蚊帳の外 夕暮れ時。 不揃いな背丈の建物が乱立する大通り。様々な色合いを持つ煉瓦や石造りの壁から、足元に模様を描くようにして敷かれた石畳までもが、この時間帯ばかりはみな一様に眩いオレンジ色に染め上がる。 特に今日はつい先程まで雨に降られていたせいもあって、夕焼け空がいつも以上に有り難く感じた。 道の端々では空の色を反射する水溜まりがキラキラと輝いていたりと、賑わう街並みはこんなにも光に満ちていると言うのに。夕食の匂いに鼻をむずつかせながら帰路に付く義希のおぼつかない足取りが、彼の疲労感を最大限に表している。それでもこの時間に帰宅できるのだから、残業に狩り出されるよりは随分マシだと一人頷きつつ、遠巻きに見上げた城の白い壁も、街や自身と同じように赤く染まっているのを認識した彼は、不意に寂しくなって歩調を早めた。 一人暮らしが長かった割りに家事の一つも出来ない義希は、馴染みの商店街で買い込んだ出来合いの夕食を腕に抱え、街灯に浮かぶ丸い光が薄青に染まり行く街並みを照らし始めた頃、街外れのとある建物の中に足を踏み入れる。 近衛隊の駐屯所より更に西側、本島に繋がる橋にほど近い場所に佇む古びた建物が、今の彼の仮住まいだ。 店舗として使われている一階部分の脇にある、こじんまりとした入り口を潜れば、左壁に無機質なポストが数個並んでいる。その先に見える古い煉瓦の薄暗い階段を上れば、木板が張られたちょっとばかし長い廊下にたどり着く。 早足に階段を登りきった義希は、目の前の扉が小さな音と共に開くのを見て軽く肩を跳ねさせた。 「倫祐!びっくりしたぁ…ってかもしかして、これから仕事行くん?」 階段に一番近い部屋からにゅっと顔を出した倫祐は、驚く義希に首元を掻きながらもぬっと左手を差し伸ばす。その上にポケットルビーから出されたのは、出来立てほやほやの肉じゃが入りの小鉢…もとい丼だ。 「おぉお!うまそぉ…悪いなぁ、いつも!助かるよ」 受け取りがてら瞳を輝かせる義希が言う通り、倫祐は時折夕食や昼食などの差し入れを持ってくることがある。持ってくるとは言っても、そうそう顔を合わせられる機会が有るわけでもないので、専らお互いが何かあった時のためにと交換してある合鍵を使ってのやり取りなのだが。 倫祐が頼まれごとで忙しい事を義希が知っていたのも、こうして彼から貰った差し入れの器を返しに部屋へ行ったときに少しだけ事情を聞いたからなのだ。 「あ、そうだ。倫祐、これ渡しとくな」 義希による大袈裟なリアクションの間に部屋に鍵をかけた倫祐は、体半分振り向く形で義希から一枚の紙を受けとる。 「事務所にも貼ってはあるんだけど、早い方がいいべ?」 問われて頷く倫祐が早くも中指のポケットルビーに収めたのは、ここ数日城下町を騒がせている通り魔の手配書だ。手配書とは言っても、ハンター達が流通させていたものとは違い、金額などが提示されているようなものではなく、どちらかと言えば注意書に等しい。 「なかなか捕まんなくてさ、もし見付けたら頼むな」 何でも道行く幸せそうなカップルだけを狙った悪質な事件らしく、かく言う義希も帰宅寸前までこの事件の捜査に駆り出されていた訳で、未だハッキリしない事態にもやもやが晴れず、落ち着かない状態だ。 倫祐はそれに気付いているのかいないのか、顔の前に右手を立てた義希に再度頷くと、胸ポケットから煙草を取り出し足を進めた。 「まだ忙しいん?」 問いかけに間髪入れずに頷いた彼は、義希の横をすり抜けて階段を降りて行く。その背中を振り向いて、義希は慌てて付け足した。 「器と食材、明日までには届けるからなー!」 