事件発生翌日のこと。

 早いうちから有理子に起こされた義希は、兼ねてから要望を聞いていた「マジックアイテム暴走事件」の実行犯と面会をしていた。
 元気ながらに病み上がりと言う事もあって、ボス同席の上、聴取室で向かい合う。
「あんたには礼を言わなきゃな」
 謝罪の後、薄笑みを携えてそう言われた義希は、苦笑混じりに片手を振った。
「そんなのいいよ。主犯も捕まえられたんだし」
「いや。俺はあんたと同じような職業につきながら、やってはいけないことをやっちまったんだ。そんなもんで許されちゃいけない」
 彼はリリスの警備団で副団長を務めていたと聞いている。それなら確かにその通りかもしれないし、その反省は尤もなのだろう。しかし義希は笑顔を弱めて、二人に挟まれた机の上に言葉を落とした。
「昔な」
「うん?」
「オレもずっと思ってた。どうしてオレは弱いんだろう。どうしてもっと早く、強くなれないんだろうって」
 急に始まった語りに、犯人である彼も、義希の背後に佇むボスも、興味深げに耳を傾ける。
「その頃のオレなら、きっと誘惑に負けてたと思う。でも今は平気だ。みんなにいっぱい迷惑かけて、沢山成長させてもらったから」
 俯けていた顔を上げた義希は、泣き出しそうな笑顔を正面に向けた。
「今のオレがあるのはみんなのおかげなんだ。だから、オレもみんなみたいに、誰かの役にたてたなら、それだけで嬉しい。だからさ、礼ならみんなに言ってやってくれよ」
 何の臆面も無く、本当なら恥ずかしくて言えないような事を真っ直ぐな眼差しで言われ。面喰らった犯人は数秒の硬直を経て微笑を俯かせる。
「そうか。分かった」
 言葉の意味を噛み締めて、味わって、飲み込んで。
「いつか俺があんたみたいになれたなら、また改めて礼を言いに来る事にする」
 次に顔を上げた彼は、笑顔を強めてそう言った。
 義希は照れ臭そうに頷いて、満足気に席を立つ。男はそれを追い掛けるように起立すると、退出する義希の背中に頭を下げた。


