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雪のような



 誰のものか分からないまま、使う気にはなれなかった。
 だからと言って、確認しに行くのも躊躇われた。

 白いマフラーは、次の日の朝をルビーの中で向かえることになる。
 昨日出会った、僅かな粉雪と一緒に。





 クリスマス当日である今日も、淡く雪が降っていた。

「おはよ、倫祐ー」
 何時も通りの時間帯、事務所のドアの前で出会った義希の首元に巻き付く赤いマフラー。彼はそれを口元まで持ち上げながら、倫祐の首元を指差した。
「倫祐、マフラーは?」
 不思議そうな眼差しに、不思議そうな眼差しが返される。
「昨日海羽に貰わなかったか?倫祐のも編んでたって、有理子が言ってたからさ」
 早口でそう捲し立て、返事も待たずに倫祐の左手を取った義希は、嵌められた指輪の中身を覗きこむように凝視した。
「倫祐は白にしたって、聞いたんだけどなぁ」
 続いてねっとりした視線を注ぎ込まれた倫祐は、観念したようにコクリと頷いて見せる。
「だよな!ちゃんと使えよ?冬は短いんだからさ!」
 満足そうにそう言って、義希は大通りに飛び出していった。
 残された倫祐はそれを見送って、小さなため息と共に事務所に入る。



 スコップ片手に大通りの隅に立ち止まった義希は、珍しく深い溜め息を付いて空を仰いだ。
「何時の間に渡したんだろ…」
 独り言が雪に包まれ地に落ちるのを見届けるように、彼は不意に足元をみやる。
 大して走ってもいないのに心臓がバクバクしているのは、慣れないことをした結果だと密かに自覚した。
 昨日。パーティーが終わるまで居座った秀が、その後も海羽を高級ディナーとやらに連れ出した事は知っている…と言うか実際に見ていたのだけれど。それならばなぜあんな事を言ったかと言うと、海羽が出掛けてしまった後にふらりとやって来た倫祐が、抱えていたハルカのせいである。
 通訳の沢也によると。彼はパーティーも中盤に差し掛かった頃合いにこっそり海羽に呼び出され、「屋上に倫祐が居るから、何か食べるものを運んであげてほしい」と頼まれたそうだ。だからハルカは来客の目を盗み、沢也の背中に潜り込んでは事情を説明。食料を入れて貰ったポケットルビーを倫祐の元へと運搬し、二人で雪見酒を…と、それはそれとしてだ。
 その際にマフラーを渡しておいてくれ、と頼まれなかった事、しいては海羽が彼の所在地を知っていた事から、恐らくそれだけは渡せた筈だからと、深夜に帰宅した海羽に確認したところ。彼女はふらふらふわふわと「渡せた…のかな?」等と曖昧な供述をした後眠りに付いてしまったらしく。秀のお守りが如何に大変だったかを垣間見た面々より、重大な任務を仰せつかった義希は、先程叩き込まれた台詞を吐き出し終えた…と言うわけである。
 色んな意味で安心した義希が一気に肩の力を抜くと、僅かに雪が強くなったように思えた。
 曖昧な海羽の解答も、受け取っていながらそれを使わない倫祐の思いも、想像出来そうで想像しきれなかった彼は、またぼんやりと空を見上げる。



 掴み所がない、とは。良くいったものだ。
 それはそう、こんな風に掌からすりぬけるこれとか。掴もうとすると風に浚われていくそれとか。たとえ掴めても直ぐに溶けてしまう…
 そう。あいつは雪に良くにている。
 何を考えているか良くわからないからじゃない。
 多少なりと理解しているつもりでも、あいつの考えは、オレの考えられる範囲を越えていることが多いんだ。

 昨日だって本当は、思うところがあっただろうに。
「大丈夫か?」と聞いても頷くだけで弱音や愚痴を聞かせてはくれない。
 煙草の本数が増えるとか、食欲が無くなるとか、多少ぼんやりして見えるとか、そう言った変化さえ無いのだから頭が下がる。