階下に降りた倫祐の左手が微かに翻ったのを確認し、義希は自室となる隣の部屋の鍵を開ける。 粗方片付いた室内の中央に置かれた炬燵の上、今しがた買ってきた品物と肉じゃが、それと一緒に預かったメモと数枚の紙幣を乗せた彼は、待ちきれんと言わんばかりに急いで帰宅後にやるべきことを一通り終わらせた。 がさがさと台所とも呼び難い設備の引き出しから箸を探しあて、布団の装備されていない炬燵の前で両手を合わせる。 「いただきます」 そうしてあっという間に半分の食事を胃に収めた義希は、倫祐の肉じゃがに付属されていたメモを眺めてよだれ混じりに独り言を漏らした。 「次は牛丼…いや、すき焼き?肉豆腐も捨てがたい…」 牛肉、豆腐、玉ねぎ、生姜…綺麗に列なる文字が示すのは食材の名前。つまるところ、彼が今目を通しているのは買い物メモである。 無口な倫祐が買い物に困るのは昔からの事で、それを義希が肩代わりし始めたのは、二人揃ってこのアパートに転がり込んでからのことだ。義希が買い出し、倫祐が調理する。どちらが初めとなるかは最早忘れてしまったが、これが二人のギブアンドテイクの形なのだ。 そんなわけでここ二ヶ月程、義希は倫祐から頼まれた品プラス、自分が食べたい食材も一緒に購入しては、ついでに調理して貰って英気を養っている。お陰さまで風邪を引くことも仕事の疲れでバテることもなくここまでこれた訳で、たまたまとは言え倫祐が隣人であることに、義希は心からの安心やら何やらを感じているのであった。 そうして日は落ち、月も落ち。 やって来た翌日のお昼前。 「さぁて、せっかく肉屋に行くんだ。ついでに角煮も作ってもらおう!」 たっぷりと寝坊した義希が意気込んで向かう先は、メインストリートより南寄りの商店街。 久々の休日を満喫するかのように、欠伸混じりで出掛けていく私服の彼を、アパートの管理人でもある一階の理髪店店主が見送った。 フラりと紛れた人混みで、何時もと違う立場から眺めた大通りの風景は、これ以上になく平和で、のどかで、そして賑やかだ。 その向こう側に佇む城ですら、その平和な光景に溶け込んで、日頃の多忙さが想像も出来ない程に輝いて見える。 それはきっと、凄く幸せなことだろう。 そう思うからこそ、義希は自分の中から溢れ出てくる鬱蒼とした感情が許せずに居た。同時に、それに気付いていながら問題を先伸ばしにしているだけの自分自身を情けなくも思う。 「分かっちゃいるのになぁ…」 「なぁにが分かってるんだ?肉が旨いってことか?」 「そうそう、肉が旨い…って!おっちゃん、いつの間に!?」 「いつの間にって、お前が来たんだろうよ、肉買いに」 驚く義希に呆れた顔で答えるのは、白髪混じりの肉屋のおじさん。脂の乗った頬をふるふると震わせて首を振る彼の様子からして、義希はどうやら口から魂が抜けたまま肉屋の前まで来てしまったらしいことを悟った。 「そう、そうそう!肉、おっちゃん、牛のバラ肉と…あと、角煮に良さそうなの頂戴?」 「へい、まいど!良いの見繕っとくよ」 バツの悪さを誤魔化すための勢い任せな注文を受けた店主は、人懐っこい笑顔を浮かべて頷いて見せる。それにホッと息を落とした義希は、俯いた拍子に目に入った透明なケースの中身を見て数日前の出来事を思い出した。 「…くれあ、元気かな…」 調理前のそれは若干グロテスクにも見えたが、調理後の匂いや味を想像した彼の思考がヨダレと共に口から流れ出る。 「流石にレバー続きじゃあなぁ…っつーか、折角だから倫祐に何か作って貰って…いや、でも次いつ休みになるかわからんし、その前に産まれちゃったら…ってかいつ産まれるんだっけか?」 