価値観



 20人近い女性だけで構成された詐欺グループの聴取は、司法課職員が中心となって進められていた。
 沢也が女性を苦手としているから、というだけではない。特別黒幕と繋がるような形跡もなく、秀に昇格試験の事前情報が流れていなかったことからしても、貴族が絡んでいる可能性が低かったからだ。
 ただ、爆弾事件の犯人が沙梨菜に仕掛けた盗聴機と、今回の盗聴機とが類似しており、そこから派生した事件だとの見解も出てきている。
 どちらにせよ、全員から反省の色が見られるものの、国に勤める人間が高給取りであるとの認識が民衆に広まりつつあるとの懸念が抱かれた。
 それは事実のようでいて事実ではない…それこそ「歩合制」に忠実で、人によるとしか言いようもなく。
「格差が気になりはじめる頃合いですか」
「今のところそう開いていない気もするんだが…こればっかりは個人の意識差だからな」
 城勤めの者とそうでない者以外の…それこそ国民全体で考えるなら、貧富の差は確かにあるだろう。例えば貴族と失業者の資産を比べてしまえば明らかである通り、現状どうにも埋められない差という物は存在するのだから。
「平等って、難しいですね。沢也くん」
「平等である必要はあるが、全てが同じ平等である必要はないだろう」
「はい。難しいです」
 いつかの臨機応変に関する会話を思い出しながら、蒼は沢也の言い回しに苦笑した。
 そんな二人の会話が途切れた所に小さなノックが滑り込む。返答もしないうちに顔を出したのは、本日面接予定の諸澄だった。
「先に行っててくれって言われたんで」
 そう言い分けた彼の後からパタパタと走ってきた有理子が、飲み物の注文だけを聞いて厨房に向かっていく。
「そこに座れ」
「はぁ…」
 促されてのそのそと、脇にあったソファに座った諸澄は、暇そうに辺りを見渡した。
 沢也はいつも通り仕事に区切りを付けてから席を立ち、彼の正面まで足を運ぶ。その間にも有理子が注文の品を持って舞い戻り、二人の前に配膳した。
 諸澄はグラスに入った炭酸水を口に運びながら、長テーブルで仕事を始める有理子の仕草を目線だけで追いかける。沢也は気にせず諸澄の前に書類を滑らせた。
 減給への同意書と、その理由となる評価が記された表を見て、諸澄はあからさまに顔をしかめた。
「不満そうだな」
「たったの数回、負けたくらいで決めつけられたくない」
 不機嫌な呟きは、沢也が瞳を細めた事で勢いを無くす。
「ま…負けたからって、否定されるようなこと…あっちゃダメだろうが!」
 怯んだ声色と態度に溜め息を浴びせ、沢也は静かにコーヒーを飲んだ。
「誰も否定なんてしてないだろ?」
「なら、何で減給…」
「結果は結果だ。それに見合う報酬や罰則が適用されるのは至極当然の事だろう?」
 反論を押し込められて口を結んだ諸澄の表情は、変わらず不貞腐れたまま。
「お前の中では、それすら否定になるのか?」
「…うるさい」
「それなら何だ?負けちまったけど、努力の成果も見られなかったけど、可哀想だから給料を上げてやるとでも言われたら。それで満足出来るのか?」
 そっぽを向いてまで反抗する彼に注がれる呆れたような言葉は大人しく、酷く淡々と場に響いていた。
 諸澄は逸らしていた視線を沢也に直す。それは鋭く、怒りと困惑に満ちているように見えた。
「そっちの方が否定された気になるんじゃないか?」
 それを踏まえて呟かれた沢也の台詞は、諸澄の眉を僅かに震えさせる。図星だったのか、分かりやすく動揺してグラスを倒しかける彼の様子に盛大な溜め息を漏らした沢也は、先と同じ調子で言った。
「いいだろ?この勝負は負けても死を強いられるものじゃない」
「死ななきゃ何でも良いってのか?!」
 尚も食いかかる諸澄に熱が戻る。震える彼の握り拳を見据えながら、沢也は冷静に応対を続けた。
「生きてさえいれば幾らでもやり直せるだろう」
「だからって、失ったものは取り戻せねえだろうが!」
「そうだな。だが、失ったものが無いままでも生きていかなければならない。そこでやり直す事を選択するか、今のまま生きていくかは人それぞれだ」
 早口の反論に、諸澄はぐっと息を詰まらせる。
「それとも、生きることを辞めるか?」
 急激に低さを纏った追い討ちを受け、彼はとうとう何も言えなくなった。対して悠長にコーヒーを啜る沢也は、またも溜め息混じりの声を出す。
「考えが纏まらないからって、八つ当たりしてくれるな」
「…五月蝿い。黙れ!」
 先程とは別の種の震えを帯びた悪態は、テーブルを見据えていた沢也の視線をあげさせた。
「…泣くな」
「泣いてない!欠伸だ欠伸!」
 慌てて腕で顔面を拭った諸澄は、壁方面に顔を逸らす。
「急いで答えを出せとは言わない。ただ、お前はもう少し、考える時間を作った方が良いんじゃないか?」
 赤くなった横顔に提案した沢也は、反応を窺うことなく独り言のように先を続けた。
「せめて重要事項くらいは…」
「重要事項…?」
「何が一番大切か。何を一番優先させるべきか」
 訝しげながらもはじめて返ってきた反論ではない言葉にそう言って、沢也は小さく息継ぎをする。諸澄は横目にそれを捕らえながら、息を潜めて続きを待った。
「それが分かれば少しは考えやすくなるんじゃないか?」
 それを聞いた彼は、分かれば苦労はしないだとか、そんなことはじめから分かっているだとか。頭に浮かんだ返答の全てはその場で消え失せて、代わりに理解だけが頭の奥に沈んでいくように思えた。
 数秒が過ぎて。諸澄は黙って返事を待つ沢也に気付き、隠すことなくハッとした表情を浮かべた後。言葉もなく書類にサインを施して、スタッと席を立つ。
「何かあれば…」
「分かってる。ちゃんと周りを頼れとでも言うんだろ?」
 最後にばーか!と言い捨てて去っていく反抗期を見送った沢也は、コーヒー片手にソファに身を預けた。
「小太郎で慣れといて良かったわね」
 皮肉混じりに有理子が横から呟くと、蒼も便乗して堪えていた笑いを漏らした。


