境界線


 
 長すぎて溜め息とは言えぬほどの息を吐ききった沢也の不機嫌顔に、いつものように蒼の微笑が問い掛ける。
「どうされました?」
「面倒が増えた」
 ウンザリ気味の声に続き、差し出されたのは一枚のメモ。
「テスト結果、良すぎたんですね」
 咲夜の「テスト作っといて、昼までに☆」との指示、もとい命令を読み終えた蒼がにこやかに結論を言った。
「だからあいつには関わりたくねえんだよ…」
「まあまあ、そう仰らずに。難なら姉さんにも手伝って貰いましょう」
 ぼやく沢也を宥めつつ、書類を預けた蒼は自室へと引き返して行く。
「お前んとこは良いよな。対等で」
「双子ですから」
 泥のような愚痴に真実だけを返答した彼は、数分後に自分と瓜二つに化けた姉を連れて舞い戻った。
 倫祐は不在、小太郎も不在気味の現在、幸いなことに大きな事件は落ち着いているものの、また何時起きるとも分からない。
 その為蒼は紫に扮し、警備も兼ねて定期的に下町に下りているのである。
「今日はいつ頃お戻りですか?」
「そうですね。お昼前までには」
 スケジュール通りならもう少しゆっくりでも問題ない筈なのだが、しかし思い当たる節を見つけた沢也は呟いた。
「雫にはまだ隠しておくのか?」
 椿のこと。と言う代わりに彼女を見た彼に、蒼は頷いて答える。
「元より言うつもりはありませんが、バレたらバレたですかね」
「分かった。そう言う心積もりでいる」
 沢也が椿に資料の半分を頼みながら了承すると、蒼でいて蒼でない紫の彼は扉に手をかけた。
「気を付けて下さいね?」
「ありがとうございます」
 椿の言葉に笑顔を向けて静かに退出し。蒼は見渡す限り誰もいない事を確認すると、何気無く廊下を歩き始めた。
 基本的に入退城の管理は門番がしており、二人に認められさえすれば誰でも入城出来る…と、言うことになっている。
 しかし実際アポなしで訪れた一般人は門前払いされることが多く、城内を徘徊するのは職員や近衛隊員と、正式な来客だけだ。
 紫が蒼であることを知る門番は、蒼が退城する日には前以て入門表に細工をする。細工と言っても実に簡素なもので、付箋などで上手いこと隠しておいた部分に、入退城の同時記名をするだけなのだが。
 さて、手筈通りサインを済ませた蒼は二人に礼を言うと、白い息を吐きながらのんびりと城下町に下りて行く。
 目的は特に無いが、出来るだけ町全体を歩き回ることを目標に。それからやはり間違ってポケットルビーを使ってしまわないように気を付ける事を念頭に起き、彼は散策を開始した。

