宗と茂達が逃げる男を追い掛けて行った直後。
 突然の事件勃発に避難も済んでいない事を考慮して、倫祐は目の前の男を足止めしにかかる。
 本来ならば、強化剤を使っている相手であろうとも一撃で気絶させられる彼がそんな手に出たのには幾つかの理由があった。
 一つ。強化剤の性能が上がっているせいか、それとも元々強いのか、はたまた両方なのかは分からないが、相手の「耐性」と「破壊力」が大型モンスター並みだと言うこと。
 二つ。自分を「殺せない」事を見抜かれて、攻撃的な相手が何時民衆に手を出すか分からないこと。加えて無駄な動きが多い上、強化剤の影響もあってか、思考が読みにくい事も要因の一つだろうか?
 とにかく気絶させるにも捕らえるにも、派手に暴れるには完全に避難を済まさなければならない。
 その全てを読み取った訳では無いだろうが、倫祐の行動を聞いた沢也がいち早く指示を飛ばす。
 今回はかなり危険を伴うため、腕に自信の無いものは避難誘導班に回した。その最前で指揮を任された帯斗が走り回る間、義希と共にバックアップに回った定一はじわりと汗を滲ませる。
 男の行く手を塞ぐ倫祐はただ立っているだけに見えて、警戒を最大限に強めているであろう事が嫌でも肌で感じ取れた。
 雪でも降りそうな気温の中、白い息を吐き出しながらも寒さを全く感じない程には、凄まじい緊張が張り詰めている。
 避難完了まで、まだそれなりの時間を要する筈だ。それまでなんとしてでもあの男を食い止めなければ。
 現在地は鑑定所の北側に位置する北通り。振り向くと丁度八百屋が見える辺りだ。
 定一は斜め前方にいる義希が正面と耳に集中する様を眺めながら、気付かれないよう身構える。
 ポケットに仕舞ったチャクラムを何時でも取り出せるようにと、神経を張り巡らせる彼の耳に届いたのは、鈍く重い音だった。
 ゴスリと鳴ったのは強化剤を飲んだ男の首筋だ。剣の柄で打ち込んだ倫祐は、反撃を避けて身を翻す。
「意外に素早いんだな」
 自分より背の高い彼が着地するのを見届けた男が苛立たしげに呟いた。その様子からして殆どダメージが無さそうに見える。
「あれも強化剤の影響かね?」
「強化され過ぎってこと?」
「それか痛覚…若しくは神経系が狂っちゃってるのか、または全部か…」
 義希と定一の会話はそこで途切れた。男が辺りの物を手当たり次第振り回しては投げ付け始めたのである。
 怪力任せなだけあって、飛んでくる物体は大小様々ながらかなりのスピードを伴っていた。後退しながら何とか被害を免れた二人は、倫祐が再び反撃に出るのを目の端で捕らえる。
「また首かよ。好きだねぇ、兄ちゃん!」
 先程と同じような音が駆け抜けた。定一と義希の二人と、男との間に落ち着いた倫祐の首が微かに傾く。
 義希にも定一にも、珍しく倫祐の思考が読めた。あれだけの音がしていながら手応えがないのはいくらなんでもおかしいと、見ているだけでも分かるのだから。
「オレは普通の人間とは構造が違うんだ。貴様なんぞに大人しく捕まってやるつもりはない。さっさとそこを退け!」
 剥がれた石畳を投げつけながら叫ぶ男の形相は、さながら鬼や悪魔のよう。それが然も楽しそうに笑っているのだから余計に質が悪い。
 義希と定一が周囲の被害状況を確認しながら通信機で会話をする間に、もう一度。瞬く間に踏み込んだ倫祐は、男の背後に回って剣を振る。
 しかし、今度は何の音もしなかった。
 代わりに訪れた変化に最初こそ戸惑った義希と定一ではあるが、男が振り向き倫祐に拳を降り下ろした時には合点がいく。
 またも壊された舗装から手を抜いた男の服は、倫祐により切断され背中が露になっていた。