 翌日の早朝。

 まだ秀が訪れる前の海羽の部屋。
 真っ白な室内に落ちる朝日は眩しく、まだ眠りの中に居た彼女を目覚めさせる。
 寝惚け眼を擦り、なんとか上半身を起こした海羽は、昨日の夜に散らかしたままになっていたベットの上をぼんやりと見据えた。

 クローバーの栞。
 小さな貝殻。
 ガラス細工。
 小さな塩の結晶。
 短い手紙。
 消印の押された切手。
 青い蝋の封印。

 朝日の影響か、その全てが溶けてしまいそうに見える。不安に思った海羽が手を伸ばすと、それは確かにそこにあった。
 溶けることも、消えてしまうこともなく。しかしこの世にある全てのものと同じ、不確かな存在として。
 それでも品々を見ているうちに笑みを浮かべた海羽は、シーツの上のそれらを一つ一つ、箱の中に収納し始めた。
 仕舞いながら、それが何時送られてきたものだったかを思い出し、何処で拾われたものなのかを想像する。それだけで不思議と心がふわふわした。
 そんな風に感じるのはきっと、自分だけなのかもしれないと思いながら、それでも止めることができないまま、彼女は静かに片付けを終える。
 そこに丁度ノックが響いた事で、海羽は慌てて箱を枕元の棚に仕舞い込んだ。
「はい…」
 返事はしたものの、まだ寝間着のままであることに気付いて狼狽える。そんな彼女の耳に届いたのは、想像していたものとは違う明るく朗らかな声だった。
 安心した海羽がそのまま扉を開きに行くと、開くなり元気な声がにこりと告げる。
「女子会するよ!」
「へ?女子会?」
 驚く海羽にぎゅっと抱き付いたのは、珍しく早起きした沙梨菜だ。彼女はそのままこしょこしょと、海羽の耳元で詳細を話す。
「そうー、こっそり準備して、有理子を驚かせるの。だから海羽ちゃん、手伝って?」
「有理子…あ、そっか。うん、分かったよ。何をしたら良いんだ?」
 言わずとも伝わった意図に頷いた二人は、正反対の動作を交えてプランを練った。
「有理子が好きそうなもの…あ、ちょっとは女の子っぽいテイストも含めてね?お菓子とかおつまみとか、作ってくれたらなぁーって…」
「うん。じゃあ足りない材料、調達に行かなきゃな」
 ゆらゆら揺れながら天井を仰ぐ沙梨菜に、直立不動の海羽がふわりと首肯する。
「時間ある?アレなら沙梨菜が買ってくるから、買い物メモだけ作っておいてね?」
「そうだな…いつも思ったもの買えないから、その方がいいかも。メモ作るから、メニュー一緒に考えてくれないか?」
 海羽の進言に「まっかせてー♪」と沙梨菜が快諾した事により、二人は海羽の部屋でゆっくりと、会議の続きをすることになった。