ブツブツと続く独り言、いつものことと微笑ましく眺めながら秤と向き合っていた店主は、唸る義希が不意に顔を上げるのに気付いて首を回した。 「おっちゃん。レバー以外に貧血にきくのって何かなぁ?」 「そうだなぁ。肉じゃあないけど、きな粉とかオススメだよ」 「まじか!それなら駄菓子屋で買っていけるな」 回答を聞くなり目を輝かせる義希。そんな彼に計量を終えた精肉を確認してもらい、パパっと包んで袋に収めた店主は、代金と引き換えにそれを差し出す。 「折角の上肉だ。美味しく食ってやってくれよな」 「任しといて。豚も牛も、生きてたんだ。無駄にはしないさ」 「さすがは近衛隊長さん。分かってるねえ」 「あはは、まあ今日はただの暇人だけどな」 「はは、まぁどっちにしろ、また来てくんな」 「もちろん!あんがとなー」 カウンター越しに手を振って、受け取った品物をポケットルビーに仕舞い込んだ義希は、その足でくれあの家へと向かった。 途中、駄菓子屋で仕入れたきな粉棒片手にぼんやりと見上げた空は、分厚い雲が織り成す鉛色。今にも雨が降りそうな気がするが、予報では夜までこの状態が続くらしい。 「帰りまで降らないでくれよー?」 そう空に呟いた義希は、小太郎の家の前で立ち止まり、直ぐにインターフォンを押した。 遠くでチャイムが鳴り響く。それに合わせて足音が、ややあって目の前のマイクが雑音をたて始めた。 「義希くん?待ってて、今開けるから」 くれあは早口にそれだけ伝えると、マイクを切って玄関口に向かったようだ。それを証拠に、目の前に続く道の先にある扉の奥からは微かに物音が聞こえてくる。 義希は庭先の小さな門を潜ると、テンポ良く石畳を踏んで玄関前まで足を進めた。彼が扉の手前に辿り着くと同時にくれあがひょこりと顔を出す。 「いらっしゃい」 「よっ!悪いな、突然」 「いいのよ。どうせ昼間は暇だから。上がっていく?」 「お?まじで?お邪魔していいん?」 「大丈夫よ。義希くんだもの」 言いながら戸を開き直すくれあの代わり、ゆっくりとノブを引いた義希は、4月に小太郎に連れられて来た以来の玄関をぐるりと見渡した。 ランプの光に照らされてオレンジ色に染まる壁紙には、縦ストライプに添ってうっすらと花柄が浮かび上がっている。靴箱の上に飾られた写真たて中には、暑苦しいまでのバカップルが写り込んでいた。 「おじゃましまー。あ、これおみやげー」 「あらありがとう。ふふ、これなら緑茶がいいかな?」 頬を緩ませながら靴を脱ぐ義希が差し出した袋の中身を確認したくれあは、その真意を見抜いて顔を綻ばせる。リビングキッチンに通された義希は、ダイニングテーブルの手前で足を止めて窓を見据えた。 庭に出るために開閉式になっているそれは、惜し気も無く全面が硝子張りになっている。成る程、ここからなら入り口が良く見える訳で、誰かがインターフォンの前に立てば直ぐにでも気が付くだろう。 「凄いでしょう?マジックミラー」 「ああ、それであっちからは見えないのか!」 「そうよ?こっちに移してからね、硝子だけ張り替えたのよ」 電気ポットから急須にお湯を注ぎ入れ、湯呑み茶碗二つと共に盆に乗せたくれあは、手を出しかけた義希を制して、ゆったりとした足取りでテーブルまでやってきた。 そうして二人向かい合って席に付き、駄菓子を茶請けに温かい緑茶を啜る。 曇り空にも関わらず、室内よりも明るい表からの光を受けて、フローリングの床とラベンダー色の絨毯が鈍く輝いて見えた。 