「金…属…」
 義希が呆然と呟いた通り。男の背中全面がシルバーの光沢を放つ様を、隣に佇む定一も困ったように見据える。
「あれじゃあ痛くないわけだ」
「でもロボットって感じじゃないよな?背中以外は普通に肌っぽいし」
「ロボ?ロボ人間が居るんすか?」
「ほんと、困った隊長さんだなぁ…」
 帯斗及びその他隊員達の反応を聞いて頭を掻いた定一は、視界の端に飛び込んできた素早い物体に意識を移した。
「倫祐!」
 義希に呼ばれるよりも早く、追う側の男に飛びかかった追われる側の男のナイフを受けた倫祐は、勢いだけの攻撃をいなして二人の間に着地する。
「自ら飛び込んでくるとはなぁ。ちょっと見直したぜ」
 追う側の男は、またも倫祐を通り越して追われる側の男に話しかけた。それすら耳に入っていなさそうな男は、震える両手で小振りのナイフを握りしめる。
「殺られるくらいなら、殺ってやる…!」
 呟くが早いか、駆け出した男の持つ刃が倫祐に向けられた。倫祐が当然のようにそれを受け止めた事で硬直状態になる。
「確かにそうだなぁ。それならまずは」
 にやにやとそう言って、追う側の男が徐に曲がった鉄パイプを振りかぶった。
「邪魔者を消しちまわないと!」
 風を伴い下ろされたパイプの勢いを義希のバリアが止める。倫祐はその間を利用して追われる側の男を弾き飛ばし、自らは上に飛び上がった。
 石畳が粉塵のように舞い上がる。
 つぶてを交わしながら事の行く末を見守る定一は、不測の事態に備えてチャクラムを取り出した。
 視界が悪くなった状況で、一番最初に動くとすれば素早いあの男である。
 定一が目当てを見つけたと同時、今にも走り出そうとしていた男の前に正宗が立ちはだかった。
「止しなよ!」
 追い付いてきた二人に囲まれて、歯軋りをする男の頭上に真剣な声が注がれる。
「そんなことしても虚しいだけだ。助けてやるから大人しくしてな」
「五月蝿い黙れ!」
 払った腕が正宗の横髪を僅かに散らした。男はきちんと構え直して二人を睨み付ける。
「それ以上言うなら、お前らから消してやる」
 血走った眼差しを受け、長槍の穂を下げた彼の名を義希が呟いた。
「正宗…」
「やれるものならなってみな?」
 挑発的な台詞が呼び声に被る。その様子を一番外側から眺める定一が通信機越しにたしなめた。
「こらこら…正宗くん」
「心配は無用。私も参戦します」
「いやいや、そうじゃなくて!」
「折角来たんだ。ちょっとは稼いで帰らないとね」
 制止を聞かない二人に唸り声を注ぐも、定一はため息と共に首肯する。
「わかった。でもその代わりに条件がある」
 構えを取って距離を測る二人の耳に、いつもより低めな定一の声が「条件」を告げた。
「その男はあちらさんの弱点を知っている可能があるから、出来るだけ泳がせてみてほしい」
「それは構わないけれども。どうしても生け捕りにしたいの?あちらさんは」
 正宗の小声の質問が、倫祐と「あちらさん」との攻防が発した音と重なる。それでも返事を返したのは静かな場所でそれを聞く沢也だ。
「どうしてもとは言わない。そっちで危険だと判断したのならそれは仕方がないだろう」
「こちらの判断に委ねると仰るのですか?」
 なかなかにプレッシャーのある回答を確認しにかかった茂達に、沢也はいつもの調子で淡々と言う。
「何があっても責任は取ってやる。最善を尽くせ」
「りょーかい、沢也。ぜんざい食い尽くしとく」
 敵と相対しながらも苦笑を浮かべた門番ペアの代わり、訳のわからぬ返事をした義希が倫祐に指示を伝えに走った。
「代わりにツッコミ入れておくから」
「そりゃどうも。ついでに他のフォローも任せた」