 さて、時は流れて早くも午後10時。

 沙梨菜が揃えた材料を元に、海羽が手早く調理を終えて、準備万端となった晩酌セットをルビーに潜ませて、二人は有理子の部屋を訪れる。
 因みに義希は残念なことに遅番だが、どうやら昼間のうちになんとか二人だけの時間を過ごせたらしい。
 ノックの後に響いのは間延びした返答と足音、そして間も無く扉が開かれる。
「おめでとー!有理子ぉ…って?!凄い量だね…」
「ありがとう。ね。…いつの間に誕生日ばれたんだろう…」
 部屋の半分程を占めるプレゼントの山を背に、有理子は困ったように微笑んだ。彼女はそのまま目を丸くする二人を中に通して扉を閉める。
「凄いな!沙梨菜のも凄かったって聞いたけど…」
「沙梨菜は小さな倉庫借りる事になったとか言ってたし、こんなの比じゃないんじゃない?」
「うん、まあ…。有り難くステージに使わせて貰ってます」
 何処から送られてくるのだろうかと、半ば疑問に思うほどの規模に恐縮する二人を見て、テーブル前に立った海羽は素朴な疑問を口にした。
「食べ物とかはどうしたんだ?」
「沙梨菜は、仕訳してくれたスタッフに分けた以外は、沢也ちゃんに借りたポケットルビーに…」
「わたしもルビー借りて保存するつもり」
 ふむふむと頷きながら、海羽がテーブルに広げたのは豪華なおつまみ群。調子に乗って考えすぎたかと話していただけに、テーブルに乗り切らない程の量を再確認し、彼女は呟く。
「やっぱりこんなには要らなかったかな…?」
「食べる」
「うん。海羽ちゃんの作ったのは別格なの」
 有理子の即答に沙梨菜も続くと、海羽はふっと笑って首を傾けた。
「ありがとな」
 そうして三人は一旦片付けたテーブルを仕舞い、床にシートとクッションを敷いて食料を囲む。
 揃ってくつろぎモードに突入した途端、有理子はビールとクラッカーに手を伸ばした。オレンジティーとチーズフォンデュ片手に沙梨菜が報告する。
「ほんとはくれあも誘ったんだけどね、やっぱりまだ赤ちゃんがあれだからって」
「そうか。まだ大変なのよね」
「免疫がな…。あと一ヶ月くらいすれば外出出来るんだけど」
 海羽が取り皿を分けながら医者立場の発言をすると、二人は揃って頷いた。
「海羽、ケイタリング作ってるんだって?」
「毎日は出来てないんだけど、週に二回だけな」
「他の日は沙梨菜と義希とで小太郎に良い店教えてるの」
 沙梨菜が補足を加えると、早くもビール缶を空にした有理子が不思議そうに問い掛ける。
「小太郎は詳しくないの?」
「小太郎はねー。気に入ったものばっかローテーションして食べるタイプだから」
「ああ、成る程…」
「そう言えば、誕生日の時もカレー作れって言われたな」
 最後の海羽の苦笑を受けた有理子と沙梨菜は、小太郎の言い回しを思い出して大いに笑った。
 小太郎とは子供が生まれたその日以来余り顔を合わせていないのだが、噂だけは絶えずに聞いているだとか、その他仲間内の話に始まり、自身の近況報告に至るまで、話題は尽きることなく続き。有理子がビールを6本空けて、ワインに手を伸ばしかけた頃。
 傍らに置かれた半空きのプレゼントを見た海羽が、表情を無くしてぽつりと呟いた。
「…高価なモノを貰ったら、喜ぶのが当たり前なのか?」
 消え入りそうな声から質問の理由と経緯を察し、有理子はワインから海羽に視線を移す。
「その当たり前は、あの人にとっての当たり前。あなたとあの人じゃ、価値観が違うもの。あなたが嬉しくなくても、それは仕方がないことなの」
 真っ直ぐな眼差しに、言葉に頷きつつも、困ったように積まれたプレゼントを見据えたまま、海羽は更に訊ねた。
「有理子は、嬉しい?…嬉しかった?」
「確かに、わたしはお金が好きだし、こう言うプレゼントは嬉しいわよ?でもやっぱり、何度も断ったものを無理矢理贈られたら、嫌かな」
 それを聞いた海羽は、やっと有理子を振り向いて目を瞬かせる。有理子はワインの栓を開けながら静かに語った。