「まさかこんなに早く来てくれるなんて思わなかったな」 お茶の表面に息を吹き掛けるその合間、ぽつりと呟かれたくれあの一言に義希の眉が下がる。 「うん、まぁ」 そう頷きながら彼が横目に捉えたのは、複数の雑誌や新聞、パズルや縫い物…そして、綺麗すぎる室内だ。 「やっぱり、寂しいよな?家に独りじゃ」 「そうね。それなりに」 図星を付かれたからか、若干の苦笑いを浮かべつつも首肯したくれあは、寂しげに笑う義希を見て彼が今日訪れた理由を悟った。 「なるべく小太郎が早く帰れるようにしてやりたいんだけど…」 「やだなぁ、分かってるわよ。それが難しいってことくらい」 そう言って強がる彼女に曖昧に微笑む義希は、作りかけの小さな手袋に手を伸ばして軽くつつく。柔らかく、温かい感触が妙に指先に残った。 「それよりも…」 くれあは言いかけて口をつぐむが、義希のあどけない瞬きに負けて思わず続きの言葉を溢す。 「何て言うか、ちょっとだけ蚊帳の外って言うか…」 遠い何処かに飛ばされたような声は、それでも確かに義希の元へ届いた。 「ああ、分かるよ。オレも戻ったばっかだし、そんな感じ」 「でも義希くんはもう現場復帰してるでしょう?立派に蚊帳の中に入ってるじゃない」 困ったような、焦ったような、微妙な色を持って漂う感情がその場を支配していくような。そんな感覚に見舞われながら、義希は微妙な表情で頷いて見せた。 「そりゃあ、何もしないわけにはいかないしなぁ。とにかく頑張ってはいるつもりだけど…」 「それだけで十分立派よ。それに比べて、私は…」 「何…?なんでそこで凹むん?」 盛大に落ちたため息に身を乗り出す彼に、くれあの苦し気な声が真意を告げる。 「皆があんなに頑張ってるのに、何にも出来ないのがもどかしくて……」 ズキリと、胸が跳ねるのが分かった。だからこそ、義希は直ぐに返答する。 「くれあ?お前、小太郎にも言われない?今のくれあの仕事は…」 「分かってる。この子の事はちゃんとするし、してるつもり」 「うんうん、ならそれだけで十分立派だって」 「そうなのかな?」 「そうそう。オレなんか産もうにも産めないし、何も分かんないからデリ…デリなんとかが無い事言うかもしんないけど…」 「もしかしてデリカシー?」 「そう!そうそう、それな。デリカシー」 ゴホンと一つ咳払いをし、グダグダになりかけた会話を立て直した義希は、次にしっかりとくれあの瞳を見据えた。 「子供を産むとか、育てるとか、想像しただけでもすっごい大変そうなのに…それをやろうとしてるんだから、やっぱ凄いよ。少なくとも、オレはそう思う」 「うん……ありがとう…」 小太郎も小太郎で何もしていない訳ではなく、寧ろ毎日のように気にかけているくらいなのだが、やはりそれとは別の所からの手も必要なのだろうと。義希はぼんやりとそんなことを考えながら眺めていた自らの手を、頷くままに俯いてしまったくれあの頭へと伸ばす。 「大丈夫、きっと上手くいくって。オレもみんなも、楽しみにしてるからさ」 「…ほんとに?」 「そりゃあそうだって。くれあと小太郎の子供だし?他人事じゃないってば」 テーブル越しに頭を撫でながら義希が朗らかに頷けば、くれあの滲んだ瞳も笑顔になった。こんな時でも涙を見せない彼女の強さと頑なさを再度認識した義希は、彼女の腹部とにらめっこするようにして小首を傾げる。 「それにしても、やっぱ不思議っつーか、なんつーか…うん、凄いよなぁ」 好奇心に溢れた瞳に見据えられたくれあは、手元のきな粉棒で笑みを堪えた口元を隠す。義希はそれに気付いて椅子に座り直すと、宙に向けて独り言を続行した。 「男の子かな?女の子かな?