in the black



 大人になった今。
 クリスマスイブだからと言って、特別な事が起きるとは限らない。
 寧ろ大人になったのだから、自ら特別な事を起こさなければ、何も起きる筈などない。
 しかし子供の頃からクリスマスと疎遠だった彼女からしてみれば、今こうしてパーティーに参加している事自体が、既に特別なのかもしれない。
 そもそもクリスマスとは、遠く昔に行われていた宗教的な行事らしいのだが、現在はその名残である”サンタクロース”と”祭り”の風習があるだけだ。本来の意味も知らぬまま、サンタクロースと言う架空の存在に夢を馳せるなど下らないと言い放ったのは、この知識を彼女に与えた沢也その人である。
 彼がそんな解説をする羽目になったのは、いつもの彼女のせい。経緯は説明するまでもなくいつも通りと言った所か。
 とにもかくにも、昔の神様に便乗しているだけなのだと理解した海羽は、そのことを脳裏に刻み込み。
 特別であり、特別でないその日を迎えていたのだった。
 迎えて、期待して、受け入れて。
 納得しようとした所にかけられた言葉が、また彼女を揺さぶるのだ。
「折角のクリスマスです。この私が、一生忘れられない最高の一日にして差し上げましょう」
 それが本当なら、どんなに良いだろうか。僕にとっての特別を、この人が分かってくれたなら。

 だけど不思議だな。

 どうして、この人ではいけないのだろう。
 これもやっぱり、僕の我が儘なのだろうか。

 海羽は頭の中にぼんやり浮かんだ考えを消化しきれないまま、振り向き気味に窓の外を窺う。
 しかし透明には細かな露が張り付いていて、外界の様子を見ることは叶わなかった。



 ちらちらと舞う雪は儚く、パーティーの明かりに溶けては消える。

 数々の光の中に居る人々にはけして気付かれぬまま。

 静かに降り積もる白い結晶は、闇の中で確かに輝いていた。




 くるり、くるり。
 左足を左に、右足を左に。後ろに下がる…違う、前に一歩。
 それから次は、また左…あれ?右なのか?
 縺れる足を見下ろす彼女は、有理子の時とは勝手の違うステップに戸惑っていた。
 辛うじて転ばずに済んでいたが、一歩間違えば派手に転倒しそうなその状況を、どうにか改善しようと口を開く。
「あの…」
「相変わらずダンスは苦手ですか?これでは酔っ払いの千鳥歩きの方がまだ危なげがない」
 背の高い彼に見下された挙げ句、眉根を寄せられた海羽は俯き気味に言い分けた。
「この靴…バランスが…」
「何を仰る。周りをご覧くださいどの方もあなたと同じ、ピンヒールで踊っていらっしゃいますよ?」
 言われて見渡してみれば、確かに踊る女の人の殆どが細長いヒールを履いているのが見える。
「でも…この、足の運びが…」
「合わせ方もご存じないままなのですか?でしたら仕方がありません。今回は諦めましょう」
 入ったばかりのダンススペースからフェードアウトしながら、秀は大きく両手を竦めた。海羽はその仕草を前に、「今回は」と言うことは、やっぱり次回もあるのだろうかとぼんやり考える。
 去年も、いや、一昨年から進歩のない展開に互いに小さく溜め息を落とすと、周囲からも苦笑が注がれた。
 みんなが簡単にやっていることが、どうしてこんなにも難しいのだろうと、相手に対して申し訳なさを抱く海羽の頭上に荒い鼻息が降りてくる。
「この城の人間は実に冷徹ですね。ここ数年の間、踊れぬ彼女への手解きすら怠って…毎度このように恥をかかせるのですから」
 言い訳のような批判を大声で撒き散らし、秀は海羽の腕を取った。複数の大きな指輪と、びらびらした袖が握られた手首に当たり、痛みと違和感を覚える。
 周囲に配慮せず突き進む彼に連れられ人混みを行く海羽は、半ば無理矢理足を動かした。次第に掴まれていた手を腕に固定され、しかし並ぶことはなく引き摺られてゆく。
 そうするうちにもすれ違う人々の視線が妙に気になって、無意識に目線を落とすと自身の衣装が目についた。
 そこにはみんなで買いに行ったシンプルなワンピースはなく、着るのも一苦労の複雑な作りと色合いの、ボリュームのあるドレスがある。無作為に散りばめられた宝石はどれも重く、形も様々で、何時他人のドレスに引っ掛かるか気が気でない。
 覚束ない足に、靡くドレスに、周囲の人々に…沢山の注意点を繰り返し確認しながら、なんとか人の少ない壁際に辿り着く。
 ホッと息を吐いたのも束の間、ワインとイチゴのサラダを持たされた彼女は、ドジをして溢しでもしたらどうなるかと、一人肝を冷した。
 消費もままならず、仕方なく秀に託して一息付くも、進行を促されてまた足を進める。
 知り合いが多くなってきたのか、秀の歩調が緩んだ事でやっと気を落ち着かせた海羽は、表面上では彼の背中を追いかけながら、脳内で溢れ出る独り言を喧騒の中に漂わせた。