「おや、余計なこと言っちゃったかなぁ…」
 緩んだ空気を立て直しに出た定一は、丸投げされた仕事にぼやきながらも指示に出る。
「兎に角、両者をなんとか橋の手前まで誘導して」
「橋、壊されてもいいんです?」
「橋くらいならなんとかなる。人的被害が出る方が問題だ」
「仰る通りで」
 正宗の疑問にも答えた沢也の見解に、定一も同意した。
 頻繁に口元を動かしていた正宗が気に入らなかったのか、振りかぶったナイフを彼に向けた男の眉が歪む。
「お喋りしてる余裕があるのか?」
「あれ飲むと強気になるの?」
 槍の腹で受けた刃を何とか支えながら、細い瞳を更に細くした正宗の後ろから茂達の一撃が入った。柄に弾き飛ばされた男が宙を舞う。
 倫祐と交戦中だった追う側の男が、それを見るなり追われる側の男の後を追った。
 しかしそれを許す程、倫祐は甘くない。
 牽制ながらに義希から指示の全てを聞いた彼は、あっと言う間に彼に追い付き上から剣を振り下ろす。対して男はパワーで押しきろうと拳を押し出してきた。
 倫祐の顔面目掛けて伸びたそれは寸でのところで避けられて、代わりに男の巨体が宙に浮く。自分の力を利用して投げ飛ばされた彼は、壁に着地した反動で跳ね返り、追われる側の男に突進をかけた。
 義希のバリアがその勢いを弱めるも、男の力が強すぎてあっと言う間に弾けてしまう。その間に軌道に移動した倫祐が彼の体を剣の腹で受け止める。
 衝突した二人が押し合いながら地面を削って減速する様は、摩擦熱で今にも煙が上がりそうに思えた。しかし倫祐のスニーカーが壊れるよりも早く、嫌な音が微かに響く。
 義希は倫祐の目配せで神経を集中させた。その瞬間、男と接触していた細身の剣が真ん中から砕け落ちてしまう。
 義希が二人の隙間目掛けてバリアを発動し、男の進行を止めることは出来た。が、立ち上がる男の正面で折れた剣を収納した倫祐の頬には、赤い筋が幾つも垂れている。
 表情を変えずに新たな武器を取り出す彼を見る男の目は怒りに満ちているが、口元だけは常に笑っていた。
 その形相に寒気を覚えたのか、それとも何か考えがあるのか、追われる側の男が不意に門番に背を向けて走り去る。
「こら!何処へ行く!」
 橋のある方角に逃げる彼を、まず追う側の男の怒声が。続けて正宗と茂達が追い掛けた。
 更に後に続こうとする追う側の男の前には倫祐が佇んでいる。ただ立っているだけに見えて、不思議と隙の無い状態を豪快に笑い飛ばし、男はしっかりと地面を蹴った。

 二人が衝突を繰り返しながら追われる側の男を追う間、俊足を利用してあっと言う間に橋の手前にある広場に到着した追われる側の男は、橋の両脇から伸びる暴風壁を見上げて眉をひそめる。
 先程まで付きまとっていた喧騒は何時しか消え、視覚的にも人影が見えなくなっていた。
 それは勿論近衛隊員が民衆を避難させたせいなのだが、薬を飲んだ男はその事実に気付いていない。
 遠巻きに彼の様子を監視していた帯斗は、正宗と茂達が到着した事でバックアップの体勢を取る。一緒にいた隊員達にもそう指示をしていると、茂達が寄ってきて隣の隊員に話し掛けた。
「失礼。戦意が無いのでしたらそれを貸しては頂けませんか?」
 帯斗の隣に居た隊員は、直ぐ様頷き銃を手渡す。大振りで、ライフルとも呼べるそれを肩に担いだ茂達は、帯斗にその場を任せて正宗の元へと走った。
「何するつもり?」
 正宗が男に問うと、男はゆっくりと振り向いて苛立ちを露にする。
「お前には関係ない」
「強化剤飲むと記憶喪失にでもなるの?」
「元はと言えばそこの眼鏡とあの黒いのがオレの邪魔をしたから!」
「つまり元より強化剤でなんとかするおつもりだったのですね?」