いやー、やっぱ楽しみだなぁ」 「あら、海羽や有理子ちゃんから聞いてない?お…」 「うわぁあぁあ待て待て、言うなって!小太郎と一緒に楽しみに取っとくからさ…」 言葉を遮るまでの慌てぶりに驚いたくれあは、数回の瞬きの後に彼の表情から全てを察する。 「もしかして、黙ってられる自信無い、とか?」 確かに小太郎は産まれてからのおたのしみ、と性別を聞かぬまま今日まで来ているわけで。 「だって、間違って口走ってみ?小太郎に一生恨まれそう…」 「あははは、そっか。そうだよね?」 万が一知ってしまった場合、残りの数ヵ月の間に、義希がうっかり口走らなかったとしたら奇跡である。 怒る小太郎と謝り倒す義希を想像して一頻り笑ったくれあは、一息付くと眉を下げつつ頭をかく義希に頷いた。 「さっきはああ言ったけど。ほんとはね、寂しいのよ」 笑いの延長線上で呟かれた一言は、義希の表情を複雑な物に変える。くれあはテーブルに置かれたまま、冷めかけた湯呑みを両手で包み込むと、まるでその中に落とすかのように言葉を繋いだ。 「だからっていっつも構ってもらうわけにもいかないでしょ?みんな苦しいの、分かってるのよ。だから、余計にね…」 「うん…うん、わかるよ…」 「自分で新しい友達作ってみようかとも思ったんだけど、この通り、この性格だからね」 おどける彼女に何度も頷いていた義希は、そこで首の動きを止めて苦笑する。くれあは小さく肩を竦めると、同じく苦笑混じりに舌を出した。 「昔から小太郎と二人だけで過ごしてきたから、今更どうしていいか、良くわからなくって」 困惑が滲み出るため息の後、彼女は哀しそうな顔の彼に曖昧な笑みを向ける。 「ごめんなさいね。なんだか義希くんには不思議と話せちゃうの」 「いやいや、いーって。昔からよくみんなにそう言われるし。ってか、聞けてよかった」 一転して安心したように笑う義希は、片手を振りながら緑茶に手を伸ばした。くれあもくれあで笑顔のまま、手に掴んだままだった湯呑みを持ち上げて口を付ける。 「みんなには言わないでね?」 「分かってるよ。絶対言わない」 「ありがと」 二人向き合った微笑を頷かせ、変わり始めた外の色を振り向きながらホッと息を付いた。 「今度はさ、沙梨菜も連れて来るよ」 「うん、是非。出来れば有理子ちゃんにも会いたいな?」 「うっ…あ、あーそのうち、な?」 「まだ仲直りしてないの?」 「別に、喧嘩してる訳じゃ…」 「じゃあ、どうして?」 もごもごとハッキリしない言い分を並べていた義希は、くれあの厳しい眼光に負けて、耳たぶを弄くりながら重い口を割る。 「さっきも言ったけどさ、オレ…くれあが今言ったこと、凄い分かるんだ。上手く言葉にできないんだけど、ほんと、なんて言うか…」 上手く出ていかない言葉に比例して、急速に乾いていく口をお茶で潤した彼は、目の前で話の続きを待つ彼女の圧力をかわすように、一息に吐き出した。 「オレは、ほら。くれあよりもっと手が出しやすい位置にいるはずなのに、何にもできないって言うか…むしろ頭が悪すぎて何がなんだか良く判ってないくらいだし」 そこまで言って俯くと、握りしめた湯呑みがいつの間にか空になっているのに気付く。 「そのくせ仲間外れみたいになっちゃうのも寂しくて、だけど遊びじゃない…仕事なわけだし。みんな忙しいしさ…だからこそみんなにはこんなこと言えなくて…」 徐々に無くなる勢い、最後にはため息まで付いて。それでも義希は無理矢理笑顔を作る。 「分かってるのにな。皆が頑張ってるってさ…」 乾いた口から乾いた笑いを漏らした彼に、複雑に歪んだ笑みを返していたくれあは。 