 義希がボスと共に、地下からの階段を登っている丁度その頃。


 仮眠を終えた沢也が、本来のスケジュールをこなすべく魔導課の扉を開く。
 召集をかけられていた海羽とハルカが振り向くと、入室した彼は何やらシンプルでいてややこしそうな機械を海羽のデスクの上に乗せた。
 今日の予定とはずばり、技術課に頼んで製作してもらったセンサーを用いた「透明バリア」の実験である。
 夜通し自然観察班と警備をしてきた上に、様々な事情を知るハルカが欠伸混じりに苦言を呈した。
「元々予定してたとは言え、何も今日やらなくても…」
「貴族がばたついてるうちにやるに越したことはない。今日なら秀も居ないしな」
「それはそうだけどさぁ…」
 沢也の正論に猫なりの不服顔を返し、入り口である扉を振り向くハルカの頭を海羽の手が撫でる。
「沢也…」
「あいつなら大丈夫だ。大丈夫でなくとも、なんとかするだろう」
 遅れてやってくる筈の蒼への心配を軽く制し、なんとか頷いた海羽にため息を溢す沢也を見上げてハルカが一言。
「君は少し達観しすぎだよ」
「知るか。単に面倒なだけだ」
 茶々も直ぐに流した彼は、液晶画面付きの平らな機械を手に、附属品らしいステッキ状の物体をハルカに向ける。
「熱感知や魔力感知等々、それっぽい装置を纏めたもんがこれだ」
 ステッキの先に付けられたカメラがハルカを捉えると、機械の画面には細かな数値と映像が映し出された。もやもやと赤や黄色で猫型を作るのが熱感知で、ぼんやりと虹色に光っているのが魔力感知だろう。
「これでバリアの中のことも分かるのか?」
「それを確かめるためにこうして集まったんだろ?」
「あ、そか…」
 そうだった、と海羽がぼんやり声を溢すと同時、入り口から蒼が顔を覗かせた。
「すみません。お待たせしました」
「電話はもういいのか?」
「はい。孝さんからの現状報告が、思いの外長かっただけですから」
 詮索にきちんとした答えを提示した彼は、肩を竦める沢也の隣から機械を覗き込む。
 二人に挟まれ動きにくそうにする沢也を見上げたハルカが、微笑ましげにしっぽを揺らした。
「じゃあ早速はじめようか」
 言葉と共に生み出された魔法陣の光が霧散すると、ハルカの姿も見えなくなる。しかし機械から彼のシルエットが消えることは無かった。
「魔力感知器は魔法陣全体を捕らえてるな」
「熱感知器もバリアを貫通していますね」
「この機械は技術課作だけあって、かなり性能良いからな。少し下げて見てみるか」
「下げる?」
「性能を、じゃないですか?」
「そうだ」
 沢也がパネルの矢印を弄くると、画面端の数値が下がっていく。同時にモニター上のハルカやバリアの影も薄くなった。
「そんなこともできるんだな…」
「色々注文付けたせいで時間がかかっちまっただが。その甲斐はあったみてえだな」
 沢也の言う通り、性能を半分以下に下げてしまうとぼんやりとすら映らなくなる。それがどれくらいのレベルのものなのかは分からなかったが、海羽も蒼も興味津々で機械を凝視した。
「恐らく、一般に流通している程度の機器でかなりうっすらと、きちんとした専門家が使うようなもんならそれなりに、突き詰めて性能を上げたもんなら最初みてえにハッキリと映る…」
「解説ありがとうございます。そうなると、今のところであれば彼にはバレない訳ですね?」
 蒼の問い掛けに、沢也は無言で首肯する。しかし同時に海羽の唸り声が聞こえてきた。
「秀さんのこと、だよな?」
「そうです。どうしても逃げたい時は…」
「城の中でなら今まで通りで大丈夫かもしれないけど。外では、やめておいたほうが良くないか?」
 補足した蒼と、頷きながらも小首を倒した海羽とに視線を投げ掛けられ、沢也は小さく息を吐く。
「確かに、あいつはその魔法の存在を知らないだろうから。会っちまった後は頻繁に使わない方がいいだろう。だが、顔を合わせる前から使っておくのなら話は別だろう?」
「それでも、外ではやらないほうが…」
 困るでも怒るでもなく、どちらかと言えば確認するような海羽の様子から、何かを感じ取った二人が顔を見合わせた。
「何かあったのか?」
「あったって言うか…僕にもハッキリとは分からないんだけど…」
 沢也に問われて俯いて、次に天井を仰いだ彼女はぼんやりと呟く。
「いつも、誰かに見られてるような気がするんだ」
 そこには恐怖の色こそ無かったものの、消化不良を起こした時のような気持ち悪さがあるように見えた。
 沢也は周辺に意識を向けつつ質問を続ける。
「今は?」
「今は平気。…もっと言うと、お城の中に居るときは平気な気がする。だから、えと…僕の思い過ごしかもしれないんだけどな?」
「いつから?」
「え?うーん…いつかなぁ…」
「大体でいい」
「…多分、最近」
 黙って二人の問答を聞く蒼は、バリアを解いたハルカに気付いて頭を撫でた。海羽は相変わらず中空を見据えたまま答えを示す。
「藤堂さんが、逮捕された辺りから…」
 つまり、一ヶ月程続いていると言うことか。沢也は短く思案して、蒼に抱えられたハルカを振り向いた。ハルカはそれだけで彼の意図を理解して欠伸を漏らす。
「分かったよ。スケジュールだけ調整しておいてよね」
「悪いな。それと、あと幾つか実験させてくれ」
「おっけー」
 機械を掲げての依頼を受けて、ハルカも蒼も元の位置に戻った。
 その後の実験で分かったのは、バリアを製作している術者以外がバリア内部に入っても、感知器の反応があること。裏側の世界に行ったハルカを感知器が認識することはなく、海羽のバリア内で裏の世界に飛んだ場合は、肉眼で見るのと同じく反応が消えること。バリア内部から発信される電波は傍受可能であること。同時に、バリア内部で外からの電波を受信することも可能らしいことなど。
 時間の許す限り検証した結果、機械が絡むとかなり危ういのではないかとの結論に至った。
 対策は後日に回すとして、蒼と沢也は続く書類製作に、ハルカは束の間の休息に、海羽は通常業務へと戻っていく。