 こうなることはなんとなく、分かっていた。
 だからせめて、少しでも傍に居たいと思ってしまった。
 我が儘だと言うことも分かってた。
 接触したら、彼を傷付けるかもしれないと言うことも…。

 分かっていたのに、止められなかった。
 どうしてよさなかったのだろうか
 どうして止めなかったのだろう。
 どうして。
 せめて、あの時あの人をバリアで遮断してしまえば。
 彼には聞こえずに済んだのに。


 身に突き刺さるようなあの人の言葉が。


 浮かんでは消える思考の中で、重量を増す後悔に潰されそうになりながら、彼女は呟く。
「馬鹿だな…僕…」
 それでもまだ、諦めきれないなんて。
 口の中で響いた言霊を拾い上げたように、首を回した秀が小さく眉をしかめた。
「まだ心配ですか?」
「え?」
「あの男のことです。ざっと確認しましたが、このフロアには居ないようですから。もう気になさらない方が宜しいかと」
 念を押すような物言いに、押され気味に頷きながらも彼女は思う。

 それなら何処に居るのだろう。と。

 此処に入って行くのも見たし、来てすぐに部屋の隅に居るも見付けられたけど、出ていく所は見ていない。
 そこまで考えて、無意識に扉の開閉を確認している事に気付いた海羽は、自分の執着心に呆れかけた。
 この気持ちはどうやったら収まるのだろうかと、考えるまでもなく体が勝手に動く。
 部屋の角隅で知り合いの貴族とはちあわせた秀が、執拗に海羽を紹介した後、話に集中するのを見届けて。彼女は静かに行動に移る。
 背後の扉の内側に滑り込んで始めて、無意識って怖いなと、海羽は改めて感じた。
 扉の向こうから、秀の自慢話が響いているのを確認した彼女は、一息置いて上を見上げる。
 屋上へと続く螺旋状の階段はとても長く、途中からは闇に飲まれて先が見えなくなっていた。
 階下に降りる道はいつも閉ざされているから、行けるのは上階だけ。そこを魔法で封じておく事もできるけど、後々騒ぎにならぬようそのままに。
 海羽は隠していたネックレスから水晶を外して、慣れた手付きで少ない光を集める。大きくなったそれに腰かけた彼女は、急ぎ気味に上方へと昇って行った。


 確証がなくとも、唯一の心当たりを潰しておくために。
 確率が低くとも、数々の心残りを解消したいがために。


 だけど気を付けなければならない。
 絶対に「三人」になっては駄目だ。
 もう、あんな言葉を聞いてほしくない。
 僕もまた、聞きたくなんてないから。





 空には疎らに星が浮かぶ。
 澄んでいるようでいて霞んだ空気の中を、淡い白がゆっくりと舞い落ちて、彼の肩に留まった。それは直ぐに色を無くし、黒いスーツに吸い込まれてしまう。
 降り積もろうと地を目指す雪は冷たく。輝くように白い筈なのに、地に近付くにつれ闇に染まって見えた。
 それらに逆らうようにして昇る煙と、時折思い出したように灯る赤い光だけが、彼が其所に存在している証であるかのように。
 髪も、瞳も、纏うスーツも、全てを闇に馴染ませて、彼は煙の生産を続けていた。

 其所に留まってどれくらいになるか。階下では変わらず明るい音楽が響いている。微かに届くそれを耳の端に捕らえながら、彼はゆっくりと息を吐き出した。
 凍る吐息。真っ白なそれに目を細め、空を仰ぐ。降り注ぐ白の織り成す景色に吸い込まれそうになりながら、その向こうにある星を探し当て。