 街の入り口にある雑貨屋のショーウィンドウを覗き、その先にある宿屋の看板を眺め、通りに行き交う人の流れを観察する。
 季節の変わり目。日に日に冷え込む空気の中、平和に過ぎていく景色を悠々と見据えながら。カツラながらに長い横髪を揺らす彼を、前方から呼ぶ声があった。
「紫さん」
 駆けてくるのは雫のようである。と、言うのも人混みに隠れて姿が見えないからだ。向こうが紫を見付けられたのは、恐らく彼の背が高いからだろう。
「良くお会いしますね?」
 息を切らせて前に立った彼女はにこやかに言った。紫もまた、にこやかに返す。
「そうですね」
「お買い物ですか?」
「ええ。まあ」
「もし良かったら、一緒にお茶でも…」
 進言に少し思案して、紫は俄に肩を竦めた。
「少しだけでしたら」
「本当ですか?嬉しいです」
 答えを聞くなり諸手を上げる勢いを見せた雫は、先導するように道を示す。
 毎度一人でうろうろするよりは、誰かと一緒に歩いた方が街に馴染みやすいだろうし、何より「変装」している感が薄れるような気がする。と言うのが蒼の目論みだ。
「朝ご飯食べに出てきたんですけど、何食べようか迷ううちに端まで来てしまって…」
「良くありますよね」
「たまに贅沢しようとするとこれです」
 苦笑と共に肩を竦める雫に首肯して、蒼は周囲に意識を移す。
「行き先は決まりましたか?」
「まだ迷ってるんですけど…あ…紫さんは、もうご飯食べましたよね?」
「はい。済ませてきました」
「それなら、カフェが良いですね。私より詳しいのが居るので、聞きに行きましょう?」
 そう言って前方を指し示した彼女は、紫の手首の裾をつまんで笑顔になった。
 目的地に着く間中、他愛のない質問のやりとりをした二人は、中央広場の手前辺りまで来て速度を緩める。
 雫に引かれるまま煙草屋の前まで来た紫は、手を振り合う彼女達を見て心の中だけで驚いた。
「友人の千世です。こちら紫さん」
 間近に迫った雫のウインクを受けながら紹介を受けた千世は、顔色を変えることなく頭を下げる。
「その節はお世話になりました」
「こちらこそ」
 同じく紫も礼をすると、間に立っていた雫が忙しなく二人を見比べた。
「え?し、知り合い?!」
「前に話したでしょう?強盗が店先で暴れた時にね」
「丁度近衛隊のヘルプに入っていたものですから」
 詳細を見事に省いた解説を受けて、数秒で納得した雫は紫を見上げて目を輝かせる。
「じゃあ、紫さんが犯人を?」
「僕一人で捕まえた訳ではないですよ?」
 謙遜と取ったか真実と取ったかは定かでないが、納得する彼女を他所に千世が紫と向き直った。
「近衛隊の皆さんには日頃からお世話になっております」
「そうなの?」
 肩を竦めるだけの蒼の代わり、割って入った雫の疑問に彼女は答える。
「お客さまとして、お話相手として、色んな面で」
「この前の子も?あの小さな」
「彼、小さいの気にしてるみたいだから。本人の前で言ったら駄目よ?」
「それは失礼しました。それはそうと、良い喫茶店知らない?紅茶が美味しいとこ」
 本題を受けた千世は、カウンターの引き出しからショップカードを出して雫に手渡した。雫がそれを裏返して店の場所を確認する間、生まれた沈黙を利用して残りの二人が会話する。
「あなたは煙草、吸われるんですか?」
「いいえ、僕は。…でも友人用にお一つ頂けますか?」
 情報量です、と冗談めいて呟く紫に、千世は希望の銘柄を訪ねた。すると彼は迷いなく、ショーケースから一つを選んで指し示す。
「また遊びにいらして下さい。キャンデイも置いてますから」
「はい。そちらの小魚でも仕入れに伺います」
 煙草を受け渡しがてら脇に置いてあった小魚の小袋を見て笑う二人の間に、またも雫が割り込んだ。
「行きましょうか」
「はい」
 目的地は大通り沿いにあった為、二人は程無く橋方面へと歩き出す。
 落ち葉も少なくなってきた中央広場を抜け、寒さに負けてマフラーを巻き直し。数分歩いた辺りで、噂をすればなんとやら、正面から歩いてきた帯斗と定一と出会した。
「紫さん!お久っす」
「あ。この間の…」
「どもっす」
 テトテトと駆けてくる帯斗を前に、人差し指を伸ばした雫が目を丸くする。頭を下げた後二人を見比べた彼は、苦笑とも自嘲とも取れぬ笑みを浮かべた。
「デートすか?隅に置けないっすねぇ。てかみんなして色気付き過ぎっすよ」
「君が言える事じゃ無いんじゃないかなぁ…?」
 のんびりと追い付いた定一のツッコミを受けて、ピクリと肩を揺らした帯斗の顔を雫が覗き込む。
「お?さては君、千世に気があるな?」
 あからさまに無意識的な意識を向けてしまった目線を元に戻しつつ、真っ赤になった顔を誤魔化すようにして、帯斗はぶんぶんと両手を振り乱した。
「ち…ちちちちちちちちち違うっす!」
「仁平くん並みのどもり口調が楽しいくらいに肯定してるじゃないか」
「いっさんは黙って下さいっすー!」
 焦るままに退散しようとする彼に背を押されながら、定一は紫に問い掛ける。
「もうヘルプには来ないのかい?」
「またそのうちに」
「楽しみにしてるっすよ」
 曖昧な返答に手を振って、帯斗と定一は縦並びに人混みへと紛れて行った。
 賑やかな二人と別れた紫と雫は、遅い朝食と早いティータイムを楽しんだ後、勤務時間に差し支えがない時間に解散する。
 紫はそのまま暫く下町に留まり、散歩がてら買い物をしたりなどして目的を達成、宣言通り昼前には帰宅した。

