偽物の空 あの空は偽物だ。 一見して本物のようにも見えるかもしれない。 しかし、良く見れば気付くことができる。 気付かないのはよっぽどの馬鹿か鈍感か、若しくは重度の近眼くらいだろう。 通り過ぎる風の匂いは甘く、目に鮮やかな光の影がちらちらと舞い踊る。 丸く切り取られた透明な空に向かって伸びゆく草花は、宙を漂う虫達と無邪気に戯れているようにも見えた。 そこは外からはけして見ることのできない、秘密の箱庭。 外界から隔離されたその場所で生活するのは、絶滅を免れた数少ない妖精達だ。 幾度となく繰り返されてきた”過ち”を恐れた彼等は、城内に妖精の王国を設立し、人間の王と共同で国に関わっていく事を決断した。それが二年前、大きな事件が解決したあの日のこと。 お互いが共存していくために必要な数々の問題対策に講じる間、彼等妖精達は種を保持するための休息を取る。それが二つの種族間で一番最初に決められた約束の一つだ。 妖精の繁殖方法は人間と大きく異なり、それでいて容易なことではない。聞いた話によると、新しい妖精が産まれるためには自然を必要とし、更に現存する妖精の心がけが大切だとされているとか。更には花から産まれる妖精もいれば、鉱物から産まれる妖精も居り、果ては妖精から妖精が産まれることもあると言うのだから、理解に難しい。 とにもかくにも生を受ける条件が曖昧すぎて、人間達には見守ることしかできないのが現状だ。 話し合いの結果、蒼は彼等の要望で王座の間の右側にあった「鳥籠の部屋」を改装し、その上に特別な一室を用意する。それこそが、外界から隔離された小さな庭園の正体だ。 室内とは思えない程に溢れかえる自然の中、小川や小さな泉は愚か、蝶までもが舞う幻想的な空間を生み出せたのは、彼等妖精の力あってのこと。見上げた先にある半球状の空と機械の類以外は、根を張る木々も虫達も、全てのものが生きている。 そこはそう、平和そのものを切り取ったような、それでいて不思議と寂しい雰囲気を持つ、誰から見ても特別な場所なのだ。 さて。城で魔法関連の仕事を一手に担う海羽は、日々の仕事を元々鳥籠が置かれていた部屋、つまり妖精の庭の真下で行っており、時折空調の監理や水の状態チェックなどをするために、上の様子を見に行っている。 今もその業務の合間。タンクに水が貯まるまでの一時に、ぼんやりとした瞳を空に向けて休憩中と言った所だろうか。 恐らく本人にはぼうっとしているという自覚すらもないだろう。それを証拠に、水を注がれていたタンクが満杯になって、足元に敷かれた芝生に水が溢れ始めた。 「あ、わ…」 「おいおい、大丈夫か?海羽」 「あ、うん。ごめんなさい…」 「服、濡れませんでしたか?」 「大丈夫。床も…平気みたいだな?」 集まってくる妖精達の問い掛けに答えながら、作業を終わらせて特殊な機械の蓋を閉める。そんな海羽の虚ろな表情を見て、一人の妖精が出入り口に立ち塞いだ。 「もう少しゆっくりしていけばいいのにー」 「ごめんな」 もどかしげな妖精の少女に肩を竦め、それだけを口にした海羽はそっと分厚い戸に触れる。 「また、来るから…」 心配の滲み出る複数の眼差しに微笑んで、彼女はその場を後にした。 このように、普段は人間の生活から隔離された妖精達。 彼等が外に出ることが出来るのは、城門が完全に閉められ、人目がなくなる深夜の王座の間と、この国に緊急事態が発動した時だけだ。 未だ目立った対策も出来ていない現在、できる限り人との接触を少なくしたいと望むのは、妖精達だけでなく国の要人達も同じこと。不便を承知でそれを受け入れた妖精達が快適に過ごせるよう、国は出来る限り彼等の要望を受け入れた。 その甲斐もあってか、海羽だけでなく蒼や沢也にもすっかり馴染んだ妖精達は、移動が出来ない結に会いに来るついでに、明け方まで王座の間に入り浸る事も多くなってきた。 「清浄機、きちんと機能しているようだよ」 「そうか。なら良かった」 取り付けた機械の様子を聞きながら書類を捌く沢也のデスク。