「わたしには、あの人が満足するために、あなたに貰うことを強制しているようにしか見えない」
「満足…?」
「大金を支払うことで、あなたを喜ばせることが出来て凄い、って。周囲に知らしめて…崇められたい。そんな所じゃないかしら?」
「誉められたいのか?」
「誉めるとは、また違うわね。庶民にはこんなマネ出来ないだろ?って。他の人より優位に立ちたいのよ」
 多分。そう締め括る有理子と、首を捻る海羽と。
「そうじゃなきゃ、あなたを巻き込んだりしないと思うわ。あなたはモノじゃないんだから」
 悩ましい空気に有理子が追加で言葉を投げる間に、海羽はポケットから無理矢理渡されたブレスレットを取り出した。
「…どうしたら、いいのかな」
 第一印象が「綺麗」よりも「重そう」だと感じる程に宝石の付いたそれは、海羽の両手の中で所在無さそうに音を立てる。
 ただ高ければ良いとの思考が丸見えなそれを呆れた眼差しで眺めた有理子は、コルクを抜きつつ短く唸った。
「今は何も出来ないわよね。あなたがいくら要らないと叫んでも、あの人は聞かないでしょう?」
「分からないんだ」
 海羽は深く頷いたまま俯いて、俯いた先で宝石に映り込む自身の顔を覗き込む。
「分からなくなるんだ。あの人はそれが当たり前のことで、そうしてもらった女の人はみんな幸せだって言う」
 沢山ある小さな自分の顔の中から適当なものを見付けられなかったのか、彼女は更に視線を落とした。
「いつもそう言われるから。僕の考えてる幸せは、普通じゃないのかなって、思ってしまうことがあるんだ」
「そんなことないわよ」
 有理子は優しく否定して、黙って紅茶を啜る沙梨菜に同意を求める。
「沙梨菜は日常的にプレゼント貰う機会があるでしょう?」
「うん。沙梨菜も有理子と同じ考えだよ?」
 のほほんと答えた沙梨菜の顔を覗き込むようにして、宝石から顔を上げた海羽は控え目に質問した。
「高価なモノを貰ったこと、ある?」
「うん。あんまり高いものは流石に貰えないから、沢也ちゃんに頼んで送り返して貰うんだ。手紙と一緒に」
「ほんと…?それ、ファンの人は…」
「大体の人は分かってくれるよ。たまにね、嫌われちゃうこともあるけど。それはそれで仕方がないかなって、思ってる」
 寂しげに肩を竦めた沙梨菜は、同じように眉を下げる海羽に曖昧な笑顔を見せる。
「何でもそうなんだと思うんだけどさ、押し付けるのは駄目なんだよね」
 無理に明るく出したような声が、静かな部屋に広がった。沙梨菜は囁くようにして続きを口にする。
「高価だから嬉しいんじゃない。高価なモノを買うのって、ほんとは凄く大変でしょ?だからね、何かを我慢したり、努力したり、自分の為に頑張ってくれた、ってことが嬉しいんだよね」
 納得を頷きで表しながら、海羽は続けて質問した。
「どんなもの貰った時が一番嬉しかった?」
「それはやっぱり、手紙かな」
「手紙…?」
「うん!沙梨菜は歌うのが好きだから。沙梨菜の歌を聞いて、何かを感じ取ってくれてさ、それを教えてくれるのが一番嬉しい♪」
 目から鱗でも落とすように、何度も何度も瞬きをして言葉を吸い込む海羽に、沙梨菜は蒼の癖の如くフォンデュフォークを回しながら締め括る。
「高価なモノを贈るのが愛の形だって言う人も居る。だけど相手がそれを迷惑に思うことが有るってことを、分かってないと駄目なんだよ」
 最後に刺さっていたニンジンをチーズに潜らせて、もぐもぐと食べ終えた沙梨菜は慌てて付け足した。
「って、沙梨菜が言えることじゃないのは重々承知の助なんですけどね」
 あはは、と普段の行いを誤魔化すように頭を掻くと、二人は揃って苦笑する。
「でも沙梨菜の行動には愛が詰まってるよね」
「沢也の方にも問題あるわけだし」
「フォローありがとー。気を付けますん」
「ど、どっち?」
 海羽のツッコミが入ったことで、室内が笑いに包まれた。
 その後も夜が更けるまで。他愛のない話やら恋愛に関する議論など、多種多様な話題は尽きず。誰にも邪魔をされることなく、ゆったりとした時間が過ぎていったのだった。