 秘密の通路を使って自室に辿り着いた蒼は、変装を解いて鏡の前に立つ。
 誰が見ているわけでもないのに微笑を浮かべる自分の顔が、鏡の向こうで僅かに傾いた。
 変装をしている時も、特に自分を変えているつもりがないだけに。随分と便利な癖ができたものだと密かに苦笑する。
 服にシワがないか、髪が跳ねていないか、ある程度確認した後、彼は部屋を後にして、王座の間に続く扉をノックした。
 数秒後、顔を出した椿に礼を言い、報告を聞き終えて。蒼は何食わぬ顔で王座の間に舞い戻る。
 戻った先では完成したテストを人数分印刷する沢也と、昼食の準備をする有理子の姿があった。
「お帰りなさい。ギリギリセーフだったわね?」
「ギリギリですか?」
 蒼が有理子の台詞に小首を傾げると、沢也が無言で扉を示す。
「一人風邪で早退してね?」
「暇だったので早出と言うことになりました」
 有理子の説明の後、すっかりメイド姿に成り代わった雫が、飲み物が乗ったカートを引いて入室した。
「あのあとゆっくり休めましたか?」
「ご心配なく。元気だけが取り柄ですから」
 そう言ってデカンタを起き、食堂に引き返していく彼女を見送ると、沢也の口から大きめの溜め息が漏れる。
「冷や汗ものでした?」
「いや。バレたらバレた、なんだろ?」
「沢也の不機嫌はいつものことだものね」
「今日のは全部こいつのせいだ」
 沢也は有理子の皮肉に出来上がったテストの束を提示して、それをそのまま放り投げた。
 お陰で上手く仕事が進まなかった彼は、いつもの通り食事を放置して書類の山に籠ってしまう。

 昼も過ぎ、午後の仕事が始まろうかと言う頃合い。

 打ち合わせに訪れた雫は、それが終了した後に出来た微妙な時間に、蒼のデスク回りの整理を買って出た。
 デスクの斜め後ろ、来客の時はカーテンの後ろに仕舞ってしまう、背の高い棚に置かれた蒼の私物を眺めていた彼女は、ふと手を止めて問い掛ける。
「この茶葉だけ瓶入りですけど…」
「ああ、それは頂き物なんですよ」
 確かに、見上げる位置に並ぶ紅茶の茶葉はどれも四角い缶に入っているわけで。そこに混じるコルク栓の小瓶は目立つ事だろう。
「大事に飲んでるんですね?」
「オリジナルブレンドでとてもおいしいんです」
「相手は女性ですか?」
「はい。昔お世話になった方です」
 手に取る訳でもなく瓶に注いでいた複雑な眼差しは、笑顔に直って蒼を振り向いた。
「お綺麗な方なのですね?」
「そうですね」
「…昔の彼女さんですか?」
「違いますよ」
「お世話になったんじゃないんですか?」
「意味が違います」
 詰問に苦笑しながら書類を整え、蒼は茶葉をくれたコーラスの宿屋の女将を思い出す。
「それに、彼女は既婚者ですよ。息子さんにもお世話になりましたし」
「なんだ。そうならそうと早く仰ってくださいよ」
 誤魔化すように笑う彼女は、あからさまにほっと息を付いた。蒼はその仕草を見ても何も言わなかったが、流石にまずいと思ったのか、雫は慌てて言い分ける。
「ああ、いえ、失礼しました。言いたいことは出来るだけ、言ってしまうようにしているものですから」
 咳払いで表情を変え、息を整える雫の顔を覗き込み、蒼は小さく問い掛けた。
「後悔でもしましたか?」
 お返しとばかりにからかう彼に、息を詰まらせた雫はそれでも正直に返答する。
「ええ。昔」
「元彼さんですね」
「…何だか墓穴を掘った気分です」
 参ったとでも言わんばかりに額を押さえた彼女は、一息置いて棚と向き直り、懺悔の如く語り始めた。
「当時、彼は余り身分が良くなくて、周囲から付き合いを反対されたんですよ。それで、説得だの喧嘩だのしているうちに、彼はモンスターに…」
 先を躊躇った彼女は結局結論を言わぬまま、笑顔で蒼を振り返る。
「だから私は、身分や職業による差別が嫌いなんです」
 成る程。と、蒼は思う。同時に時折感じた違和感も解消した事で、彼は相槌を打った後、彼女から視線を逸らした。
 雫はそれを追い掛けるようにして体を傾ける。
「陛下は、恋愛に身分は関係あると思いますか?」
「そうですね。基本的にはないと思いますよ?」
 いつもの調子で答えると、頬を緩めた雫がぐいっと身を乗り出した。
「それは…私でも可能性はあるってことですか?そう取って構いませんか?」
 いつも以上の直球勝負を珍しく受け流せず、蒼は僅かに苦笑を浮かべる。
「そう焦らずとも」
「すみません。そうですよね。私ったら、つい…」
 そう言って誤魔化す辺り、先の彼女の言葉通りなのだろう。ついでにこうも急ぐ理由にも心当たりがあった。
 蒼が紅茶を一口飲む間にそんなことを考えていると、雫の頭がまた下りてくる。
「でも、考えておいて下さいませんか?」
 懇願に似た申し出に、蒼は短く間を置いて指を回した。
「僕よりも、あなたの方に必要なんですよ」
「え?」
「考える時間です」
 彼はそう言うと、紅茶を飲む作業に戻ってしまう。雫は暫し思案して、考えをそのまま口にした。
「…よく分かりませんが、それは付き合ってからでは遅いんですか?付き合ってみないと分からないかもしれないじゃないですか」
 聞き終えた蒼が首を捻ると直ぐに、彼女は呟く。
「お見合い、するんですよね?」
「殆ど面接のようなものですけど」
 先を予測していた蒼の切り返しにもめげず、雫は静かに提案した。
「そこに良い方が居なかったら、試しに私と付き合ってみませんか?」
「正直、余りおすすめしません」
「何故ですか?」
 変わらぬ調子に不安を覚え始めたのか、眉を下げる雫に蒼は言う。
「僕の場合、直接的ではなくとも、何らかの形で身分が関係してくるからです」
「そんなことありません。大丈夫ですよ。なんとかなります」
 とうとうテーブルに手を付いた雫は、更に身を乗り出して宣言した。
「身分差なんて関係ないってこと、私が証明してみせます」
 泣き出しそうな眼差しが蒼を捕らえる。しかし彼は困ったように微笑むばかりで、了承も拒否もしなかった。