 話す間にも近付いてくる爆音は、不規則ながら空に砂埃を巻き上げていた。
 男は茂達の憶測に舌打ちで答え、門番達の背後を警戒しながら後退りしていく。
 その様子が異様に不安定に見えて、構えたままだった正宗は思わず足を踏み出した。
「寄るな!」
「あんた、ちゃんと知ってるんだよね?」
 ナイフを突き出し威嚇する男に、正宗が問うたところで上から倫祐が降ってくる。空中で回転して減速した彼は、正宗の斜め前方で綺麗に着地した。その頭にはいつの間にやらハルカが乗っている。
 少し遅れて追う側の男と、義希、定一ペアが追い付いてきた事で、橋側の広場に一同集合と相成った。
「敵さんを守りながら敵さんを捕獲。僕と隊長でフォローはするから、存分に暴れてくれていいよ?」
 橋の入り口に立って悠長に欠伸をする定一の言葉に、正宗と茂達が苦言を呈す。
「むずかしいことサラッと言ってくれちゃうねぇ…」
「難解な方程式を提示された方がまだ容易そうです」
 二人が言う通り、三つ巴の現状を解決するのは難しい。だからと言って、敵は何時までも待ってはくれない。
「さぁ、誰から先に死ぬ?」
 咆哮と共に駆け出した追う側の男が、途中調達したであろう角材を振り回す。
 倫祐はそれをぼんやりと眺めたまま煙草をくわえ、追われる側の男の様子を窺うようだ。
「まずはぶつけてみるのもありじゃない?」
「いや、どうかな…」
「勘?」
 定一の見解に難色を示した正宗は、義希の問いには答えずに突っ込んできた追う側の男の一撃を受け止める。ビリビリと痺れる両腕と、圧力に押された両足が滑る感覚に冷や汗が出た。
 直ぐ様茂達が槍を振り下ろすも簡単に止められ、二人揃って押し返されては手の出しようもない。
 更に追い討ちをかけにきたのが追われる側の男で、二人の頭上に跳躍してナイフを振り回す。
 義希がバリアで追われる側の男を空中で押し退けると、追う側の男が二人にかける力を増した。そこに定一のチャクラムが飛び交い男の腕を切りつけようとする。
 追う側の男が茂達を吹き飛ばしてチャクラムを叩き落とす間に、起き上がった追われる側の男が正宗に斬りかかった。倫祐が投げたナイフに行く手を阻まれた彼は、追う側の男が弾き飛ばした正宗と共に暴風壁に打ち付けられる。
 細くて頼りない男は、正宗より早くヒビの入った壁に手を付き立ち上がった。朦朧としていたであろう意識を取り戻そうと、首を振る彼の足元で正宗も起き上がる。
 追う側の男はまとわりつく倫祐を邪魔そうにしながらも、二人の居る場所をしっかりと捕らえていた。
 それに気付いた追われる側の男は、震える手にありったけの力を込める。接触していた壁の一部が半壊し、凄い音がした後には寒々しい海が垣間見えた。
 暴風壁の向こう側は、僅かな足場を経た先が見事な崖になっている。正宗と茂達が敵の動向に注意を向ける間にも、追われる側の男が早速動いた。
「おい、そんなにゆっくり遊んでていいのか?オレは此処だ。早く来いよ!」
 裏返った挑発が響く。
 正面に回った倫祐を力任せに押しやって、追う側の男は追われる側の男に歩を向けた。
 見守るべきか、動くべきか。
 門番の二人は、視線を交わして頷きあう。近寄ってくる男に構わず身構えた彼等は、まず見守る姿勢を取った。
 追われる側の男は、崖に向けて後退しながら追う側の男を凝視する。じりじりと、低速で進む二人の攻防に見ている者の緊張が走っていた。
 追う側の男が崩れた暴風壁に足をかける。追われる側の男は、また一歩後退して背水の陣だ。
 それでも正宗は、茂達は動かない。
 焦りと不安が辺りを包む中、追う側の男が追われる側の男に腕を伸ばす。