その脇にある縦長の窓の小さな枠に集合して井戸端会議を開くのは、結を含む小さな6人の人影だ。 「それよりさぁ…海羽ちゃん、大丈夫なのかな…?」 「あの子、ああ見えて芯は強いからね、大丈夫だと思うけど…」 「でもやっぱり会いたい筈ですよ?」 「それなら会いに行けばいい。昼間は無理でも、夜なら問題ないだろう」 「そうだよー!ねぇ、沢也。あの人もこの城に住んでるんでしょ?」 不意な問いかけに合わせて飛んでくる熱い眼差しに苦笑して、沢也は小さく肩を竦める。 「残念ながら、あいつは城下町」 「でも、それなら行けない距離じゃないよね?」 「どのみち夜勤だからな、今頃仕事してんだろ」 「もう、沢也の意地悪ぅ」 「俺のせいじゃねえ」 「でも本当に、どうして顔を出してくれないんですかね?」 膨れた4つの顔に笑い声を注ぐのは、王座を挟んで反対の位置に居る蒼だ。彼はしょんぼりと眉を下げた妖精達に寂しげな笑みを向けながら、王座が背負う巨大なガラス細工に小さな溜め息を上げる。 「義希くんと言い…倫祐くんと言い…困ったものです」 誰にともない彼の呟きは、天井まで伸びた背の高い窓が映し出す、夜空の淡い輝きが回収していった。 その翌日。 場所も変わってこちらは近衛隊の駐屯地前。路地の入り口でばったり出会した小太郎と義希が、情報交換がてらちょっとした世間話をしている最中だ。 はっきりしない天候ではあるが、若干ながら注がれる日光が、通りと路地の明暗をくっきりと分けている。義希はその明るさを背に、暗がりで困ったように短い髪をかきあげる小太郎の質問を受けた。 「そういやお前、鉄面皮見なかったか?」 「倫祐?うんにゃ。今日は見てないなぁ。アパートにも居なかったみたいだし?」 「っつーか、あいつちゃんと仕事してんだろうな?此処にはタイムカード押しに来てるだけで、すぐどっかいっちまうって噂だぜ?」 「ああ、そこは問題無さげ。ほら」 「…夜間の検挙率上がったのはあいつのせいか」 眉根にシワを寄せて差し出された書類に目を通した小太郎は、舌打ちと共に小さな溜め息を溢す。 倫祐が国中に散らばった全てのモンスターを倒す旅から帰ったのは、義希の帰還から数日後のこと。 その日から近衛隊の上司に当たる本隊の隊長に任命された彼ではあるが、実のところまだ本隊の編成はされておらず、実質的に本隊に所属するのは倫祐だけである。 それについての理由は多々あるが、そもそも第一近衛隊の隊員も、義希が帰還するまでは第二近衛隊の隊員として働いていた者が殆どであり、これ以上分断するのも移動するのも憚れるし、ましてや募集をかけるほどの暇もないのだから仕方ない。 とにもかくにも、沢也曰く「そのうちに」何とかされるであろう本隊の隊長は、昔旅をしていたあの頃と変わらず、今日も誰にも行方が分からないと言うわけだ。 義希は困ったように眉を下げつつ、バリバリと頭を掻く小太郎に問い返す。 「何か用事?」 「用事っつーか。いい加減、連中にきっちり紹介しねえとよ…あとボスんとこにも連れていったほうがいいべ?」 「まぁ…そうか」 はっきりしない小太郎の発言から真意を察した義希は、自らも口ごもる事で同意した。 「行き先に心当たりねーのかよ?」 「んー、まぁ。ないことも、ない」 「んだよ」 「あんまおっきい声じゃ言えないんだけどな?」 義希は手で壁を作ってボソボソと、顔を寄せる小太郎の耳元に情報を落とす。 どうやら倫祐は沢也か蒼に何か特別な仕事を頼まれているらしく、早朝から深夜まで不規則に活動しており、いつも所在が掴めないが、詳しいことまでは分からないと。義希がそこまで伝えた所で小太郎の口から独り言が溢れた。 「…へえ、一応城には行ったのか。あの無愛想」 「ん?いっつも行ってるんじゃないん?」 「そうだったら、おれ様がこんな苦労せずに済むんだよ」 すっとんきょうな声を上げる義希に、じりじりと威圧を与えていく小太郎。そのじっとりとした睨みをかわすようにあからさまに視線を逸らした義希は、白々しくも惚けて見せる。 「あれ?そーいうもん?」 「ああそうだ。