 そうしているうちに、あっと言う間に昼が近付いて来ていた。


 時刻は午前10時。
 煙草屋の倉庫で一夜を明かした雫が、泣き晴らした目を擦りながら起床する。彼女の目に最初に飛び込んできた光景は、いつもと変わらず…朝早くから店を開いた千世の後ろ姿であった。
 昨日はあれから夕食を御馳走になり、夜通し愚痴と喧嘩に付き合わせ、泣き喚いては迷惑をかけたにも関わらず、最後まで宥めて説明してくれた彼女の隣。いつものように背中を預けた雫は、寝起きで上手く出ない声を絞り出す。
「何も言わないの?」
「…言わなくても分かったのでしょう?」
 千世はやはりいつものように、振り向かぬまま呟いた。雫は返事をすることも出来ずに、溢れそうになる涙を堪える。
「あの人が王様であることを…あの人の仕事そのものを受け入れられないのなら、あの人を愛することなど出来ないのではないかしら」
 念を押すようにして口にする千世の、単調でなめらかな声に喧騒が混じった。
「だってあの人はあの人であり、王様でもあるのだから」
 それが、雫にはどうしても納得できない。納得したくないのだから当然だ。
 千世は頭の中で言葉を繋げ、雫の頭頂部に質問を落とす。
「あなたは望んでいるのでしょう?あの人が王様と言う立場を捨ててまで、自分を選んでくれることを」
「そうよ。…おかしい?おかしくなんて、ないわよね?」
「そうね。その通りね」
 何よりも愛してほしいと望むことはおかしくない。間違ってもいない。悪いことでもない。ただ…
「だけどあの人は、あなたに王様と言う立場ごと受け入れて欲しかった筈」
 そう呟くと、雫はピクリと身を揺らした。
「それが出来ないのなら、諦めなさい」
 彼に譲れない部分があるように、彼女にも譲れない部分がある。千世には両者の気持ちが良く分かった。だからこそ、そう助言することしかできないのだ。
 雫は、全てを理解した上で決意する。俯いたまま首肯する彼女の頭を撫で、千世は訊ねた。
「憎い?」
「分からない」
 嗚咽に混じる返答は、苦し気に床に降り積もる。
「分からないの」
 泣きながら千世にすがり付いた雫は、受け止めてくれた彼女の腕に顔を埋めた。
「それなら、こうね」
 震える雫の手を取って、千世は静かに口にする。
「あなたは悔しいのよ。雫」
「…そうね。そうかもしれない」
 すれ違ってしまったことが、そしてどうにもならないことが。
「どうするの?仕事」
 もうそろそろ出勤時間だけれど。と、小声に続けた千世を見上げ、雫は言った。
「無責任かもしれないけど、辞めることにするわ…」
「そうね。それがいいかもしれないわね」
 このままじゃ、お互いに気の毒だものと。言いかけてハッとした千世は、カウンターの前に立つ帯斗を見据える。
「辞めるって…どうしてっすか?」
 背伸び気味に、呆然と問い掛ける彼を雫も振り向いた。
「…紫さんと、何かあったんすか?」
 泣き顔を見て察した帯斗がそう続けると、雫は俯き答えを絞り出す。
「色々あって…元々付き合ってたって程じゃないんだけど、あの…」
 結局はその単語を口に出せぬまま、中途半端に説明を終えた彼女に、納得いかない帯斗は控え目ながらに問い詰めた。
「…もう会わないつもりっすか?」
「…そうだね。会わなくていいように、街を出ようかな。ここじゃなくても、仕事はあるし…」
「そんな…どうして…」
 蒼に限ってそんなこと、そんなに追い詰めるようなこと、する筈がないのに。そう瞳で語る彼の横顔に、千世が静かに声をかける。
「そう言うこともあるものよ?お互いに好きでも、すれ違ってしまうことが…」
 黙って俯いてしまった帯斗は、千世の言葉を頭の中で撹拌した。
「納得できない?」
「分からないっす」
 問い掛けに即答し、顔を上げ、彼は続ける。
「ただ、モヤモヤして…どうしていいか分からないんす…」
 殆ど事情を知らないのだから、それはそうだろう。だからと言って千世は説明する気になれず、せめてもの解決策を提示した。
「見届けて来たらどうかしら?」
「え?」
「二人の結末を」
 帯斗は固まり、揺らぐ瞳を千世に向ける。その背後から彼の頭に手を乗せる者があった。
「…義希さん」
「知ってたのか?紫の事」
 振り向いた帯斗に、義希は直ぐに問い掛ける。何時から聞いていたのかは分からないし、誤魔化す必要があるのかも分からなかったので、帯斗は黙って頷いた。
「そか…」
「すみません…」
「いやいや、オレに謝られてもな…」
 おどけて頭を掻いた義希は、ジャケットの裾を掴む帯斗の旋毛を見据える。
「街を出るって」
「そか…」
「止めないんすか?」
「オレにはそんな資格ないよ…」
 しがみつくような彼の頭に再び手を乗せて、義希はふとカウンターを振り向いた。
「千世ちゃんは、どうすんの?」
 様子からして親しいのだろうと、察した彼の質問に暫し思案して、千世は瞳を俯かせる。
「一緒に行こうかしら」
「え…」
「此処は元々他人の物だし。また誰か、新しい人にお願いして…」
「嫌っす」
 言葉を遮って呟いた帯斗は、カウンターに手を乗せて思いのままに叫んだ。
「そんなの嫌です!」
「ありがとう。でも、この子を放ってはおけないわ」
 軽くそう言われ、自身の立場を思い直し。帯斗は俯き声を振り絞る。
「…もう、会えないんすか?」
「生きてる限り、会えるわ」
「生きてる…限り…?」
 その意味を噛み締めながら、恐る恐る顔を上げた彼に。
「だから、死んでは駄目よ?」
 千世は寂しげに微笑んで、強くそう言い聞かせた。
 帯斗は彼女の意図を理解して、震える掌を握り締める。
「行くのか?」
 会話の切れ目に外に出てきた雫に、義希が声をかけた。彼女は振り向かずに頷いて人の流れに乗る。
 雫から千世を振り向いた帯斗も、彼女の頷きにより後を追うようだ。
「一人で平気か?」
 先と同じ調子で義希が問うと、彼は義希を振り向いて、まるで頼みこむように立ち尽くす。義希は千世に目配せして、黙って彼の後に続いた。