「これで良かったのだろうか」彼は脳内で短く呟いた。

 何も出来なかったのか、何もしなかったのか、それすらはっきりしない態度を取るしか無かった事に、後悔していないと言えば嘘になる。
 しかしならばどうするべきだったのかと聞かれても、正直なところどれだけ考えても答えられそうにない。
 それはきっと、自分の役割がいまいち分からないからだ。
 それはきっと、自分を海羽にあてがった彼等も同じ。
 そして恐らく彼女ですら。

 雪よりは霞に近い疑問を抱く彼は、城の屋上に当たる場所居た。階下の王座の間よりも少しだけ広く、しかし中間付近に置かれた貯水槽のせいで何処か狭苦しく感じられる、そんな場所だ。
 貯水槽にしては立派過ぎる装飾が成されたそれを背もたれに、行き先にも、予定にも、答えにですら宛のない彼は、ぼんやりと冬の寒空を仰ぎ続けていた。自らと似通った空色の中で、無意識に気配を殺すことで同化を強め。まるで擬態するかのように、しかし当たり前に白い吐息を産み出しながら。
 そうして空を眺めるうちにその行為を疑問に思い、ついでに手持ちの煙草も尽きたことから、彼は呼吸をも殺そうと意識し始める。しかしどんなに白を生み出すまいとしても、やはりそれは不可能に近く、仕方なしに諦めて、彼はまた空を仰いだ。
 そうか、自分は生きているんだ、などと当たり前の事を認識しながら、しかしそれすら否定するような眼差しで。
 自然と漏れたため息の白さに包まれるのに気付きながら、彼は暇に任せて行事が終わるまで其所で眠ることにした。
 階下に降りればどうしても邪魔になる為、警備をするにも気配で殺気を探す他ない。だからせめて、終わった後の片付けくらいは手伝わなければと。
 申し訳なさから細やかな参加の意を決めた彼は、無意識のうちに探し当てた煙草の空き箱を覗き込み、そのまま中指の指輪に収めた。
 寒さを感じない体質も、こう言うときには役に立つのかもしれない。勿論それは、最悪の結末を向かえる要素にも、なり得るのだけれど。
 全てを理解していながら、彼は暫くの間睡魔に身を任せた。このまま死んでしまっても構わないとは思わなかったが、このまま生きていて構わないとも思えずに。
 投げ槍に、適当に、中途半端に。
 何もかもが面倒になってしまったのは、自分があまりにも不甲斐ないからだ。
 だからと言って何かをしようものなら、それこそ後悔しそうな気がするのだからどうしようもない。
 しかし良く良く考えてみると。
 確かに彼に任せるのは気が進まないが、元より相手は自分だった訳で。
 自分が彼より上手く立ち回れるかと言えば、彼の言う通り不可能なのだから。

 つまり、これで良かったのだろうと、彼は頭の中だけで納得した。


 遠く響くワルツの旋律

 微かに届く温かい光

 賑わう人々の気配

 柔らかな雪の感触

 石畳に張り付く指先

 風に浚われていく残り香


 夢現。どちらとも付かない感覚の中で時の流れを刻んでいた彼の意識は、近付いてくる一つの気配を感じ取ったことで現実に舞い戻る。
 目を閉じてから大体30分後位だろうか。星の位置でそれを認識した彼は、次に訪れた感覚に任せて再び目を閉じた。

 カツン、カツン。細いヒールが階段を叩く。閉ざされていた扉が控え目に開かれた。

 彼はその気配をよく知っている。だからこそ、自らの気配を絶った。
 …どうして一人なのだろう。不意に過った疑問をそのままに、息を殺して感覚を研ぎ澄ます。
 このままこうしてやり過ごすことは難しくない。何故なら、彼が座る場所は唯一の出入り口から死角になっているのだから。

 しかし足音は遠ざかる所か、ゆっくりと近付いてくる。何かを探すように右往左往しながらも、確実に。
 それに気付いた彼はとある考察に辿り着いて気を乱す。
 もしも待ち合わせだとしたら、自分が此処に居てはまずい。しかし距離的にも、今更動くわけにはいかない。気付かずに去ってくれることを祈るしかないのだ。
 そんな彼の思考を裏切って、足音はまたも歩みを進める。合間に混ざるため息のような吐息が、彼女の立ち位置をリアルに知らせた。
 足音は、貯水槽を少し越えた所でピタリと止まる。息を吸い込んだような、そんな声が小さく響いた。
 冬でなければ、見付からなかっただろうに。彼は密かにそう思いながら、彼女が遠ざかって行く時を、俯いたまま待つことに決める。
 不思議と縮まる距離に違和感を覚えたのは数秒後のこと。
 足音を立てぬように、ゆっくりと、ゆっくりと。
 そうして彼女は、彼の直ぐ隣まで来た。
「…倫、祐…?」
 彼女の心配そうな声が、彼の中に答えを生んだ。
 それはそうだ、彼女はこの寒空の下、眠りこけてしまった知り合いを放っておけるような性格ではないのだから。
 困り果てた倫祐は、このまま寝たふりを続ける間に彼が来てくれることを願った。変に動いて存在を察知されるよりは、そのままやり過ごすべきだと踏んだのだ。