この前の試合もうやむやにされちまったし、いい加減城に連行しねえとなぁ?お前含め」 「う…あ、小太郎!オレちょっと用事思い出した…」 「逃げんな馬鹿。今日こそまじで連れてく。引きずってでもっ!」 「何でそんな必死なん!小太郎、別にオレがどーとかあんま気にしてなかったじゃんか」 「おれ様はそうでも、あいつが気にしてんだよっ!」 「へ?あいつ?」 掴まれた首根っこをほどこうと、無駄と分かっていながらじたばたともがいていた義希の疑問を受けた小太郎は、その瞬間不覚にも僅かな隙を見せてしまった。 「上司命令なんだし、仕方ねぇだろうよ」 赤くなった顔をそっぽに向ける彼に微笑ましい笑みを注ぎ、義希はそのまま一歩、後退する。 「…てっきり、くれあかと思った」 「も、勿論くれあもっ…」 「はいはい、分かってる分かってる。んじゃ、パトロールいってきまー」 「おう、行ってこい行ってこい…って!待てコラァ!このおれ様を出し抜こうとは良い度胸して…っあぁぁぁあ!ったく、逃げ足だけは速えんだからよ、あんにゃろ…」 ノリツッコミの要領を上手いこと利用され、まんまと義希を逃がしてしまった小太郎は、お馬鹿の義希にまで騙された自分の不甲斐なさに呆れこそしなかったものの、疲れが貯まっていることだけは確かに自覚したのだった。 忠犬小太郎からなんとか逃げ出した義希、彼が駆けていく方角には、メインストリートの中でも際立って高級な店の建ち並ぶ、言わば貴族向けの商店街がある。 その片隅。 駐屯地から丁度10分程歩いた辺りに位置する宝石店の前、人の流れに逆らって振り向いたのは、ぼんやりとした瞳の持ち主だ。 「海羽さん、どうかされましたか?」 先を行く青年に名指しで呼ばれ、正面に向き直った彼女はうっすらと笑みを浮かべて首を振る。 「あ、いえ、何でもありません」 「そうですか?欲しいものがあったら、どんどん言って下さいね?この私が、買って差し上げますから」 「その、お気遣いなく…」 「そう言わずに。ささ、行きましょう」 恭しくそう言って、海羽の機嫌を取るかのように立ち振る舞う彼の身形は、道行く人々をことごとく振り向かせた。 それには容姿が淡麗だから、と言うのも一つの理由としてあげられるかもしれないが、他にもう一つ、確固とした理由がある。 それは彼が貴族だから。そして、彼がいついかなるときでも、それを隠そうとしない服装をしているから。 実際、往来は普段着の人々で溢れているわけで、彼のように全身を高級なスーツで固めたような姿をしていれば、否応なしに目立つという訳だ。 しかしそんなことは気にも止めず、寧ろ当たり前だと言わんばかりに背筋を伸ばす彼の手は、海羽の拒否を受け入れようとしてくれない。目の前で宝石店の入り口に誘導するように手を広げ、自分自身の移動を待つ男を見上げた海羽は、困ったように笑って小さく呟いた。 「あの、そろそろ仕事に戻らないと…」 「何を仰いますか。あなた程の方があのような雑務など、なさる必要はないでしょう」 「いえ、自分にしか出来ない仕事が沢山残ってますので…」 「ああ、海羽さん見てください、あのネックレス。あなたに良く似合いそうですよ?」 「あの…」 「そう遠慮なさらずに」 「…いえ、あの…本当に、結構ですから…」 「海羽?」 ショーウィンドの前で続いていた控え目な押し問答を止めたのは、やはり控え目な呼び掛け。ピタリと言葉を止めた男は、ウィンドウに映り込む金髪を見て体を振り向かせる。 「おや、これはこれは、第一近衛隊長さま」 含みのあるその口調を、隣で聞き届けた海羽の肩が微かに震えた。義希は口元をひきつらせながら、それでもなんとか取り繕った笑顔で下手な嘘を並べ始める。 「えーと、海羽、ちょっと城の方で呼ばれてるらしくて…まぁ、なんで…連れていきますね…?な!じゃ、行くぞ?海羽」 「そんな、困りますよ。勝手を言われては…」 「いえいえ、直ぐに終わるんでー」 悠長に抗議を始める男を置き去りに、義希は海羽の手を取り一目散に駆け出した。 二年前。 