 手続きは直ぐに済んだ。
 メイド長の橘さんに平謝りすると、特に追求も無く書類を渡される。何処か残念そうな彼女の様子を、他のメイドさん達からの労いの言葉を受け、申し訳なさに苛まれながら、雫は書類を完成させた。
 見送られて、民衆課で手続きし、王座の間の前に立つ。
 意を決して扉を押すも、中に居たのは有理子だけだった。
 事情を話すまでもなく、報告を受けた彼女はやはり残念そうに眉を下げる。しかし全てを知っているだけに、他の人に言われたような「たまには遊びに来てね」だとか、「気が向いたら戻ってきてね」等の言葉をかけられることは無かった。
 数分後。有理子に見送られて王座の間を出た雫は、廊下に敷かれた青い絨毯を踏みしめる。
 このまま会わずに去る方が、お互いの為になる気がして、彼女は敢えて彼の居場所を聞かなかった。
 昨日あんなことがあったから、変わってしまったであろうスケジュールも確認していないし。何より、どんな顔をして会えばいいのか…どんな言葉をかけるべきなのか。彼女には見当も付かなかったから。
 心の中でそう言い分けて、雫は外へと繋がる扉を開く。
 眩しい光の後、真っ青な空が視界に広がった。
 彼女は扉が閉まりきるのも待たずに歩き出す。短い庭の、半分ほどを進んだ辺りで後ろから風が訪れた。
「雫さん」
 耳慣れた声で名を呼ばれ、振り向くか振り向かないかを考える間もなく、体が勝手に反応する。
 すっかり振り向いた雫に、扉の隙間から外に出た蒼の、いつもの微笑が注がれた。
 焦ってやって来た風でもなく。本当に、たまたま見付けたから声をかけたような。そんな雰囲気の彼を、雫は細めた瞳で見据える。扉の白が空の光を反射して酷く眩しかったからだ。
 彼女の目が慣れて、きちんと向き直った所で彼が口を開く。
「ありがとうございました」
 いつも通り笑う彼の、僅かに覗く瞳の色が不思議と寂しそうに見えた。
 だからこそ責めたり、嘆いたりする気にもなれず、雫も笑顔で返答する。
「こちらこそ」
 今にも泣いてしまいそうだったから、掠れる声を誤魔化すように踵を返した。
 蒼は黙ってその背中を見送る。その場から見えなくなるまで。