 彼女からすれば、それは了承されたも同然だっただろう。
 しかし蒼の本心は少し違う。だからといってそれを口にしてみても、事態が変わらぬような…いや、寧ろ彼女がムキになるような気がして、何も言えなくなってしまったのだ。


 宣言以降も、雫は蒼に対して以前と変わらぬ接し方をした。
 元々かなり積極的にも見えていただけに、もしかしたらいつも全力投球な性格なのかもしれない。
 その日もいつもと同じように、蒼のデスクへ紅茶を運んできた彼女は、デスクの上にちょこんと置かれた小さすぎるミニカーを指し示す。
「おまけ」
「あ、ご存知ですか?」
「はい、可愛いですよね?」
 お菓子のおまけ(全15種類)のうち一つであるそれは、レトロな雰囲気が漂うブリキの車だ。手のひらサイズではあるものの精巧な作りが人気で、流行りの雑貨屋では品切れ状態である。
「この前、あの雑貨屋さんで?」
「はい。残っていて良かったですよ」
「目当ての車種は出ましたか?」
「そうですね。後5種類ほどでしょうか」
 互いに笑顔で頷く二人。
 片や「欲しい車種があと5つ」と解釈した雫と、片や「コンプリートまであと5つ」と考える蒼との差は激しいものがあるが、そこは誰から指摘される事もなかったので華麗にスルーされた。
「今度また、下町に遊びにいきませんか?」
 雫は雑貨屋で出会ったことを思い出したついで、と言った具合にさらりと提案する。
「勿論、紫さんのお姿で」
 出来上がった短い間を埋めるように補足した彼女に、蒼は首を傾げ気味に問い掛けた。
「良いんですか?」
「はい。姿は違えど、蒼さんに変わりはありませんから」
 意気揚々とそう言って、雫はパタパタと出口に向かって行く。出ていく間際に手を振って、入れ違いになった義希に礼をする…そんな彼女に同じく手を振っていた二人がくるりと向き合い肩を竦めた。
「最近、仲良いよな?」
 そう言って笑う義希は、今のようなやりとりを帰宅時や出勤前などに見ているわけで。彼がそう思うほどには、蒼と雫は仕事関係以上に良く会話していると言うことになるだろうか。
 対して蒼はここ数日の事を思い直して問い返す。
「そうですか?」
「付き合ってるん?」
「その一歩手前じゃないですかね」
「なんでそう誤魔化すかなぁ…」
「誤魔化している訳では…」
 義希が蒼のすぐ目の前まで辿り着くまでに交わされた会話の結論は、全く別の所からもたらされた。
「仮にも王だぞ?そう簡単に決断できるもんでもないだろ」
 相変わらず書類の山に埋もれたまま忘れられていた沢也の声が、義希の口をむむむと尖らせる。
「そーいうもん?」
「そーいうもんだ。蒼にとっても、相手にとっても…」
 すっかり仕事に戻ってしまった蒼の頭上を見据えながら、くるくると考えを巡らせた義希は、一人納得して複数回頷いた。
「そっか、そうかもな…。悪い、蒼。今の無しな」
「いえ。気にしないで下さい」
 パチンと顔の前で両手を合わせる彼に、蒼は笑顔を傾けて見せる。その柔らかさに安心した義希は、体を伸ばしながら自室へと帰っていった。