 だけど辛くない訳がない。
 何も考えていない訳がない。

 それが分かるからこそ、普段と変わらないあいつを見ているのが少し辛い。

「オレが辛くなってどうすんだか…」
 呟きながら、相手の考えていることを想像し、しかしやはり掴むことが出来ずに。空を切った5本の指をゆっくりと広げ、その上に白い息を落とす。温度は全く違う筈なのに、彼の吐き出した白は当たり前のように足元の雪と同化した。
「隊長!橋の雪かき完了ですー!…って、なぁにサボってんすか」
「わぎゃ!わるい、わるかったって…」
 背中をスコップの柄で小突かれて、驚きの余り飛び上がった義希に仁王立ちの帯斗の溜め息が浴びせられる。
「全く…後でコーヒーでも奢って下さいよー?」
「おっけ。まかしとけ」
 互いに鼻の頭を赤くしたまま、半端に止まった通りの雪掻きを再開した。
「しっかし寒いっすね…今日は」
「ばーか。あっちだって十分寒かったろ?」
 帯斗と進めていた方の雪掻きを仕上げて来た諸澄が、ニット帽を持ち上げながら帯斗を見下ろす。
「でも雪は降らなかったし」
「あの状況で降られてたら死んでるわ」
「そりゃそうだけど。っつかやめろ俺は肘置きじゃない!」
 やれやれと言った調子に帯斗の頭に腕を凭れた諸澄は、飛んできたパンチをかわして剣の如くスコップを構えた。
 危険なじゃれあいを宥めながら、義希は変わらぬ二人の様子に苦笑を洩らす。

 帯斗と諸澄の両名が自然対策活動を終えて帰還したのは、パーティーの5日前のこと。想定していたより長くかかったのは、貴族の足掻きと轟の計らいのせいらしい。
 轟曰く、何かしらの成果はあるだろうとの事なのだが。今のところ前述の通りの通常営業である。
 まあ気長に見守っていくかと、隊長二人と轟に加えて第一の年長者である定一も交えて話し合っていた為、義希も微笑ましげに継続する痴話喧嘩を眺めていた。
 近衛隊のジャケットも冬仕様に変わり、内側にもこもこを取り付けている上に、中にもかなりの厚着をしているせいで、三人はやたらと丸々して見える。大通りの中ほどを挟んで反対側を整備する隊員達も同じ様な風貌だが、唯一マフラーすら付けていない薄着の人物を発見し、帯斗がポツリと一言漏らした。
「機械だと、やっぱ寒さとか感じないんだろうなぁ」
「実は寒さで軋んでたりして」
 冗談めきながらも何処か本気なそのやりとりを聴いた義希が、半ば無意識的に口にする。
「なぁ、二人とも。頼むからオレの前でその話すんの、勘弁してくんないか?」
 不意に真顔になり、遠目に見える倫祐の姿を視界に収めて呟く彼の低いトーンを振り向いた二人は、丸く見開いた目を無理矢理笑わせた。
「どーしたんっすか?隊長」
「またまた。大臣から口止め喰らってるのは知ってま…」
「オレは、ずっとあいつのこと見てきたから」
「…隊長?」
「仲間のこと悪く言われて、黙ってられる程お人好しじゃない」
 俯き気味に、激高する訳でもなく。
「噂を信じる信じないはそれぞれだよ。だけどな。お前ら、あいつの何を知ってるんだ?あいつのこと、少しでも知ろうとしたことがあるか?」
 諭すように続く言葉の波が、帯斗と諸澄の表情を引き締める。
 義希は黙り混んだ二人に寂しげな笑みを向け、震える声で願い続けた。
「…言い返せないだろ?だからさ、陰口をやめろとは言わないよ。やめてほしいけど言わないよ。だけど、せめてオレや小太郎や…倫祐の耳に入らないところでやってくれ」
 彼にしては整理された、長い台詞が終わると、二人は揃って俯いてしまう。影の漂う彼等に気付いた義希は、慌てて体を跳ねさせた。
「わ…悪い。強く言い過ぎた」
「違うっす。そうじゃなくて」
「義希さん、どうして今になってそれ言うんです?」
 噂は二人のせいだけじゃないー、とわたわたする義希に、膨れた帯斗と諸澄がテンションも低く問い掛ける。真意を掴みかねた彼が首を傾げると、二人は揃って目線を逸らした。
「今までにも言う機会、あったじゃないですか」
「俺らの事、信用できなくなっちゃったんすか?それとも元から…」
「待て待て、そー言うんじゃなくて…ただ、その…タイミングが悪かったっていうか…ほんと、ごめん…」
 不貞腐れたと言うよりは泣きそうな二人を前に、義希は早口で言い訳を捲し立てる。
「タイミングが…すか?」
「それって何かあったってことか?」
 彼等が訝しげながらも半分だけ納得出来たのは、分かりやすい義希の表情のせいだ。しかしもう半分納得出来ないのは。
「あっちはそうは見えないすけど…」
「それがあいつの良いところでもあるんだけど…」
 変わらぬ無表情と、淡々とした倫祐の動きを横目に認め、義希は様々な意味の籠った苦笑を浮かべる。
「あいつは、そう思っちゃいないんだろうな…」
 悲哀が強い声色を最後に溜め息を付く彼を見て、戸惑った帯斗は思わず話題を逸らした。
「で?どうだったんすか?クリスマスパーティー」
「あー。そこは詳しく聞いとかなきゃなぁ?」
「どうもこうもないよ。ただひたすら踊っただけ」
 支えにしていたスコップにとうとう横にした頭を置いた義希は、何処と無く遠い眼差しを何処かに注ぐ。
「うらやましい限りっすけど」
「ちっとも嬉しそうじゃねえ!」
「メシはうまかったよ」
「そこだけ?!」
「色々あるんだって」
 困った、と言うよりは参った、に近い義希の微笑が、再び二人を明るさから遠ざけた。それを見抜いて大きく伸びをして、さてやるかと言いかけた所に、妙にハッキリとした帯斗の声が落ちる。
「分かりました」
「ん?」
 すっとんきょうな顔で振り向くと、彼は真剣な眼差しでこう続けた。
「俺、義希さんのこと信じてるっすから…」
「おい。抜け駆けかよ」
「ちが…だって、なんか色々あるって言うし…それに…」
「まあ、変わらなきゃいけないんだってことは、嫌って程分かったけどよ…」
 話を遮った諸澄が納得した事で、帯斗は義希に向き直る。
「だから俺は、まずあの人の事知ろうとしてみるっす」
「うんうん。あー、でもちょっと遅かったな」
「へ?」
 輝かせた目を不意に伏せては唸る義希を、瞬きを繰り返す帯斗と口をへの字にした諸澄が見守った。
 義希は頭を掻き掻き空に向けて解説する。
「この前までヘルプに行ってたろ?郵便課んとこ」
「はい」
「それが何か?」
「あそこの課はみーんな、倫祐の家族みたいなもんだから」
 知るにはもってこいだったのになぁー、と。一人残念がる義希を他所に、二人は驚愕の表情を浮かべた後。
「それで…」
「あのアウェイ感か…!」
 がっくりと項垂れては膝を雪で汚したのだった。