 その腕が空を切った瞬間、追われる側の男は追う側の男の後ろに回り、体当たりを試みた。
 しかし一枚上手だったのは、やはり追う側の男の方だったようで。
「残念だったな。付け焼き刃の強化剤ごときでオレに敵う訳がないだろう!」
 がっしりと体を捕らえられ、今にも絞め殺されそうになる彼に、門番達の助っ人が入る。
 左右両側から突き出された槍をかわす為、一旦解放された男はそのまま海に飛び込み難を逃れた。
「おいおい、そんな所にまで逃げていくのか?どれだけ臆病…」
 ぱしゃりと、上から水が注がれる。
 言葉を切った男は頭上にある監視塔で舌を出す帯斗を睨み付けた。
「GJ帯斗ー」
「その反応を見るに正解のようですね」
 暴風壁の隙間を埋めるように立ち塞がった二人の笑みに、追う側の男が引き吊った笑みを浴びせる。
「流石正宗さんと茂達さんっすね」
「指示も息ピッタリだったもんなぁ」
 数秒前のやりとりを思い出しながら感心する帯斗と義希を他所に、定一が飛び降りた男の行方を探しにいく。
 時折ショートしたような音を響かせる追う側の男は、それでも体は動くようで門番達を退かそうと拳を振り上げた。
 しかしそれは届く前に、割り込んだ倫祐によって捕まれる。ついでに差し込まれた注射器から、男の体内に鎮静剤が打ち込まれた。
「何の薬だ?」
 震える声で問い掛ける男に、倫祐の代わりにハルカが答える。しかし彼にハルカの言葉が分かる筈もなく。
「答えやがれ糞が!」
 激昂した男の拳をかわした倫祐は、彼の力が弱まってるのを認識しながら腹に剣の柄を押し込んだ。
 踞る男の意識はしぶとくも残ったまま。慌てて拘束魔法を唱えたハルカを撫でた後、倫祐も手錠と縄で彼を締め上げる。
「泳げないのか?」
「寒さで足つっちゃったんじゃない?」
 そこに響いてきたのは義希と定一の声と、下方から聞こえる波の音だった。
 つられて海を覗き混んだ正宗と茂達が、事態に気付いて義希や定一が居る橋側に回り込む。
 自分から飛び込んでおきながらどうにもならいのか、追われる側の男が波に遊ばれもがいているのだ。
 橋の手摺を頼りに再び様子を窺った正宗が、厳しい表情で口にする。
「体が上手く動かなくなっちゃったんじゃないかな」
「え?」
「これに書いてありました」
 茂達が差し出した説明書を受け取った義希は、パサリと投げられた近衛隊のジャケットと、降下していくグレーの物体とに気付いて橋の下を覗き込んだ。
「正宗!」
 叫んだ時には着水し、水飛沫を上げる彼を他の隊員達が見守る中。
「ご安心を。何かあれば私が片を付けます」
 男の動きを牽制するように、借りていたライフルを構える茂達の眼鏡がキラリと光る。
 そのお陰か、はたまた元から男に戦意が残っていなかったのか。
 正宗は男と共にロープで無事引き上げられた。


 二人の男は倫祐とハルカによって、リヤカーで城へと運ばれる。



 後を任された義希はスチール缶に焚き火をくべながら、隣に座る正宗に帯斗が買ってきてくれたコーヒーを渡す。
「正宗、泳ぐの上手いんだなぁ」
 そう言うと、毛布にくるまれた彼は頭から僅かに水を滴らせながらふにゃりと笑った。
「あはは、どうも。地元が海岸沿いにあったもんでね。知ってます?コバルトって」
「ああ、うん。行ったことあるよ。あん時も冬だったから泳ぎはしなかったけど」
 懐かしそうに瞳を細めた義希の横顔を見据える正宗は、心なしか嬉しそうにも見える。
 表情が分かりやすそうで分かりにくい彼の、寒そうな姿を横目に捕らえながら。義希は寒さから気を逸らせればと、思い付いたまま話を振った。
「そう言えば、正宗も組織にいたんだっけ?」