沢也が中心となって進めた国の憲法作り。その過程で制作されたのが、貴族院制度だ。 これは財政の厳しい国政に「寄付」と言う形で協力してくれた貴族に、見返りとして国政に関与する権限を与える…つまり沢也が義希にした説明から言葉を借りるとするならば、「政治に口出ししたきゃ、金払えって制度」である。 表向きは財政難に対応するための制度としているが、実のところ力の付きすぎた貴族勢を懸念する孝の意見が発端となっていた。要約すると、夏芽なども含めた彼等の全面的なバックアップの下、反政府として動く貴族達を抑制する為に、沢也を始めとする上層部が極秘で対策を行っている、それが貴族院制度の裏の顔だ。 武力行使が難しい事を理解した一部の貴族達が、貴族院制度を利用して経済的且つ政治的圧力を行使し始めたのが、国を設立してから半年ほど経った頃だろうか?その頃から城に入り浸っては海羽にまとわりつく貴族がいたそうで、それが今も変わらず続いていることになる。 正直な話、義希の頭では制度の意味の半分も理解出来てはいないし、だからどうなんだと聞かれても何も答えることはできはしないが、何故彼女がまとわりつかれているのか、それだけは今まで経験してきた数々の事柄からしておおよその見当を付けることができた。 妖精の力 彼が狙っているのは、恐らくそれだろう。 「義希…あの、まっ…」 どれだけ走っただろうか、頭の中に並んだ情報に気を奪われていた義希は、背後から聞こえてくる息の切れた声にハッとして足を止めた。振り向くと、自分に左手を預けたまま膝に手を付く海羽の背後には、見慣れた穏やかな光景が広がっている。 義希は海羽の背を支えて路地に移動すると、追っ手に見つからないようにとその身を屈めた。 「悪い…大丈夫か?」 「うん、あの…ありがとう」 息を整えながら頷く海羽の瞳には、心なしか安堵の色が映っているようにも思える。頭の悪い自分には詳しい事情までは分からないが、今はあの貴族の我が儘に振り回されるしかないのだろうと、義希は海羽や、このことを説明してくれた沢也の様子からそう読み取って一人密かに頷いた。そして俯く彼女に小さく問いかける。 「…倫祐と、まだ会えてないのか?」 「えと、うん…」 「あいつ、忙しいらしくてさ。だからきっと、そのうち…」 「いや、良いんだ」 「良くはないだろ?だって…」 だって、帰ってからもう二ヶ月も…。そう言いかけた義希は、海羽の視線が大通りを向いたことで口をつぐんだ。海羽はまだ追い付かれていない事を確認し終えると、小さく言葉を落とす。 「今は、会わない方が…」 「どうして…だって、会いたいんだろ?」 そう問うと、彼女は口をきゅっと結んで俯いてしまう。義希にはその仕草がまるで頷いたように見えた。 でも…と彼は考える。 それは自分の願望のような何かが働いたからそう見えてしまっただけなのだろうか? でも、どうして…やっぱり忙しそうだから? だから…いや、もしかしてあの貴族が邪魔している、とか? 会いたい筈なのに会わないと言い張る彼女を自分と重ね合わせて、ぐるぐると考え事を煮詰め始める義希は、それを悟られぬようにと頭を振り、勢いに任せて提案を口にする。 「…とりあえず、城まで行こう?」 「義希も来るのか?」 「いや、オレは仕事があるから…」 「義希も、久しぶりだよな?」 そう言って顔を上げる海羽の眼差しに押され、思わず視線を逸らした義希は慌てて言い訳を口走る。 「大丈夫、またちゃんと会いに行くから」 「うん、でも、無理はするなよ?」 予想外の返答に思わず見下ろすと、悲し気な瞳が傾いて、義希の首肯を待っていた。 「…海羽…?」 「ありがとな」 彼女はただそう言って、義希の返事も待たずに人混みに紛れていく。 遠く向こうから彼女を呼ぶ声が近付いてくるのに気付いた彼は、その場で海羽の背中を見送ることしかできなくなった。 王座の間の中央を陣取る長いテーブル、その隅っこに書類と電卓を広げたままため息を漏らすのは、大臣補佐官及び財務課長の有理子である。