 雫が去り、次第に静寂が日常に紛れると、蒼は門の外に視線を流してから城内へと戻っていく。
 彼の流し目を受けた義希は、隣の正宗と気まずそうに頭を掻いた。
 無意識に雫の退城サインを眺める茂達の隣、呆然と佇む帯斗がポツリと溢す。
「あんな時も…笑ってるんすね。あの人…」
 チラリと垣間見た蒼の表情を脳裏に映し出しながら、彼は自分の心情とそれを重ねた。
「俺には…きっと無理っすよ」
 歩み寄る義希に構わず踞った帯斗は、周囲への配慮も忘れて気持ちを吐き出す。
「あの人にフラれた後にも笑ってるなんて、出来ないす」
 言いながら、絡まる思考を整理する彼の頭の中に、一つの答えが浮かんできた。

 ああ、そうか。
 あの人はきっと、優しくて…とても強いんだ。

 その考えは帯斗の心の中に落ち、大きな波紋を呼んだ。





 翌日から。



 煙草屋の軒先には見知らぬ老婆が座るようになった。

 蒼の補佐係は次が決まるまで、メイド長の橘さんが勤める事になった。

 夜中から立て続けに新たな自然災害が起きた。

 精神的に無理がきたせいか、帯斗は熱を出して欠勤した。

 轟の提案で諸澄が自然対策班に駆り出される事になった。
 これに関しては、帯斗の分まで働こうと張り切る義希の居ない間、沢也にゴーサインを貰った轟が駐屯地で休んでいた諸澄に直談判しにきたわけで。
「はぁ?何で俺が…」
「見ておいた方が良いと思ってな!」
「ふざけ…勝手に決めてんじゃねえよ!」
 と、諸澄による当然の反発にもめげずに笑う彼に、定一からの助け船が入る。
「行ってきなよ」
「でも…」
「こっちは平気さ。本隊長も戻ってくるみたいだしねぇ」
 欠伸混じりに呟く彼は、訝しげに眉を寄せる諸澄に悪戯な笑みを返した。
「色んな都合上、あの人にはどうしてもこっちに居て欲しいんだって。義希くんが言ってた」
 沢也からも促され、ついでに義希がなんとなしに呟いた言葉をも利用して、上手いこと矛先を反らそうとする定一の作戦は見事に成功し。
「つまり、文句はあのロボット野郎に言えって事だな?」
「まあまあ、そうカッカするな!行けば必ず成長できる!」
「はぁ?ちょ…離せ!馬鹿野郎!」
 意図する物とは違ったものの、結果的に轟に引き摺られていった諸澄を見送った定一は、頭を掻き掻き一言漏らす。
「…本隊長なら殺られることはないし…ま、いっか…」
 心の中だけで「ごめんね」と片手を立てて、彼は静かになった駐屯地のソファに横になった。