「そうですよ?茂達も一緒に」
 紙のタンブラーに入ったコーヒーに口をつけ、正宗は同じくコーヒーを受け取った茂達に同意を求める。
「あの頃は若かったよねえ?茂達」
「はい。我ながら無茶をしたものです」
「いやいやいやいや、想像つかないから!」
 遠い眼差しを海に向ける二人に、義希は大袈裟過ぎるほど首を振って驚いた。
 彼の反応を見た二人は、色の分からない瞳を向き合わせて口元を緩める。
「そっか。それくらい変われたって事か」
「嬉しそうだな」
「そりゃあね。目標にしてた人にそう言われたんだから」
「目標って…」
 穏やかな会話に疑問を挟んだ義希に、正宗と茂達の視線が順番に向けられた。
 数秒の間を瞬きで埋めた義希は、やっと理由に行き着いて自らを指し示す。
「オレ?」
 茂達は無言の肯定の後、正宗の着替えを取りに席を立った。残った正宗は心なしか照れ臭そうに目線を伏せる。
「まだ血気盛んな頃ですよ。俺が組織に入ったのは」
 ゆっくりと溢れた言葉を聞いて、義希は正宗を凝視した。彼はコーヒーに息を吹き掛けて間を作り、曖昧な笑顔を製作する。
「当時はモテたい余り、何にも考えずに組織入りしちゃいましたけど。後になって盛大に後悔しましたよ」
 語りは本当にゆっくりと、噛み締めるようにして流れていた。義希も珍しく口を挟まずに、相槌しながら話を聞いていく。
「後悔することになっても、抜けることすら出来ずに。だけど変わらず女の子からキャーキャー言われるもんで、どんなに酷いことがあっても色々誤魔化せちゃって」
 その声色と表情から、彼が今も後悔したままで居ることが伝わってきた。
「二人は最初から知り合いだったん?」
「いえいえ。その「後悔することになった」時にね」
 義希の素朴な疑問に首を振り、正宗は更に表情を曇らせる。察した義希が口をつぐむと、正宗がコーヒーを味わう時間だけ静寂が訪れた。
「酷いミッションでしたよ。二つのグループが手柄を奪い合いしている最中、また別のグループが介入してきたりして」
 白い息と共に笑い飛ばすように吐き出された言葉は、義希の脳裏に先程の戦闘を思い起こさせる。
 正宗は正直に顔に出した義希に頷いて、焚き火に向けて続きを語った。
「出来上がったのは死体の山。俺と茂達はその上に立って、殺しあいをしていたんですよ」
 え。と、短い驚きが漏れる。正宗はそれに反応することもなく、炎の中に浮かぶ過去を覗き見ていた。
 あの時も冬だったなと。
 立ち昇る白を見て思い出しながら。
「そこに行き着くまでに満身創痍になってたもんで、なかなか決着が付かなくて。お互い、何で戦ってるのかも分からなくなって。やっと正気に戻ったら、周囲が真っ赤で…」
 炎の色よりもずっと深い赤色が広がる様は、今でも良く夢に見る。
 正宗はそれを振り払うように空を仰ぎ、現実に戻って話を繋げた。
「足元には、友人だった奴も、仲の悪かった同僚も…果ては上司までが転がっていましたよ。武器を落として喚く俺の前で、あいつも呆然と空を見上げてたりして…」
 まるで当時の茂達の真似でもしているかのように上を見ていた彼は、顔を下ろすと同時に義希に肩を竦めて見せる。
「それでも組織を抜ける選択肢が浮かばなかったのは。きっと組織の恐ろしさに薄々気づいていたからなんですよね。そんでそれは、茂達もおんなじだった」
 義希は定一に話を聞いた時と同じように頷いて、悲しそうに瞳を歪めた。正宗はコーヒーで息を整え先を話す。
「だからこそ、ミッションが原因でそんなことになったなんて、正直に報告するわけにはいかなくて。俺とあいつは結託して嘘の報告をしたんですよ」
「…嘘の…?」