 数秒間、沈黙が訪れる。元々の静けさの中、階下に溢れていた曲の変わり目が訪れた事で、辺りは静まり返った。

 倫祐は遠く向こうから近付いてくるもう一つの気配を認識して、心の中に安堵の色を灯す。しかしそれとは裏腹に、彼女はまた足を進めた。倫祐との距離を、詰めるように。

 彼の声が到着するまで、後一分程度。
 このまま寝たふりを続けていれば、何事も無く終わるだろう。

 瞼の裏側に映る闇が微かに色濃くなって、同時に静かな風が告げた。彼女が隣に腰を下ろしたことを。
 横とは言っても、実際には数歩先。お互いに手を伸ばさなければ届かぬ、微妙な距離。
 それはジリジリと、もどかしい程の低速で縮まって、30秒後に無くなった。
 揺り起こすつもりなのだろうと、申し訳なく思った倫祐を他所に。彼女はゆっくりと、ゆっくりと手を持ち上げた。
 全ては感覚の中だけに。実際は夢の中の出来事で、これが現実であると確定出来るものは何もない。
 だからこそ、倫祐にとって。それは不可解な出来事に感じられたのかもしれない。

 彼には分からなかったのだ。
 彼女が、自分の腕に寄り添う意味が。

 そっと掴まれたスーツと。
 控え目に預けられた額と。

 揺さぶる訳でもなく、静かに、息を殺して身を寄せた彼女の体温が妙に温かく、小さな掌に握られたスーツの裾が、まるで生き返ったかのように感じられた。
 体が揺すられる代わりに、頭の中身が揺れ動き。思考が完全に停止して、何も考えることが出来ない位に。
 表面に表れない感情が、体の内側で波を起こす。
 思わず目を開けて、何が起きているのか確かめようとした彼であったが、それは届いた声によって阻まれた。
 螺旋階段の下方から反響するその声は、確かに彼女の名を呼んだ。それでも、彼女はそこを動かない。代わりに、微かに波打った掌に籠る力が一瞬だけ強まった。
 声は、次第に大きくなる。
 彼女は小さく息を漏らし、顔を上げて、倫祐の様子を伺うように小首を傾げる。
 微かに肩が上下したその数秒後、もう一度声が響くと、彼女は掴んだままだったスーツを離して、今度は倫祐の目の前に立った。
 彼女が倫祐に触れていた時間は、僅か10秒程。
 倫祐は、俯いた視線の先に見える彼女の爪先が、白に隠された事で再び目を瞑り。首元を覆う柔らかさを認識しながら、同時に彼女が離れて行ったことを理解した。

 その後5分程。会話と足音が完全に聞こえなくなるまで、倫祐は微動だにせずその場に座り続け、その間未だ離れない左腕の感覚を、必死に何処かへ追いやろうとする。
 そうしてやっとのことで纏まった思考に頷いて、ゆっくりと顔をあげた。

 暖かさなんて、忘れてしまったと思っていたのに。
 それほど、ここは寒いのだろうか。
 そうだとしたら、きっと…寒かったんだろう。

 脳内で、左腕に残った感覚にそう呟き、首に緩く巻き付けられた白の正体を確認する。
 辺りを俄に染める雪のようなそれは、雪とは正反対の暖かさを持つマフラーだった。
 買ったものではないことは、闇の中でも理解できる。
 本当は誰かへあげるためのものだったんだろうと。それが彼女の優しさだと分かった倫祐は即座にそれを外し、中指の指輪に収納した。
 その時、一枚のカードが舞い落ちる。本来持つべき人物を特定できるかもしれないと、なんとなしに開いたその中には。


 メリークリスマス


 短く、それだけが綴られていた。





cp57 [Eve]topcp59 [雪のような]