 その日の夜は、遅番の小太郎の気使いで早めに帰宅した義希と、資料を整理する蒼と。二人だけでの夕食となった。
 食事を作り終えた海羽は、秀に高級料理店のディナーに連れて行かれたし、沢也はごねた沙梨菜を伴い、再度現地での証拠集めに赴いて行ったし、有理子は雫が辞めた穴埋めをする為各所を走り回っているし。
 同じく部屋で請求書を製作していると言う椿にも声をかけたが、まだ職員が全員帰っていないからと断られてしまった。
 義希は一見して変化のない蒼の斜め向かいに座り、黙々と食事を消化する。聞きたいことはあるにはあるし、聞いてはいけない理由もない。
 蒼も普段通りに見えるだけあって、会話や質問を拒否するオーラは出ていない。
 それでも話をほじくり返すようで、躊躇いを隠しきれずに顔に出してしまっていた義希を、蒼の微笑が振り向いた。
 ハッとして顔面をむにむにした義希は、口の中のムニエルを飲み込んで不自然な苦笑を浮かべる。
「なあ、蒼」
「はい」
 空になった皿にフォークを起き、俯くままに義希は訊ねた。
「嫌いになったか?」
「え?」
「雫のこと」
「いいえ」
 即答し、蒼は徐にフォークを手にする。
「彼女は僕のことを、僕として見てくれましたから。にも関わらず、僕は彼女の要求を叶えることが出来なかった…。ただ、それだけのことなんです」
 書類を置いて、フォークを持ち。白身魚を切りながら、彼は淡い笑顔で続けた。
「勝手な言い分かもしれませんが…彼女には幸せになって欲しいと思っています。僕のように、我が儘な人間でなく。きちんと彼女だけを見ることの出来る方に、出会えることを…」
 説得するような蒼の声が、中途半端に途切れる。訪れた間に落ちたのは義希の嗚咽だった。
「泣かないで下さいよ」
「だって…なぁ、蒼…」
 思いを上手く言葉に直せず、ただ溢れてくる涙を止めることも出来ない彼を前に、蒼は思わず瞳を伏せる。
「仕方がなかったんです」
 義希が泣く意味は、彼をよく知る蒼には良く分かった。裏のない素直な感情…つまり、自分の為に泣いてくれているのだと。だからこそ余計に、何重もの意味で申し訳なくなって、しかしそれを悟られぬように無理矢理笑顔を持ち上げる。
「お互い、求めるものが違っただけで…仕方がなかったんですよ。だから、大丈夫です。義希くん」
 仕方がない。それだけで終わらせてしまうには勿体無いくらい、彼女は蒼を思っていただろう。同時に、蒼も彼女に感謝していた筈だ。
 義希は蒼に何度も頷きながら、しかし何も言うことが出来ずに想いを殺す。蒼もそんな彼に一度だけ頷いて、まだ温かい夕食を胃の中に収め始めた。



 更にその翌日もまた、変化が起きる。



 朝方から出勤していた義希が、用事を終えて駐屯地に戻った所。殆どの隊員達がパトロール中で留守にしている室内に、ぽつんと佇む帯斗の姿があった。
「帯斗…」
「隊長…俺…」
 熱はもう下がったのか、とか。千世ちゃん、何も言わずに行っちまったのか、とか。様々な言葉は振り向いた彼の表情を見た途端、喉の奥まで引っ込んでいってしまう。
 それくらい、辛そうにしながらも何かを決意したような帯斗は、固まる義希に躊躇いがちに問い掛けた。
「俺…ズミんとこ、行っちゃダメっすかね…?」
 諸澄は昨日の夕方には向こうに発った筈だ。同じ時間に出勤したメンバーに事情を聞いたのか、全てを知っている風な彼は更に続ける。
「轟さんが言ったこと、気になるんすよ…。俺、死ぬって事について、絶対、分からなきゃいけない気がして…」
 そうしなきゃ、どうなるのか。具体的に説明するにはまだ曖昧だけれど。千世の言葉を思い直し、大きく深呼吸した帯斗は、無理に作った笑顔を傾かせた。
「そんなことも分からないのに、陛下みたいになりたいなんて。おこがましいこと言ってらんないじゃないっすか」
 痛々しく、それでいて力強い声を聞き、義希はふっと頬を緩める。
「分かった」
 了承を受けて、彼も安心したようだ。上への報告やら何やらを請け負った義希は、早速支度を始める帯斗の背中にポツリと呟く。
「ありがとな。帯斗…」
「え?」
「いや、こっちの話」
 義希は崩れてしまった関係性の中で、変わらずそこにあったものに密かに安堵した。