「分かってるからこそ、か…」 そう呟いて席を立つと、冷蔵庫から紫色のジュースを取り出す。 「ねぇ、義希くん」 彼女は呼び掛けながらグラスにそれを注ぎ入れ、質問と同時に義希に差し出した。 「義希くんも、今忙しいのよね?」 「ん?うん、まぁな…」 頷いて受け取った硝子のコップから口の中に液体を流し込んだ義希は、味わって始めてそれがグレープジュースだと言うことを認識する。そして綺麗に飲み干したグラスと共に前方に直れば、くれあの真顔と目があった。 「私がもっと遊びに来てほしいって言ったら、迷惑?」 「いや、むしろ嬉しいよ。頼ってもらえて」 「でしょう?」 答えを聞くなり、突然景気よく笑い始めたくれあ。面食らった義希はグラスを手にしたまま大口を開けてそれを見守る。 「くれあさん…?」 「私達、難しく考えすぎてたのかもね」 目尻に溜まった笑い涙を払い、椅子に身を預けた彼女は、呆ける義希に優しげな笑顔を向けた。 「もっと甘えていいのよ。みんな、それくらいで怒ったりしないもの」 穏やかな声にそう告げられて、言葉の意味をしっかりと飲み込んだ義希は、数秒後にくれあと同じような笑みを浮かべる。 そうして笑顔を向き合わせていた二人は、何時しか堰を切ったように笑い始めた。その楽し気な声は綺麗な部屋に絶え間なく響き渡る。 その明るさに水を差したのは、義希のジャケットに仕舞われていた携帯電話だ。 義希は鳴り響くそれを手に取るも、ディスプレイを眺めて躊躇する。何故ならそこに表示されているのが、仕事中の筈の帯斗の名前だったから。 「気にしないでいいから、早く出なさいな」 くれあの進言に甘えて、頷いた義希はそのままの勢いで通話のボタンを押した。 「もしもし」 「隊長!大変です!有理子さんが…」 繋がるなり耳に飛び込んできた名前。聞き慣れた筈のそれを解析するまでに数秒もかかったのは、普段なら口にしない筈の帯斗の声でそれを聞いたからだ。 「っ………へ?帯斗、おま…な、なんで…」 「早く来てください!Dブロックにある花屋の前ですから」 「なん…え?有理子が、どうしたん?」 どもる義希に構わず話を続ける様子から、急を要する用件であることも、それより何より、ただ事ではないかもしれないと理解していながら、混乱する義希は電話片手にあたふたと様々な仕草を繰り返す。 その直後。ピタリと動きを止めた彼は、硬直させた困り顔を溶かすように真顔に変化させた。 「すぐ行く」 それだけ言って通信を切り、振り向いた義希にくれあの笑顔が頷く。 「良い顔になったわね」 「悪い、くれあ…」 「また遊びにいらっしゃいな。いつでも待ってるから」 「ありがとう」 最後に微笑を残して駆けていく義希の真剣な眼差しから、有理子への心配しか感じ取ることが出来なかった事に安堵して、くれあは窓越しに彼を見送った。 「いってらっしゃい」 その声が聞こえたかのように、一瞬だけ振り向いた義希の瞳は、既に目的地に向けて集中しているように見えた。 くれあがそう感じたように、人通りの少ない道を選んで駆け抜ける義希の耳には、帯斗が最後に告げた言葉が張り付いて離れなかったのだ。 「有理子さんが、通り魔事件に巻き込まれて…」 風を切る音も無く、頭の中に木霊するその情報と、自らの心の声が不協和音を生み出す。 「無事で居てくれよ…有理子…っ」 思わず溢れたその声を、聞き届けた者は誰一人として居なかった。 それでもすれ違った人々には伝わる筈だ。何故なら彼の思考は、常に駄々漏れなのだから。 cp04 [偽物の空]← top→ cp06 [File2”D区画・路地裏”] |