「要するに、俺達二人で手柄を総取りしたんです」
 奪い合っていたミッションの。心の中でそう呟いて、色々と想像し始める義希の呆然とした顔に。正宗は自身を笑うように苦笑を返した。
「手にいれたのはたった数冊の資料。失ったものは数知れず、現場となった研究施設と共に燃やしてしまいました。…そうまでして、地位と名声と、人気までを得たのに。やたらと虚しくて、生きてる心地がしなかった…」
 フッと息を吐き、いつもの明るい空気を放った正宗は、タンブラーの蓋を開けて中を覗き込む。
「大臣にも、陛下にも。全部お話したんですよ?それでも雇ってくれたことには、正直本当に感謝してます」
 残り少ないコーヒーを揺らしながら、穏やかな笑みを浮かべる彼は。ハキハキとした声を次第に和らげ、ゆっくりと、ゆっくりと思いを口にした。
「こんな俺達でも受け入れてくれたから。だから、俺達は普通に生きていられるんです」
 顔を上げ、しっかりと義希に向き直り。正宗は話を締め括る。
「あなたが、全てをかけてくれたから。こうして皆が普通に生きていられるんです」
 だから、ありがとうと。言葉に直さずとも伝わりすぎた感情は、既に義希に変化を与えていた。
 目の当たりにした正宗は、困ったように笑って義希の肩に手を乗せる。
「隊長。泣かない泣かない」
「悪い。なんか胸がいっぱいに…!」
 俯き、涙を払う彼の苦し気な声だけでその内容を理解して、正宗は密かに言葉を慎んだ。

 二人の会話を路地裏でこっそりと聞いていた茂達の隣、同じく盗み聞きしていた定一が唐突に問い掛ける。
「君も彼と同じかい?」
「大方同意です」
「あの頃の君は、今みたいにデータの虫ではなかったよねぇ?」
 中空に過去を見るかのように、半端に見上げて呟いた定一の詮索に、茂達は首肯して断定した。
「私がこうなったのは、奴と共謀し、上に這い上がり、大臣の存在を知ったからに他ならないでしょう」
「元から真面目だったから、何でも鵜呑みにする危ない子だとは思ってたけど。そんなことがあったとはね…」
 言いながら俯いてしまった彼を振り向いた茂達が、珍しく声を落として苦笑する。
「あなたがグループを抜けてからは実に大変でした」
「後任が非道だったかい?」
 憶測に、彼はまた頷いて答えた。
「手を汚しすぎて、感覚が麻痺していました」
 広げられた掌を定一が横から覗き見る。何の変鉄もない綺麗な手を、茂達はそっと握り締めた。
「最初は人形だと認識していたのですが…」
 小さな懺悔が拳に落ちる。それがすっかり消えてしまうのを見届けたかのように、茂達は腕の力を抜いた。
「人形が死体に変わったのは、正宗の絶叫を聞いた時でした」
 だらりと垂れた腕の代わり、顔を持ち上げると壁の向こうに空が見える。定一もつられてそちらを向けば、茂達は淡々と先を話した。
「私は正宗に助けられたのです。奴が居なければ、私もあの場で命を絶っていたでしょう」
「それはきっと、彼も同じなんじゃないかな」
 定一は言う。振り向いた茂達を振り向いて。
「だから君達は一緒に居られるんだよ」
 目が合うなり当たり前のように笑った彼は、次に大きな欠伸をした。
「そうでなきゃ、とっくに壊れてるさ。どっちかが、ね…」
 ふわふわと浮きそうな台詞を聞き届け、茂達は徐に眼鏡を押し上げる。
「やはり貴方は侮れません」
「誉め言葉と受け取っておくよ」
 不敵に笑ったかと思いきや、直ぐ様欠伸に崩された定一の表情に苦笑を注ぎ。
 茂達は今度こそ、相方の着替えを取りに走った。





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