背中の中程までに切り揃えた赤髪を適当に束ね、頬杖を付く彼女の表情は芳しくない。 その理由は、同じ部屋で仕事を進める沢也や蒼も重々理解していることであり、実際顔には出さないものの、彼等も有理子と似たり寄ったりな心境だ。 そんな僅かながら張り詰めた空気に、扉を開く控え目な音が響く。それに顔を向けた有理子は、忙しなく机の天板を叩いていた人差し指を止めて、勢い良く立ち上がった。 「海羽!早かったのね?」 入室に合わせてかけられた声に頷いた海羽は、有理子に歩み寄りながら小首を傾げて報告する。 「うん。あのな、義希に会ったぞ?」 「あら、そう?」 「有理子、最近ちゃんと会ってるか?」 「当たり前じゃない。毎日五月蝿いくらい」 「何処で、会ってるんだ?」 海羽のぼんやりした瞳の中に浮かぶ鋭い光に押し負けて、有理子は誤魔化しの笑顔を竦めてサラリと話を逸らした。 「夜にこっそりと。それより海羽、あなたどうして…あの人は?」 「義希が助けてくれたんだ」 「そう…それなら、いいんだけど…。大丈夫?」 「大丈夫。だから少しだけ、仕事してくるな」 心配そうな眼差しを交わしながら、曖昧な笑顔で頷き合ってすれ違う2人。有理子は部屋の右奥にある扉の中へと消えていく海羽の背中を、見えなくなるまで見詰め続けた。そうしてポツリと声を落とす。 「…仕事、か…」 「無理もねえだろ」 ため息のような沢也の一言に振り向いた有理子は、苦笑を浮かべたまま自らも仕事に戻った。 彼女が反論しないのは、文字通り反論の余地も無いほどに、海羽の仕事が進んでいないことを知っているからだ。 彼女が働くのが魔導課と言う特殊な部署故に、他人が手を貸すにしろ限度がある。だからこそ、もどかしいながらも自分が今出来る仕事を片付けるのが先だと、結論は出ている筈なのに何度も思考を巡らせてしまうのは、やはり海羽の置かれた立場と、海羽の性格のせいだろう。 「…優し過ぎるのよ、あの子は…」 「それが彼女の良い所ですよ」 思い詰めた有理子がため息と共に溢した独り言を、さらりと拾い上げた蒼の視界の片隅で、真っ白なスマートフォンが振動した。 ディスプレイが知らせるのはメールの着信だ。 「義希からでしょ?」 開いた内容に軽く目を走らせる彼に問いかけるのは、椅子に座り直した有理子だ。彼女は蒼の作った小さな間だけで全てを悟り、大きく肩を竦めてみせる。 「隠さなくてもいいのよ。何となく分かるから」 「口裏合わせのメールですね。つい先程、例の方から”かっさらった”らしいですよ?」 「メールで伝えるくらいなら、直接来たらいいのに…」 「でもまぁ、あいつにしちゃ上出来だろ」 有理子が口の中で呟いた愚痴と、沢也の小さなため息を掻き消すようにして聞こえて来たのは、広い城の中にも良く通る声。それは確実にこちらに近付いているが、その速度はまるで獲物を追い詰める殺人犯のようにゆっくりだ。恐らく彼は、海羽が何処で何をしているかまでを理解していながら、敢えてそのように振る舞っているのだろう。 それは、そう。王座の間に居る彼等への当て付けとして。 そんな沢也や蒼の考えを裏付けるかのように、扉の向こう側で小さく響いた咳払いを皮切りに、あからさまな苦情が開始される。 「どうなってるんですか、あなたのところの近衛隊長は」 扉を開くや否やそう切り出した男は、身に纏う淡いグレーのスーツをぐいっと前に引っ張った。 ”秀(すぐる)”それが海羽に執着するこの貴族の名前だ。 代々続く名家の長男で、その口ぶりや身形を見た限りでは立派な貴族として見えるだろう。 ただし、それは彼の実情を知らない人間の評価であって、蒼や沢也のように素性を調べつくした人間には意味の無いハッタリだ。 ガッチリと固めた茶髪を撫で付けて、どちらかと言えば濃い顔立ちで凄みを利かせる彼は、王座の前まで歩を進めると、動揺するどころか仕事から手を離さない三人に向けて鼻息荒く足を鳴らす。 蒼はそんな様子の秀を笑顔で迎えると、書類片手に言葉を並べた。 「すみません、急用が入ったので呼び戻して頂いたんですよ」 「それにしてもやり方が無礼でしょう。