 陽も傾き。
 オレンジ色が水平線の彼方に沈んで行く。淡く鋭い光が消えてしまうまでをぼんやりと見届けた彼は、背後に聳える城を振り向く事なく帰路に付いた。
 今日、城では貴族限定のパーティーが開催されている。
 義希と小太郎は昨日と同じく出向いて行ったが、彼だけは某所からの要請で不参加となった。
 別の階で警備の仕事を請け負う事も出来たのだが、わざわざ相手を刺激する必要はないだろう。と、倫祐は考える。
 アパートの内階段を音も立てずに登り、目の前の扉を開くと強い風が吹き抜けた。靴を脱ぎ、入室して、僅かに開いたままになっていた窓を閉める。
 角部屋となるそこから見えるのは、隣からずっと向こうまで連なる家々の屋根。時折壁を交えながらもうっすらと、遠方に城の姿も見ることが出来た。
 彼はそれを視界に収める事をせず、ゆっくりとカーテンを引く。そうしてそのまま、その下にあるベッドに腰掛けた。
 無意識に息が漏れるのは、自分が何かを考えている証拠であり、その考え事の理由も理解してはいるけれど、あの沢也や蒼がどうにもできない事を、自分がどうこうできる訳がないと、諦めきれぬまま諦めて、ぼんやりと壁を見据える。
 同時に昨夜の事を、今朝の事を思い出した彼は、左手の中指に視線を落とした。
 回想に任せて頭に浮かんでしまったマフラーが、ルビーの中から倫祐の手の中へと現れる。
 元より寒い室内よりも、更に冷たい空気を纏った白は、それでも暖かさを帯びているように見えた。

 義希の言う通り、例え自分のものだったとしても、やはり使う気にはなれない。
 実際に編み物をしたことがあるわけではないけれど、端から見ていてもそれがどれだけ時間を要する作業かと言うことは理解できる。