 そうして報告を受けた沢也が帯斗を増援として報告すると、リーダーは代わりに花形をヘルプに出すと申し出る。沢也は有り難くそれを受け入れ、翌日からのシフトを書き換える作業をボスに一任した。
 現在の調子で行けば、一週間程度である程度自然被害は収まるだろう。既にターゲットとなる貴族の破産は決定しているような物で、相手側も今後の身の振り方を考え始めた頃らしい。
 栗栖は大人しく没落し、一般人として生活する道を選ぶ事にすると、先程本人から連絡があったばかりだ。今後の為、多少の手持ち資産を残して、その分を国への借金とするうまを説明すると、あちらも相当安心したようで明日にはこちらに来るとの返事。
 他の貴族達とも縁を切った辺り、潔いと言うか逃げ足が早い言うか、何にせよ有り難い話である。
 こちらは諜報部の一部を回して裏を取らせるとして。
 やはり問題は橡だ。
 元より没落を怖れて画策していただけに、最後まで抵抗する姿勢の橡は、雛乃の婚約者に取り入ろうとしているようだと、孝からの報告が入っている。
 橡の下にある雛乃の家は、既に殆どの資産を食い潰された状態の上、婚約者に気に入られて直ぐにでも結婚を迫られているとか。
 橡が完全に潰れてしまえば、雛乃の家も実質的に潰れたも同然となる訳で。それを嫌う彼等は全員そろって、雛乃の嫁ぎ先に拾われる形になるのではないか、との推測が有力だ。
 しかしやはり、その「婚約者」とやらに色々な問題はあるらしく。この期に及んで雛乃からの手紙が届けられた。
 夕方の便を受け取った沢也が、沢山の手紙に混ざったそれを見付けたのが先程のこと。今のところ、応接室で謁見中の蒼には見付かっていないが…どうしたものかと頭を悩ませる。
 内容は大方予想が付いた。同じような手紙が、この時期になると嫌と言うほど送られてくるからだ。
 手紙をつまみ上げた沢也が、唸りながら溜め息を付いた所にノックが響く。続けて入室したのは大量の紙の束…を抱えた八雲であった。
「出来たのか?」
「おかげさまで」
 席を立つ沢也への返答が酷く疲れて届く。揺れるまま長テーブルに雪崩れたタワーから一枚を抜き、沢也は先の手紙と同じようにつまみ上げた。
「助かった。明日の朝、郵便課に依頼する」
「此処に置いておいても?」
 一緒にテーブルに雪崩れた八雲の懇願に近い問い掛けに、無言で頷いた沢也は予備のポケットルビーに全ての封書を収納する。
「これで無事パーティーが開催されますか?」
「お前、当てはあるのか?」
「ありません。甲斐性なしですから」
「それにしては嬉しそうじゃねえか」
 招待状の行く末を見守った彼の、温く穏やかな微笑を見て、沢也は思わず苦笑した。
「皆さん楽しみにしていらっしゃるでしょうから」
「否定はしねえが、腑に落ちん」
「達成感と言うやつですよ」
「ドMか」
「あれ?知りませんでした?」
 冗談なのか本気なのか分からぬ調子の八雲は、大きな伸びと共に爽やかに退出する。
 沢也は残された一枚の封筒片手に、また息を吐き。
「黙っていても、良いことはないか」
 そう小さく呟いて、蒼に打ち明ける決心を付けた。





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