あんな野蛮な連れ去り方がありますか?」 「ゆっくり説明している場合ではなかったものですから。非礼はこちらでお詫びしますよ」 「部下の躾くらい、まともにやって頂きたいものですね。おっと、そもそもこの国の政治すらまともにできないあなた方には無理な話でしたかね?」 わざとらしい嫌みに眉を顰めることすらせず、笑顔を傾けた蒼が口を開きかけた時、彼の視界の左端で気配が動く。それは側面の扉が開く音と共に、他の面々にも認識された。 「あの、すみません、お待たせしました」 「海羽さん!大丈夫ですか?怪我や何かしていませんよね?」 薄く笑みを浮かべたまま頭を下げた海羽は、張り付くようにして言葉を連発する秀を連れて足早に外へ向かった。 2人の気配が遠のくに連れて、部屋に充満するのは海羽が戻る前に張り詰めていたあの空気。抑えようにも抑えきれない溜息が、度々重なって部屋に落ちた。 何故彼等が秀の横暴を見守るだけなのか、それは先に述べたように、彼が「名家の長男」であることが関係している。 簡潔に言えば、厄介なのは彼自身ではなく、その父親やその周辺の貴族達だということ。蒼や沢也が相手にするべきなのは、寧ろそちらなのだ。 だからと言って秀の機嫌を損ねれば、それはそれで面倒なことになるわけで。とりあえずの応急処置として海羽が彼の厄介払いを引き受けた、それが早2年前の話だ。 秀の性質を良く知る彼女の行動、その真意を知る3人は、溜息もそこそこに黙々と目の前の仕事との格闘を再開した。 あの空は偽物だ。 だけど、一枚のガラスを隔てたその先には本物の空が広がっている事を、俺達は知っている。 黒い雲が辺りの光を奪い始めた。城の最上階にあるのだ、箱庭の内側からもその事実を認識することはできる。 天窓の向こう側に映るそれを、青空の映る透明な壁越しに見上げる一人の妖精。その背後から近寄った3人の妖精が、思考に浸る彼に向けて語りかける。 「もどかしいものですね」 「そうね。そうそううまくいくものじゃないって分かっていても、見ていて辛いわよね」 彼等の真下にある泉に浮かび上がるのは、階下にある王座の間の映像。国の動向が分かるようにと、取り付けられたカメラを監視するのも彼等の役目のうちだ。 海羽の背中が扉に吸い込まれるシーンが映し出される泉、それを覗き込む三人に溜息を返し、随分前にそこから目を離したまま空を仰いでいた彼が、久方ぶりに視線を落とした。 「憎むべきはこの力か、それとも…」 「難しいことを考えても仕方が無いって、何回言ったら分かるのかな」 掌を見据えて真剣な顔をする黒い妖精の後頭部に、痛烈なツッコミチョップが入れられる。そんな彼の隣に位置する花の上に腰を下ろしたもう一人の妖精が、不機嫌に短く言葉を零した。 「大丈夫、か」 「結も言ってたけど、海羽ちゃんは嘘は付いていないの」 同じくして脳天に一撃入れられた彼は、そのまま不貞腐れたようにみんなに背を向けてしまう。 そうしているうちにもパタパタと、天井に降り注ぐ雨が立てる小さな音が室内に響き始めた。それは次第に大きくなって、部屋に流れる小川のせせらぎをかき消していく。 黒い色の妖精は、溜息を漏らす緑の妖精の頭に手を乗せて空を指差した。外界で生み出される雨が降り注ぐことの無い、青空を。 「彼女の”大丈夫”は、あの空と同じだ。俺達に心配をかけないよう、無理矢理塗り固めた…そんな顔だったろう?」 「うん。その向こう側には、本物の空が広がっているのにね…」 溜息交じりに呟くブラウンの妖精に、同じく茶色を基調としてはいるが、若干淡い色合いの妖精が同意の頷きを返す。同様に頷く緑色の妖精の隣では、桃色の妖精が腕を組み、真剣な眼差しで泉を見下ろしていた。 「早く見付けないといけまんせんね。解決方法」 「ああ。そうすれば、少なくとも…」 そう呟く黒い彼に釣られて、他の4人も空を仰ぐ。 浮かない表情の彼等が見上げる先には、偽物の空が広がるばかり。 cp03 [File1”第3倉庫”]← top→ cp05 [蚊帳の外] |