 また日は流れ、翌日の夕刻。

 王座の間で30分後の打ち合わせをしている最中、書類に視線を落としていた蒼が向かいから注がれる眼差しに気付いて顔を上げる。
「あの、僕の顔…何か付いてますか?」
「いえ、その…すみません。つい…」
 メモを終えて蒼を凝視していた雫が、問いかけに顔を赤くした。蒼が肩を竦めて流そうとすると、ばつが悪かったのか、雫はぽつりと理由を呟く。
「陛下、おモテになるんじゃないですか?」
 率直な台詞に怯むことなく、蒼は書類と向き直ってはさらりと答えた。
「そうですね。この職業ですと引く手あまたですよ」
 内情の見えない彼に対しても臆することなく、拗ねたように雫は言う。
「王様かどうかは関係ありません。王様になる前はどうだったんですか?王族とは名乗っていらっしゃらなかったと聞いてますけど」
「さあ、どうでしょう…」
「はぐらすと言うことは、やっぱりそう言うことなんですね?」
 どちらかと言えば茶化しているような、そんな物言いに苦笑した蒼は事態を収めにかかった。
「確かに、大人になる前はそう言った事もありましたけど…あなたの思うそれとは別の種類のものだと思いますよ?」
「大人って、何処からが大人ですか?例えば18歳は…」
「微妙な年齢ですね…」
「では少なくともそれくらいまでは、あったと言うことですよね?」
 蔑むでもなく、妬むでもなく。雫はなんとも言えぬ嬉しそうな表情を浮かべた。
 蒼は首を傾けてそれに答える。
「まあ、趣旨は少し違いますが」
「どう違うんですか?」
「今とそう変わりませんよ」
「身分や職業のせいだと仰るんですか?私は余り関係ないと思いますけど」
 雫は言い切るなり、今度は口を尖らせた。蒼は彼女の内情を察して話を逸らす。
「おだてても何も出ませんよ?」
「お世辞に聞こえました?」
 最後は寂しげに呟く彼女の台詞を聞いて、それでも慌てない蒼を他所に。
 彼等からは死角になる位置。書類に埋もれたデスクの片隅に置かれたランプの上で、結の呟きがぽつりと漏れた。
「あの子、沢也の存在忘れてるね」
 何とか押し殺したものの、吹き出しそうになったコーヒーをやっと飲み込んだ沢也は、書類の隙間から二人の様子を窺う。
 適当にはぐらかして、雫と共に退室する蒼の肩竦めを受けた彼は、扉が閉まると同時に溜め息を付いた。
「蒼もかなり女運悪そうだね」
 ランプの天辺にうつ伏せに寝転がった結が、足をパタパタさせながら予測する。
「職業柄だろ」
 呆れたように沢也が言うと、彼は短く唸っては書類のタワーを見上げた。
「確かに、蒼は見る目ありそう…って言うか、理想が高そうにも見えるかなぁ」
「理想っつーか、なんつーか…」
「…うん。僕も段々そんな気がしてきた」
「蒼自身も気付き始めたところなんじゃねえか?」
「そうかも」
 核心を口にしないまま相互に理解しあった二人は、溜め息とも取れぬ息を吐いて沈黙する。
 夕焼けに染まった青い部屋は、不思議な光を拡散しては物を黒く塗りたくり、代わりに白い壁と大理石の床だけを、空と同じ色に染め上げていた。
「でもさあ、どうしてこうも男女の価値観って違うんだろうね」
 数分後、不意に呟いた結を沢也の横目が捕らえる。
「妖精にもそんなことあるのか?」
「やだなぁ。烏羽と桃なんか良い例じゃないか」
「あれはあれでまた特殊な組み合わせな気がするが…そう言われてみればそうかもな」
 半分だけ納得して仕事に思考を戻そうとする沢也を、結の呟きが呼び止めた。
「難儀だね」
「難儀だな」
「沢也は人のこと言えないくせに」
 返ってきた鸚鵡返しに皮肉を吐くと、沢也は直ぐに言い返してくる。
「他所は他所。俺は俺」
 何処ぞの母親のような言い訳に苦笑しながらも、妙な納得を得た結は感心したように言った。
「流石観察者」
「そりゃどうも」
 最もそれっぽい立場の結にそう言われ、複雑そうに顔をしかめた沢也の呟きを最後に静寂が訪れる。
 広さのせいか外からの喧騒も届かぬ空間は、彼等が先を思案するうちに薄い闇に包まれた。
 青白い光は部屋と同化するように、ひっそりと空気に馴染んでいく。その色は刻々と変化して、記憶に残ることなく過ぎていった。





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