 だからこそ、勿体無い。
 倫祐はただ、そう思った。

 自分の為にそんな時間を割いてくれたことも、それだけの長い時間、彼女に触れていたマフラーに自分との時間が加わってしまうことも。
 使わなければ勿体無いと言うことも理解しているのに、それでも前者の勿体無いの方が勝ってしまうのだ。

 倫祐は溜め息のように天井へと息を吐き出して、マフラーをルビーに戻す。
 電気の点らぬ室内で、唯一周囲の光を反射していた白が無くなると、途端に闇が深くなった。
 振り向いて、揺れぬカーテンの向こうに映る青の深さを認識し、彼はそっと腰を上げる。
 簡易的な台所の引き出しから箸を出し、義希の差し入れであるハンバーグ弁当を取り出すと、温かさで視界が曇った。
 昇る湯気は薄暗い部屋の上部に消えていく。音もなく、跡を残さずに。



 パーティー二日目も無事に終了し、問題の人物が居ないことを確認した秀が帰って行ったのが、午後も10時を過ぎた頃。


 大量の洗い物や大きなテーブル、天井の飾りやゴミの片付けも満足にやらせてもらえなかった海羽は、申し訳なさそうに残りの片付けに手を出し始めた所だ。
 昨日の今日でまた連れ出され、手伝いのての字も出来ないよりはましだと自分に言い聞かせ、溜め息を漏らす。
 膨らませた水晶に座って宙を漂う彼女の吐息は、天井に垂れ下がる大量の青い布に吸収された。
 海羽がそのうちの一つを回収し、ゆっくりと床に降りてきた所に有理子が顔を出す。彼女は海羽から布を受け取って、適当にたたみ始めた。「どうせ洗うんだから」と言った有理子の掌は冷たく、彼女が今まで洗い物をしていたであろう事が窺える。
「向こうは終わったのか?」
「粗方ね。海羽もこれが終わったらゆっくりしなさい?朝からずっと立ちっぱなしなんだから」
「今は座ってるから大丈夫だよ」
「そう?でもメイドさん達も帰ったし、少しくらいだらけても問題ないのに」
「明日の朝御飯は…」
「昨日今日贅沢したんだから適当で大丈夫よ」
 作業をしながらも、有理子の言葉になんとか納得して、海羽は残された三枚のうち一枚を外しにかかった。
 下から彼女の様子を見上げる有理子は、溜め息の後問い掛ける。
「ねえ、海羽」
「うん?」
「渡せたんでしょう?」
 短い間が出来た。それでも海羽がなんの話かを理解していると覚り、有理子は続きを口にする。
「義希が言ってたから」
「ほ…ほんとに?」
 危うく落ちそうになりながら身を乗り出した海羽は、義希が倫祐に確認するに至った経緯を知らないのだ。
「して、くれたのかな…?」
 有理子に聞こえないように呟いて、彼女は半端にしていた作業を再開する。
 その様子を遠巻きに眺めていた有理子は、若干申し訳なくなりながら海羽が落ち着くのを待った。
「あんまりね、マフラーとか、してるの…見たこと無かったから…」
 海羽が天井から金具を取り除き、金具から布を外す片手間声にすると、下方で有理子の顔が持ち上がる。
「邪魔になっちゃうかもって、思ったんだけど」
 纏まらない思考が中途半端に会話を途切れさせた。
 有理子は海羽の言いたいことをなんとなく理解しながら、その海羽らしい考え方に頬を緩ませる。
「でも、どうして白なの?」
「へ?」
「いえね、昨日もそうだったけど。あいつって黒い服の方がイメージに残るから」
「そっか…そうかもな…」
 口を突いて出た質問にぼんやりと答えながら、降りてきた海羽は有理子に布を渡しながら小さく言った。
「シクラメン」
「ん?」
「倫祐が送ってきてくれたやつ」
「ああ…あれ。今年も咲いたの?」
 暫く見ていなかった鉢植えを思い出し、懐かしそうに瞳を細めた有理子に。海羽は一つ頷いて俯き気味に呟く。
「あれを見てたらな、つい作りたくなっちゃって…」
 そうか。あれは確か白かったなと。有理子が脳内で再生した白い花と、海羽が見せてくれた白いマフラーとを比べて納得する間、海羽は俯いたまま苦笑を制作した。
「すごい自己満足なんだけどな…」
「そんなことないわよ」
「そんなことあるんだ」