 黙っていても時は流れる。
 何時しか人の気配が消え失せて、静けさが腰を据えた頃。


 ふと顔を上げた蒼の正面、紅茶のポット片手に瞳を細めた沢也が、白く小さな息を吐いた。
「…複雑そうだな」
「そうですね」
 言葉と共にポットを受け取りながら、直ぐ様彼の意図を理解した蒼はにこやかに肯定し、自身の心情を解説する。
「しつこく身分身分と口にすれば、彼女はうんざりして諦めるかと思っていたんですが」
「…逆にエスカレートしちまったと」
 見れば明らかだと言わんばかりに、蒼のデスクに半分腰かけた沢也はまた、短い溜め息を付いた。
 蒼は彼がコーヒーを啜る間に首肯する。
「失策ですね。完全に初手を間違えました」
「出会って間もないんだ、仕方ないんじゃねえか?」
「そうなんですかね?義希くんや小太郎くんなら、もっと上手く対応できたかもしれませんけど」
 紅茶をカップに落としながら、蒼は朧気な笑顔を浮かべた。湯気に煙る視界の向こう、振り向かぬ沢也が呆れたように呟く。
「どのみち、手が早すぎやしないか?」
「お見合いが控えていることを知られてしまいましたからね」
「ああ…そこまで考えてはいなかった」
 女が何を考えているかなんて分からないと、暗に言いたげな沢也は自身の思考を振り払うように右手をはためかせた。
「しかしまあ、お前らしくねえとは思うが」
「沢也くんもこんな気持ちになったこと、あるんじゃないですか?」
 誤魔化しなのかなんなのか、俯く蒼は間髪入れずに問い掛ける。沢也は振り向き言葉の続きを待った。
「他人に興味を持たれる側になることが余り無かったものですから。少し戸惑っているんだと思います」
 蒼はいつもの笑顔でそう言うと、ミルクと砂糖を落とした紅茶に渦を描く。
 スプーンが回る度、陶器とぶつかって僅かに響く音色が消えた時。沢也は低く、小さな声で嘲笑った。
「興味…な…」
「あなたが言いたいことは分かっているつもりですよ」
 何処と無く寂しげなその呟きに、蒼は深く頷くようにして笑みを吐き出す。
 興味と言えども色々な興味があるわけで、例えるならそれこそ、蒼のデスクに乗ったミニカーのように。
「せめてお前の深い部分にまで興味を示してくれれば、或は…」
 沢也は独り言宜しくそう言うと、コーヒーで言葉を濁した。
 全てを集めようとする蒼と。
 気に入った物だけを集めるものだと考える雫と。
 沢也と蒼は言わぬまま見解を合わせて苦笑する。
「まぁ、だが。お前は受け身だからな」
「いえ、聞かれてもいないのに話す気になれないだけです。内容が内容ですから」
 自分がしてきたこと。これからしなければならないこと。
 蒼はその断片を無意識に再生しては、不意に窓を振り向いた。
「もしかしたら心の何処かで、知らずにいて欲しいと思っているのかもしれません」
 彼にしては抑揚のない声は、沢也に吸収されると同時に笑顔に掻き消される。
「我ながら我が儘な話なんですけど」
 振り向いた蒼はその曖昧な笑顔を、曖昧に傾けて紅茶を飲んだ。
 しかし注いでそう時間が経っていないそれは、猫舌の彼にはまだ熱く。
「やっぱり、らしくねえな」
「からかわないでください」
 むせた蒼は沢也の悪戯に苦笑して、溜め息を冷ました紅茶で洗い流した。


 それから数日後に行われた見合いは、言うまでもなくなあなあに済まされて。ホッとした雫の要望は「考察中」…要は友達からと言うことで一先ず落ち着けた。
 10月に入る前…それこそ人員募集が始まるより早くから、蒼のスケジュールには「紫」になる予定が多く組み込まれていた為、雫から見ればスケジュールに「空きがある」と認識されるわけで。
 二人はその後も頻繁とは言わずとも、それなりの回数下町を一緒に歩いて回っていた。
 雫はカレンダーの空白を見付けては予定を伺ったし、蒼も誘われれば断る理由もなく、受け入れていたからである。
 その日も例外ではなく、雑談がてら目的地である古本屋に向かっていた所。
「あ…あれ?」
 正面からやってきた義希が、面食らってはたと足を止めた。
「…えーと、雫ちゃん、だよな?」
 歩み寄ると、頭上に沢山のクエスチョンマークを浮かべた彼の思考が零れ落ちる。
「何で紫と歩いて…えっ…?し、知り合い…?」
「…えーと、義希さん、ですよね?あの…」
 互いの理解が追い付かず、義希と雫は揃って相手と紫を交互に見据えた。焦っていて気付かずにいたが、次第に紫が真横を向いて笑いを堪えている事に気付き、雫はやっと状況を把握する。
「あ…いえ、む、紫さん!そんなに笑っては…」
 本名を言いかけて咳払いし、焦ったまま宥めてみても紫の笑いは収まらず。雫の視線は、一人呆然とする義希と紫とを忙しなく行き来した。


「あーあ…まんまと騙されたぁ…」
 あの後(蒼のメールを受けての)沢也からのメールで呼び出された義希が、説明を聞いてべしゃりとへたれた後に漏らした言葉がそれである。
「そうでなきゃ他にもバレまくりだろうから、それでいいんじゃねえか?」
「それはオレがお馬鹿だってことー?」
「良く分かってんじゃねえか」
 セキュリティゾーンで立ち話する二人は、壁を背に天井と壁の境目を見上げた。
「でも何だか安心した。ああしてデートするまでの仲になってんだな」
 半端に座ったまま朗らかに笑う義希に対し、沢也は同意所か返答もしない。
「…え?違う感じ?」
 空気を察知した義希が硬直を言葉で表すと、沢也は溜め息を枕詞に見解を話す。
「前回と違って、蒼は雫に好意的ではある」
「じゃあ…」
「だが、それだけじゃ駄目なんだ」
 真剣な、それでいて冷たげで、寂しげな沢也の呟きは、義希の瞳にも影を呼んだ。
 結局詳細を聞くことまではしなかったが、沢也がそう考えて…いや、恐らく蒼本人もそう思っているのなら、まだ何かが足りないままの状態なのだろうと。
 義希は漠然と考えて、しかし楽しげな二人の様子を思い出し、きっとそのうち上手くいくだろうと、心の中で信じることにした。



 仕事を始めてそろそろ一月が経とうとしている。最初は分からない事も多かったけれど、早くも少しは慣れてきたと自賛しておこう。
 それを証拠に、置かれているもの全てが脳に記憶されたかのような、一種の馴染みがあった。
 特に彼の斜め後ろに置かれた、この棚には。

「今日もこれで良いですか?」
 雫は水色の紅茶缶を示して問い掛ける。蒼はそれに笑顔で頷き、判を押す仕事に戻った。
 いつもの手順で紅茶を入れ、気分で変えられるように砂糖とミルクのポットを添えて。雫はゆっくりと蒼のデスクに歩み寄る。
 彼女が邪魔にならない位置にティーセットを置くと、彼はまた顔を上げて感謝を口にした。
 雫はそれが嬉しくて、持っていたトレーを抱え直す。
「そう言えば、広場の先に新しい喫茶店が出来たんですよ。凄くお洒落で、並ばないと入れないくらいなんです」
 内緒話ながらも喜びを隠せぬその声は、最早お決まりとなってきた言葉へと繋がった。
「今度一緒に行きませんか?来週の水曜日、空きがありますから…その時に…」
 曖昧な境界線。
 その先に進もうと、揺らぐことのない彼女と。
「分かりました」
 笑顔の奥で、密かに境界線を保つ術を探す彼と。


 二人は今日も約束を交わす。


 変わることを信じながら。
 変わることを、知りながら。





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