 フォローに首を振り、泣き出しそうな顔を上げ、彼女は弁解するように言葉を並べる。
「直接渡した訳じゃないんだ。押し付けたみたいになっちゃったし…多分、義希が気付いてくれなかったら、誰のものかも分からなかったかもしれない」
 ぎゅっと握りしめたカーディガンの裾をまた見下ろして、海羽は小さく息を付き、謝るように囁いた。
「それでも、渡したかったんだ」
「うん」
「それに…」
 接続語の先が途切れた代わりに、変化した彼女の顔色を見た有理子の目が丸くなる。
「どうしてあんなこと、したんだろう…」
 あんなこと、がどんなことかは、赤面した海羽の様子からなんとなく察しが付いた。有理子が周囲の気温も上昇したのではと思わせるほど、頭から湯気を出す彼女の頭を撫でると、重りを乗せたかのように沈んでしまう。
「困ったな。これじゃあ秀さんのこと、とやかく言えないや…」
「海羽…」
 乾いた笑いを伴いながら、微かに震える海羽を引き寄せて。
「大丈夫よ」
 有理子は笑顔で言い切った。
 海羽は小首を傾げて説明を待つ。
「だって、迷惑だ!なんて言われてないんでしょう?」
「きっと思っても言わないよ」
「そうかもしれないけど」
「分かってるんだ」
 軽く握られた有理子の掌を、無意識に固く握り返しながら、海羽は一息に考えを吐き出した。
「そんなこと、言わないって、分かってるから…僕はそれに甘えてるんだ」
 そうだろうか。と、有理子は思う。しかし根本から間違っている気がして、彼女は頭を捻った。
 対して海羽は困ったように続ける。
「分かってるんだけど、どうしたらいいか…分からないんだ」
 分かっていながら、止められないと言う事は。それくらい我慢していると言う事だろう。
 相手が海羽だからこそ強くそう思えた有理子は、戸惑う彼女に笑顔を返す。
「いいじゃないの。甘えとけば」
「でも…」
「甘えられる人に甘えないと…甘えようにも甘えられないもんね」
 そう結論付けてはぽんぽんと頭を撫でる彼女を、目を白黒させた海羽が見上げていると、何処からともなく風が訪れた。
「そうだぞー?てなわけで甘えてください」
 ぎゅむっと。盛大な効果音が付きそうな勢いで有理子に巻き付いたのは勿論義希である。
「あんたは黙ってなさい」とか「なにも分かってないんだから」とか言いながら、義希を引き剥がそうとする有理子の耳に、今度は別の所から皮肉がもたらされた。
「かくいうそいつも甘え下手だからな」
「あんたにだけは言われたくない!」
 日頃の仕返しだとでも言わんばかりの良い笑顔を浮かべた沢也が、スーツの上着を脱いだ上から白衣を羽織る。
 義希はテーブルクロスを、沢也はテーブルと椅子を運び終えて来たのだろうが、それにしても二人の体感温度に差がありすぎるように見えた。何故なら薄着の沢也に対し、義希はもこもこの上着に海羽のマフラーまで身に付けているのだから。
「まあまあ、二人とも。それなら甘え上手のオレから一言」
 更に有理子の体温で暖を取ろうとする彼が、顎を押されながら親指を立てる。そして宣言により出来上がった間に答えを落とした。
「度が過ぎなければ、甘えられて喜ばない男はいない!」
 ドヤ顔の持論は、聞いていた三人をそれぞれ全く違う表情に変える。
 呆れやら何やらを籠めて溜め息を付く有理子と。そうなのだろうかと悩み始める海羽と。
「俺は喜べない」
「沢也は沢也だからいーの!」
 スパっと切り捨ててはルビーから自分のデスクを取り出す沢也と。
「何で喜んでくれないのぉー!」
 と、大扉を開く沙梨菜に続いて蒼が入室した。
「蒼!蒼なら分かってくれるよな?な?」
 有理子ごと飛び付かんとする義希を制し、指を回した彼は一言。
「はい。全面的に同意します」
 にっこり笑って首肯する。
「ほれ見ろ!さあ甘えて甘えてー」
「五月蝿い!」
 調子に乗った義希の脳天が有理子の拳骨に制裁を加えられるのと同時。蒼が自分のデスクを設置した事により、王座の間は通常の状態を取り戻したのだった。





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